饗宴編 お兄様の決意表明③
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庭園を抜けてエドワルドは城の敷地を駆けた。
一刻も早くアッシュに会いたかった。
いつもなら巡回の騎士や、使用人たちがいるはずの中庭も今日はやけに人が少なかった。
それを好機と見たエドワルドは、息を切らせながら走った。
「ユーリス卿……」
灰色の離宮の前に見慣れた男がひとり、誰かを待っている様子で立っていた。
やってきたエドワルドを確認すると、その榛色の瞳を伏せ、ついてこいと態度で示す。
「…………」
アッシュ唯一の忠臣、ユーリスは寡黙であった。
エドワルドも決して口数が多い方ではなかったが、それ以上に寡黙であった。
本当に必要なこと以外は決して口を開かなかった。
「アッシュ殿下は臥せたままでしょうか」
「今朝は意識がある」
「…………」
ここ数日、アッシュは体調を崩して意識がない状態が何日も続いていた。
エドワルドは何度か離宮に顔を出そうとしたが、門前で待つユーリスは彼との面会を許さなかった。
しかしどこか、『次の顔向けが最後』と言い切るエドワルドとアッシュの別離を彼が先延ばしにしているような気もした。
「………殿下に、公子を配下に加えるように口添えしたが頑なにお考えを変えることはなかった」
ぽつり、とユーリスは小さな声で漏らした。
彼の方から言葉が出るのは初めてなので、エドワルドはそのエメラルドの瞳を見開いて、ユーリスの背中を見入った。
「ユーリス卿ありがとうございます。たとえおそばにいなくとも、アッシュ殿下を守る手立てを考えます」
「………感謝する」
「…………」
前にも招かれたアッシュが眠る部屋の前に着くと、ユーリスは一礼をしてその場を去った。
エドワルドとアッシュの最後の面会を邪魔しないようにしたのだろう。ユーリスは寡黙だが人の心は十分にある従者だ。
「アッシュ殿下、エドワルドです」
「入れ」
上品なノックの音を響かせてから、扉の隙間から顔を出す。相変わらずの無機質な部屋で眠るアッシュは死人のようでただでさえ白い肌がさらに白くなっていて、目に入った瞬間ぞっとした。
「………殿下」
「薬を置いたら出ていけ」
「…………」
エドワルドと目線を合わせないように、寝台に横たわったままのアッシュは、痩せこけた指先で薬の置き場所を示す。
「殿下、僕は」
「黙れ。何も話すな」
「殿下……!」
「うるさ……ゲホッゲホッ」
声を荒げた瞬間、アッシュは苦しそうな重い咳をした。咽せただけではないことは医療従事者でないエドワルドでもすぐにわかった。
アッシュの身を蝕む悪意によって、彼の命はもはや風前の灯なのだ。
「…………」
エドワルドは何もできない無力感に苛まれ、目を伏せた。
自分が毒に侵されて薬を届ける期間が空かなければ、むしろもっと早く父に公爵会議への参加を希望して登城を早めたら、この最悪な状況を回避できたのではないかと己の失態を深く後悔した。
「………エドは……悪くない」
「…………」
「これまでの……忠義、感謝する」
最後の最後に呼ばれた愛称が胸に残る。
公爵令息のエドワルドを愛称で呼ぶのはアッシュと、エドワルドが死地に送ったレオンだけである。
その悲しい共通点に、胸が悼んだ。
「……」
「……」
「………僕はあなたに王座を捧げることをまだ諦めていません。たとえ拷問部屋の床の上でもあなたの助命を必ずや願い切ります」
「命は大切にしろ、馬鹿者」
部屋の去り際、彼からかけられた最後の言葉を胸に部屋を出る。
「(その大切な命を使って、たとえ王妃に媚びてでも殿下を守る、ロデリッツ家に生まれた以上僕の命は国に為に存在する。この国には陛下の血を引いた正しき為政者であるアッシュ殿下が必要だ)」
カツカツとエドワルドは、冷たい離宮の床を靴を鳴らした。
「(まだ諦めない、最後まで足掻く。絶対に策はある。考えろ……考えろ……)」
もう寝台に伏せたまま、息絶え絶えの彼は、今日エドワルドが持ってきた薬でどれくらい回復するのだろうか。
ユーリスに頼み、離宮から連れ出してもらえないだろうか。
アッシュは原則王宮の外に出ることは禁止されているが、外働きの使用人の少ない時間を見極めれば庭園を抜けることが可能かもしれない。
城門の警備兵を何とか沈黙させればアッシュをこの冷たい牢獄のような王宮の外の世界へ連れ出せないか……
「(ユーリス卿に協力を頼んでみるのもアリか)」
アッシュの従者のユーリスはおそらくエドワルドの思考に近いものを持っている。何度かの会話で彼は言葉こそ少ないが誠実な精神の持ち主であるとも見抜いている。
この国の最強権力者に睨まれ沈みゆく王子に最後まで付き添っている男だ、並の忠義ではない。
「(王妃にアッシュ殿下を逃した事が見つかったら間違いなくロデリッツ家は処分される。父上と母上、叔母上の家族に母の家門も断頭台送りになる。……だが、妹はまだ逃げている。ロデリッツの血族が絶えぬ可能性は十分にある)」
家族、親族の命と、アッシュの命。
その天秤。エドワルドはアッシュの命に重きを置いた。
「(アッシュの命にはアステリア王国に暮らす全ての民の命もかかる。何のための忠義だ、国に命を捧げる事こそロデリッツの宿命だと父は何度も言っていた。それに見つからなければ良い。人を逃すのは得意分野だ)」
エドワルドは歩いていた中庭で足を止めた。
胸の内に秘めている妹の逃走の真実。
妹の足取りを掴む有力情報は父に伝わる前に握り潰し、父には真逆の情報を伝えた。
エドワルドの情報改竄で妹は今は王国南部地方で越冬していることになっている。
「(やはり計画だけでもユーリス卿に告げよう。彼なら信頼できる。絶対に王妃には漏れない)」
短く思考を纏めるとエドワルドは踵を返して庭園まで来た足を翻し、再度離宮へと戻った。
ここで大人しくアッシュの元を去る選択肢など彼の中には存在しない。
エドワルド・ロデリッツは決して簡単には屈しない。
たとえ王妃の寵愛の意味がどれほど残酷な意味を持つ事だとしても、国の為なら処刑台の上で苦手な笑顔を作り最期まで媚を売る覚悟などもう決めている。
「………」
木々の狭間から男が一人見ていた。
エドワルドの決意の背中を黒い眼差しが覗き込む。
庭園から離宮へと続く、鬱蒼と木々の生い茂る道。
その手には、殺意を込められた刃が握られている。
本来なら王宮の庭園には一定の使用人や、見回りの騎士がいるのに、今日はやけに人が少なかった。
それは単に人手不足ではなく、裏で手を回した人間がいたからだ。
「…………目標確認」
木の影に滑り込んで身を隠した男は、エドワルドの姿を見ると殺意を込めた冷たい刃をより強い力で握り締めた。
依頼人の話では、できたら庭園のど真ん中で彼の死を、ロデリッツの無力さを大々的に知らしめるように殺してほしいとの依頼であったが、彼は引き返してしまった。
だが、こちらに気づいている様子は皆無だ。
無防備な青年を殺す事など、この暗殺者の男には容易な事だ。聞いた話では、多少頭は回るが剣を手にして戦う力は殆どないらしい。
彼にエドワルドの暗殺を依頼した貴族の男は『できるだけ早く殺せ』とだけ怒りを抱いた瞳で無慈悲に呟き金貨の詰まった袋を投げてきたのだ。
普段は絶対に入れない王宮へと招き入れるサービス付き、こんな美味しい依頼断る理由もなかった。
「エドワルド・ロデリッツ、ここで死ね!」
男の怒鳴り声に、麗しい青年がようやくこちらに気づき、エメラルドグリーンの瞳を強張らせるがもう遅い。
彼の真っ青な顔を見た。その恐怖に怯えた顔を報告したらきっと追加の金貨が来るだろう。
あの手のプライドの高い男は、こういうことに悦ぶのだ。
エドワルドは逃げようとするが、お上品な貴族服と体を動かすことに特化した服ではどちらが走ることに有利かなど火を見るより明らかだ。
「(お坊ちゃん、お前に恨みはないがせめて天国で幸せに暮らせよ)」
男は満足そうに心の中で笑った。
そしてその瞬間を最後に、男の意識は途絶えた。
「…………怪我はないか」
いつの間にかエドワルドの前に姿を見せたユーリスが、男の首を一瞬で断ち斬りそのまま納刀する。
「………い、いま」
「暗殺者のようだ」
ユーリスの冷たい目が刎ねた男の首を見てから、興味は真っ青な顔で立ち竦むエドワルドへと映る。
命をピンポイントで狙われてた事にようやく実感を持ったエドワルドは口を手で覆い恐ろしい現実に震えはじめる。
「ユーリス卿、………助けていただき……」
「斬ることには慣れている」
「………はい」
これまでもアッシュを狙う暗殺者がいたのだろうか、その度にユーリスは彼を守る為に返り討ちにしたのだろうか。
ユーリスは物言わぬ亡骸となった男の始末を慣れた手つきで始めようとしている。
「暗殺者は決して口を割らず、自害する。なので殺す」
「…………はい」
「アッシュ殿下の配下は自分以外は皆死んだ。公子、殿下に近づくとこういう事になる。その覚悟はあるか?」
「…………」
ユーリスは男の亡骸と頸を手にして低く尋ねた。
その榛色の瞳、先ほどのどこの流儀にも沿わない素早く荒い太刀筋。
エドワルドはユーリスからの問いかけの答えを考えながらも、なぜか彼の脳裏には、彼の学生時代の武術大会で見たとある男の背中がぼんやりと浮かんでいた。
その男に妹を託して危険な旅路へ送った自分は、どう答えるのが正解なのかと考える。
答えはすぐには出なかった。
アッシュ陣営を離脱したお兄様の単騎攻略が始まります。武器は忠義と信念のみ。




