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第十話 お父さん

 薄暗い子ども部屋に、鳥の声が差し込んでいる。早朝。床には、三組の布団が並んでいた。里紗は横向きで布団に収まって、寝息を立てている。鈴は腹にだけ毛布をかけて、大の字になって仰向けだ。みおりはその隣で鈴の身体に手をかけたまま、まだぐっすりと眠っている。小さく、ドアの開く音がした。繋ぎにスカジャンの千穂が入ってくる。そうっと足音を忍ばせてみおりに近づき、顔を覗き込んだ。

「……すっぴんでも綺麗なのに」

 ぽつりと呟く。逞しい手の甲で頬に触れると、みおりが小さくうめいて身じろいだ。離れようとすると、みおりが千穂の手を握る。

「鈴……まだ早いから……寝なさい……」

 千穂が微笑んだ。起こさないようにゆっくりと手を離し、ささやく。

「行ってきます」

 再び、ドアの閉まる小さな音が部屋に響いた。荷物が満載のくたびれたハイエースを運転して、千穂は仕事に出かけていった。

    *    *    *

 みおりが階段を降りてリビングに入ると、バスルームの方からドライヤーの音が細く聞こえた。やがてパジャマを着てブラシを持った里紗が出てくる。

「おはよう!」

 朝から元気のいい笑顔に癒されて、笑みを返す。

「おはよう。朝シャン?」

「うん」

「若いっていいなあ」

 思わずしみじみともらすと、里紗が声を立てて笑った。

「美織さんだって若いじゃん」

「私はもう、早起きして朝シャンする元気ないよ」

「でもお兄ちゃんも所帯じみてるから、ちょうどいいのかも」

「え?」

 さらりと言われた言葉の意味が咄嗟に理解出来ずに訊き返してしまうと、里紗は首を振った。

「なんでもない。美織さんの分もご飯出来てるから、好きな時に食べて」

 ダイニングテーブルを見る里紗の視線を追うと、テーブルにはラップのかかった皿が二人分並んでいた。焼き鮭にきちんと小鉢に入った納豆に手作りの浅漬けがたっぷり、茶碗と汁椀が伏せてあって箸がそろえられている。みおりが作る目玉焼きとトーストだけの食事と違って、いかにも『朝食』という感じがした。

「凄い! 里紗ちゃんが作ったの?」

「ううん。お兄ちゃん。ご飯は主にお兄ちゃん担当。洗濯は主にあたしで、掃除と洗い物は手の空いてる方がやるの」

「あはは。共働きの夫婦みたい」

 ダイニングテーブルからテレビのリモコンを手に取って、ソファまで行って足も上げて座り、里紗が少し顔をしかめた。

「えー。お兄ちゃんみたいな男と結婚したくないなあ」

「なんで?」

 里紗はテレビをつけて、ブラシで髪を梳かす。

「優しいけど、ちょっと弱いから。優柔不断だし」

「ふうん?」

 里紗は慣れているのか、鏡も見ないで器用にポニーテールを作る。だが一筋髪の毛が落ちているのを見つけて、みおりはソファの後ろに回って髪に触れた。

「ここ、落ちてる。やってあげようか」

 途端、里紗の目が輝いて振り返る。

「美織さん。編み込みって出来る?」

「え、うん。出来るよ」

「やって貰ってもいい?」

 キラキラした目で頼まれて、みおりはちょっと噴き出した。

「うん。ブラシ貸して」

「はい」

 受け取って長い髪を梳かす。

「……綺麗な髪」

 嬉しくてたまらないといった風に、ひざを抱えて里紗が含み笑う。

「お母さんも、毎朝編み込みのポニーテールしてくれたし、綺麗な髪って言ってくれた」

「そう」

「鈴も懐いてるし、美織さんがお兄ちゃんの……」

 と、そこまで言って、言葉は途切れた。慌てたように言い募る。

「あ、いや、なんでもない」

「そう?」

 編み込みをしながら、みおりは微笑む。みおりも同じ気持ちだった。

 ――私が千穂くんの……。

    *    *    *

「凄ーい! 可愛い! 美織さん天才!」

 出来上がった編み込みのポニーテールを手鏡で色んな角度から見て、制服に着替えた里紗は大騒ぎだった。

「編み込みして貰ったの、五年ぶり!」

 そして満面の笑みでみおりと向かい合って両手を繋ぐと、無邪気に腕をバウンドさせる。

「美織さん大好き!」

「私も里紗ちゃん好きだよ」

 若さというより幼さに翻弄されながらも、一緒になってみおりも嬉しくなる。その時、ダイニングテーブルに伏せてあったスマホのアラームが鳴った。

「あ、やば。鈴起こさなきゃ」

 リビングを出るのにみおりも着いていく。

「鈴くん、幼稚園とか行ってるの?」

「うん。保育園。近所にあるんだ。あたしが送り迎えしてる」

 階段を上がって子ども部屋に入りながら、里紗が大きな声を出した。

「鈴! 起きる時間だよ!」

 だが鈴は、短くうなっただけだった。里紗はすぐに異変に気づく。

「鈴?」

 呼吸が荒い。里紗が鈴の前髪を上げて、額に触れた。熱い。

「やば……美織さん、どうしよう」

 弟の世話に慣れていても、まだ中学三年生だ。思わず泣きそうな顔でみおりの顔を見上げてしまう。鈴が、ヒューヒューと苦しそうに呼吸していた。

    *    *    *

 その頃千穂は、ビルの屋上で窓ガラス清掃用のフックにロープを巻き結びにし、何度も力をかけて安全を確かめていた。地上に向かってロープを垂らし頼りないブランコに座って壁面を蹴る。慣れた作業だったが、屋上からブランコ一つに体重を預け、降下し始める瞬間が今でも一番緊張した。ヘルメットを上げて腰のホルスターからシャンパーを取り、洗剤入りのバケツに浸けてから窓ガラスに塗りつける。シャンパーをホルスターに戻して同じホルスターからスクイジーを取り、独特の動きで素早く左右に振って水を切っていく。

 その時、胸ポケットの携帯が鳴った。高所では声が届かず他の作業員とやり取りする事もあるため、携帯は仕事中でもチェックする。一枚仕上げてスクイジーをホルスターに戻したタイミングで胸ポケットから携帯を取り出すと、外側のディスプレイには意外な名前が表示されていた。

「美織さん……?」

 片手でロープを持ち、片手で携帯を開いてヘルメット越しに耳に当てる。

「もしもし」

『あ、千穂くん。今大丈夫?』

「うん。なんかあった?」

 携帯の向こうのみおりは、混雑する総合病院の待ち合い所の長椅子に、鈴を抱いて座っていた。二人ともマスクをし、鈴は額に冷却シートを貼っている。鈴はパジャマから、なんとか楽な部屋着に着替えさせジャンパーを羽織っていた。

『鈴くんが熱出しちゃって』

「えっ」

『近所の小児科がお休みの日だったから、総合病院の発熱外来に来てるの』

「里紗は?」

『里紗ちゃんは平熱だったから、普通に学校行って貰った』

「うわ……マジでごめん」

 目を閉じて天を仰ぐようにして、千穂は申し訳なさそうな声を出す。

『ううん、私は大丈夫だけど、知らせておこうと思って』 

「遠かったろ。タクシー使った?」

『あ……うん』

「今日も早めに終わる現場だから、車で迎えに行くよ」

『分かった。でも無理しないでね。帰りもタクシーでも大丈夫だから』

「うん。仕事終わったらまた連絡する。じゃ」

 みおりはその言葉を受けて、終話ボタンを押す。鈴がひざの上で「お姉ちゃん、苦しい」とグズって泣き始め、「もうすぐだから。お姉ちゃんと一緒に頑張ろ」としきりに頭を撫でた。

 千穂は切れた携帯を胸ポケットにしまいかけ、もう一度開いてボタンをプッシュする。左を見て耳に当てると、着信音が聞こえた。数本分離れたラインのほぼ同じ高さに、小手もブランコに座っていた。目が合って、スクイジーをホルスターに収め、胸ポケットからスマホを出して通話が繋がる。

『どうした?』

「すみません。俺今日、車で直帰してもいいすか? 鈴が熱出しちゃって」

『おう。そりゃ大変だな。里紗ちゃんがみてるのか?』

 千穂はよくも悪くも嘘がつけない。

「あ、いや」

 思わず否定してしまう。千穂の家の事情を知っている小手は、その返事に邪気なく笑った。

『そうか。彼女か』

「だから、そんなんじゃありませんって」

 ムキになると、千穂の無器用さを知っている小手は、適当に答えて通話を終えた。

『じゃあ俺、電車で帰るから。お大事に』

「ありがとうございます」

 胸ポケットにスマホをしまいスクイジーを手に仕事を再開し始める小手から視線を外し、携帯を見詰めた。

「……そんなんじゃねえし」

 呟いてから千穂も携帯をしまって、カラビナを調節して下の階に降りていった。

    *    *    *

 病院のベッドで静かに寝息を立てている鈴の汗で湿った前髪を撫でてから、みおりは小さな右手を握った。左腕に繋がった点滴のチューブを見上げると、ゆったりとした感覚で薬液が一滴ずつ落ちている。

 その病室での平穏さとは対照的に、千穂は後ろ向き駐車で車を止め、ハイエースの運転席から降り急いで総合病院の自動ドアをくぐったところだった。エレベーターに向かいながら携帯を取り出して、最新のショートメールを見る。

『今、五一七号室で点滴受けてる』

 エレベーターの『上』ボタンを押すとすぐに扉が開き、

「五階……」

 と呟きながら階数ボタンを押して『閉』ボタンを連打する。五階に着くまでの間、携帯を胸ポケットに戻してデジタル表示を見詰めた。五階に着くと『開』ボタンを連打し、ナースステーションを素通りしようとして、スクラブを着た女性看護師に止められる。

「ご面会ですか?」

「あの、佐藤鈴の家族です。点滴してるって」

 看護師はすぐに理解した。

「あ、佐藤鈴くん。もうすぐ終わりますよ。決まりなので、こちらに署名してください」

「はい」

 ボールペンを受け取って面会帳に殴り書きで署名する。二~三歩急ぎ、もどかしくて小走りになると、後ろからまた声がかかった。

「危ないので走らないでください!」

 千穂は急ぎ足に戻って、左右に続く病室の番号プレートを確認していく。番号が繰り上がっていってようやく五一七号室に着き、開け放たれた入り口を入る前に思わず口にしていた。

「鈴!」

「シーッ」

 一番手前のベッドでよく眠る鈴の枕元に、昨日と同じ服装にラウンド眼鏡のみおりが座って振り返り唇に人差し指を立てていた。他のベッドは仕切りカーテンが閉まっている。

「あっ」

 千穂は口元を手で覆う。みおりは握っていた手をほどいて、枕元の椅子を示して千穂に譲った。ハッとしてベッドに近づき、鈴の顔を覗き込みながらそうっと座る。声をひそめて会話した。

「なかなか順番が来なくて苦しがってたんだけど、点滴し始めたらようやく眠って。三時間くらいかな」

「コロナ?」

「ううん。コロナもインフルも陰性」

「よかった」

 千穂が心底ほっとした声を出す。

「里沙ちゃんが言ってたじゃない。最近寝不足だったって。そこからくる発熱だって事だったから、苦しがってるし眠れるように点滴して貰ったの。勝手にごめんね」

 千穂はぐっすり眠っている鈴の頬に手の甲で触れて、火照っているが高熱というほどでもないのに安心する。

「いや。ありがとう、美織さん」

 そして前髪を撫でて、冷却シートに気がついた。

「これ、美織さんが?」

「あ、うん。気にしないで」

 リュックを開けて中から冷却シートの箱を出し、ベッドを挟み千穂の向かい側に回って、みおりは手際よく貼り替えた。千穂がほうっと息を吐く。

「ほんっ……とありがとう、美織さん。マジ助かった」

「どういたしまして。困った時はお互い様」

 点滴のパックを見上げて、

「あ、もう終わる」

 と、ナースコールを押した。

『どうしましたか?』

「点滴終わりましたー」

『はい、お待ちくださーい』

 そのスムーズさが千穂はなんだか不思議で、素朴な疑問符を上げる。

「あれ? 美織さんって一人っ子じゃなかったっけ」

「うん。私ね、小さい頃身体が弱かったの。よく熱出して、点滴打って貰った。全部お母さんがやってくれた記憶」

「そうなんだ」

 その時、先ほど千穂の対応をした看護師がやってきた。

「失礼します。針外しますねー」

「お願いします」

 みおりが言って場所を空けると、看護師が鈴の左腕の点滴針を抜いて止血シールを貼りつけた。腕のいい看護師らしく、鈴は眠ったままだ。みおりに話しかける。

「よく眠ってますね」

「はい」

「でも申し訳ないんですが、点滴が終わったらベッドを空けていただく決まりで」

「あ、はい。そうっと抱いていきます」

 みおりが腕を伸ばしかけるが、

「あ、俺が」

 と千穂が抱き上げた。鈴は緩慢に覚醒したが、慣れた兄の汗の匂いに安心したのか、また目を閉じた。

「ありがとうございました」

 みおりが鈴の上着と靴を手に礼を言って、千穂と二人で頭を下げる。看護師は笑顔で二人を送り出した。

「心配なのは分かりますが、病院の廊下は走らないでくださいね、お父さん。お大事に」

 一瞬あって、千穂が理解して自分を指差す。

「おと……」

 話がややこしくなる前に、みおりが千穂を追い立てた。

「あっ、すみません。ありがとうございました!」

「はい、お母さんも気をつけて」

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