ゴースト聖女は今日までです〜お父様お義母さま、そして偽聖女の妹様、さようなら。私は魔神の妻になります〜
深い闇色の獣を青い光の柱が押さえつけた。
うめき声が響いて、獣が暴れ回る。獣の発する瘴気に触れた地面は紫に爛れ、腐ったような臭いを放ち始めた。
見るも悍ましく、この世の終わりを連想させるような獣。
しかしその獣も、獣の穢した地面も、光に触れた端から浄化される。
次第に光は球へと姿を変えて、獣を包み込んだ。
その檻を破ろうと、獣は体当たりを繰り返すが、そのたびに触れた箇所が浄化され、チリとなって消える。
球は徐々に小さくなっていって、そして、獣と共に消えた。
その獣は、本来ならば人の身で抗うことの不可能な存在。それを滅した少女を、人々は聖女と呼んで讃えた。
石畳にガタゴトと鳴る馬車が、ゆっくりと停止した。玄関先のその音を聞きつけて、屋敷の使用人たちは手を止め、出迎えに走る。
家令もメイドも、ずらりと並んで皆馬車の方へ首を垂れる中、まず、太陽のような金色の髪を持った少女が降りてきた。
「はぁ、ようやく着いた。どうしていつもいつも同じ馬車に乗らなきゃいけないのよ……!」
吊り上がった眦の、猫のような顔立ちだ。赤い瞳は強きな光を放っていて、男好きのしそうな可愛らしい容姿をしている。
彼女は出迎えた使用人たちには目もくれず、甲高い声で苛立たしげな言葉を漏らしていた。
「申し訳ありません、カトレア様」
その透き通った、柔らかな声は、カトレアの背後から聞こえる。少し遅れて姿を見せたのは、美しい銀色の髪を持った儚げな少女だった。
馬車のステップを使ってゆっくりと降りた彼女は、カトレアよりもいくつか年上に見える。瞳の色は青く、顔立ちもカトレアと違って美人系だ。透き通った肌にはシミひとつなく、長い髪とその神秘的な雰囲気もあって、まるで月の精かのような印象を見るものに与えた。
同じような白い法衣を纏っていても、二人はあまり似ていない。唯一、鼻のあたりだけはそっくりで、彼女たちが姉妹だという事実を納得させる。
「謝るんだったらお姉様は歩いたら良いじゃない。それか、ついて来ないで! だいたいお姉様みたいなノロマ――」
「まあそういうな、カトレア」
「お父様っ!」
諫めた声の主は姉妹とよく似た鼻の、壮年の男だ。茶髪と茶色の瞳で、年相応のシワが刻まれている。
メイザーク公爵の名で呼ばれる彼にカトレアは、不機嫌な顔色をひっこめ、花のような笑みを向けた。
「ただいま戻りました、お父様!」
「ああ、おかえり、カトレア」
メイザーク公爵は飛び込んできた娘へ優しげに微笑み、受け止める。雲一つない空からの日差しと相まって、絵に描いたような光景だ。
「お父様、どうしてお姉様をついてこさせるんですか! 聖女としての仕事は、私一人で十分です!」
わざとらしく頬を膨らませるカトレアに、メイザーク公爵は困った笑みを浮かべる。
「アリシアはアレでも長女だからな。公爵家としての体面というやつだよ」
「それは、何度も聞きました……」
「ともかく、着替えてきなさい。お母さんもお前の帰りを待っていたから、顔も出してやるといい」
カトレアはしぶしぶ頷いて、屋敷の奥へ消える。残ったのは、アリシアと、表情を消したメイザーク公爵、そして使用人たちだ。
「問題はなかったか」
「はい」
「ならばいい。部屋に戻れ」
おかえりの一言もなく踵を返した父に、アリシアは気づかれないようため息を漏らす。昔はこうでなかったのに、と。
「あなたたちも仕事に戻っていいわ。出迎えありがとう」
アリシアは使用人に声をかけたあと、屋敷ではなく、庭の離れの方に向かう。カトレアが生まれて以来の彼女の住まいだ。
使用人の何人かも同じ方向に歩き出す。
「あなたたちはこれから休憩?」
「はい、そうです」
「そう、お疲れ様」
メイザーク公爵家の庭は、国内でも国王に次ぐ権力を持つだけあって広大だ。公爵家のものは馬車を利用することすらあるほどで、カトレアが生まれる前、まだアリシアの生母が生きていた頃は彼女もそうして移動していた。
その頃は父もアリシアへ、カトレアへ向けていたような笑みを見せていたし、アリシアも今よりずっと屈託なく笑っていた。
状況が変わったのは、アリシアの母が事故で死に、カトレアの母ヘレナが正室として迎えられてからだ。
アリシアも、メイザーク公爵がヘレナを迎えたことには反対していない。公爵家の責務として、後継を作るために必要なことだ。
特にメイザーク家の場合、かつて世界を脅かしたという魔神の封印を守る役目がある。
その封印に唯一干渉できるメイザークの血を絶やさないためにも、封印を維持できる強い力を保ち続けるためにも、魔術師として高名な家系の血を持ったヘレナを迎えない選択肢は無かった。
「あら、あなた、その手はどうしたの?」
「えっと、これは、さっき熱湯を手にこぼしてしまいまして……」
アリシアはメイドの爛れた手を見て、顔を顰める。真っ赤に腫れた彼女の肌は、誰の目にも痛々しげだ。
「貸しなさい」
おずおずと差し出された火傷へアリシアが手をかざすと、柔らかな光が溢れた。清らかな、見ているだけでも心が洗われそうな青色の光だ。
その光に見惚れていたメイドは、違和感に気がついて、目を見開く。痛みが、消えていた。
光が収まって表れた彼女の手に、火傷の痕はなく、白い素肌だけが見える。
「あ、ありがとうございます!」
「気にしなくていいのよ」
そのまま歩き出したアリシアへ続きながら、メイドは思う。
――どうして、アリシア様が聖女でないのかしら……?
口にすれば、首を刎ねられても仕方のないことだ。しかしそう思わずにはいられない。
心も、振る舞いも、カトレアよりずっと聖女に相応しく見える。
それなのに本邸からは追い出され、使用人が暮らす離れへ押し込められているのはなぜなのか。
メイドとしては気にする必要のないことなのに、どうしても、覚えた不満を忘れることができなかった。
アリシアが自室に戻り、仕事用のローブから着替えると、ドアを叩く音が聞こえた。
「入りなさい」
「失礼します。お食事をお持ちしました」
白髪の彼は、アリシアがまだ一人娘だったころからメイザーク公爵家に仕えている家令だ。爺やと呼んでいる彼がこうしてアリシアの食事を持ってきてくれたということは、今は休憩中なのだろう。
「ありがとう。……今日はデザートがあるのね」
「ええ。旦那様がたには秘密ですぞ」
「もちろんよ。……ありがとう」
家族と食卓を囲んだのは、いつが最後だっただろうかと、アリシアは本邸のある方へ寂しげな目を向ける。
ヘレナに本邸を追い出されて以来だから、最後の記憶から、もう十四年近くが経っていた。
「……僭越ながら、アリシア様、この爺も、こちらで食事をいただいてもよろしいでしょうか」
「そう、ね。ええ、偶には良いでしょう」
「感謝いたします。いやはや、この時間は一人で食べねばならず、寂しく思っていたところなのです」
まったく、嘘が下手だと、アリシアは笑った。
その日もアリシアとカトレアは揃って、闇の獣の滅却に向かっていた。
馬車の中にはいつも通り、二人だけ。白い法衣に身を包んでいるのも、カトレアが不機嫌なのもいつも通りだ。
「もうすぐ封魔の神儀があるっていうのに、どうしてこうも頻繁に闇の獣が現れるのよ!」
妹の言葉にアリシアは答えない。答えを求められているわけではないから、答えたら、そばに立て掛けた豪奢な杖で殴られるのだ。
ただの八つ当たりで、できたアザも後で治せばいいが、それでも痛いのはアリシアだって嫌だ。
「愚鈍なお姉様と同じ空気を吸い続けていないといけないし、本当に最悪っ!」
八つ当たりの口実を探すような言葉ばかりが聞こえる中、馬車は森の中を進み続ける。次第に陰鬱な空気が満ちてきて、車を牽く馬の足が鈍りはじめた。
箱馬車の小窓からは、その様子がいくらか伺えた。
「止めて」
「ちょっと、何勝手にしてるのよ。まだ獣の声も聞こえないじゃない!」
御者はどうしていいか分からないらしい。ゆっくりとスピードを落としてはいるが、完全に止まる様子はない。
「馬が怯えきってます。帰りの足が無くなってもいいのなら、このまま進みましょう」
「っ……! 止めなさい!」
不満を顔に出してはいるが、帰路の長い距離を歩くのはカトレアも歓迎しない。杖を引ったくるようにして取り、完全に停止した馬車から降りる。
カトレアは現場に向かうまでもブツブツと呟き続けていたが、その暴力がアリシアに向けられることは無い。
「――くそっ、聖女様はまだかっ! 矢が尽きるぞっ……!」
風に乗ってそんな声が届いた。時折唸り声のようなものも聞こえる。
肌に触れる空気は湿っていて、周囲の木々も枯れ葉が目立つようになっている。
「急ぎましょう、カトレア様」
「命令しないでよ! 走ったら汗かいちゃうじゃない!」
アリシアは唇を噛みたくなるのを隠して、カトレアの気づかない程度に少しずつ足を早める。
姉より前を歩きたい妹は、それだけで無意識のうちに足を早めてくれた。
ようやく見えた闇の獣は、相変わらずこの世ものとは思えないような悍ましい色の体をうねらせ、暴れ回っていた。
今回の個体は細身の四足獣の姿をしていて、獰猛な牙も見える。
周囲の騎士たちが必死に矢を放っていたが、獣は鬱陶しそうにするばかりで、ダメージは与えられていない。
それでもどうにか被害を抑えられているのは、以前祈りを込めた大楯を上手く使っているからだ。
「あなた達っ、私が来たわよ!」
「おおっ、聖女様っ!」
先ほどまでの不機嫌な様子はどこにやったのか。意気揚々と声を上げたカトレアに、騎士たちが歓声をあげる。
得意気にする彼女へ、闇の獣が紫色の双眸を向けた。
「見てなさいっ!」
カトレアが杖を振るうと、青の光が淡く灯って闇の獣へ向かう。
蛍火のようなそれに獣はニタリと笑みを浮かべ、カタリナへ己の凶爪を振り下ろした。
――今っ!
爪が蛍火を切り裂く寸前、アリシアは自身の、メイザークの血に宿った力を行使する。
カトレアのそれとは比べ物にもならないほどの閃光が迸り、巨大な壁を形作った。
壁に触れた獣の爪はバチバチと一瞬ばかり拮抗したのち、砂となって崩れ去る。
――先の方だけ……。この獣、今までのよりずっと強い……。
「まだまだ行くわよ! それっ!」
今度はカトレアの声に合わせて、アリシアも術を発動する。生み出されたのは、天から伸びる青の柱だ。
それは獣を押し潰し、地面へと縫い止めた。
攻撃力と拘束力を併せ持ったこれをカトレアは好んで使おうとする。
たしかに威力は高く派手だが、効率という意味では優秀とは言い難い術。
分かっていても、アリシアは合わせなくてはならない。
――耐えられてる……。出力を上げる? いえ、それだと周りの人たちが……。
悩む間に獣は少しずつカトレアへ近づく。彼女は分かっていないようで、喜悦の笑みを浮かべながら獣に赤い視線を向けていた。
「カトレア! 離れなさい!」
「はぁっ? ちゃんと様をつけなさいよ! 命令までしてっ!」
苛立たしげな声と視線がアリシアに向いた。カトレアの視界から獣が消える。
その一瞬で、獣が動いた。
四足獣の俊敏な動きで太陽のような金髪は飛びかかり、無事な方の爪を向ける。
――合わせてる余裕はないっ……!
「きゃぁっ!」
急いで光の壁を生み出すが、僅かに遅かった。
爪の先がカトレアの杖を持った腕を掠める。
どうにかそれ以上を許しはしなかったが、怪我をさせてしまったことは確かだ。
――いえ、それよりも、今はあの獣を!
「もうっ、許さないっ!」
怒気を顕にしたカトレアに合わせて力を使い、獣を球状の結界に閉じ込める。
その球を徐々に縮めていくが、やはり抵抗が強く押し切れない。
――仕方ない。気づかれないように……。
結界のバチバチと光るのに合わせて、アリシアはもう一つ術を発動した。いくつもの光の矢を生み出す術だ。
隠蔽のために数は控えめ。しかし顔面を狙われては、獣もたまらない。
うめき声を上げて怯む獣。抵抗が確かに弱まって、球の収縮が早まる。
「これで、終わりよっ!」
やがて獣は、青い結界と共に潰えて消えた。周囲に満ちていた陰湿な空気も霧散して、森がいくらか明るくなったように感じさせる。
「うぉぉおおっ! さすが聖女カトレア様だ!」
「あの化け物を本当に滅却するなんて!」
騎士たちの歓声に胸を張るカトレアだが、その腕からはダラダラと黒ずんだ血が流れている。今に早く治せと喚くだろうから、傷は残らない。
しかし法衣も遠目に分かるほど染まっており、隠すことはできないだろう。
――お父様に叱られるわね……。
アリシアは歓喜に震える戦場で、ただ一人、重たい息を吐いた。
屋敷に戻ったアリシアは、父メイザーク公爵に呼ばれ、その執務室に来た。未だ着替えは済んでおらず、白い法衣姿のままだ。
質の良い丁度で揃えられた執務室には、机に向かい、氷のような視線でアリシアを見つめる公爵の他、顔を真っ赤にした金髪の婦人の姿があった。
「呼ばれた理由は分かっているな」
「はい。申し訳ありません。お父様、ヘレナお義母様」
「あなた如きが母と呼ぶなと言っているでしょう! あなたのせいで、カトレアはっ……!」
乾いた音が響いた。アリシアは頬に熱を感じたが、抑えることは許されない。
「何よ、その目はっ!」
再び同じ音が響く。今度は火の魔術を使ったために、肉の焼けるような匂いがして、アリシアの頬が真っ赤に腫れ上がる。
一瞬、青い目が父に縋り付くように向けられた。しかし彼は応えることはなく、ただ黙って眼前の光景を眺めている。
「言い訳もせず、泣きもしない。可愛げのないやつだ」
だから私がどうでも良くなったのか、と荒げそうになった声は、アリシアの胸の深いところに沈められる。
「明後日の儀式で失敗するとどうなるか、分かっているな」
「はい。今日のような失敗は、いたしません」
アリシアは深々と頭を下げ、傷を治しながら離れの自室へ帰った。
儀式の日は、アリシアは一人で馬車に乗った。カトレアはもう一つのより豪華な馬車に、両親と共に乗っている。
国の重大な行事である封魔の神儀には、公爵である彼女の父やヘレナも同席するためだ。
いつもの法衣に、いつもより少しだけ華やかなアクセサリーが増えた格好。今日のようなよく晴れた日の、月明かりに照らされたなら、ますますアリシアを神秘的に見せただろう。
いずれも儀式の効果を高めるための飾りだが、法衣の白もあってまるで花嫁のような華やかな装いになっていた。
――やっぱり、瘴気が濃い気がする……。
封印の地に来るのは初めてではない。
メイザーク家はその役目として、この地に眠る魔神の封印を保つのが役目だ。
幼い頃にも何度か訪れたことがあった。
――初めて来たのは、もう十五年前かしら?
アリシアが三歳の時だ。それは前回の儀式の日であり、彼女の生母が命を落とした日でもあった。
連日に渡る闇の獣の出現で疲弊した彼女は、儀式の負荷に耐えきれなかったのだ。
アリシアの母自身が望んで行われた儀式だ。誰かを恨むことはなかった。ただ、今でも覚えているほどに悲しくて、一晩中泣き続けた。
――あの時は、お父様も一緒に泣いてくれたわね……。
泣く父に抱きしめられる感覚も、アリシアは今でも覚えている。
メイザーク公爵も、ヘレナが来てすぐに今のように冷たくなったわけではなかった。
カトレアが生まれてヘレナの顔色を窺うようにはなったが、それでもアリシアのことを気にかけていた。
――いつからかしら。お父様が、私に笑みを見せてくださらなくなったのは……。
今ではヘレナに関係なく、カトレアばかりに愛を向けている。
もし、封魔の神儀に失敗すれば、次に行われるのは血継の儀だ。
アリシアの力をカトレアに渡す儀式。成功率は高くないが、失敗しても、アリシアが力を失うだけ。
どうせ次の儀式は十五年後だから、公爵たちに然程の憂いはない。せいぜい、しばらく騎士の犠牲が増えるだけだ。
何にせよ、封魔の神儀は、成功させなければいけない。失敗すれば、魔神の復活が早まってしまう。
今すぐに、ということは無いと言われているし、十五年後、もう一度儀式ができるだけの力が祭儀場に溜まるまでは保つだろう。
少なくともメイザーク公爵たちはそう思っているから、今回の儀式の成否はあくまでカトレアの体面の問題だ。
だが、アリシアは嫌な予感がしていた。
ここ暫く、闇の獣の出現頻度が高まっているし、2日前に現れたような妙に強力な個体も増えた。
それに、どうも、祭儀場、つまりは魔神の封印場所に近づくほど瘴気が濃くなっている。
もしかしたら、とアリシアに思わせるには十分過ぎた。
――やっぱり、濃い……。
祭儀場についた最初の感想がそれだった。
大きな円形に作られた石の舞台は、小さなコロシアムのように周囲を段が囲んでいる。この段に大勢の魔術師や聖職者が並び、呪文を紡いで儀式を補助することになる。
アリシアもその聖職者の列に加わり、中央の舞台で儀式を行うカトレアを助けることになっていた。
――この瘴気の中、遠隔で儀式をしないといけないのね……。
別の呪文を唱えながら本来カトレアが行うはずの術を紡ぎ、神を封じる儀式を進めるというだけでも離れ業の類だ。
加えて、術に干渉してしまいそうな瘴気が立ち込めている。
気を引き締めなければ、本当に失敗してしまう可能性が高かった。
別の馬車から公爵とヘレナ、そしてカトレアが降りてくる。カトレアの法衣もいつもより飾り付けられていて、アリシアのそれよりもずっと華美だった。
周囲にアリシアを含めた面々が並び、舞台の中央にカトレアが立つ。
公爵とヘレナは、最上段に上って儀式の様子を見守るようだった。
「これより、封魔の神儀を執り行う。詠唱開始!」
舞台を囲んだ聖職者が、魔術師が、一斉に呪文を唱える。さながら合唱のように紡がれる詠唱。アリシアもそれに混ざりながら、舞台上のカトレアの動きに合わせてメイザーク家の血の力を操る。
今のところは順調だ。補助の人員を前回よりも増やしたからか、アリシアの思っていたほどの負荷は無い。
ただ、封印の強化は進んでいるはずなのに、瘴気がどんどん濃くなっているのが気になった。
儀式も半ばに差し掛かった。間も無く、力を注ぎ込むために一瞬だけ封印の結界を緩める工程が入る。
ここが一番の鬼門。アリシアはいっそう集中して、青く光る力を操る。
「ほう、此度は面白いことをしておるな」
男の声だった。
すぐ近くから聞こえたような、遠くからだったような。呪文の斉唱の中にあってはっきり聞こえた不思議な声の主は、アリシアの視界には映らない。
――誰、誰なの?
「我はサタナエリエス。貴様ら人間が魔神と呼ぶ存在よ」
汗の噴き出すのを感じた。声が上擦りそうになるのをどうにか抑えて、呪文を紡ぎ続ける。
アリシア以外に同じ声を聞いている人間はいないようで、誰も彼もが変わらず儀式を続けていた。
嫌な予感が、当たってしまった。魔神は復活しつつあったのだ。
つまり、ここで失敗すれば、魔神サタナエリエスは再び世に解き放たれてしまう。
絶対に、失敗できない。
「ほぅ、奇特なことよ。それだけの力を持ちながら、己の功績を全て腹違いの妹のものとしているとは」
ズキリと胸が痛んだ。少し息が苦しくなる。
――それでも、みんなが守れるなら……。
「本当にそうか? 貴様が得るはずだった賞賛も、両親からの愛も、そこの女は全て奪い去ったのだぞ? それでいて一切貴様に顧みることなく、邪険に扱っている」
動悸した。耳を塞ごうにも、儀式中にそんなことはできないし、仮にできたとしても魔神の声は変わらず聞こえるだろう。
「勿体のないことだ。人の身に余るほどの力と、純白の魂を持ちながら、そのような不憫な立場に甘んじている。本当に、勿体のないことだ」
――やめて! 言わないで!
いくらアリシアでも、家族の自身の扱いに思うところがないはずがないのだ。父から向けられる無機物のような目に、魔術まで使ってされる折檻に、まだ二十歳にも満たない彼女が傷付かないわけがない。
彼女の力でも治せないその傷を、ずっと隠してきた。心を読みそれを暴く魔神の所業は、悪魔の囁きに等しい。
「我は貴様が気に入った。封印を解き、人を捨てて我が妻となれ。我が、貴様を自由にしてやろう」
――そんなの、許されるわけないじゃない!
「誰にだ? 世間にか? 信ずる神にか? それとも、貴様を利用することしか考えぬ、父にか?」
言い返せなかった。答えられなかった。
咄嗟に返した言葉と、魔神の問いに、気がついてしまったのだ。自分が、魔神を解き放つことにさほど抵抗を感じていないことに。
「この世にはもう、お前に何かを与える者はいない。お前に与えられる者ばかりだ。そうやって、死ぬまで、与え続けるつもりか?」
我ならば、与えてやれるぞ。そう続けられた言葉に、アリシアの心は揺らいだ。
――あなたは、私に笑いかけてくれるの?
「ふっ、もちろんだ」
――そう……。
アリシアの操る光が爆ぜた。それまで渦を描き舞台に吸い込まれていた青が周囲に広がり、衝撃波となる。
「これが私の答えよ、サタナエリエス」
「いきなり神を呼び捨てるか。いいな、ますます気に入った」
騒めく観衆の中、石舞台が割れた。大地の大穴が現れて、大量の蒸気が溢れ出す。
「なっ、なんだ……⁉︎ 何をしている、アリシア!」
公爵が呼ぶが、彼女は見向きもしない。
その彼女を瘴気の風がさらい、空へと連れ去る。
触れたもの全てを蝕むはずのそれは、しかしアリシアを傷つけることはない。代わりに白い法衣を黒く染め、顕現した魔神の腕へと収めた。
「思ったよりずっと若いのね」
「戯け。数万年は存在しておるわ」
魔神サタナエリエスは、黒い短髪に紫色の瞳を持った美しい青年の姿をしていた。側頭部から左右に一本ずつ太い角を生やしている以外は、人と変わらない。
黒いコートを着た白い肌の美青年を、人間たちが信じ難いものを見る表情で見上げる。
「な、なっ……」
間抜けに口を広げ、震える公爵は、すでにその正体に気づいていた。
「出迎えご苦労、人間たちよ。我は魔神サタナエリエス。千の時を経て、この地に蘇った」
人間たちの表情が、明確な恐怖に染まった。本能ばかりで理解していた事実を、頭でも理解してしまったのだ。
「さて、メイザーク公爵、いや、義父上と呼んだ方がよろしいかな?」
「なんだ、と?」
「其方の娘、たしかに貰い受けた。我が妻として、生涯愛すると誓おう」
公爵は何も言えない。ワナワナと口を振るわせるばかりだ。
普段ならばアリシアを睨みつけるヘレナやカタリナも震えるばかり。
そんな元家族を、アリシアは冷たい青の目で見下ろす。
「さて、我が愛する妻よ、アリシアよ。手始めに妹殿やご両親を殺してしまおうか?」
闇色の風が吹き荒れる中、人間たちの間に緊張が奔る。
「そう、ね……。いえ、生かしてあげましょう。他の者たちは殺してあげてもかまわないけれど、彼らには、生き地獄を味わってもらわないと」
「ふはは、良いだろう!」
サタナエリエスが腕を振るうと、雷が走り、大地を焦がす。たった一度のそれで、メイザークの性を持つ者以外は全て、物言わぬ骸と化した。
「あ、あんたなんて……!」
持ち前の勝ち気からか、カトレアが青い光を飛ばした。しかし蛍のような灯火だ。
魔神は鼻で笑って、ふっと一息吹きかける。それだけで、カトレアの光は掻き消える。
カトレアは目を見開き、眼前で起きた信じられない光景に絶句していた。
「己が御輿の人形と知らぬとは、哀れな娘だ」
「ど、どういうことよ……!」
「貴様がこれまで聖女としてあれたのは、全て愚鈍と罵っていたアリシアのおかげということだ。疑うならば、そこの両親に聞くが良い」
愕然とするカトレアに、サタナエリエスはもう興味がない。
「さて、行くか、アリシアよ」
「ええ。どこかの町でも滅ぼすの?」
「それもいい。新婚旅行だ」
アリシアも、もう元家族のことはどうでも良かった。それよりも、サタナエリエスとの今後が楽しみだった。
もう何も、彼女を縛らない。自由なのだ。
「ねぇ、サタナエリエス」
「なんだ」
「空って、気持ちいいわね」
「ふっ、そうだな」
アリシアは、その日、十数年ぶりに家族と笑った。
魔神を復活させてしまったメイザーク公爵家はその責を問われ、廃嫡となった。それをアリシアが聞いたのは、サタナエリエスと旅立って一年が経った頃だ。
聖女だと思われているカトレアは民や貴族たちから石を投げられるようになり、心身共に衰弱して、最期は自ら川に飛び込んだらしい。
その後どうなったかは誰も知らないが、まず、生きてはいないだろうと囁かれている。
メイザーク公爵は当然、当主として絞首刑となり、ヘレナは実家に帰ることもできずに市井へ降った。今は、娼婦として暮らしている。
残されて困ったのは、公爵家の使用人たちだった。曰く付きの家に仕えていた彼らを受け入れる所はなく、このまま餓死にすると思われていた。
しかし今、彼らは全く別の国で、老年の元家令を主人とした商会を営んでいる。売れ行きは好調。わずか数年で、国内に知らない者のいない大商会に成長した。
仕入れ先を知る者はなく、時折出入りする銀髪の少女が関わっているのではないかと噂されるばかりだ。
数十年後、すっかり衰退した元メイザーク公爵領に、旅の吟遊詩人が一人、やってきた。
いつものように酒場に立ち、彼は謡う。
――ああ、心優しき月の精。夜闇の主と空を舞う。月夜の笑みは空の宝石。誰もが羨む、祝福の光。
されど決して惑うことなかれ。銀の光を捕えんと、伸ばした腕は夜闇が掴む。待つべき未来は、生き世の地獄……。
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