学園編⑧
『エスメラルダさまへ、放課後に旧校舎の屋上に来てください。』
エスメラルダの首位陥落から一ヶ月後、もはや完全に孤立したエスメラルダの机に呼び出しの手紙が入っていた。
エスメラルダはその子供が書きそうな字から、おおよその送り主の想定をつけると読まなかったことにして手紙は破り捨てた。
それを拾ったリリエッタが、被害者ぶって泣いていようが関係ない。あの女に近寄るメリットがエスメラルダには存在しないのだ。
『エスメラルダ・ロデリッツ嬢、先日のテストの採点について王宮教育機関から試験結果の疑問が浮上したため改めて話したい。第三職員室に放課後来るように』
数日後、新しい手紙が入っていた。
書体はリリエッタのものではなく、大人の男性が書いたような滑らかな筆記体だ。
本物であったのなら、あの理不尽なテストが再試になるのかもしれない。
首位を逃したことで実家からお叱りの手紙が届いて、次の帰宅に気が思いやられていたエスメラルダには、まるで奈落の底にに蜘蛛の糸を垂らされたような感覚に麻痺して、その手紙を信じてしまったのだ。
「ふふふ、来てくれたんですねエスメラルダ様」
第三職員室、冷静に考えたら旧校舎の屋上付近じゃない。
自分の愚かさとストレスで判断能力が鈍っていたことに、呼び出された場所で待っていたリリエッタの顔を見た途端エスメラルダは頭を抱えた。
「あなたに用はないわ、先生はいらっしゃる?」
「あの手紙はあたしが先生に頼んで書いてもらいました。だってエスメラルダ様、あたしの手紙だと呼んでもいらしてくださらないんですもの」
ニッコリと作りもの感満載の笑顔を見てリリエッタはエスメラルダに向き合った。
「単刀直入に言いますね、アルフォンス様と婚約破棄なさってください」
「無理よ」
「アルフォンス様は困っていらっしゃるんですよ、あなたがいたらあたしに触れてくださらないの。キスをねだってもエスメラルダ様と婚約しているからダメって」
学生の身分で何をしようとしてるんだこいつらは……と、エスメラルダは理解できない言動を繰り返す目の前の少女に信じられないと言いたげな目を向けた。
「私とアルフォンス様の婚約は、国によって決まったものです。決して学生の恋愛ではないの、あなたも貴族の一員なら理解はできるでしょう」
「うるさいな、知らないですよそんな事情。やーっと会えたあたしの王子様なんですよ、だからねエスメラルダ様。あなたにはその面の皮を剥がして正体を表してもらおうと思うんですよ」
くすくすと笑いながら、リリエッタは詰め寄った。
「不愉快よ、私の視界から去りなさい」
「ふふん、あたしが脅威になったんですよね!だからあたしが邪魔なんですね、あたし絶対負けません。アルフォンス様のこと諦めませんから!」
リリエッタは何が言いたいかわからない宣戦布告をしたあと、ステップを踏むような足取りでエスメラルダを呼び出した部屋を出た。
「ほら、あたしが出ますよ。突き落とすチャンスかもですよ!いいんですか?チャンスですよ?」
すれ違いさまに、何がしたいのかよくわからない挑発とも取れる煽りを残して。
「あなたは私を愚弄しているの、さっさと去りなさい」
「わかりました、アルフォンス様に愛されているあたしが脅威で手が出ないんですね、エスメラルダ様もたいしたことな……」
後ろを向いてまだこちらを煽る様子のリリエッタ、意識が疎かなせいか一瞬何かに足を取られてバランスを崩して階段の上で転げ落ちそうになるのがエスメラルダには見えた。
「あぶなッ……」
階段の上でリリエッタは思い切り身を投げ出した。次の瞬間である。
「キャーーーーーー!!!!」
キーンと耳鳴りがするくらいの大声を上げたと思うと、リリエッタは虚空に向かいその身を転げて落ちていったのである。
「えっ、ちょっ!」
リリエッタが投げ出された宙に手を伸ばすエスメラルダ、だが、リリエッタのあまりの大声に驚いて助ける手が間に合わなかった。
エスメラルダには彼女が足を勝手に滑らせて落ちるところが見えたが、そのタイミングで声に呼び寄せられたのかゾロゾロと見知った顔が普段は誰もいない旧校舎に集まってきたのである。
「リリィ!?何があった!?大丈夫かい!?」
まっさきに駆け寄ったのはアルフォンスである。
「……落とされたのかい?」
アルフォンスの問いに、リリエッタが頷いた。
それを見たエスメラルダは慌てて訂正の声を上げる。
「ち、ちがいますアルフォンス様……リリエッタが自分で足を滑らせて……」
「黙れ。エスメラルダ」
突然の状況に混乱しているのか、リリエッタが勝手に足を滑らせた完璧な事故なのになぜかエスメラルダが落としたと処理されてしまったのである。
次いでヴィンセント、テオドール、マクシミリアンがそれぞれ踊り場で倒れてぐったりとしたリリエッタを囲い、階上にいるエスメラルダの存在に気がつくと一斉に敵意を剥き出しにいた。
「ヴィンス、見たか?」
「あぁ見たさ」
「マクシミリアン、彼女を保健室に運んで欲しい。僕はその女に言いたいことが山ほどあるんだ」
「……まかせな。リリィちゃん、アルフォンスじゃなくて悪ぃな、俺に捕まってくれ」
リリエッタの転落は不注意による事故、あるいは何らかの細工であった。
彼女は何かにバランスを奪われて転がり落ちただけである。
だが、タイミングが最悪だった。
リリエッタを助けようと伸ばした手が、突き落としたように見られてしまったのだ。
ぐったりとしたリリエッタの体を抱えて、アルフォンスの腰巾着たちは足早にさっていく。
頭が真っ青になりながら、エスメラルダは階段のリリエッタが転落したあたりには足を滑らせやすいよう水が張られていることに気がついた。
先ほどエスメラルダが階段を登った時は、ここは濡れてなどいなかった。
リリエッタの転落は、誰かの作為なのだろうか?
だとしたら、誰の……
無言で思案を重ねるエスメラルダに新しい来訪者の声がした。
「アルフォンス様、リリィの声が聞こえたので飛んできましたが一体どうなさったのですか?」
ソフィアが騒動の場に顔を出す。
いつもリリエッタにひっつき虫のくせに、なぜ今回は共にいなかったのだろうか。
「きみは、リリィの友達だったね。話は聞いているよ。エスメラルダがリリィを階段から突き落としたんだ。その場は直接は見ていないが、階段から転がり落ちて悲鳴をあげるリリィがここにいたんだ」
「えっ、リリィが?エスメラルダ様……リリィのことそんなに恨んでいたんですね」
友人が怪我をしたばかりだというのに、ソフィアの口調は単調であった。
友人の心配より、エスメラルダへの非難を優先している。
まるで隣のアルフォンスの思考も、エスメラルダへの非難を優先するよう導くような口ぶりだ。
「私は押してなどいません。ここが濡れています。誰かが水を溢したようです」
「言い訳はもういいエスメラルダ。どうせお前がやったのだろう?」
普段は穏やかなアルフォンスからは想像もつかない憎悪を剥き出しの顔で、エスメラルダを睨みつける。
その隣で親友が階段から落ちたばかりだというのにソフィアの口は愉快そうに笑っている。
だが、その醜悪な微笑みが確認できたのは、視点の関係でエスメラルダしかいなかった。
「……エスメラルダ様、残念ですね」
ちらりとこちらをみて、口の端を更に吊り上げまで微笑む。
友人が怪我をしたばかりというのに、この女は何を笑っているんだとエスメラルダは、異質なオーラを放つ少女に目を見開いて固まってしまった。
それよりも、自分が今何をされたのか冷静になるにつれて、状況がクリアになっていったのだ。
「(まさか嵌められた、こんな雑な方法で……?)」
いま置かれている状況がわかると、今度こそ目の前が真っ黒になった。
アルフォンスは何も言わずに首を振るとそのまま踵を返してリリエッタの後を追う。
「誰もあなたのお話を聞きたくないそうですよ」
「あなたがリリエッタが落ちるように細工をしたの?」
「仮にそうだとしても、客観的に見て私が親友にそんなことする理由ありますか?さんざんリリエッタをいじめていらっしゃるエスメラルダ様じゃあるまいし」
ソフィアは愉悦の滲んだ表情を隠さなかった。
その邪悪な意志の宿る紫の瞳は、リリエッタの何倍も悍ましく見えた。
この日、はじめてエスメラルダはソフィアを意識した。
控えめで猫背気味で目立ってはいなかったが、彼女がきちんと背筋を伸ばすと女子の中では高身長なエスメラルダより高くみえる。
「もう終わりなんですよエスメラルダ様」
煽るように言い切ると、彼女はひと笑いを残してその場を去りはじめる。
「さようならエメラルドのお姫様、あなたは少し私の計画に邪魔だったんです。どうかお元気で」
最大の皮肉と含みを混ぜた、別れの挨拶を残して。
「ソフィア……あなた何を企んでいるの!?」
ソフィアの去った方に問いかけても、反応は帰ってこない。
静寂の間に、虚しさだけがこだました。
誰もいなくなった場所でエスメラルダは膝から崩れ落ちる。
突然、婚約者たちに接近してきたリリエッタ。
何の権力も知識もないかわいいだけの少女が、学園の高嶺の花であったエスメラルダを容易く孤立の渦に蹴落とした一連の流れの裏で糸を引く人物が見えた気がした。
リリエッタではなく、最初からソフィアを警戒していたなら今回の最悪の事態は免れたであろうが、これからソフィアの対策を講じて実行する時間はエスメラルダには残っていないのだ。
エメラルドの姫の失墜は、ついに起きた。