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第十五話 個人情報流出

 千穂は、今日も仕事だった。日給は一万五千円。二つの清掃会社をかけ持ちし、レギュラーの会社が休みの日には日雇いの会社にシフトを入れて貰い、二~三週間にいっぺんほどの休みで出来るだけ働くようにしている。少しでも将来に備えて貯金を作るために。だから週に一度ほど、電車通勤の日があるのだった。

 ブランコに座ってシャンパーでガラスに洗剤をつけ、スクイジーで水を切っていく。この時はガラス面に目の焦点が合っているため、基本ガラスの中の事など気にしていない。慣れているとはいえ、一つ間違えば命に関わる職業だ。気を散らしている余裕などないのが本音だった。極まれに中から手を振られる事があるが、小さな子ども以外は気づかないふりをしてやり過ごしていた。

「んっ?」

 一瞬、視界がホワイトアウトした気がして、千穂はスクイジーを持ったまま腕で目をかばう。ガラスの中を覗き込むと、そこはひと気のない棚が並ぶ倉庫のようで、棚の向こう側に走り去っていく黒い靴がチラリと見えた。

「なんだ……?」

 だがうかがってももう誰も居ないので、千穂は気を取り直してまたスクイジーを使い出した。今日はこのライン一本で最後だった。無事に最後のラインを終え、地上で小手と合流する。

「お疲れ様です」

「おう」

 バケツとブランコを提げて、ビル裏から狭い通路を千穂を先頭に一列になって、正面の大通りへと向かった。

「そう言や鈴くん、大丈夫だったか?」

 面倒見のいい小手の事を信頼していたので、千穂は家の事情は特に隠さずに話すようにしている。その方が融通が利く事も多い。

「あ、はい。寝不足からきた体調不良らしくて、もう元気です」

「不幸中の幸いだったな。小さい子がコロナとか考えると、ゾッとするよ」

「マジで。心配で思わず廊下走ったら、看護師さんに怒られました」

 小手が明るく笑い飛ばす。

「廊下走って怒られたの、いつぶりだった?」

 千穂は少し考える。

「んー……小、三、ですかね」

「だよなあ」

    *    *    *

 スマホの画面に、ハッシュタグ『如月みおり』が羅列されている。親指でスクロールすると、先日のマッチングアプリの時の連続した画像の次に、白いハイエースの前方席で並んで話している様子の男女が出てくる。タップして、まず女性の顔をズームして確認し、横にずらして男性の顔を確認する。一つ前の

画面に戻ってまたスクロールすると、今度ははっきりと大きく男性が写った画像が出てきた。スクイジーで水を切っているところを、ビル内から撮影した写真だ。千穂が先ほど感じた違和感は、この時のフラッシュだったのだろう。『特定完了』という文章が添えられていた。その画像を少し眺めたあと、拡散ボタンを押す。アカウントを切り替える。拡散ボタンを押す。アカウントはいわゆる捨て垢で、無限にあった。

『特定班、乙』

『この景色、浅草じゃない?』

『佐藤千穂。二十六歳。』

『個人情報はマズイだろ』

『すぐ消すからスクショして』

『おk』

『如月みおりと付き合うとか、こいつの性癖どうなってんの』

 ひたひたと満ちる水でいつの間にか窒息させられるように、拡散数と誹謗中傷のリプライは少しずつ伸びていった。

    *    *    * 

 ポリッシャーでビル内の床清掃をしていた松ケ井は一足先に終わっていたようで、ビル前の社名看板の台に腰かけてスマホに目を落としていた。黒い作業靴のかかとが、細かく貧乏ゆすりをしている。このビルには清掃員用の設備がないため、千穂と小手は二十メートルほど歩いてバケツの水でシャンパーを洗ってから、道路の排水溝に捨てた。松ケ井とも合流し、あとは荷物を積み込めば仕事は終わりだ。

「お疲れ様」

「お疲れ」

「お疲れ様です」

 松ケ井は無言で仕事をしているかスマホをいじっているかで、ほとんど口を開く事がない。だがこういう職種で特段必要性も感じないため、千穂も小手も無理に話しかける事をしないでいた。その方が居心地がいい者も居るのだろう、くらいの認識だった。

「あの」

 その松ケ井が声をかけてきたので、仕事の話かと千穂が歩み寄る。

「どうした?」

「これって」

 スマホの画面がこちらに向けられた。

「佐藤さんですよね」

「は?」

 身に覚えのない写真に目を凝らす。ネイビーの繋ぎ。後ろでくくった金髪にヘルメット。はっきりと写った顔は、間違いなく千穂だった。

「こんな写真撮ったっけ?」

 小手も横から覗き込む。

「これ、SNSだろ」

「はい」

 千穂は元々SNSに興味がなかったが、小手は人並み程度には理解しているらしい。拡散数二万を見て仰天した。

「むちゃくちゃ拡散されてんな。何やったんだよ千穂。バズってんのか? 炎上してんのか?」

「炎上ですね」

 松ケ井が答え、画像表示から一つ前の画面に戻ると、ハッシュタグ『如月みおり』と『特定完了』の文字が出てくる。小手が不意に大きな声を出した。

「えっ? 千穂の彼女って、『あの』如月みおり?」

 善意なのかなんなのかよく分からない平坦な口調で、松ケ井は語る。

「佐藤さん、ネット環境ありませんよね。如月みおりって、やばい女ですよ。『ストーカー不倫暴行モラハラ女』です。クスリやってるとか、クレプトマニアだとか、セックス依存性だとか言われてます。引っかかったら、一緒に人生終了しますよ」

 千穂は険しい顔でそれを聞いていたが、いつかみおりに話した言葉を繰り返した。

「生きてんだから、人生はまだ終了してねえだろうよ」

「如月みおり、六年前に手首切ってます。ネットに書いてある事がただの嘘なら、自殺なんてしなくないですか」

「本人と話した事もねえのに、他人の事を訳知り顔で語るのは違うと思う。俺は、自分の目で見て耳で聞いた事の方を信じるから」

 そう言って、バケツとブランコを持ってふいと車に向かう。

「あ、千穂」

 慌てて小手もあとを追った。無骨で無表情な事が多い千穂は不機嫌だと誤解される事がよくあるが、小手はけしてそうではない事を知っている。だが今の千穂は、完全に怒っていた。目の前の大通りに止められたハイエースに荷物を無言で積み終え早々に運転席に乗り込むのに続いて、助手席に乗り込んだ。

「小手さん、一服しなくていいんすか」

「ああうん、出してくれ」

「じゃ」

 ウインカーを出して大通りを走り出す。小手は助手席で、ハッシュタグ『如月みおり』を検索していた。

「……千穂」

「はい」

「お前が、曲がった事が嫌いなのは知ってるけどな」

「大嫌いですね」

 怒り心頭の口調で言うと、顔色を若干青くして小手が告げた。

「よく聞けよ。お前の名前も住所も流出してる」

 千穂が唇を噛み締める。

「なんすかそれ。何が目的なんですか?」

「強いて言えば……如月みおりを一生幸せにしないため、かな」

 画面をスクロールして、誹謗中傷のきっかけとなった七年前のネットニュースが出てきて、小手はふと手を止めた。

「待てよ。千穂、うちに来たの五年前だよな」

「え? はい」

「そこまで親居たって事だよな」

「はい」

「如月みおりの事は……」

 助手席から、小手が千穂を見詰める。千穂は、ジッと正面を見て運転しながらぽつりぽつりと話し始めた。

「俺。元々あんまネットに興味なかったけど。めちゃくちゃ騒がれてたし、裁判の事テレビでもやってたから、なんとなくだけど知ってます」

 若干引き気味に、小手が訊く。

「知った上で、付き合った……?」

「だから何回も言ってるけど、そんなんじゃありませんって。……まだ」

「まだ、付き合ってはないのか」

 何処かほっとしたような小手の言葉をよそに、千穂は語る。

「美織さん。初めて会った時、泣いてたんです。日曜の夜だったから、一瞬酔っ払ってんのかなと思ったんだけど。大人があんなに悲しそうに号泣してんの、初めて見ました」

「お、おう」

「俺がなんとかしてやれるもんなら、なんとかしてやりたいって……思って……」

 そこまで語って、千穂はハンドルから片手を離して口元を覆った。

「って、俺、何話してんだろ……」

 そんな表情を見せた事のない千穂の動揺した姿を小手は驚いて眺めていたが、次第に飲み込めたというか、納得して笑顔になっていった。

「は、はは」

 笑う小手に、千穂がチラリと視線を送って左折する。

「なんすか」

「つまり、あれだ。本気で惚れてるって事だろ。な? 千穂」

「いや……」

 また口元を覆って恥じ入る千穂の背中を、小手がバシバシ叩きながらハッパをかけた。

「如月みおりを幸せにしてやれんの、お前くらいのもんだよ!」

「え、ちょ、いって……」

 千穂が大げさに痛がり身をよじる。

「な! 負けんな千穂!」

「いて、いって、意味分かんないですって……」

 照れ隠しも含んで、千穂が不明瞭に抗議を上げた。

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