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第十七話 ファーストタッチ

 勝手に入っていいとは言われたが、やはり一応ノックをする。返事はない。もう一度強めにノックをしても応答がないので、みおりはそっとドアを開けた。カーテンは閉まっていなく、街灯の灯りが入ってきて仄明るい。床に敷かれた布団の上で、かけ布団を抱き締めるようにして横向きで千穂が眠っていた。いびきはかいていないが、寝息そのものが深く大きい。疲れているのだろう。

「千穂くん」

 枕元にひざをついて、呼びかける。ビクともしない。安らかで無邪気とも言えるような寝顔を見詰めると、騒いでいた心地が少しずつ落ち着いていくのが分かった。ほどかれた長い髪が薄く開いた唇に入っているのを見つけて、取り除いてやる。

「千穂くん。ご飯だって」

 黒いノースリーブの逞しい肩に触れて揺すった。千穂がうなって薄目を開けるが、すぐにまたつむる。

「千穂くん、晩ご飯だよ」

「んー……要らねえ」

 きっちり寝ぼける千穂に、みおりは少し笑った。

「今日は里紗ちゃんのカレーだよ。美味しいよ」

 覗き込んで人差し指でやたらと頬をつつくと、うっとうしそうに手で払われる。また薄くまぶたが開いて、視線だけが動いて目が合った。

「美織さん……?」

「うん。起きて、千穂くん」

 ゆっくりと千穂は上半身を起こし、顔の距離が近づいた。身を引こうとすると、なんの躊躇いもなく右手が伸びて、みおりのうなじに指が差し込まれる。視線が唇と瞳を往復した。いつかのように。そのまま引き寄せられ、みおりは目を閉じた。まるでファーストキスみたいに、壊れ物を扱うようにそっとバード

キスを繰り返される。やがて左手も上がって抱き締められ、下から引き倒される動きに少し慌てた。

「千穂くん……っ」

 両手をついて身体を支えると、それ以上千穂の腕に力はこもらず、ぱたりと投げ出される。

「千穂くん……?」

 眼下で、千穂はまた深い寝息を立てていた。

「……寝ぼけた?」

 がっかりしたような安心したような複雑な顔と声をしてから、みおりは苦笑する。少し顔を間近に眺め、やがて悪戯を思いついた表情で千穂の鼻をつまんだ。何秒かあって、千穂が首を振って空気を取り込み、目を白黒させる。

「てめっ……死ぬだろ、里紗!」

 起き上がって、ひざをついた満面の笑みのみおりと目が合う。

「み、美織さん?」

 戸惑いと共に発されるのに、みおりはその頬をつまんで見せた。揺さぶって、意識を確認する。

「ちゃんと起きた? 千穂くん」

「起きたから」

 千穂は柔らかくみおりの指を払ってよけた。

「飯?」

「うん。里紗ちゃんのカレー」

「分かった」

 ふうっと息を吐いて眠気を飛ばし、手の平の掌底の位置でまぶたをこする。

「あれ? 着替えた?」

「あ、うん」

「なんで?」

「いや、ちょっと……気分を変えようと思って」

 ぎこちない笑顔でみおりは答えた。

「ふうん。俺はあれ好きだけど」

 立ち上がって布団を畳む背中に、みおりも立ち上がって声をかけた。

「千穂くん」

「ん?」

「昨日言ってたウェブ広告モデルの事だけど、真剣に考えてくれるかな」

 背を向けたまま、布団を整えてしばし沈黙が落ちる。

「いや……俺はいいよ」

「単価がいいから、お金も貯まると思うよ。ウェブ広告だと、日給三万円以上が相場」

「毎日モデルの仕事が入る訳じゃねえだろ。特に俺みたいな半端もんに。もう夢追っかけてる場合じゃねえんだ」

「はじめは兼業でどうかな? わんぱくキングの実績があるから、全くの素人より目に留まると思う」

「いや、いい」

「なんで? 事務所に所属したら、一件で何十万って貰える事も……」

 千穂が振り返って硬い表情で反問した。

「逆に美織さんは、なんで俺にそんなにモデル勧めんの?」

「それは……」

 初めて聞く強い口調に、みおりは驚いて固まる。

「彼氏候補が清掃員じゃハクがつかないからじゃねえ? 俺知ってんだ、美織さん初めてうちのハイエース見た時ウゲッて顔したよな。まあ普通の反応だと思ってスルーしたけど、俺が清掃員なのがそんなに恥ずかしいなら、美織さんの事守れねえよ」

 吐き出してしまってからハッとして口元を押さえたが、遅かった。みおりの表情は、怯えきっていた。

「……知ってたの?」

「あ、いや……」

「答えて。私が『あの』如月みおりだって知ってたの?」

「知ってたけど、俺は……」

 言いかける千穂の言葉をさえぎって、みおりは吐き捨てた。

「最低!」

 千穂の部屋を飛び出していくみおりを追いかけようと一歩足が出たが、罪悪感に追いかける事は出来なかった。こんなはずではなかった。あの日電車で泣き顔を見て、自分がなんとかしてやりたいと思ったのは事実だった。片手で顔を覆って後悔を噛み締める。ややあってから子ども部屋を覗くと、ブラウンのリュックだけがなくなっていた。階段を下りて玄関を確認すると、みおりのピンヒールもない。リビングに入るとカレーのいい香りがした。

「あれ? 美織さんは?」

「ちょっと……家に忘れ物取りに行くって」

「食べてからにすればよかったのにー」

「いや……うん」

    *    *    *

 自宅の1Kマンションのベッドの上で、みおりは布団もかけずに無気力に横になっていた。グレーのスウェット上下でメイクは落としほぼすっぴん、外から入る街灯の光だけの薄暗い中でひたすらスマホを眺めている。ハッシュタグ『如月みおり』は、途切れる事なく投稿され続けていた。ありふれた誹謗中傷のうちはまだよかった。そのうち、

『これ裏垢じゃない?』

 ともっともらしく引用される。アカウント名は『MIORI』で、どんどん拡散されていく。もちろんみおりは裏垢など持ってはいない。だが『MIORI』は十代の少女がつづるような恋のポエムを次々と投稿し始めた。

『彼は運命の人。これが最後の恋。』

『あたしと彼の小指は、赤い糸で結ばれてるの。』

『彼と結婚したい。白い三角屋根のおうちに住んで、子どもは男の子と女の子。』

『幸せの象徴、子犬も家族にしなくちゃね。』

 そんなあずかり知らぬ言葉が、勝手にみおりの発言にされていく。

『ポエマー(三十一歳)』

『お前が結婚出来る訳ないだろ』

『セックスしたいの間違いじゃねえの』

 さらにそれをあざ笑うリプライが連なっていく。負の連鎖だった。みおりはラインを開く。『かなた』のタイムラインに打ち込んだ。

『奏太。少し話したい。』

 だがいつもすぐにつくはずの既読はつかない。ラインを閉じて『劇団陽光炉』と検索すると公式ホームページがヒットして、今現在、夜公演中の情報が見て取れた。

「公演中……」

 みおりは起き上がり、ベッドヘッドにある引き出しを開ける。取り出した小箱には『睡眠導入剤』と書かれていて、ろくに数も数えず一気に五~六錠を手の平に出し、枕元に置いてあったコップの水で飲み干した。再び横になり布団に潜ると、だんだんとまぶたが落ちてくる。半ば気を失うようにして、みおりは無理やり眠りについた。カーテンは開けられたまま、キッチンの作業台にはレトルトカレーの箱とパウチが放置され、シンクの中の皿とスプーンには水道の蛇口から水滴が落ちていた。

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