第十四話 共同作業
みおりのノートパソコンのモニターには、『わんぱくキング様』『お世話になっております。』などの業務用の言葉が並んでいる。リビングには、みおりがキーボードを打つ音と、千穂が規則的にもらす呼吸音だけが響いていた。その他にはバックグラウンドで、お湯が弱く沸騰するふつふつという音が聞こえている。
夕食は牛すじの煮込みだった。安価に手に入る牛すじだが、その理由は下処理が面倒だからだ。茹でこぼしを終えカットした牛すじを、長ネギの青い部分と生姜の薄切りと共に、弱火で一時間ほど煮込んでいく。
みおりはメールを送信し終えると、パソコンのモニターのかげから、そっと千穂を盗み見た。千穂は黒いスウェットパンツに黒いノースリーブで、身体をひねってツイストクランチをおこなっている。もう三十分ほどになるだろうか。全身運動のため、ひねる度に浮き上がる筋肉が美しいだなんて少し見とれる。その時、キッチンに置かれたタイマーが、きっかり三十分を告げた。
「あ、私止める」
千穂と目が合って、みおりが立ち上がる。寝転がって身体を伸ばし、クールダウンしながら千穂が言った。
「水減ってるだろ」
「うん」
「また最初くらいに水足して。もう三十分煮込むから」
「うん」
言われた通りにしてまた弱火を点けてから、タイマーを三十分にセットする。ダイニングテーブルに戻ろうとしたら、アニメを観ているのだと思っていた鈴が、ソファで眠っているのが見えた。
「あ」
「ん?」
「鈴くん寝てる」
「ああ」
起き上がって、千穂も覗き込む。ソファの隅に畳まれてあったハーフブランケットを広げ、鈴にかけた。そして、今度は腕立て伏せをし始める。
「まだするの?」
と驚くみおりに、
「だって暇だろ」
と千穂は言い切る。規則的に息を吐きながら、前を見て千穂は語った。
「昔は暇さえありゃドラムの練習してたけどな。今は必要ねえし」
「筋トレが趣味?」
「そうだな。金がかからなくて実用的」
みおりは少し笑った。
「でも私もそうだったな」
「美織さんも?」
千穂の視線が上がる。
「劇団員もね、筋トレがルーティンに入ってるの。昔は腹筋割れてた」
「昔? 今は?」
「訊かないでよ。里紗ちゃんが居たら叱ってくれるのに」
少し頬が緩んだが、千穂はまた引き締めて腕立て伏せを続けた。みおりが思いつく。
「ねえ、千穂くんのバンドなんて言ったっけ? 動画上がってないかな」
「ああ。昔はあったけど……『ゲズー』ってバンド」
「スペルは?」
「たぶんカタカナでも出る」
検索窓に『ゲズー』『バンド』と打ち込んで検索する。六件の動画がヒットした。おそらくスペルをきちんと打てばもっとたくさん出るだろう。どれを観ようかとスクロールしたら、一つのタイトルで指が止まった。『CHIHO』のあとにハートマークが五つ続いている。自動生成されたサムネイルは、ブレたドラムセットだった。
「千穂くんって、バンドネームも千穂くんだったんだ」
「うん」
「音出してもいい?」
「鈴が起きない程度にな」
みおりは音を出す前にボリュームを調節して、ショート動画を再生する。薄暗がりの中に、スティックを打ち合わせてカウントする声が響いた。千穂の声だ。グラマラスなロックサウンドが流れ出し、それが千穂の携帯の着メロだと気づく。
「あ、これ。千穂くんの着メロ」
「うん」
何秒か中心のヴォーカルに焦点が合っていたが、撮影者自身が移動してドラムスの千穂がアップになった。今と違って全部金髪の少し若い千穂が、長めの髪を振り乱して骨太なドラムの音を響かせている。
「凄い。カッコいい……」
思わず、何も考えずに口に出ていた。自分が推される立場だったから推し活というものをした事がなかったが、友人に誘われて何回か大きなライブに行った事はある。だがアリーナ後方に埋もれるか二階席三階席で、ステージの上のアーティストは遠い存在だと思っていた。見知った顔が激しいパフォーマンスをする姿が、色々な意味で衝撃的だった。
「でもそれは昔。誰でも若い頃は、若気の至りで夢追っかけたりするもんだろ」
あまり興味のなさそうな声音に、みおりも我に返って頷いた。
「そっか。そうだね。私も役者なんかやってたし」
千穂が腕立て伏せをやめ、床にあぐらをかいてみおりを見上げた。
「なあ、ズルい」
「え?」
「美織さんが芝居してる動画はないのか?」
「えーっと……」
みおりは笑って誤魔化した。昔は公演の度に劇団の公式SNSから、オープニングダンス動画やキャストコメント動画などが発信されていたが、炎上した際に全て消去されていた。よくよく探せば見つかるかもしれないが、そんな黒歴史扱いされる動画を見せたいとは思わなかった。
「芝居の動画は残念ながらないかな。ほら、権利とか厳しいから」
「そうなんだ」
適当につけた理由を百パーセント信じている様子の千穂に、良心が痛んで言い募る。
「あ、私の書いた本なら貸せるよ。千穂くん恋愛小説とか読む?」
「読まねえけど、美織さんの書いた本なら読んでみたい」
「じゃ、今度うちから持ってくるね」
「うん。……へえー」
千穂が視線を下げて、まるでそわそわするように指の関節を鳴らすのに、みおりが疑問符を上げる。
「どうしたの?」
「いや。なんか」
やっぱり千穂は関節を鳴らしながら言う。
「美織さんって、恋愛小説書くんだなって。普段本なんか読まねえし……楽しみ」
「やめてやめて。ハードル上がっちゃう」
みおりが困ったように笑った。千穂は座ったまま上半身のストレッチをし始める。
「でもプロでやれてるんだろ。凄げえよ」
褒められた事などここ何年もなくて、素直に嬉しいと思う反面、小関の言葉がチラついた。
『センセ、センセには創作の才能はありません。ネタが切れたのなら、新しい恋愛をしてください。とびきりの、人の道を外れた泥沼の恋愛をね』
みおりのパソコンには今も、千穂とのやり取りが記録され積み重なっている。自分は七年ぶりに訪れた恋の予感も、切り売りして飯の種にするのだろうか。今までの小説と同じように、読者が望むような泥沼の失恋でラストシーンを迎えるのだろうか。千穂と出会ってから初めて、みおりは自分を笑った。うつむいて自嘲する。
「全然凄くないよ。ちゃんと毎日働いて家族養ってる千穂くんの方が、何倍も凄い」
両手の指を組み合わせ手首を回してストレッチをする千穂が、その表情を不思議そうに眺めている。バックグラウンドには、お湯が弱く沸騰するふつふつという音だけが聞こえていた。
* * *
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
手を合わせると、律儀に千穂が応える。千穂とみおりが食べ終わって、里紗と鈴がまだ食べていた。二人が立ち上がって、食器をシンクに下げる。スポンジで洗い始める千穂に、みおりが訊いた。
「何か手伝う事ある?」
「じゃあ、渡すからすすいで、かごに入れて」
「うん」
「はい」
千穂の隣に並び、渡される泡のついた食器を水で流す。みおりは、懐かしい記憶を思い出していた。
「昔食べた、お母さんのどて焼きみたいで美味しかった。牛すじって、こんなに手間がかかるんだね」
綺麗になった食器を水切りかごに並べていく。
「どて焼きって、関西の方の料理じゃなかったっけ」
「うん。私大阪出身だから」
千穂が驚いてみおりの顔を見た。
「え? マジで言ってる?」
「マジだけど」
「標準語だから、全然分かんなかった」
「演技の学校で地方出身者は、まず標準語を覚えるところから始めるの」
「へえ」
「まあ正直、なんで東京に合わせなあかんねんって思ったけど」
突然出た関西弁のイントネーションに、千穂が思わず笑った。やや沈黙して、話し出す。
「俺はさ、北海道出身」
「そうなんだ。「さ」って言うから、何処か東北の方かなって思ってたけど」
「え。マジで? 東京七年目だから、全然意識してなかった」
「千穂くんの個性だから、別に気にしなくていいと思うよ。言葉を扱う職業じゃないんだし」
「そっか」
皿を洗い終わった千穂は、鍋の底の方に残った煮込みをおたまですくって器に取る。ラップをかけて、冷蔵庫に入れた。
「私は芝居のために東京に来たけど、千穂くんも音楽のため?」
「ああ……うん」
なんとなく言いにくそうに相槌を打って、鍋も洗い始める。
「親が事業に失敗してさ」
「うん」
「かろうじて借金はなかったけど金なくなって。そこに俺の事務所所属が決まったから、親戚に空き家安く譲って貰って出てきたんだ」
「えっ、実家ごと?」
「うん。笑っちゃうよな。俺のデビュー当てにしてたんだよ。当時は応援してくれてんだって思ってたけど」
みおりは洗った鍋を受け取って、水で流しながら聞いている。
「結局金の話で喧嘩が絶えなくて、離婚してどっか行っちまった」
「そっか……」
食べ終わった里紗と鈴が、食器を下げに来る。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
千穂は受け取って、また洗い始めた。視線を下げたまま、小さく笑う。
「なんか。変だな。こんな話、小手さん以外にすんの初めてだ」
「小手さん?」
「会社の先輩」
「そっか。でもそういう、なんでも話せる人が居るって知って安心した」
「美織さんは?」
「え?」
「美織さんはそういう人居る?」
皿を受け取って流しながら、みおりはちょっと複雑な顔をした。
「一応居るけど……なんでもは、話したくないかなあ」
「話したくなったらさ。もし俺でよかったら聞くよ」
その何気ない言葉に、みおりは微笑んだ。
「うん。話したくなったら、聞いて貰う。ありがとう」
そのあとは無言で食器をリレーして、共同作業は続くのだった。




