第二十一話 会いたい
みおりは、ベッドの上で布団もかけずに横になっていた。グレーのスウェット上下でほぼすっぴん、左手にはスマホを握ったまま浅い眠りについている。手の中のスマホが鈍い音と共に振動した。
「ん……」
みおりはスマホを持ち上げて覗き込む。ラインの通知が一件。『かなた』だ。時計のデジタル表示は、いつの間にか二十三時十六分。夢うつつのまま、タップした。
『みおりさん、昨日はあんまり話せなくてすみません。今日千穐楽だったから、今からなら話せますよ。』
その内容を見て、ああ今日は日曜日だったかと、横になったままぼんやり思う。既視感。七年前にもおちいった状態だった。起き上がる事さえ億劫で、一日中ベッドの上で過ごす。思い出したくもない記憶だったが、そのあとにどうしようもない虚無感にさいなまれ自殺未遂をしたのだった。スウェットの袖に隠された、左手首を暖めるようにそっと握る。またスマホが震えた。
『みおりさんの家まで行ってもいいですけど。』
一文字ずつゆっくりと、返信を打つ。
『ありがとう。でも家には上げられない。なんて言われるか、分かるでしょ。』
『僕は気にしないけど。』
『ごめん。私が気にする。』
奏太は少し思い込みの強いところがあったから、みおりはなんでもはっきり言葉にするようにしていた。
『でも感謝はしてる。奏太、話聞いてくれてありがとね。』
しばらく待ったが、返信の波は途切れた。またまぶたが落ちてきて、みおりはスマホを握ったまま寝落ちしかける。その時、再びスマホが震えた。長いスパンで震えるそれは、電話の着信だ。奏太だろうと思い画面を見たが、みおりは慌てて起き上がった。
「……もしもし」
『遅くにごめん。起きてた?』
千穂だった。千穂も布団の上にあぐらをかいて、かたわらには『あかつき栞の華麗なる恋愛』が置かれている。
「今、起きた」
千穂がわずかに笑う。
『それってつまり寝てたって事?』
「えっと。一日中寝てたから、目が冴えたとこ」
『仕事は?』
みおりが苦笑した。
「ほんとはしなくちゃいけないんだけど……なんだか気力がなくて、ずっと横になってる」
『そっか』
しばし沈黙が落ちた。みおりは寝起きで乾いていた喉に、枕元のコップを取って水分を入れる。それに千穂が反応した。
『何飲んでる?』
そんななんて事ない日常会話が、とてもみおりの心を癒すのだった。
「ん。水」
『そっか。ヤケ酒じゃなくてよかった』
みおりはぽつりと打ち明ける。
「昔は結構飲んだけどね。お酒飲んでると……『アル中』って言われるようになって」
『なんだそれ。酒くらい誰だって飲むだろ』
「千穂くん、ほんとに知らないんだ」
『元々SNSあんま興味ないからな。昔テレビでやってたニュースとかは、なんとなく見かけた事あるけど』
「……千穂くん。私、千穂くんが『生きてるんだから人生まだ終了してない』って言ってくれたの、凄く嬉しかった」
『うん』
またしばし沈黙が落ちる。気まずいとは思わなかった。
『今さ、美織さんの本、同僚に借りて読んでるんだ』
本のタイトルを指でなぞりながら千穂は話す。
「え、そうなの」
『うん。読むの遅いから少しずつだけど。『秋葉原大輔』のやつ』
「あ、それ、一作目」
『あのさ。もしかしてこれってノンフィクション?』
「んー。フィクションも少し入ってるかな。ある程度人生を切り売りするのが作家だけど、結構書いてある事が全部事実だと思う人は多くて、時々嫌になるのが本音」
『そっか』
「仕方ないんだけどね。担当さんの意向で、わざと全部ノンフィクションみたいに書いてるから」
『俺は作文も赤点だったクチだから、美織さんの本凄げえと思う。お世辞じゃなくて』
「ありがとう」
話す事は多くないが、繋がっていたい。互いのそんな思いが、度々の沈黙を生んでいた。千穂は、携帯を持ち直す。
『……美織さん』
「ん?」
『明日、昼で終わる現場なんだ。その、もしよかったら……午後から、何処かで会わねえ?』
言ってから、千穂は口元を覆った。
『あ、いや。そうじゃなくて……俺が、会いた、くて』
不器用に紡がれる言葉に、みおりは微笑んだ。
「……うん。私も会いたい。千穂くんに」
だが七年間何もかもを諦め続けてきたみおりの心は、頑固とも言えるほど冷えきっていた。静かに語る。
「でもね。大切だから、千穂くんにだけは迷惑かけたくないの。これ以上会わなければ、ネットも千穂くんの事はもう追いかけないと思う。だから……」
『嫌だ』
千穂がさえぎった。
『美織さんの言う『大切』って、その程度の気持ちなのかよ。だったら俺は、その百倍大切だと思ってる。腹なんかとうにくくってる。だから、顔見て話してえ』
「千穂くん……」
色々な感情が押し寄せてきて、みおりは思わず言葉に詰まる。
『言いたい奴には言わせておけばいいし、それを真に受けるような奴らも放っておけばいい。なんも後ろめたい事ないんだって、堂々としてればいいと思う。もちろん美織さんがそれで辛い思いすんなら、無理強いはしねえけど』
一気に言って、耳を澄ます。返事が返ってこなかったので、千穂は続けた。
『俺たち友だちだろ。俺は何があっても、美織さんの味方だから。信じて。俺を』
みおりの目から、前触れもなく不意に涙があふれた。自分でもなんで泣いているのか混乱しながら、七年分の凍りついていた様々な感情に揺さぶられてただ声を押し殺して泣く。
『美織さん? 泣いてんのか?』
答えようとしたが、上手く伝わらない。
「……ごめ……」
『謝んないで。美織さんなんも悪い事してない。落ち着くまで切らねえから』
「うん」
しゃくり上げるみおりに向かって、千穂は変わらない調子で話しかける。
『美織さんの本、一冊目をもうすぐ読み終わんだけど。じゃあ、感想でも話すな』
千穂はリラックスして枕に手の平を乗せ、その上に頭を預けて横になった。
『面白いんだけど、なんて言うか……素直な気持ちと、強がってる部分があって、俺は素直な方が好きだなと思った。失恋して凄く悲しいって泣いてるシーンがあるのに、そのあと自虐ネタにしようとしててさ。そんな風にしなくても、美織さんの文章は十分面白いと思う。個人的な感想だけど』
千穂のゆったりとした声が、みおりを次第に落ち着かせてくれた。
「……うん……内緒だけど、自虐ネタのところは……担当さんが脚色したの」
『え? そうなんだ。通りで印象の違うとこがあると思った』
みおりはまだ涙で濡れた瞳で小さく笑った。
「そんな事言われたら、調子に乗っちゃうかも」
『乗ってもいいよ。……落ち着いた?』
「うん」
『美織さんの気持ちに任せる。明日、どうしたい?』
この七年間、ずっと何かしらを我慢していた。選択肢を与えられた事など、久しぶりの気がする。みおりは晴れやかに答えた。
「……会いたい。千穂くんに」
『うん』
「場所とかも決めていい?」
『うん』
「じゃあ明日、メールするね」
『分かった。……眠れそう?』
みおりは若干空元気を出した。
「うん。私、遠足の前の日も眠れるタイプの子だったから」
『そっか。俺は眠れないタイプ』
「え。じゃあ今日……眠れる?」
心配する声色に、千穂は小さく笑った。
『ごめん、嘘。冗談』
「もう。千穂くんの冗談は冗談に聞こえない」
すっかり泣き止んで怒って見せるのに、やっぱり千穂は微笑んだ。
『ごめん。じゃあ、美織さん、明日。おやすみ』
「うん。おやすみなさい、千穂くん」
みおりは、千穂が電話を切るのを待とうと思った。だがいくら待っても通話は切れない。こんなところも感覚がシンクロしてしまうのに一つ微笑んで、みおりは暖かい気持ちで終話ボタンを押した。先ほどまで張り詰めていた気はすっかり緩んで、浮かぶあくびを手の平で押さえるのだった。




