私の代わりによろしく頼むと言われましたので
私、イルヴィニア・バーントシェイドは公爵家に生まれ、将来王族に嫁ぐ予定の娘でした。
ところがもしかしたら、その未来はなくなるのではないかしら……? と思い始めたのは、異世界から聖女がやってきてからの事です。
聖女が住まう世界には身分というものは存在していないようで、彼女はこちらの世界の平民みたいなもの、と言っておりました。
住む世界が異なるから、こちらの礼儀などを知らなくても仕方のない部分もあったとは思いますが、わかっていても聖女の振る舞いはこちらのちょっと礼儀正しい平民とそこまで変わらないものであった……と思っております。
異世界からの聖女。
古文書や文献に残されてはいるけれど、そう何度もお目にかかれるものではありません。
まさか自分が生きている間に聖女を見る事になろうとは……と思う者は大勢おりました。
マークス殿下もその一人です。
こちらの世界の事など何もわからないだろうから、と殿下は聖女を伴いあれこれ教えているようではありました。
聖女もまた、殿下と共に居る事を良しとしているようでした。
何も知らない者が見れば、仲睦まじいお二人。
王族と聖女。
肩書から見てもお似合いに思えてきます。まるで物語のようで。
殿下は聖女に私の事を紹介しました。
婚約者だ、と言っていたので今のところはそのつもりなのだなと思いました。納得とか、安堵とか、そういう感情はなかったです。ただ漠然と、あぁまだそうなのだな、としか。
聖女は私の事を見て、何やら納得したかのようでした。
「成程、悪役令嬢ポジションってことね」
そうして呟いた言葉は、ちょっと意味がわかりませんでした。
令嬢、はわかりますがその前にあった悪役、とは……?
何か、悪事に手を染めるのでしょうか……?
「彼女は異世界よりの客人だ。こちらの世界の事はわからない事ばかりだと思う。
そして私もずっと彼女と共にいられるわけではない。
イルヴィニア、私の代わりに彼女を頼むよ」
「かしこまりました」
確かに殿下はお忙しい身。
ずっと聖女といるわけにもいきません。
私は王子妃教育もほとんど終わりつつあるので、多少時間に余裕はあります。
異世界から聖女がやって来た、という話は広まっていても、皆が皆聖女の顔を知っているわけでもありませんから、近くに誰かしら彼女の保証人になれる人がいる方が良い事もわかっております。
一介の貴族よりも、殿下やその婚約者である私の方が顔も広く知られておりますし、そういう意味では適任なのでしょう。
聖女は最初私の事を何やら警戒している様子でしたが、まぁ、見知らぬ世界に来て見知らぬ相手に最初から全幅の信頼を寄せろなど無茶な話です。
少しでも早く、聖女の信頼を私も得る事ができればよいのですが……
お城の中にいても自由に動けるわけではありません。聖女であろうとも、うっかり入り込んではならない場所に入ってしまうような事になれば大変です。
殿下に頼まれた事もあって、私は聖女を我が家へと招待しました。
お城と比べて機密情報は少ないし、警備も万全。
流石に自由に外を出歩かせるには、護衛が必要ですがそれでもお城にいるよりは多少自由はあります。
聖女は最初、確かに警戒していました。
ですが、我が家へ招いて私の自慢のシェフたちの料理やお菓子を振舞っていくうちに、多少心の警戒は解けたようです。
お菓子は元より、料理のどれもを美味しいと言って食べて下さいました。
「最初は悪役令嬢かと思ってたけどそんな事なかったわね」
数日が経過して、聖女はそんな風に言いました。
勘違いしてごめんね、とも。
はて、彼女は何を勘違いしていたのでしょう?
特に何か悪い噂が流れたりしたわけでもないので、恐らくは何の問題もないのだとは思います。
お菓子も料理も好きなだけ。
聖女が望むままに提供していくうちに、聖女の境遇を聞く機会もありました。
なんでも聖女は向こうの世界では、親が早くに亡くなり親戚に引き取られたもののあまり良い生活ではなかったのだとか。
ご飯も食べる事はできるけど、量は少なく最低限。飢え死にしないギリギリで、お菓子なんて滅多に食べる事もなかったのだとか。
まぁ、それはお可哀そうに。
だから異世界にこうしてやって来た事は驚いたけど、皆が親切にしてくれるからとても楽しい、と聖女は笑っておりました。
そんな話を聞いてしまったのもあって、私は一層聖女にはお腹いっぱい食べてもらおうとシェフにお願いしました。
礼儀作法と言う点ではちょっと目を瞑る部分もございましたが、聖女の食べっぷりは見ていて気持ちの良いものでもありました。どの料理も美味しい美味しいと食べて下さるので、シェフも作り甲斐があると言っておりましたね。
私は小食なので聖女が食べる半分も量を食べられていないので、シェフとしては腕のふるい甲斐がなかったのかもしれません。
そうして聖女のお世話をする事一月程でしたでしょうか。
王家から、私と殿下の婚約が白紙となった事を告げられました。
どうやら聖女と王子との結婚が決まった模様。
聖女は驚いていましたが、それでも満更でもない様子でした。
私の新たな婚約者はお父様が早々にお決めになられました。
というか、元々王家から殿下の婚約者に、という話がこなければ婚約する予定だった相手です。
彼は私の婚約が決まっても誰とも婚約をしなかったのです。
もしかしたら、こういう事があるかもしれない……と思っていたのかもしれませんね。
私は殿下との婚約が決まった時点で諦めるしかないと心に蓋をして殿下と歩み寄っていきましたが、それでも心の奥底には彼の存在がありました。
けれども殿下との婚約がなくなったのであれば、もうこの想いに蓋をする必要もなさそうです。
それというのも聖女のおかげ。
元の世界に帰る事ができない彼女は、それでも向こうの生活よりマシだから、と笑っておりました。
殿下との結婚も、望まぬものではなさそうなので、こちらとしても安心です。
「我が家の料理も美味しいですけれど、王宮の料理だって負けてはいませんわ」
ただ、この家の食事を気に入ってくださったようで、城に戻るのにそこだけが困りものね、なんて困った顔で言うものだから。
私は聖女にそう答えたのです。
「本当に? お城に来てすぐの頃は緊張してたからあまり味とか覚えてないのよね」
「王宮で料理長をしている者は、我が家のシェフの師匠にあたる人ですから。
味は保証できますよ」
「わぁ、楽しみ!」
ぱちんと両手を合わせて喜ぶ聖女に、微笑ましい気持ちになりました。
殿下と結婚するという事は、これから様々な苦労をする事になるでしょうけれど、それでも彼女なら。
きっと乗り越えていけるでしょう。
「――それで、君は素直に二人の事を祝福したのか」
「えぇ、勿論」
にこりと微笑むイルヴィニアに、婚約者であるメルセルはそっと微笑みを浮かべた。
微笑んではいるけれど、しかし眉は困ったように下がっている。
元々二人は婚約する予定だった。けれど王家が介入した事で二人の婚約は消え、イルヴィニアはマークス殿下の婚約者となってしまった。
メルセルは諦めて他の令嬢との婚約を結ぼうと思った事もあったが、それでもやっぱり諦められなかったのである。今はまだ、婚約者。結婚してからなら諦めもつくだろうけれど、今はまだ。もしかしたら何かの拍子に二人の婚約が解消されるかもしれない。
そんな風にあるかもわからない希望に縋っていたのである。あまりにも未練がましい。
しかしその未練がましさの結果、イルヴィニアの婚約は白紙となった。
そうして再びメルセルの元へ彼女は戻ってきたのだ。
異世界からの聖女がやって来たからこその奇跡。
メルセルは異世界とかちょっと信用できていないが、しかし異世界からの客人によって自分の幸せが舞い込んできたのもあって、手のひらを返した。流石聖女様! 自分の幸せは貴方のおかげです!
メルセルの領地へ嫁いできたイルヴィニアは、聖女と過ごした日々をメルセルに語っていた。
それを聞いて、メルセルはそのうち王家に、というか聖女様にうちの領地で採れた美味しい物を送ろう。そんな風に思った。送るにしても保存のきくやつじゃないと無理かもしれないので、味の改良に取り組もうとも心の中で決める。
でも、もしかしたら殿下はそれを望んでいないかもしれないなぁ、と思うが、知った事ではなかった。
メルセルが感謝しているのはあくまでも聖女であって殿下ではない。
むしろ殿下はイルヴィニアを横から掻っ攫ってったに等しいのだ。
なのでメルセルは殿下に何かしてあげなければ、とまでは思っていなかった。
イルヴィニアの屋敷で美味しい物をたっぷりと好きなだけ食べる事ができていた聖女は、数日の滞在の間に肉付きが良くなった。
いや、そんな可愛らしい表現で済ませるのもどうかと思うくらいまるまると太った。
今まであまり満足に食べる事ができない暮らしをしていたからこそ、好きなだけ食べられるという環境は聖女にとって天国だっただろう。
出てくる料理もお菓子も、イルヴィニアの好みに合わせて作られているが、彼女はこれで案外グルメである。そんな彼女の舌に合う料理なのだから、美味しいに決まっている。
イルヴィニアは王宮の料理も公爵家と同じくらい美味しいと言っていたけれど、もしかしたら若干劣るのではないだろうか、とメルセルは思っている。
まぁ、材料に関しては王族が口にする物なのだから下手な物は出てこないし、素材はどれも一級品だろう。ただ、陛下や殿下の口に合うものが、聖女も美味しいと感じるかは微妙なところだ。だがしかし、あちらの料理長はイルヴィニアの家のシェフの師にあたる。聖女があれこれこういうものが美味しかった、とか言っているのが伝われば、弟子に負けてはおれんと頑張ってくれるかもしれない。
綺麗なドレスも宝石も聖女にはこれから贈られる事になるだろうけれど、それを聖女が気に入るかは別の話だ。
聖女はイルヴィニアの家で思う存分美食を堪能し太った。
メルセルはてっきり年頃の少女というものは己の体重の変化に敏感で、ちょっとでも太ったら痩せるために食事の量を減らすとか、そういう方面に苦心するかと思っていたのだが聖女は気にした様子がなかった。
異世界からの聖女は、いるだけで富をもたらすとされている。
王家と結びつけば、その富は国を豊かにする結果にもつながる事から、王家は聖女を迎え入れたのだろう、とはメルセルだって簡単に想像がつく。
それに聞けば最初の頃の聖女は痩せていて――これは今まで満足に食べられていなかったからだが――見知らぬ世界に来たばかりとあって不安そうで、そういう部分では庇護欲をそそられるような感じだったのかもしれない。
メルセルは知っている。マークス殿下の女性の好みを。
彼は痩せていてどこか儚い印象の女性を好んでいた。
イルヴィニアはすらっとしてはいるが華奢と言う程でもなく、また儚いかと言われるとそうでもない。
美人ではあるのだ。それこそ、メルセルにとっては世界一と言ってもいいくらいに。
だが、マークス殿下の好みのタイプではなかった。
だからこそ、聖女を見てそちらにぐらっと揺らいだとしてもおかしくはなかった。公爵家との縁は別の形でつなぐ事もできるが、聖女との縁を繋ぐのはそう簡単な話でもない。
公爵令嬢と聖女、どちらを取るかと言われれば国の利益を考える以上答えは明らかだった。
だが、その後の殿下はこんなはずではなかった、と嘆いているらしい。
イルヴィニアの耳にどこまで噂が入っているかはわからないが、メルセルの耳には結構色んな噂が届いていたのである。
聖女が好みのタイプで、国のためとかいう御大層な理由をつけてマークスはイルヴィニアとの婚約を解消し聖女との婚姻を結ぶ事を選んだ。
ところが、聖女はそんな事も知らずのんきにイルヴィニアの家で美食を堪能していた。
食べ過ぎてお腹が痛くなるまでとか、吐くまで食べていたならイルヴィニアも途中で止めたかもしれないが、聖女はたくさん食べたがそこまではいっていなかった。
なのでイルヴィニアは特に止めたりするでもなく、むしろおかわりを所望する聖女にせっせと新たな料理を作るようにと指示していたくらいだ。
まるまると肥え太った聖女を見たマークスはイルヴィニアに、これはどういう事だと詰め寄ったようだがイルヴィニアはどうしてそんな風に言われたのか理解していなかった。
実際聖女と過ごした日々などを語るイルヴィニアは本気で理解していなかったのだ。
殿下は自分の代わりに聖女を頼む、と言ってイルヴィニアに託した。
イルヴィニアはその言葉通りに彼女をもてなした。
聖女がこの世界にやってきて、殿下と一緒にいた最初の頃の様子をイルヴィニアだって見ていたのだ。
その後で託されたのなら、今までのように、という扱いを望んだのだろうなと思うのは当然の事だ。
だが、メルセルはわかっていた。
きっと、聖女が来た時点で、そしてその聖女が自分の好みのタイプだった事で、既にマークスの頭の中ではイルヴィニアから聖女に乗り換える予定を立てていたはずだ。
現にイルヴィニアとの婚約の白紙が決まるまで、あまりにも早すぎたのだから。
であれば、あの表向ききちんとしてそうだけど内心若干クズ要素のある殿下の言葉の真の意味は――
王子妃教育をほとんど終わらせているのなら、それを教育係として聖女に教えるように。
間違いなくそういうつもりで言ったのだろう。
聖女の生い立ちはこの世界の平民のようなものだ。ある程度の教育を受けてはいるようだけど、こちらの世界でそれがどこまで役立つかはわからない。文字は異なるらしいので、自分の国の文字しかわからない聖女からすれば、基本的な事も難しい状態だろう。
そこに王子妃としての教育を受けろとなって城でずっと勉強漬けになったとして。
嫌気がさしてもおかしくはないなとメルセルは思っている。
自分だって幼い頃に将来家を継ぐために、とあれこれ学び始めたころとてもうんざりしたのだ。今となっては早いうちに学んでおいて良かったと思えるけれど、しかし当時はそうじゃなかった。
聖女の今の年齢で必要な知識や礼儀作法を学べと言われても、今までの生活とガラッと一変しているようなものだ。すぐにあれこれ覚えるのは難しいだろう。
教師をつけるにしても、城の教師たちもいくら別世界から来た聖女と頭で理解していても、あまりにも覚えが悪ければきっと苛立つ事もあるはずだ。そうして、そういった不機嫌さが聖女に伝わるような事になれば。
聖女もまた学ぶ事に忌避感を抱くかもしれない。
やる気をなくした状態で学ぶとなると、効率は悪いの一言に限る。
人前に聖女を堂々と出すためには、最低限礼儀作法を覚えてからでなければならないし、そこら辺も含めてイルヴィニアの家に滞在しているうちに少しでも学ばせようという意図があったのは、間違いないのだ。
幸いにして王子妃教育の中には、国の重要機密などは含まれていない。
もし含まれていたのなら、今頃イルヴィニアは婚約を解消できなかったかもしれないし、できたとしても機密情報を持っているのだ。最悪情報を外に漏らさないためにと密かに始末される可能性もあった。
王家によって次期王妃としての教育を、最高峰と言っても良い教育をイルヴィニアは受けていた。
そして彼女はこうして自分の元へとやって来た。辺境と呼ばれるこの場所へ。
隣国はこの国と違う言語が使われている事もあるので、他国の言語を学んだイルヴィニアが嫁いできてくれたのはとても助かる。
きっとマークスは。
城で本格的な教育をするようになれば間違いなく聖女はもうやだ、などと泣き言をいうかもしれない。
そう考えたからこそ、先に嫌なお勉強などをイルヴィニアに押し付けたのだろう。
もしかしたら彼女に意地悪をされてる、などというようになっていたなら、聖女を虐げた罪とか大袈裟にやらかされていたかもしれない。
そうでなくとも、少しでも聖女を教育してもらおうとは思っていたはずだ。
イルヴィニアが聖女に厳しくあたる事で、自分が聖女を甘やかし彼女の拠り所になる――なんて考えていたかもしれない。
ところが実際イルヴィニアは聖女をとことん甘やかした。
甘やかした、とは違うかもしれないが、嫌な事をやらせる事もなく、好きなように。
そうして出来上がったのが、まるまる太ってしまった聖女様だ。
必要な勉強など一切していない挙句、見た目が好みから遠のいた聖女がマークス殿下の元に残されたのである。
(ま、でも。
殿下も言い方が悪いよな。私の代わりに面倒な事をしておいてくれ、って意味合いだったんだろうけど、実際は私の代わりに聖女を思う存分甘やかしておいてくれ、って感じでイルヴィニアは受け取ったみたいだし)
仮にそんなつもりはなかった、なんて殿下が言ったところで、イルヴィニアはマークスが聖女に優しく接していたところしか見ていなかったのだ。
殿下と同じようにもてなしましたわ、と言われてしまえばそれまでの事。
異世界から来た聖女は大切にされていれば、どういう原理かは不明だが恐らく神の祝福か何かで富をもたらす。
だが、大切にされず虐げられるような事になれば、その時は――
(見た目に惑わされずに、殿下が聖女の事を大事にしてくれる事を願うばかりだな)
もし駄目なら。
その時は諦めて独立した上で隣国と手を組むか……
できる事ならそうならないでくれと思いながら、メルセルは楽しそうに語るイルヴィニアの話に耳を傾けるのであった。
次回短編予告
婚約破棄を宣言した王子が幸せになれてるかどうか微妙な話。
真実に気付くかどうかで先が決まりそう。
次回 婚約破棄ですね、お幸せに!
仮に気付けても引き返す事はきっとできない。