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第十八話 黒歴史

 ゴンドラに千穂と小手が並んで乗って、高層ビルの窓をスクイジーで切っていた。

「千穂」

「はい」

「そこ、残ってる」

「あ、すんません」

 横から洗剤の切り残しを指摘する小手に、千穂がホルスターから再びスクイジーを取り出す。この仕事を始めて五年、新人みたいな凡ミスに、一緒に腕を動かしながら小手が尋ねた。

「家の事か、彼女の事か」

 千穂はため息をつく。

「なんで俺が悩んでんの分かるんすか、小手さん」

「そりゃあな。ここ五年はカミさんと同じくらい見てる顔だからな」

 小手は柔和に笑う。ボタンを操作して階下に降下し、またシャンパーとスクイジーを動かしながら、千穂は低いトーンで話し出した。

「実は」

「うん」

「美織さんと喧嘩……いや、喧嘩とは違うか」

 口の中で呟く千穂を、小手は横目で見る。

「上手くいってないのか」

「その。知らないふりしてたけど、俺が美織さんの過去の事知ってるって、バレちゃって。凄げえ……怯えた顔してた」

「あー」

 しばらく無言で水を切る。

「人の気持ちなんて簡単に推し量れないけど」

「はい」

「少なくとも俺たちは、勝手に何処でも出かけて行って、勝手に誰かと恋愛したりする自由があるわけだ」

「はい」

「如月みおりには、それがない。それだけで俺たちよりは不自由な人生だよな」

「そう……ですね」

「それに自殺未遂してるって話がほんとなら、それだけ辛い思いをしたって事だ」

「美織さん、左手首にいつも太いブレスレット着けてます」

「じゃあ、ほんとかもな」

 千穂が深刻な分、小手はあくまで天気の話でもするような調子で話す。

「俺、当時の事覚えてるけど。ひどかったよ」

「七年前すか」

「うん。如月みおりの言い分は誰一人信じてなくて、ネットじゃ匿名の捨て垢が言いたい放題だった。なりすましが犯罪の自供さえしてた。みんなそれがほんとか嘘か分からないのに、面白がって悪い事ばかりを『本当の事』にしていった」

「……ひでえ」

「千穂。謝る」

「え?」

 真摯なまなざしで、小手が千穂を見ていた。

「俺もそれを、他人事だからって遠巻きに眺めてた人間の一人だ。すまなかった」

「あ、いや……」

 小手はまたガラス面に目を戻す。

「如月みおりにとっては、過去は黒歴史ってやつなんだよな」

「黒、歴史」

「なかった事にしたい過去ってやつ。でもネットの奴らは、いつまでも過去を過去にするつもりがない。……だから、千穂」

「はい」

「過去を知らないって一生嘘つく訳にもいかないだろ。知ってても惚れてるって、ありのままの如月みおりに惚れてるんだって、思わせてやればいいんじゃないかな。難しいかもしれないけど」

「うん。……たぶん美織さんは、俺が過去を知ってるって事が、めちゃくちゃ恐いんだと思います。だから……まずは理解者になるところから始めてみます」

 ガラス面に向かって腕を動かしながら、小手が満面の笑みになった。

「かーっ、理解者ねえ。男前だな千穂。なかなか言える台詞じゃないよ。やっぱ如月みおりを幸せにしてやれんの、お前以外に居ないと思う」

 反射とでも言おうか、千穂が照れ隠しに否定する。

「いや、そんなんじゃ……」

「そんなんだろ! 照れんな照れんな!」

 明るく笑う小手の横で、千穂は無言で腕を動かしていた。

    *    *    *

 みおりは長い黒髪を一つにまとめ、キャップにブラウンのサングラスをかけていた。喫茶店の一番奥まった席、目の前のテーブルにはアイスティーがあるが、口はつけずにサーモンピンクのマスクをしたままだ。念のため七年以上前に一~二度しか着ていない無地のタートルネックを着て、万が一撮られても顔が写らないよう、ずっと下を向いていた。

 ――カララン。

 クラシックに、ドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

「あ、えーと……待ち合わせです」

 店員は会釈をして、待機場所に戻る。入ってきたのは、七年経っても小柄で年齢不詳な、甘いベビーフェイスの奏太だった。サラリーマン然としたスーツにネクタイだ。足取りは、迷わずに店の奥に向かう。

「お待たせしました」

 みおりの向かいの席に腰かけ、すぐにやってきた店員に、

「コーヒー。ホットで」

 と注文し、コートを脱いで座り直す。

「みおりさん、大丈夫?」

「うん……大丈夫」

 人間は「大丈夫か」と訊かれると反射的に「大丈夫」と答えてしまうものだと聞いた事がある。大丈夫ではなかったが、やっぱりみおりもそう答えるしかなかった。

「来てくれてありがとう」

 声には張りがなく疲れていたが、奏太の顔を見るとほっとした。過去の輝いていた自分の姿を、一番近くで見てくれていた人物。黒歴史ではない、自分の正しい過去を知る人物だからだ。奏太は微笑んだ。

「こっちこそ劇場近くまで来て貰ってすみません。あんまり出歩きたくないだろうに」

「ううん。本公演中だから忙しいよね」

「実はこれ、舞台衣装」

 そう言ってスーツの襟をつまんでおどける奏太に、みおりは力なく笑った。

「で、話したい事ってなんですか? その……炎上の事?」

「うん」

「ソワレが十八時からだから、十六時半くらいまでなら居られるかな」

 腕時計を見ながら言う奏太に、みおりもいつもの腕時計を見て確認した。三十分弱ある。

「最近の炎上ひどいですね。みおりさん、清掃員の男と付き合ってるんですか?」

「あ……いや……未遂って言うか。付き合ってはない」

「そうなんですか。安心した」

 ホットコーヒーがきて、二人はいったん会話をやめる。店員が離れてから、再開した。

「みおりさんに清掃員なんて釣り合いませんよ」

 若干いらついた印象で言ってから、コーヒーを一口含む。

「こないだ言った、櫻子さん復活の話、考えてくれました?」

 みおりの目が泳ぐ。

「いや……私にはもう無理だよ」

「そんな事ない。みおりさん綺麗なままだし」

 盟友である奏太は、会うといつもみおりを称えてくれる。元気づけられて、みおりは素直に応じる事にした。

「ありがとう、奏太」

「僕はみおりさんの力になりたいんです。昔も今も」

 ようやくみおりは安心して、マスクを外しストローに口をつけた。

「聞いて欲しいのは、彼の話で……」

「清掃員の?」

「うん。いい雰囲気だったんだけど。私馬鹿だな。やっぱり心の何処かで清掃員にこだわってて。モデルを勧めたら、清掃員がそんなに恥ずかしいのかって怒られちゃった」

 だが奏太の答えは意外なものだった。

「みおりさん悪くないですよ。誰だって、清掃員にいいイメージ持ってる人なんて居ません」

「あ……いや」

「とにかく。みおりさんがそんな格好して、世間から隠れて生きなきゃならないなんて、見てられません」

 スッと手が伸びて、みおりの手に重なった。

「真剣に、ステージに戻ってきてください、みおりさん。僕ら待ってます」

 みおりは困ったように笑った。

「……うん。考えてみるね」

「それから」

 奏太はスマホを取り出した。画面を見せながら話す。ハッシュタグ『如月みおり』が連なっていた。

「その清掃員の男の、元カノの証言が出てきてます。一回寝てポイ捨てだとか、DV男だとか。真面目にやめた方がいいですよ」

 奏太なりに心配してくれているのだろうが、有名人や炎上した人間の『自称元カレ』『自称元カノ』を名乗り、火に油を注いで歪んだ承認欲求を満たす者が居るのは今も昔も変わらない。つい弱気になって奏太に助けを求めたが、自分の中で答えは決まっているのではないかと思い当たった。

 ――恐いけど。私やっぱり、千穂くんの事まだ諦めてないんだな。

 こちらに見せていた奏太のスマホが着信する。ラインの通知。確認して、奏太はコートに手を伸ばした。

「すみません、みおりさん。トラブルあったみたいで。もう行かなきゃ」

「あ、ううん。気にしないで。ありがとう奏太。話せて元気出た」

「そう、ならよかった」

 そう微笑んで奏太は立ち上がり、さり気なく伝票も持って会計に向かった。

「じゃあまた、みおりさん。いつでも連絡してください」

「うん」

 笑顔で手を振り合って別れる。みおりはアイスティーを一口飲んで、またマスクをしてうつむいた。

    *    *    *

 千穂と小手はゴンドラを上げていた。屋上で座ってスマホを見ていた松ケ井が立ち上がって、二人に駆け寄る。

「お疲れ様です」

「おう」

「お疲れ様」

 松ケ井は二人から洗剤の入ったバケツを受け取り、ゴンドラを押さえて固定し屋上に移るのを手伝った。千穂は、ヘルメットとホルスターを外して身体を伸ばす。

「じゃあ、一時半まで昼休憩な」

 腕時計を見ながら言う小手に返事をして、千穂は屋上入り口に向かう。少し遅れて、二人も着いてきた。トイレに向かう二人に対し、千穂はエレベーターホールの方に向かう。

「ん? どこ行くんだ千穂?」

「デカい図書室ありましたよね。ちょっと、読みたい本あって」

「でも俺たちは借りられないぞ」

「はい。でも買う金ないから……」

「如月みおりですか?」

 無言だった松ケ井が急に話に入ってきて、驚いて顔を見る。

「お、おう」

「俺全部持ってますよ。貸しますけど」

「マジで?」

 エレベーターに乗るのをやめて、千穂は二人に合流する。

「松ケ井んち、何処だっけ」

「北区です」

「今日北区行くついであるから、取りに行ってもいいか?」

「いいですよ」

 三人は広いフロアの片隅にある、トイレに向かって歩いた。

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