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第十九話 あかつき栞の華麗なる恋愛

 松ケ井の家は、赤羽のマンションだった。ファミリー向けの大規模な分譲だから、実家なのだろう。ブラックデニムにゴツいブーツ、ブラウンのブロックチェックのカーディガンにチェスターコートを羽織った千穂は、マンション前に立ち待っていた。ダメージデニムにパーカーを着た松ケ井が出てきて、千穂に向かってしっかりとしたビニールの袋を差し出す。

「はい。どうぞ」

 相変わらず善意なのかなんなのかよく分からない調子で、千穂は若干反応に困りながら軽く頭を下げる。

「おう。さんきゅ」

 中身を見ると、新書サイズの本が四冊入っていた。

「これで全部?」

「はい。炎上の二年後からだいたい一年おきに一冊出て、いつもの間隔ならもうすぐ新刊が出る頃です」

「え。もしかしてファンなのか?」

「注目しているという意味では、ファンかもしれませんね。俺、ネットで話題になってる事観察するのが趣味なんです」

 松ケ井がこんなに積極的に話すのを初めて聞いた。口下手で無口な奴だと先入観で思い込んでいたが、興味のある事には饒舌になるらしい。

「如月みおりが王子に住んでるのも知ってます」

 その言葉に、千穂は思わず眉根を寄せる。

「……なんで?」

「如月みおりウォッチャーって今でも居て、引っ越す度に住所が出回るからです。もちろん訴えられないようにすぐ消えるけど、みんなスクショして。俺んち近いから、マンションの前まで聖地巡礼した事もあります」

「松ケ井まさか……写真撮ってるのお前か?」

「いえ。俺はロム専です」

 ロム専という言葉は千穂でも知っていた。自分では書き込まずに観ているだけの行為を差す。

「佐藤さん。北区に行くついでって、如月みおりの家ですよね」

 一瞬だけ迷ったが、誤魔化しきれるものでもないと肯定する。

「うん」

 松ケ井はパーカーのフロントポケットからスマホを出して、ハッシュタグ『如月みおり』を検索した。変装したみおりと奏太の写真が出てくる。

「池袋の喫茶店で昔の劇団仲間と会って、今帰ってきたみたいです」

「なんでそんな……」

「リレー方式に、近所の人間が外出を知らせて、道筋に居る奴がリアルタイムで如月みおりがどこで何やってるか発信するんです。興味本位の奴も居るけど、反応数で稼いでる奴も居ます」

「ちょ……ちょっと待て」

 千穂は未知の世界に理解が追いつかず、額を押さえた。

「つまり……美織さんの人生を……仕事にしてる奴が居る?」

「はい。炎上は、刺激のない人生送ってる奴らにとって、エンタメですからね。だから佐藤さん、今如月みおりの家に行ったらまた撮られますよ」

 分からない。善意なのかなんなのか。こういう時、千穂はストレートに訊くタイプだった。

「松ケ井それ……善意で言ってんのか?」

「分かりません。事実を言ってるだけです。ただ」

「ただ?」

 松ケ井はやや視線を下げて、少しの沈黙のあと言った。

「清掃員なんかクソだって言ってる奴らに……佐藤さんが、清掃員も恋愛だってお洒落だってする普通の人間なんだって、思い知らせてやるのは楽しみにしてます」

 平坦だった声色には、確かに熱量がこもっている。千穂はわずかに口角を上げて、ビニール袋を持ち上げて見せた。

「……これ。さんきゅ。俺読むの遅いから、一週間くらい借りる」

    *    *    *

 千穂は、ハイエースでみおりのマンションの前に乗りつけた。松ケ井に忠告されて腹が据わった。何処からでも撮るなら撮れという気持ちで、臆する事なくポケットから携帯を出して、初めてみおりに電話をかける。十コールほどして、留守番電話に繋がった。録音が始まるまでの自動音声の間に、千穂は咳払いをして喉を整え気合いを入れる。ピーと電子音が鳴った。

「……美織さん。千穂です。昨日はごめん。俺、美織さんの事少し知ってるけど……自分の目で見て耳で聞いた事の方を信じるから、その。俺の事、恐がらないで欲しい」

 声の調子を変えて、事務連絡をする。

「キャリーバッグ持ってきた。パソコンもないと、仕事出来ないだろ。今から玄関前に置くから、早めに部屋に入れて。……じゃ、また」

 敢えて千穂は「また」と残した。留守番電話に繋がるとは思っていなく、メッセージを用意していた訳ではなかったが、自然と口から出た言葉だった。みおりとこれで終わりだとは、思いたくなかった。ハイエースを降りて助手席からキャリーバッグを下ろし、エントランスに入る。郵便受けの名前から部屋を探そうと思ったが、『如月』の名前は見当たらなかった。防犯対策か、名前の書かれていないポストもある。少し迷って、また携帯を取り出してショートメールを送った。

『流石にエントランスに置いてけない』

『何号室?』

 返信は期待していなかったが、すぐに着メロが鳴った。

『二〇五号室』

 エレベーターに乗って、二階で降りる。指定された部屋に行くと、玄関のプレートには黒いマジックで『山田(やまだ)』と書いてあった。

「山田……」

 思わず口に出す。そしてドアを開けたら見える位置にキャリーバッグを置いて、ショートメールを送った。

『今置いたから』

『じゃ、また』

 ためらわずにきびすを返したが、三歩離れたところで鍵の外れる音がした。

「……千穂くん!」

 呼び止められて、振り返った。目が合う。何かを弁解する前に、自然と顔が見られた嬉しさに微笑み合った。だが互いに我に返って、表情が硬くなる。みおりが恐る恐る言った。

「荷物、持ってきてくれて……ありがと」

「美織さん。会えて嬉しい」

「え?」

 だが話は噛み合っていない。真摯な表情で、千穂が訊いた。

「もし嫌じゃなかったら……もう少し、近づいてもいい? 美織さんの近くに行きたい」

「え。えっと」

 みおりの表情には、昨日見た怯えがあった。ストレートに千穂は言葉を紡ぐ。

「無理強いはしない。俺が、恐い?」

「……少し」

「俺は、如月みおりをエンタメにする奴らとは違うから。そういう奴らから、美織さんを守りたい。まずは俺と……知り合いから、友だちになってくれないかな」

「……うん」

「近づいてもいい?」

「うん」

 みおりの表情は硬いまま、視線は伏せられていたが確かに小さく頷いた。大股に一歩、千穂が近づく。

「もう一歩いい?」

 表情をうかがいながら、千穂が訊いた。

「……うん」

 もう一歩、大股に足を出す。あと一歩で手が届く。

「……もう一歩?」

「待って」

 みおりがさえぎった。千穂が少し残念そうに瞬いて顎を傾ける。そのあと、目を伏せた。

「ありがとう、美織さん。じゃあ俺……」

 その時不意に、みおりが玄関を出て一歩踏み出した。千穂の正面に立って真っ直ぐに見上げる。千穂は驚いて固まっていた。

「……美織さん」

 合っていた視線を下げて、みおりが小さな声を絞る。

「……千穂くん。私と……握手……してくれる?」

「え。握手? こう?」

 千穂が大きな手を差し出す。恐る恐る、みおりが手を出して重ねると、千穂が力強く握った。

「これで……千穂くんは、友だち」

「友だちの握手?」

「うん」

「美織さん、正直に言って。まだ俺が、恐い?」

 目が合う。先ほど出会った時のように、みおりが微笑んだ。

「……恐くない」

「よかった」

 千穂の親指がわずかに動いてみおりの手の甲を撫で、名残惜しそうに互いに手を引いて離れる。

「じゃあ美織さん。部屋に入って、鍵とチェーンかけて。俺見てるから」

「うん。ありがとう」

 みおりがキャリーバッグを持って部屋に入り、ドアが閉まっていく隙間から手を振った。千穂も軽く手を上げて応える。また、と短く言い合って。鍵の閉まる音とチェーンのかかる音を確かめてから、千穂はみおりのマンションをあとにした。

    *    *    *

「お兄ちゃん、明日休みだよね?」

 千穂が風呂から上がって髪をタオルドライしながらリビングに入ると、ソファで膝を抱えて待っていた里紗が振り返った。

「ああ、うん」

 冷蔵庫を開け、コップに牛乳を注ぎながら千穂が答える。鈴は里紗の隣で、『消えたお天道様と迷子のラド』の絵本をパラパラとめくっていた。

「鈴、それお姉ちゃんが鈴にくれたんだから、大事にすんだぞ」

「はーい」

 牛乳を冷蔵庫にしまって口をつけると、里紗が遠慮がちに言った。

「お兄ちゃん。あたし明日、日本史の小テストあるから鈴の寝かしつけ頼んでもいい?」

 千穂はゆっくりと、一息に牛乳を飲み干してから、コップを持った手の甲で口元を軽く拭う。

「分かった。あとで鈴と上がってくから」

 ソファの背もたれに手をかけた体勢のまま、少し考えるように視線を落として里紗が黙った。コップを洗い水切りかごに入れて、里紗の様子に千穂が気づく。

「里紗?」

「……あのね」

「うん」

「美織さんて……また来てくれる?」

 別れも告げずに忽然と消えたみおりの行方と、兄との関係性を、里紗なりに悩んでいたらしい。とても言いづらそうに尋ねられて、みおりの言葉を思い出した。

『子どもってね。子どもだけど、子どもなりに一生懸命考えてて』

 千穂はいつからか、里紗を子ども扱いする事をしなくなっていた自分に気づく。背伸びのしたい年頃の里紗の自主性を尊重し、二人で協力して鈴を育てていたが、彼女だってまだ十四歳なのだ。久しぶりに千穂はひざを折って、不安そうな里紗と目線の高さを合わせた。

「うん。美織さん、急に仕事が忙しくなって。また来る。必ず」

 そう言ってそっと頭に手の平を乗せると、里紗は嬉しそうにほっと歯を見せた。

「よかった」

 立ち上がり、リビングのドアを開ける。

「じゃああたし、勉強するね」

「おう」

    *    *    *

 子ども部屋には、千穂の生真面目な声が響いていた。里紗は机に向かって勉強をしている。みおりは登場人物によって声色を見事に使い分けていたが、千穂はどれも代わり映えしなかった。

「その時迷子のラドは、こぼれそうな涙をこらえていました。「誰も見ていなくても、いつだってお空のお天道様は見ていてくれる。ぼくは、雨上がりには笑っていられる子どもにならなくっちゃ」小さなラドは、小さな拳を……」

 チラリと鈴をうかがうと、ぐっすりと眠っていた。思わず千穂は呟く。

「ほんとだ。ちょうど半分で寝る」

「美織さんが言ってた?」

 ノートを取りながら言う里紗の背中に、千穂が顔を向ける。

「うん。半分で寝ちゃうから、鈴は物語の結末を知らないんだって笑ってた」

「また美織さんのお芝居が聞きたいなあ」

「……そうだな」

 鈴の布団をかけ直して、千穂は立ち上がった。

「じゃあ寝る。おやすみ」

「早いね。おやすみなさーい」

 千穂は子ども部屋を出て、奥の自室に向かう。本当はまだ寝ない。部屋の隅に畳んであった布団を敷いて、ボストンバッグの横のビニール袋の中から新書サイズの本を出し、横になってタイトルを見た。『あかつき(しおり)の華麗なる恋愛~秋葉原(あきはばら)大輔(だいすけ)の場合~』とあった。ページをめくる。

『私と大輔が出会ったのは、高校の演劇部だった。小柄で色が白くてチャーミングな彼は、アイドル的人気でいつも女子の注目の的だった。でも私のタイプじゃない。完全に眼中になかった彼から告白されるだなんて、その頃は思いもよらずに、部活に励んでいたのだった。』

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