第十六話 ノリツッコミ
自宅の駐車場にハイエースを後ろ向きに止め、千穂は玄関前で胸ポケットを探った。佐藤家――というか千穂と里紗の間では、自宅の鍵は自分で開ける決まりになっている。だがふと思い立って、インターフォンを押してみた。里紗は二階に居るだろうか? 誰も気づかない? もう一度押して、少し待ってから、千穂は鍵を取り出した。
『はーい! あ、今開けるね』
明るいみおりの声がした。初めて出会った時あんなに泣いていたのが嘘のようだと、車内の会話を思い出す。千穂が鍵をしまって待つと、内側から外開きのドアが開けられた。
「おかえりなさい」
よそ行きの格好でない、シンプルなデニムと袖の部分にカラフルな花柄が刺繍されたトレーナーを着たみおりが笑顔を見せていた。
「……ただいま」
思わず笑顔を噛み締めると、みおりがちょっと不思議そうな顔をする。
「ん?」
「いや。スーパーの場所分かった?」
「うん。頼まれた物買ってきた」
一緒にリビングに入って、冷蔵庫の中を確かめる千穂の背にみおりが訊く。
「今日はカレー?」
千穂が、
「そっか」
と呟いた。
「うちさ」
冷蔵庫を閉めてみおりを見る。
「うん」
「晩飯が何か訊かない、ってルールがあんだ」
鈴はダイニングテーブルの横の床で、ミニカーをつまんで走らせ一人遊びをしていた。
「そうなんだ、ごめん。聞こえちゃったかな」
鈴の方を見てみおりが口元を押さえる。
「いや、そりゃ知らないから仕方ねえけど」
「ピーポーピーポーピーポー! お姉ちゃん、さっき呼んだ救急車が来たよー!」
「やったあ。鈴くんに助けて貰えるぞお」
遊びに付き合ってから、千穂を見た。
「よかった。聞こえてないみたい」
「お兄ちゃん、消防車呼ぶー?」
「そうだな。今日は呼ばない」
「消防車、了解しました! 消防署に帰ります! ウーウー」
「なんで?」
「あ?」
「なんで晩ご飯が何か訊かないの?」
千穂が鈴の一人遊びを眺めながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「鈴がさ、昔食わず嫌いの好き嫌いだらけで。俺も分かんねえから、今日はこれだから頑張って食べようなって言ってたんだけど、嫌いな物が出てくるって分かると腹が痛いって言うようになってさ」
「うん」
「ただの我がままだと思ってたんだけど、そのうち大泣きするようになって。流石に小児科連れてったら……ストレスとプレッシャーからくる、精神的腹痛だって。鈴、まだあんなチビなのに。俺のせいでほんとに痛い思いさせてたんだって知って……落ち込んだ」
追憶するように話す千穂の横顔を見上げて、みおりは優しい言葉を選んだ。
「そっか。鈴くんも頑張ったし……ちょっとだけ間違えたけど、千穂くんも頑張ったんだよ。一回も間違えない人なんて居ないから。千穂くんの事だから、鈴くんに謝ったんでしょ?」
「うん。チビだから、きょとんとしてたけどな」
「千穂くん、頑張ったね。えらいえらい」
不意に頭に手が触れて驚く。長身で逞しい千穂の頭を撫でる存在など、子どもの頃以来誰も居なかった。思わず、はね除けるようにして手首を掴むと、今度はみおりが驚いていた。
「やめて」
「あ、ごめん……」
「泣いちゃうから」
目が合い、間髪入れずに鈴の声が上がる。
「ピーポーピーポー! 救急車到着! お姉ちゃん、一分以内に乗らないと、お医者さんに診て貰えないよー! じゅーう、きゅーう……」
その元気のいいカウントダウンに、思わずみおりが関西弁のイントネーションでツッコむ。
「いや一分の定義!」
思わず空気にビシリと裏拳を入れると、沈んでいた千穂が、ぷっと噴き出した。拳の親指側を口元に当て、くすくすと笑う。
「やっぱりツッコミとかするんだ。凄げえ、芸人みてえ」
「新喜劇で育ったからね」
「にーい、いーち!」
言葉を重ねようとしたが、鈴が大きな声を出すので、みおりは鈴の元に急いでひざをついた。封印していた関西弁を、これでもかと大げさに使う。
「えろすんまへん、乗りたいねんけど手ぇが折れてて歩けへんのですわ」
身体の向きを変えて自分にツッコむ。
「脚ちゃうねんから乗れるやろがい!」
鈴はまだノリツッコミというものがよく分からないのか、マイペースに大声を出した。
「ブッブー! 駄目です、お姉ちゃんは乗れませんでしたー! 救急車帰りまーす! ピーポーピーポー」
鈴の手で離れていく救急車のミニカーに身体を倒して手を伸ばし、みおりは死にそうな声を出す。
「あかん、お医者さんに診て貰われへんと死んでまうわ、手ぇ折れたさかいに心臓発作で逝ってまう……」
「ピーポーピーポー」
鈴の救急車は、面白がってどんどん離れていく。とうとうリビングの壁についてしまった。みおりが身体を起こしてまたノリツッコミをする。
「あんた救急車事故っとるで、別の救急車呼ばなあかん。もしもーし百十九番ですかー。ここが病院やっちゅーてんねん!」
「あー」
ミニカーがそれ以上進まない事に鈴が小さく声を上げると、みおりが威勢よく言った。
「今日はこれぐらいにしといたるわ!」
「お姉ちゃん、面白いからもうちょっと死んでて!」
「なんでやねん、死んどらんがな。手ぇ折っただけやてゆーてんねやんか」
見ていた千穂が、身体を折って笑い声を噛み殺していた。
「やべえ、腹痛てえ」
* * *
みおりは人参を小さめの乱切りし、ザルに入れた。
「はい、里紗ちゃん」
包丁を置いてザルを差し出すと、里紗が沸騰している鍋に人参と、水に漬けていたじゃがいもを入れる。かたわらにはカレー粉の缶が置いてあり、里紗はキッチンタイマーを七分かけた。
「あとは煮込んで味つけるだけだから、もう大丈夫。ありがとう美織さん」
「うん」
みおりはダイニングテーブルに着き、里紗は真剣にアニメを観ている鈴の横に足も上げて座った。
デニムのポケットからスマホを出し何件か溜まった通知を消して、みおりはそう言えば千穂と出会ってからエゴサーチを全くしていない事に気づく。自分が人の目にどう映っているのか気にならないくらい、みおりは幸せだった。軽い気持ちで検索窓に『如月みおり』と入れる。いつものように一番上には七年前のネットニュースがヒットした。だがスクロールして、微笑みが急速に焦りに変わる。千穂の写真や『個人情報はマズイだろ』などのSNS投稿が目に飛び込んできた。
『ついになんでもよくなったか』
『ビジュだけはいいよね』
『みおりと付き合うくらいなら、私と付き合って欲しい』
『いやビジュがよくても清掃員だからw』
『社会の底辺で草』
『草も生えない』
極めつきは、佐藤家の玄関前を写した写真に『鍵はこの柴犬の下』と書かれた投稿や、ビニール袋を提げたみおりの写真に『こんにちは、ロマンティックおばさんです』と書かれた投稿だった。どれもリアルタイムで拡散数と誹謗中傷のリプライが伸びている。ロマンティックおばさんとは、派手な花柄などを着る中高年女性を嘲笑するネットスラングだ。みおりは花柄の入ったトレーナーの袖を押さえ、急いで二階に上がっていった。心臓の音がうるさいと思った。耳鳴りもする。着替えが詰まったキャリーバッグの中を乱雑に漁って何も柄の入っていない無地のカットソーを見つけ急いで着替える。着替えている間、自分の呼吸の音だけを聞いていた。着替え終わってほっと安堵するが、
「そうだ……鍵」
と呟いて、今度は急いで階段を下りる。覗き穴から外を見て誰も居ないのを確認してから、サッと玄関を開け柴犬の置物をずらして鍵を回収した。ドアを閉め、鍵もチェーンもかけて、ドッと疲れて玄関ドアにもたれひざ頭に手を当てうつむく。
「美織さん?」
急に声がかかって、みおりは小さく悲鳴を上げた。リビングのドアを開けて、エプロン姿の里紗が顔を出していた。
「どうしたの?」
みおりの様子に不思議そうな顔をしている。みおりは、なんとか笑顔を貼りつけた。
「な……なんでもない」
「そう?」
里紗も笑顔を見せた。
「もうすぐ出来るから、悪いけどお兄ちゃん起こしてきてくれる? お兄ちゃん朝は強いけど昼寝すると全然起きないから、勝手に入って大丈夫。あと寝ぼけてご飯要らないとか言うけど、叩き起こしていいから。二階の一番奥の部屋」
「うん、分かった」
鍵をポケットにしまい、再びみおりは階段を上がっていった。




