第二話 破れた夢
鴻巣がみおりを連れていったのは、都心の高級ホテルのバーだった。最上階からの夜景が地上の星のようだ。とてもみおりの稼ぎでは気軽に入れない場所だった。みおりはキャバ嬢然とした盛り髪のウィッグは外し黒髪のボブカットだったが、ドレスコードがあるから衣装はそのままでというオーダーを受けて、真っ赤なドレスのままだった。
「乾杯」
ボトルで頼んだ白ワインのグラスを掲げる鴻巣に、みおりは職業病とでも言おうか、思わず尋ねる。
「何に、ですか?」
公演を観ていたなら話の種になっただろうが、残念ながら熟睡していた鴻巣は格好の会話の糸口を無視していかにも適当に笑った。何が面白いのか分からない、日本人特有の笑い方だ。
「如月くんの初のドラマ出演に、かな」
鴻巣自身に興味はなかったが、それは大いに心惹かれる話題だった。みおりは前のめりになって訊く。
「それは……オーディションに合格したというお話でしょうか?」
鴻巣はまた曖昧に笑った。
「まあまあ。まだ夜は長いから。まずは乾杯しよう」
「はあ」
「新しい門出に、乾杯」
結論が分からなくて多少いら立たしいが、みおりもグラスを掲げて、小難しい名前のついたカラフルなオリジナルカクテルに口をつける。バラシのあとの打ち上げに参加するために、アルコールは控えめにしておいた。それを見て鴻巣は勝手に好もしそうに頷いている。
「カクテルだなんて、見かけによらずお酒が弱いんだねえ。女性らしくて可愛いねえ」
「ええ、普段からあまり飲めなくて」
普段から生ビールを水みたいにガブガブ飲んでいたが、打ち上げを楽しむために調子を合わせる。「見かけによらず」は余計なお世話だと思いながら。みおりは顔立ちが派手で舞台でもキャバ嬢役を演じているからか、外部の酒の席では接待を期待される事が多い。まだ弱冠二十四歳だったが、男性からのそんな扱いには慣れてしまっていた。
一時間ほどで用件を聞き出し切り上げる予定だったが、一時間半経っても、鴻巣の要領を得ない過去の自慢話は続いている。華奢な腕時計をさり気なく盗み見ると、二十時過ぎ。完全にそういった店と勘違いしている鴻巣に、みおりは痺れを切らして本音で勝負する事にした。
「鴻巣さん」
「ああ、グラスが空いたかい。好きな物を頼みなさい。酔っても僕が介抱してあげるから」
鴻巣はワインで酔っ払い、赤ら顔で上機嫌だ。
「いえ」
対照的にみおりは冷静な声を出す。四~五杯のカクテルなど、みおりにとってはジュースと同じだった。
「単刀直入にお訊きします。この席は、オーディションのお話ですか? そうでないのなら、失礼させていただきます」
「ああ……如月くん、はっきりした性格なんだねえ」
途端、好色そうに相好を崩し、鴻巣はあからさまにみおりの大胆に開いた胸元を覗き込むようにして視線を当ててきた。小劇団で活動して五年、まだ芸能界のそういった洗礼を受けた事のなかったみおりはゾッとする。あっという間にテーブル上の手を握られて引き寄せられ、乾燥して節くれ立った両手で撫で回された。
「じゃあ僕もはっきり言うよ。オーディションで、候補に挙がってる子が何人か居てね。もし如月くんが今夜酔い潰れて、僕が部屋で介抱するほど親しい間柄になったとしたら……ヒロインには如月くんを推薦しようと考えているんだ」
――なんもはっきりしてへんやん!
心の中でみおりは憤慨する。テレビでは、愛妻家で恐妻家をネタにお茶の間の笑いを取っている柔和なプロデューサーが、汚い物に見えた。みおりがわざと作り笑顔を貼りつけて微笑むと、造作が整っているだけあって氷のような冷たさになる。
「つまり……枕を共にしたら、ヒロイン役に推薦していただけると?」
鴻巣はただにやりと笑った。あくまでも核心は相手の想像に任せる、やり口までも汚いと思った。みおりは笑顔を貼りつけたまま、鴻巣の両手の上にもう片方の手を添える。何を期待したものか、五十路男の鼻息が荒くなった。
「如月くん……」
次の瞬間。
「いっ……てててて!」
みおりは自分の手を撫で回す鴻巣の手の甲を、思い切りつねり上げていた。慌てて手が引っ込み、右手の甲を左手でさする。あざになるかもしれない。そんな強さだった。
「そういう事でしたら」
言いながら、みおりは黒いクラッチバッグから一万円札を二枚出し、テーブルの上に叩きつける。
「帰らせていただきます」
毅然と立ち上がり、ピンヒールのかかとを鳴らして去る背中に、醜い遠吠えが投げかけられた。
「ぼ、僕に逆らうとどうなるか……今に見てろ!」
* * *
「あの人がね。本当にそういう事あるんですね、芸能界」
掘りごたつ席の隣に座った奏太が、言外に慰めてくれる。劇場近くの居酒屋で合流し、みおりは生ビールをあおった。五周年記念公演の締めくくりを祝うはずの打ち上げだったが、鴻巣のせいでそれはヤケ酒に変わっていた。肴にもろきゅうを一かけら口に入れ、半ば流し込むようにして酒を飲む。
「きっしょ。サブイボ立ったわ」
普段は完璧な東京弁を話すみおりだが、珍しく関西弁のイントネーションで愚痴る。地方出身者にはありがちな話だが、方言が出るのは感情的になっている証拠だった。服装は、デニムにグレーのティーシャツ。五周年記念のグッズで、胸元に光沢のあるライトパープルでうらら櫻子シリーズをイメージしたシャンデリアのイラストと、『劇団陽光炉』と控えめにプリントされている。豪快にジョッキを飲み干してプハッと息を吐くと、みおりは標準語に戻り店員に向かって声を張り上げた。
「すみません! 生一つお願いします!」
日曜日の二十一時半、店内はサラリーマンや大学生のグループで混み合っている。あちこちで乾杯や記念撮影のかけ声が響いていたが、みおりの腹式発声はしっかりと店員に届いていた。
「みおりさん、気持ちは分かるけど飲み過ぎないでくださいよ」
昔馴染みの奏太はオリジナル脚本も担当し、座長のみおりと共に劇団陽光炉五周年の立て役者だ。チェイサーにポットから冷水を注ぎ、みおりの前に差し出した。喉が渇いていたタイミングで、みおりは美味しそうにそれにも口をつける。飲み干してから、ほっけの開きを頬張った。
「はいはい。ありがと奏太。お目出度い五周年だもんね。あんな奴のことは忘れて楽しむ!」
向かいの席でスマホをチェックしていたスーツのスタッフが、気を利かせて話題を振ってきた。
「如月さん、またトレンド入ってますよ。『劇団陽光炉』と『如月みおり』がダブルで」
「えっ、ほんと?」
嫌な事は忘れる主義だ。みおりは声を弾ませた。
「ハッシュタグ『片翼の天使と黒衣の花嫁』で、感想上げてくれてる人も多いです。今回の推理のミスリードとどんでん返しも好評です、品川さん」
「思惑通りです」
奏太がおどけて、スタッフと三人で和やかに笑った。だが次の瞬間、スタッフのスマホが立て続けに鳴り出した。劇団のメールアドレスに問い合わせがあった際に素早く対応出来るよう、メールだけはいつも鳴るようにしているのだと聞いていた。スタッフが慌ててメールを開くが、着信音はどんどんと重なる。一通目をざっと読んだスタッフの顔は、青くなっていた。
「どうしたの? ウェブアンケート?」
ほっけの骨を取るのに視線を落としながらみおりが呑気に尋ねると、緊迫感のある言葉が返ってきた。
「如月さん、エゴサしてみてください。ネットニュースになってます」
「え?」
みおりは普段エゴサーチをしない。スタッフに任せてマイナスの情報は入れないようにしていたから、それはよほどの異常事態なのだと悟る。スマホを出して『如月みおり』と検索すると、一番上に主にゴシップを扱う出版社のネットニュースが上がってきた。タイトルは『劇団陽光炉の看板女優・如月みおり、愛妻家プロデューサー・鴻巣幹男へ【枕営業】打診の代償』とあった。
中身を開くと、みおりが真っ赤なドレスで鴻巣の手を笑顔で握っている写真があった。先ほどのバーだ。記事には、みおりがドラマのヒロイン役のオーディションを受けた事、鴻巣にしつこく言い寄っていた事、「愛人になるからヒロイン役にして欲しい」と打診した事、愛妻家の鴻巣はきっぱり断ったが金を払ってまで「一度寝てくれ」と言われた事、それでも断ると暴行された事などが書かれていた。みおりがテーブルに金を叩きつけた瞬間や、あざになった鴻巣の手の写真も載っている。写真の下には『病院で診断書を書いて貰い、警察に被害届を提出しました』という鴻巣のコメントも載っていた。
「え……なんなんこれ。嘘やん。知らんし……!」
真実を語ろうとしてSNSを開くと、すでに今朝「本日千穐楽!」とフラワースタンドをバックにピースサインをした写真投稿に、信じ難いような数字の反応がついていた。
「如月さん、ニュースだけ確認してくれたら。SNSはこちらでチェックします!」
スタッフが慌てて言うが、スクロールする指先は止められなかった。
『不倫女、乙』
『鴻巣Pと家族に謝れ』
『枕っていつの時代だよ。ババアの発想w』
『シンプルに氏んで欲しい』
『通報しました』
『暴行とか、草も生えない』
ありとあらゆる罵詈雑言が、みおりのSNSアカウントに吹き溜まっている。一枚の写真が目に入った。今食べている、ほっけの開きを斜め上から隠し撮りした写真だった。
『魚の食べ方が汚い。育ちが悪い証拠』
スマホのシャッター音に、思わずビクッと振り返る。女子会らしき三人組が、映えるカクテルの写真を撮り合っている音だった。恐い。誰も信じられない。スタッフのメール通知音は鳴り続け、前途有望だった如月みおりの俳優生命はそこで終わりを迎えたのだった。




