饗宴編 翠玉令嬢と黒き鴉②
数日前 ガラハッド辺境伯爵家、王都別邸
「ねえ、エル。もう一つだけソフィアのこと、教えてあげる」
エルにかなしみの涙を見せた親友は、覚悟を決めた面持ちでそっと耳元で囁いた。
────── ソルシエル・オベロン
エルの大切な親友、ミルリーゼ・ブランはソフィアの秘密と言って一つの名前を告げると、重圧から解放されたかのように穏やかな目をして少しだけ疲れたように笑った。
「……それって」
「ソルの本当の名前なんだって。小さな頃にこっそり教えてもらったの。誰にも言うなって言われてたから今までずっと黙ってたのだけど、……なんかもういいかなって」
あっさりと幼馴染の秘密を暴露してしまったミルリーゼだが、軽い口調の割に表情に揶揄うような雰囲気はなかった。
至極真面目な顔をしたミルリーゼは、自分を見るエルに対して不安げに言葉を重ねる。
「僕、ソルのこと……本当に大好きだったんだ。でもね、今のソルはおかしいよ。きっと帝国派が旧都の影でやってるロクでもないことにソルも深く関わってる……」
「………」
ミルリーゼは隣に座るエルの肩に身を寄せそっともたれかかる。身体の小さなミルリーゼは、重みはほとんどなく軽かった。まるで心の中を空っぽにしてしまったかのようであった。
「……ソフィアのこと、まだ止められるかな」
沈黙の広がる部屋でミルリーゼは天井を見上げて小さな声でぽつりと呟いた。
心のどこかで、切ったつもりの幼馴染との縁の端を離せずに掴んだままなのだろう。
そんな情を感じる声だった。
「…………」
「…………何でもない、忘れて」
沈黙に耐えきれなかったのか、ミルリーゼの話はそこで終えた。
だが彼女のふいに漏らした本音はエルの心にいつまでも残った。
「………リゼ」
その時のミルリーゼの横顔は、まだ小さな希望のかけらを捨てきれず小さな身体で抱えたままでいるのがエルから見て痛いほど理解できた。
─────────…………
「(王国を滅ぼそうとしているロクでもない人相手でもまだ見捨てられないなんて、リゼもとんだお人よしね……シビアな情報屋なんて仕事、本当は向いてないんじゃない?)」
エルは親友とのやりとりを思いだしながら名前を呼んだ途端にものすごい形相で睨みつけてくるソフィアを見ながら心の中で皮肉に笑んだ。
「………おまえ、どこで知った」
ソフィアはかなりの低音の声で問いかける。
先ほどまでのよそ行きの令嬢の面影は今のソフィアには皆無だった。
「“ソルシエル”……ずいぶんと素敵なお名前じゃない。今度からそう呼んであげましょうか?」
「黙れ!!」
先ほどまでの煽り愉悦モードから一転して、ソフィアは本気で怒り出した。
よほど隠したい秘密なのか、呼ばれたくない名前なのだろう。
「何を怒っているのかしら?」
「うるさい! エスメラルダ様、残念です。大人しく退場するならやさしい僕は見逃してやろうと思ってやったのに! これじゃ消すしかなくなったじゃないですか! 本当に残念だなァ!!」
「(………“僕”?)」
エルは今までの澄ました能面みたいな顔から一変して髪を掻きむしりながら感情をむき出しにする目前の人物を改めて見た。
ソルシエルという名前からは特に特定の性別は連想できないが、中性的な本名を隠して「ソフィア」という非常によくある一般的な女性名を名乗っていた理由。
ソフィア・オベロンの前々から気になっていた女性にしては高い背丈、そして現在のテノールのような低い声。
「………」
ソフィアの着ているドレスは、襟口を開ける最近の流行に反して喉元まできっちりと隠れていてスカート丈も足のほとんどが隠れる足首までの長さだ。
ドレスの裾から少しだけ見える脚も厚手のタイツで覆われていて、長袖のドレスの袖口からは見える手もしっかりした生地の黒い手袋をはめている。
ソフィアの服装は顔以外の露出は、何かを徹底的に隠すように皆無だ。
そしてソフィアの顔立ちは、濃い目の化粧をして誤魔化してはいるがよく見ると素の顔立ちはわりと中性的である。
目鼻たちは整っているが、年頃の少女のものとは少し違う雰囲気である。
「………ソルシエル、あなた……まさか」
エルはだんだんと疑惑の点が線で繋がって訝しげな目でソフィアをみた。
ソフィアが放つ黒くて強い威圧感は果たして、本当に貴族令嬢のものだろうか?
「何見てんだよクソ女!! 人様の秘密握ってご満悦か? おまえの目は見るたびに腹が立つんだよ!! 調子に乗んじゃねえぞこのクソゴミカス女!!!! 僕を怒らせたらどうなるか身をもって教えてやるよ!!!」
ソフィアは暴言を喚き散らかした。
エルが過去に出会った人物の中でも指折りの口の悪さで、それまで綺麗な世界にいたエルにはあまりの衝撃だ。その凄まじさに頭を殴られたかのように驚き、脳がフリーズした。
「な……何をするつもり……?」
衝撃に驚いて固まりながらも、エルは震える声で尋ねるがソフィアから返事はなかった。
「………誰か!!! 助けて!! 誰か来て!!!」
返事の代わりに突然ソフィアは叫んだ。
低い声からガラリと変えた同じ喉から出ているとは思えない少女の声だ。
エルにはもう違和感の塊にしか聞こえない。
そんな少女の声に誘われたのか、近くを巡回していたと思われる兵が不思議そうな顔をしてやってきた。
「……どうかなさいました?」
「ああ兵士さま! 助けて……」
瞬く間に変わる展開、エルはこの隙に逃げるべきかと考えるが衝撃を受けたばかりのエルは思考もあまり働かなかった。
ぐるぐると混乱する脳内、だが、妙に嫌な予感がした。
ソフィアの側を離れるべきではないと誰かが脳に囁いたような気もした。
「兵士さま……これを」
そんなエルの隣で、ソフィアは懐から銀色のナイフを取り出すとやってきた兵に握らせて、低い声で囁いた。
「【操作:自分の腹にこのナイフを死ぬまで何度も突きたてろ!!】」
ソフィちゃんの辞書に“大人しくする”の文字はない。
作中屈指の口の悪さと扱いづらさを誇る
ソフィア 改め ソルシエル・オベロンくんです。




