饗宴編 満身創痍
「……100、はい完了です。エル様お疲れ様でした。素振りは終了で良いですよ」
「……っ」
先ほどの修練場にて、エルはレオンの課した完璧な姿勢での素振り百回の課題をようやく終えた。
体の節々が悲鳴を上げて、もう彼女の体は限界を超えていた。
「では次は……」
「レオン先生申し訳ございません。もう無理です。これ以上は倒れてしまいます」
さらっと練習メニューを足そうとするレオンに、エルは早急に頭を下げた。
全身の筋肉が悲鳴を上げていて、少し動くだけでも痛いのだ。
「わかりました、では本日はここで終了します。素振りは私のいないところでも毎日やってください。……お疲れ様でしたエル様、久しぶりの授業でしたがお気に召しましたか」
「レオン……とっても疲れたわ。体が痛い、動けない」
教師役を降りたレオンの問いに、生徒役をやめたエルが答える。二人の空気感はいつもの様子にすぐに戻った。
「よく頑張りました。素振りは最後までやるのは正直厳しいと思っておりましたが私の目測が誤っておりました。大変素晴らしいですエル様」
厳しい家庭教師のスイッチを切ったのか、彼の顔に優しさが戻る。
震えるエルの身体を支えて、最後までやり抜いた彼女の健闘を讃えた。
「では本日は戻りましょうか。セラフィナ嬢はどこに行かれたのでしょう、近くにいるとは言っておりましたが」
「セラフィナ……余計な心配かけてしまったわね。彼女、とっても優しいから先生モードのレオンが怖くて見ていられなかったんじゃない?」
エルの訓練の最中に神妙な面持ちで部屋を出て行ったシスターの横顔を思い出す。
彼女の青藍の瞳は、とても辛そうにしていたのだ。
「……誤解を解いていただけませんか、彼女に勘違いされるのは胸が痛みます」
「ふふ、わかったわ。ごめん、でもセラフィナを探してきてもらえる?ちょっと身体がキツくて動けないから私は少しだけ休むわ」
「承知いたしました」
完璧な従者に戻ったレオンに、エルは優しいシスターの捜索を依頼する。
きっと寒い空の下でこちらを待っているに違いない。彼女を早く暖かな場所に連れ戻してやりたかった。
レオンは辺境伯に借りた修練所を出る。
また降り始めた雪は、勢いを増して夜には吹雪になる気配がした。
ガラハッドの辺境に来てからはほぼ毎日雪が降り、雪かきをしていない場所の積雪はとうにレオンの背丈を超えている。
これでまだ冬の盛りの前なのだから、これからの冬を思うととても恐ろしくなった。
「あのすみません、女性を探しています。金髪のシスターなのですがお見かけしませんでしたか?」
レオンはすれ違った騎士に声をかけた。
「あぁ、そのシスターさんなら先程、若い奴らと歩いてるのを見ました。そいつらの屯所はあの建物です」
「……ありがとうございます」
レオンと同世代に見えた騎士は丁寧に場所を示すと敬礼をしてから去っていく。
ガラハッドの騎士たちの誠実性をレオンは知っていたが、与えられた情報に少しだけ不穏になった。
セラフィナは麗しき女性であり穏やかでお淑やかな性格だ。そしてこの街は現在嫁不足。
若い騎士に連れられて何か間違いが起きてなければ良いが、それを疑うのはガラハッド辺境伯に対しても無礼に値するだろう。
「すみません、ここに連れがいるとお聞きしました」
レオンは騎士に教えてもらった建物に入った。
中にはカイルと同世代くらいの若い青年たちがたくさんいて、どの者も満たされたような表情をしている。
「………?」
レオンは執務中の騎士にしてはその穏やかすぎる表情に違和感を覚えながら足を進めると、奥の修練所に見慣れたシスター服が見えた。
「セラフィナ嬢、エル様がお探しで……セラフィナ嬢!?」
レオンがセラフィナに声をかけ、振り向いた彼女の先ほどまでとは違う傷だらけの姿に驚愕の声を上げた。
セラフィナの顔には殴られたような跡が無数にあり、血を吐いたような赤いシミが口元に残っているのだ。
「レオン様……」
「……暴行を受けたのですか!?」
慌ててレオンはセラフィナに近寄った。
最悪の予想をして咄嗟にあたりにいる騎士たちへ警戒の目を向ける。
手元にいつもの愛剣がないことを後悔した。
「勘違いをなさらないでください、この方々はそんなことをするような騎士ではございません」
「え、えぇそうですよね。ガラハッド騎士団は勇敢で誠実な騎士なのはわかっております。すみません、取り乱しました。ではセラフィナ嬢、その顔の傷は……」
「わたくし、騎士様に戦闘訓練をつけていただきましたの」
「………は?」
レオンは咄嗟に周囲の騎士を見た。
どの者も目立った怪我もなく、晴れやかな表情をしている。
対するセラフィナは満身創痍で、彼女の可憐な顔立ちは傷が目立ち、頬は大きく腫らしていた。
「……おまえら、この女性を殴ったのか?」
レオンは一気に怒りを滲ませて周囲の騎士に軽蔑の眼差しをおくった。
「違いますお兄さん!!俺たちは聖女様にボコボコにされた側です!傷を癒していただいたのです」
「でも殴ったのは事実です。女性を殴るなど本来なら絶対に許される行為ではありません、大変申し訳ございませんでした」
「………セラフィナ嬢、少し理解が追いつかないのですがあなたはここで何をなさっていたのですか?」
レオンは混乱した目で隣の女性を見た。
派手にやらかしたり、他人に迷惑をかけるような人物ではない事は分かってはいたが何をしたのか皆目検討もつかないのだ。
「わたくし、この方々と少々殴り合いをいたしましたの」
「はい?」
数分後、セラフィナは修練場の地べたに正座をさせられていた。
その前には盛大に怒りを浮かべたレオンが腕を組んで仁王立ちをしている。
彼の頭の中は、彼女が起こした騒動をどうやって主人のエルに報告するかでいっぱいになった。
そもそも優しくて可憐なシスターが、いくら鍛え上げた鉄拳の持ち主とはいえ騎士団相手に殴り勝ったなどと報告して信じてもらえるかもわからなかった。
「………何をしているんですか、何をしているんですか?あなたは一体何をなさっているんですか???」
「大変申し訳ございませんレオン様……このような傷を負うなどわたくしの力不足でした。より精進いたしますわ」
「違いますセラフィナ嬢。ああもう!あなたまでおかしくならないでください!」
レオンは事情を聞き盛大にキレた。
本来の怒りっぽい性格の彼にとって、聞いた事実は平静を保つのは到底不可能なことだったのだ。
「わたくしも戦いたくなったのです。エル様が励んでいるのに指を咥えて見ていることなどできません」
「だからって何故こんな愚かなことをしたのですか、戦いたいなら俺に言ってください!いくらでも稽古をつけますよ。俺は戦闘知識ならあなたより優れている自信があります!!」
「レオン様のお手を煩わせるわけには」
「ガラハッド辺境伯にもなんて報告すればいいんですか!俺たちが閣下にどれだけ世話になっているか知らないわけではないでしょう!!」
「あの、団長ならさっき様子を見に来て黙認して帰っていきました」
怒鳴るレオンに、騎士の一人がおずおずと手を挙げた。次々と明らかになる事実にレオンはしばし呆然として、その後に頭を抱える。
「皆様ありがとうございます、ではまた時間がある時に参りますので次もよろしくお願いします」
「えっ」
唐突な次回予告に、騎士たちに動揺が広がった。
レオンはそれをきいて盛大なため息を吐いた。
「……セラフィナ嬢、いまいち反省の様子が見えてこないのですか」
「何故?わたくしは有意義な時間を過ごしました、騎士の方の傷も癒しました。誰にも迷惑はかけておりませんわ……そうですわよね?」
騎士の一人に問いかけて、相手はブンブンと首を縦に振る。
「お願いします、本当にあなたまでおかしくならないでください。あなたはエル様に付き従ってエル様を優しく支え、癒してください。あなたに求められる役目はそれだけです」
「いやですわレオン様、それくらいならわたくしでなくともできますわ、わたくしは強くなりエル様を守れる存在になりたいのです。あの方の為に最後まで戦うと誓ったのですから」
「………」
レオンは自らの口の中が乾くのを感じた。
言葉が通じない魔物に語りかけている気分になる。
エルが『セラフィナは控えめに見えて強情だ』とぼやいていたことを思い出した。
エルも先日、セラフィナの王宮行きを猛烈に反対して対峙したが結局セラフィナが一歩も譲らずに根負けした経験があるのだ。
「とりあえずその顔の傷を治してください、エル様が心配します」
「わたくしもう魔力がありませんの、騎士様を癒すのに使いきりました。でも心配なさらないで、わたくしには高い回復力も備わっておりますので二、三日したら治りますわ」
「………」
「騎士様にはわたくしの要望を叶えていただいたのですもの、優先して回復するのは当然ですわ。何か間違えていらして?」
顔を晴らしたままセラフィナは慈愛に富んだ微笑みを浮かべる。
レオンはもう、何を言っていいか分からずに口を閉ざした。
チームの中でエルの次に尊敬に値して、まともで常識的だと思っていた仲間の本性がとんだ化け物であったのだ。ここまで意思疎通ができないとは思わなかった。
まだ口が回るだけのやかましいミルリーゼの方がマシかもしれない。
「何もかも間違えています。その顔でエル様の前に立つつもりですか?カイルの家族も不安にさせてしまいますよ」
「……シスターさん。救急箱もってきました。せめて治療だけでもさせてください」
最後まで立っていたセラフィナの顔面を殴り飛ばした青年が申し訳なさそうに声をかけた。
「まぁ、ありがとうございます。お優しい騎士様」
セラフィナはおだやかに礼を述べ、レオンはもうどうしていいか分からずに頭を抱えて項垂れるしかできなかった。
レオン先生ブチ切れ回
そりゃ、怒られますって……




