饗宴編【開宴】第七話 矜持と謝罪(上)
【エル視点】
「セラフィナ!!!」
ワインを浴びせられたセラフィナの姿を見たエルはギャラリーから悲鳴にも似た声を上げた。
彼女の大切な仲間は、エルの宿敵リリエッタによって辱められてしまったのだ。
「ああああああぁぁぁ!!!! ど!!! ドレスーーーー!!!! メイスの血と汗と涙の結晶がぁぁぁぁあああ!!!!!」
「(えっ……うるさ……)」
エルの隣ではワンドが、真っ赤に染まったドレスを見て大絶叫をあげた。
セラフィナの着ているドレスは、彼の妹のメイスが作ったので兄である彼は作業風景を見ていたのだろう。
その献身と努力を全て水の泡にした鬼畜の所業に、大の大人でも悲痛な叫び声を上げるのは当然なのかもしれないが、ワンドの声はめちゃくちゃ大きかった。隣にいるエルの耳がキーンとなるほどだ。
「絶対ゆるさん!!! 許さんであのクソアマ!! どつき回すぞゴラァ!!!!!!」
「落ち着いてワンドさん……気持ちはわかるけど、落ち着いて」
「………ああ、そやなエルちゃん。エルちゃんが冷静で助かるわ。だが絶対許さへんで、あのドレスはメイスが睡眠と酒を削ってセラフィナちゃんの為に仕立てたドレスやねん!!」
「(酒……?)」
「ミル坊も一生懸命ちくちく刺繍したんや。ブラン商会服飾部門の精魂込めた至高のドレスなんや……それなのに……それなのに……ワイはほんま悲しいでエルちゃん……」
「……ええ、本当にどうしようもない女ね。見ているだけで反吐が出る。何様のつもりなのかしら」
ワンドの怒りに同調するようにエルはそう答えたが、その脳裏にはひとつの確信があった。
「(でも、おそらくだけどリリエッタの転倒はわざとでなく本当に事故によるものね。悪意を持ってしでかしたのなら、セラフィナは間違いなく察知するもの)」
聖職者であるセラフィナは人の悪意に敏感なのだ。
特に自分に向けられる悪意など尚更敏感に気づくだろう。リリエッタが害意をもってあえてわざとやったのだとしたら、近づいてきた瞬間に彼女は身構えている筈だ。
だが、セラフィナは避けなかったし、身構えもしなかった。リリエッタから害意をまったく感じなかったので反応に遅れてしまったのだとエルは冷静に推測している。
「(リリエッタ、たとえあなたに害意がなくていま理不尽に責められていたって、私にはあなたを庇う理由はないの。せいぜい泣いて後悔しなさい。誰からも相手にされない悔しさを味わいなさい。私はあの時、嫌というほど思い知ったの。だからリリエッタ、今度はあなたの番よ)」
エルは会場の赤い絨毯の上で泣きながら必死に否定と弁明を繰り返すリリエッタを何の感情もない目で見下ろした。
エルの本来の姿である翠玉令嬢エスメラルダはこの女のせいで大切な誇りを汚されて、心を壊されて、月夜の晩に死んだのだ。
その罪はアルフォンスやソフィアにも比重はあるが、リリエッタも決して無罪ではない。
エルの中に潜むエスメラルダの妄執はリリエッタ・フローレンスを決して赦しはしない。
「(私が鉄槌を落とさなくても、予想通り勝手に自滅してくれたわね。本当にバカな子、こんな女に陥れられた自分がますます惨めになるわ。どれだけ私を侮辱すれば気が済むのよ……本当に本当に気分が悪い)」
「エルちゃん……セラフィナちゃん、あんな姿になってもうたけど灰の王子にこのまま面会してええんか? そもそもできるんか?」
先ほどまで隣で怨恨の言葉を吐いていたワンドが真剣な声で尋ねた。いつの間にか、先ほどまでのオーバーなリアクション芸人のような言動から、仕事人の顔に切り替えているようだ。
そしてワンドの現実的な問いかけに、起きてしまった事態の大きさをじわじわと実感する。
「あぁ……ただでさえ面識がないというのに、ワインまみれの聖女様なんて誰が信じるのよ。本当にロクでもないこと、しでかしてくれたわね」
「酷い話やけどおかえりくださいって王宮を追い出されたっておかしくない話や……うーん、どないしよ。ブラン商会に戻って別のドレス持ってくるのも非現実的やな、ここから店のある平民街までは距離があるし……」
ワンドは口元に手を当ててぶつぶつと呟きながら解決策を考え始めた。
ブラン商会の店舗は城から離れた平民地区にある。今宵セラフィナのドレスを着付けた仕立て屋のメイスも店にいるので呼び寄せたいところだが、往復時間を考えたらあまりにも時間のロスが多すぎた。
「ロデリッツ家の屋敷なら城のすぐ近くだし、処分されてなければ私のドレスが部屋にあるはずよ!持って来れれば……」
エルは対案にロデリッツ家にある自分のドレスを持ってくる策を考えたが、見ず知らずの人間をすんなりと屋敷に通すほどロデリッツの門番は甘くない。
誰が公爵家に行ってどのドレスを運んでどこで着付けをして髪を結い直すのか? などを考えてあまり現実的とは思えなかった。
「どちらにせよ、ちょっと橋渡しの協力者に相談してきたい。殿下を探すと言って別れてからだいぶ待たせてしもうてるから一度、状況報告も兼ねて合流した方がええと思うんや」
「ええ、そうねワンドさん。いろいろお世話になります。あなたがいなかったら私は怒り狂ってリリエッタのことをぶん殴りに行くところだったわ」
実際、エルの言葉の通りである。
セラフィナがワインをかけられた瞬間、ワンドが隣で騒ぐのでエルはかえって冷静になれたのだ。
ワンドがいなかったら、エルはリスクを考えずに怒りに身を任せて大切なセラフィナを汚したリリエッタに殴り込みに行っていただろう。
「おぉ怖……血気盛んなお嬢様や。ええんやで、ミル坊が世話になった礼もあるし、今後ともエルちゃんたちとは仲良くしたいと思っとる。それに今回の件はこっちにも利はあるからそこまで恩に切らんでええよ……じゃ、行って来るで。エルちゃんも気をつけてな!」
ワンドはそう言って、金の長髪を翻してこの場から去っていく。どこまでも気の利く男だ。一見すると軽薄な言動をしているが、彼に潜む能ある爪は隠しきれていない。
なんとなくだが、エルの仲間の魔法使いに少しだけ性格が似ている気がした。
「リゼ……とっても心強い叔父様を派遣してくれてありがとう。あなたのサポートを絶対に無駄にはしないわ」
彼を遣わせてくれた親友に感謝の念を贈り、一人ギャラリーに残されたエルは再度、大惨事となっているホールを見た。
セラフィナは見知らぬメイド服の女性に導かれてどこかに連れ出されるところであった。
その後ろをカイルとヴィンセントもついていく。どうやら解決案が見つかったようだ。
リリエッタは貴族の冷たい視線に囲まれながら、一人ぽつんと孤立している。その顔は絶望に覆われて、せっかく綺麗に仕立てた髪もメイクもぐちゃぐちゃに乱れていた。
「……ざまあみなさい、リリエッタ」
エルはその様子を見下ろして、冷たくそう吐き捨てた。
─────────………
【カイル視点】
カイルは怒りと失望で頭が混沌とした状態になっていた。
信じて送り出したパートナーが公衆の面前で汚されてしまったのだ。
何故、大切なセラフィナを自分のそばから離してしまったのかという後悔と、真っ白なドレスと美しい風貌をワインまみれにされても決して感情を荒げずに平静を保つ彼女に敬意を抱いた。
セラフィナは「気にするな」と優しい声で言っていたが、本人が一番気にしている事はカイルは知っている。その証拠に彼女の青藍の瞳は、先ほどから不安気に揺れているからだ。
「(当たり前だ……これから灰の王子を救う使命があったんだ。こんなワインまみれじゃ絶対に作戦に支障が出る。それにセラフィナのドレスはメイスさんが作った大切なドレスだったんだ)」
カイルは知っている。
セラフィナの着ているワインで真っ赤に染まった白いドレスは、セラフィナの親友である仕立て屋のメイスが、辺境にいる時から何度も二人で打ち合わせをして細部までこだわって制作した本当に大切なドレスなのだ。
その制作にあたる労力はカイルには到底計り知れない。
「……どうか皆様、これ以上、次期王妃殿下を責めないでください……」
セラフィナは先ほどからリリエッタを庇う言動を繰り返した。セラフィナが本心から言っているのはカイルにもわかる。彼女は優しすぎるのだ、床にうずくまって言い訳ばかりでろくに謝罪をしないリリエッタとは骨の髄から人としての性質が違うのだ。
だが、セラフィナの優しい言葉は逆効果だった。
もともと王都の貴族社会でのリリエッタへの評判があまり良くないのだろう。
リリエッタがセラフィナへ起こした失態は彼女を叩くよい大義名分へと成り果てた。
「なんて清らかでお優しい方、そんな方を汚すなんて本当に許せない」
「嫉妬に狂って聖女様に危害を加えるなんて罰当たりだわ」
「聖女様をお連れしたガラハッド辺境伯家への敵意と取られても仕方ないわね」
貴族たちは口々にリリエッタを非難して軽蔑した。カイルはなんだかその光景が、かつてのエスメラルダへの断罪劇を思い出し、急激に馬鹿馬鹿しくなったので早急にここから出て行きたくなった。
こんな騒ぎになったのだ、ブラン商会の諜報員だって出て来ずらくなっているだろう。
セラフィナの「責めるな」という願いを無視して、リリエッタへの晒しあげ糾弾会と成り果てた、悪意に満ちたこの場所から優しい彼女がこれ以上傷つく前に連れ出してやりたくなった。
「セラフィナ……とりあえずオレの上着着て……こんな姿じゃもう此処にはいられない。一旦出よう」
カイルは自分の礼服のジャケットを脱ぐと、彼女に羽織らせる。セラフィナは少しだけほっとした表情で静かに頷いた。
ここを一旦出ると言う意思は一致したようだ。
「カイル……」
ヴィンセントは真っ青な顔のまま固まっている。どうしていいか本当にわからないのだろう。
カイルは何も言わずに一瞥するとそのままセラフィナの手を取って会場を出ようとした。
だが、その足はある男によって阻まれた。
「皆の者、事態は把握した、鎮まりたまえ」
よく通る声の目を引く端正な容姿の長身の男が立っていた。
その声がホールに広がった途端、貴族たちのリリエッタへの中傷はぴたりと止んだのだ。
「父様……」
人混みをかき分けて堂々と歩み寄る自らの父親の姿を見て、顔を強張らせたままのヴィンセントが呼びかけた。
やってきたデュラン公は憔悴した息子にチラリと目を向けてから、カイルたちの退路に毅然とした態度で立ち塞がったのだ。
「デュラン公爵家、当主のロードフリード・フォン・デュランだ。まずはアステリア王宮代表として真摯にお詫びする。セラフィナ嬢、この度のことは此方が全面的に非がある。どうかお許しください」
デュラン公は丁寧に名乗ってから頭を下げた。
この国で二番目の権力を持つ家の当主が、聖職者とはいえ平民の娘に頭を下げたのである。
その光景に周りの貴族たちも誰もが驚愕の視線を送った。
「閣下おやめください、わたくしはもう良いのです。………これは不運な事故なのですからあなた様に頭を下げられる所以はございませんわ」
「そうですデュラン公閣下! オレたちはあなたに頭を下げられてもすごく困ります! どうか頭を上げてください」
慌てるセラフィナにカイルも同調した。
「そうか、謝罪は受け取ってもらえたとの解釈でよろしいか?」
頭を上げてデュラン公は尋ねた。その問いにセラフィナは静かに頷いた。
「セラフィナ嬢の寛大な心配りに感謝します。では次に、お詫びの案だ。まずは汚してしまったドレスだが早急に着替えを贈りたい。アステリア王宮に私の妻の衣類部屋がある。そこから何でもいい、好きなドレスを選んでくれ、髪飾りや宝石も部屋にあるものは好きなものを身につけてくれ。着替えはデュラン家の侍女がちょうど此処にいるので彼女を遣わせよう」
デュラン公はハキハキと言葉を並べると、いつの間にか手にしていた金色の鍵を立ち竦んだままの息子に握らせた。
そして公爵の紹介を受けて隣に控えていた、先ほど彼の指示でヴィンセントのスケッチをしていたメイド服の妙齢の女性が丁寧に礼をする。
「デュラン公爵家、侍女長のマリンと申します。セラフィナ様、どうか私にお色直しのお手伝いをさせてくださいまし」
「………」
セラフィナは戸惑った視線をカイルに向ける。急展開にどうするべきか迷っているのだろう。
「デュラン公閣下の言葉に甘えようセラフィナ、どちらにせよ、あんたをそんな姿でいさせるわけにはいかない」
「……はい、マリン様。よろしくお願いします」
「お任せくださいませ」
セラフィナはデュラン公の申し出を受けることにしたようだ。彼女だってワインまみれの姿でいたいわけがないのだ。
「リリエッタ嬢は私が引き継ぐ、ヴィンス、母様の衣装部屋はわかるな。案内してくれ」
「父様……」
「ヴィンス、起きてしまったことはもう仕方ないんだ。これは事故なのだとセラフィナ嬢も繰り返し言っている。おまえがそんな様子でどうする、女性に恥をかかせるなという私の教えを忘れたのか?」
デュラン公は先ほどまでの親バカモードから一変して、珍しく少し強い口調で立ったまま呆然としている息子を嗜めた。
「案内は頼めるな? 母様が王宮にいた頃のドレスだから少し型が古いかもしれないが、どれも王室御用達の店の素晴らしいドレスだ。おまえはついていって彼女に似合うドレスを選ぶのを手伝ってやりなさい」
「はい」
「カイルくん、改めて詫びをさせてくれ。きみの大切なパートナーをこのようなことに巻き込んでしまい申し訳ない。息子もそばにいたというのに、即座に動くことができず不甲斐のなさにかける言葉も見当たらない。王室に変わり筆頭公爵家として改めて謝らせてくれ」
場の空気の流れを一気に掴んだ顔の若い公爵に突然呼びかけられて、カイルは戸惑った。
どれだけ若い姿をしていても彼はこの国の身分制度の頂点付近にいる男だ。その立ち振る舞いには、カイルの父とはまた違った威厳があった。
「ヴィンスのお父上! 本当にもういいんです! ドレスとか……本当に助かります。オレもセラフィナをこのままにしておきたくなかったんで!!」
「これくらいのことは造作もないよ。セラフィナ嬢も遠慮せずにドレスを選んでくれ。勿論アクセサリーもだ。妻には私から話をつけておこう」
「閣下のご厚意、ありがたく拝受させていただきます」
デュラン公の気前の良すぎる施しに、セラフィナは心からの深い礼をした。
「セラフィナ様、では奥様の衣装部屋にご案内いたします」
デュラン家の侍女長を名乗った女性はキビキビと歩き始めた。その後をセラフィナ、カイル、ヴィンセントは後を追ってホールから出て行った。
こうしてリリエッタによるワイン転倒事件は場に偶然居合わせた筆頭公爵によって、何とか一旦のとりまとめとなったのだ。
「………」
だが、リリエッタへの非難の言葉は止んでも、貴族たちの無言の軽蔑の目はその場に残されたままであった。




