エピローグ
その日、街には多くの人の姿があった。新しく作られた綺麗な街を、紳士淑女が肩を並べて歩き、お互いに笑みを交わしていた。
彼らの目的は一つ。劇団・トレゾールの初公演を見に来たのだ。
ガルニールの一年ぶりの舞台。その舞台を見に来ようと、彼女を愛する者たちが大挙して訪れていた。
時刻は夕刻。設置されたばかりの街灯に光が灯る。街は夜の装いに姿を変え始めていた。
劇場には何台も馬車が出入りしており、馬車からは名士たちが次々に降りて、劇場へと入っていった。
そんな光景を、ノエが劇場の屋上から見下ろしていた。その壮観な光景に彼も興奮を覚えた。
「こちらでしたか。ノエさん」
ノエが振り向くと、ジールがそこに立っていた。夜会服に身を包んだジールも、満足そうにその光景に目を向けた。
「なんとか、この日を迎えることができましたね」
「ええ、本当に」
多くの人が楽し気に劇場にやって来る。その光景を感慨深そうに二人は眺めていた。
イザークの悪事を暴き、劇場を守ることができた後、ノエたちは再び劇場の初公演に向けて動き出した。
劇場が守られたことで元いた団員を呼び戻したり、劇場の改修を再開させるなど、劇場に再び熱気が戻ってきた。
同じように呼び戻されたジールは、溜まりに溜まった書類を前にして苦笑いを浮かべながら、ノエと共に書類を片付けた。結局は彼も、この仕事を楽しんでいるようだった。
サフィナは戻ってきた団員たちと再び稽古を始めた。サフィナとシモンたちは舞台の上で時間を忘れて稽古を続けた。まるで遊びに夢中になった子供のように、誰もが楽しそうに稽古を続けた。
劇場を失った失意からの反動か、以前よりもその情熱は苛烈さを増しているようにさえ思えた。
そんな日々を越えて、劇場はこの日を迎えた。
今も劇場に多くの人がやって来る。その光景を見て、これまでのがんばりが報われたことをノエは実感していた。
「チケットは完売のようです。みんな、サフィナさんの舞台を楽しみにしていたみたいですね」
みんながサフィナの舞台を待っていてくれた。そう思うと、ノエも我がことのように嬉しそうに笑った。
「そうですね。私の妻も娘も、この日を楽しみにしていましたからね。私も楽しみたいと思いますよ」
そんなジールの何気ない一言に、ノエは目を丸くしてジールを見た。
「? どうしました? 何か変なことを言いましたか?」
「ジールさん。奥さんがいたんですか? それにお子さんも?」
そんなことを口にするノエ。ジールが結婚していたなど、聞いたこともなかった。
「そうですが、言ってませんかね?」
「聞いてません。まあ、僕も話したことはないですけど」
そこまで言ったところで、二人は同時に笑い出した。二人とも毎日仕事で顔を合わせても、お互いのことを話してはいないことに初めて気付いた。
それだけ仕事に埋没していたのだろう。どれだけこの劇場が好きなのだと、お互い笑ってしまうのだった。
「失礼しました。でも、家族で劇場に来るなんて、仲がいいんですね」
「ええ。二人ともサフィナさんのファンでしてね。一年ぶりの舞台なのではしゃいでましたよ」
そんなことを笑顔で話すジール。その顔からは、家族のことを大事にしているのだと感じられ、普段は感じられない彼の一面を、ノエは意外そうに見ていた。
「ジールさんがお父さんをしている姿なんて、想像できないですね」
ノエがそう言うと、ジールは静かに呟いた。
「世界は舞台。人はみな俳優、でしたかね」
それは偉大な劇作家の言葉だった。
「私はここで事務屋を演じてるだけで、舞台を降りれば普通の夫であり、どこにでもいるお父さんですよ」
ジールはそう言って、いつもは見られない笑みを浮かべて見せた。
「今日は私も、ガルニールのファンとして舞台を楽しみますよ。ノエさんも、今日は楽しんでください」
「ジールさんも、良い夜を」
ノエが部屋に戻ろうとすると、ロビーで意外な二人組に出くわした。
「あ、ロベールさん。こんばんは」
そこにいたのはルイズと、アンネリーズのロベールだった。二人は肩を並べて歩いていた。
「……こんばんは、ノエさん」
相変わらず不器用な挨拶を交わすロベール。それを横からルイズが面白そうに見ていた。
「ようこそ。今日は楽しんでいってください」
「そうだな。良い舞台になることを祈るよ。そうでなければ、新調した夜会服がもったいないからな」
「そこはご安心してください。ロベールさん」
横で聞いていたルイズが口を開いた。
「約束通り、世界一の劇場へ招待したのです。夢みたいな時間を提供させていただきますよ」
世界一の劇場。そんなルイズの言葉にもロベールは特に何も言わず、静かに言葉を返した。
「その夢が悪夢にならないことを願うよ」
そう言ってホールへ向かうロベール。その後ろ姿をルイズがおかしそうに笑った。
「ロベールさん、楽しみで仕方なさそうですね」
「え? そうなんですか?」
ルイズの言葉に驚くノエ。彼が見る限り、ロベールはいつも通り悪態を吐いているようにしか見えなかった。
「ええ。この日が来るのが楽しみで、いつもより機嫌がいいみたいです。子供みたいでわかりやすいですよね」
「子供? ロベールさんが?」
唐突な言葉にポカンとするノエ。あのロベールが子供みたいだなんて、どうしてそんな風に思えるのか。理解が及ばないノエに、ルイズが悪戯っぽく笑う。
「ロベールさんも、ガルニールに一目惚れしましたから。あの様子は恋する男の子だと思いませんか?」
その言葉にノエは納得する。あの様子は確かに、好きな女の子に素直になれない男の子のようだと思った。
そう思うと、ロベールも存外わかりやすいのかもしれない。
「それじゃあ、私も行きますね」
ロベールの後を追おうとするルイズ。その時、彼女は思い出したようにノエに振り向いた。
「あ、ノエさん。今なら姉さんは化粧室にいますから、今のうちに会いに行ってやってください。姉さんも待ってると思いますから」
そう言って歩き出すノエ。すると、彼はもう一度立ち止まってノエに向き直った。
「今日はノエさんも、楽しんでください」
「はい。お互いに良い夜を」
ノエはサフィナがいる化粧室の前に来ていた。外からは人々の声が聞こえてくる。それなのに、その部屋だけは静寂を漂わせているように思えた。
どうしようと、彼はその場で立ち尽くしていた。
ルイズに言われて来たものの、彼は中に入るのをためらっていた。本番前の大事な時間を邪魔するのではないかと、ノエは二の足を踏んでいた。
ただ、ノエは一度サフィナに会いたかった。この日を迎えて、何か話をしたかった。
どんなことでもいい。彼女の言葉を聞きたいと思った。
ノエは勇気を出して、震える手でドアをノックしようとした。
「……ノエさん?」
その時、部屋の中からサフィナの声が聞こえた。ノックもしていないのに名を呼ばれたことにノエは驚いた。
「あ、はい! ノエです! すいません、お邪魔でしたか?」
姿の見えないサフィナに声をかける。彼女がドアの向こうで笑っている気がした。
「いいえ、大丈夫です。どうぞ入ってください」
「あ、はい。失礼します」
そう言ってドアを開くノエ。中に入ると、彼はその光景に言葉を失った。
綺麗に輝く衣装。衣服にちりばめられた装飾。美しく整えられた髪。そして、眼鏡を外して素顔を晒すサフィナの姿に、ノエは言葉もなく目を奪われた。そこにいたのは、間違いなく女優ガルニールだった。多くの人が恋をし、舞台の宝石として輝く、この国で最も美しい女優。
「ノエさん?」
首を傾げるサフィナ。その仕草にドキリとしつつ、ノエは口を開いた。
「す、すいません。本番前にお話しようと思ったんですけど、お邪魔みたいだし、すぐに行きますね」
「あ、待ってください」
ノエが出て行こうとするのを、サフィナがすぐに呼び止めた。
「お邪魔じゃありません。その……私も緊張していて、よければ話し相手になってくれませんか? 私もお話したい気分でしたので」
「そうですか? それでしたら」
サフィナの言葉に促され、その場に留まるノエ。部屋に一瞬の沈黙が漂う。
「今日はお化粧されていて、その……とても綺麗です」
「ふふ、ありがとうございます」
口説き文句のような言葉をかけるノエ。それに対し、言われ慣れているのかサフィナはふわりと微笑みながら謝辞を返した。
ノエも以前は舞台に立つサフィナを見たことがある。化粧を施し、煌びやかな衣装に身を包み、舞台を駆け巡るサフィナ。それを今、ノエは目の当たりにしていた。
「この化粧、実はルイズがしてくれるんです。アンネリーズにいた頃も本番前はルイズが化粧してくれて……。ルイズは私に化粧するのが楽しみらしくて、今日は久しぶりの舞台だから張り切ってたみたいです」
「へえ、そうなんですね。それはすごいですね」
意外な話ではあるが、同時にノエは納得もしていた。サフィナは普段から化粧をしないし、おそらく苦手なのだと想像できた。
ルイズなら化粧も心得ているだろうし、サフィナに化粧をするのも、彼女なら最高の仕上げにできるだろう。
ルイズがサフィナに向かって化粧を施す。その光景を想像すると、ノエはどきりと胸が高鳴っていた。
「ありがとうございます。ノエさん」
その時、唐突にサフィナが頭を下げてきた。
「えっと……なんのことです?」
「ノエさんには、この劇場を守ってくれました。そのお礼です」
サフィナの微笑みが向けられる。その柔らかい笑みを見せられて、ノエの胸の高鳴りは一層強くなった。
「いえ、そんなことはないですよ。僕だけの力では何もできなかったと思います。団員のみなさんががんばってくれたから、犯人を捕まえることができたんです。僕はその手伝いをしただけですよ」
そんな風に語るノエだが、サフィナは優しく首を横に振った。
「いいえ。私もみんなも諦めていたのに、あそこでノエさんが諦めなかったから、私は今日を迎えることができました。それだけは確かだと思います。あの時、イザークさんを前に事件解決するノエさんは、まるでジョセフ教授みたいでかっこよかったです」
「えっと……それはどうも」
真っ直ぐに見つめてくるサフィナの視線が眩しくて、ノエは照れ隠しにそっぽを向いた。その様子を見てサフィナはクスクスと笑った。
「それに、お父様と仲直りができたみたいで、本当に良かったです」
「あ、ああ。そうですね。まあ、相変わらず気まずいですけどね」
そう言って、二人はお互いに笑い声を上げた。
劇場が再開した後、ノエは喧嘩別れしていた両親と再会することができた。音信不通だった息子との再会に、母親は彼を抱きしめて泣き崩れた。余程心配していたようで、少し瘦せたように感じた。
そして、父親と顔を合わせるノエ。何を言えばいいかわからず沈黙していると、彼に対して父は一言だけ伝えた。
「心配させないでくれ。頼むから」
不器用な父の精一杯の言葉に、ジョルジュも精一杯謝るのだった。
その時の光景を思い出してサフィナが笑っていると、彼女が思い出したように質問をしてきた。
「そういえば、今後もうちで働くという話、本当によかったんですか?」
父と再会した後、ノエはこれからも劇場で働きたいと父に申し出た。女優ガルニールの劇場で働くという魅力に抗えない彼は、これからもサフィナの横にいたいと願っていた。
彼の申し出に父は特に反対しなかった。父も息子を助けてくれたことに感謝しているようで、むしろ助けてくれたお礼を返すように念を押されたくらいだった。
こうしてノエは劇場に残ることになった。少し前まで劇場を閉める一歩手前だったことを思えば、慌ただしくも巡り合わせに恵まれたものだと彼は思った。
「まあそういうことですので、これからもよろしくお願いします」
そう言って頭を下げるノエ。すると今度はサフィナが慌て出した。
「や、やめてください。頭を上げてください。こちらこそ残ってくれて嬉しいです。それに」
そこまで言って、サフィナが一瞬言葉を切った。彼女は少し考えた後、嬉しそうに笑った。
「私もノエさんに残ってほしかったから、本当に嬉しいです」
照れながらそんなことを伝えるサフィナ。
その言葉に彼は何も返せなかった。サフィナにそんな風に言われて、喜んでいる自分がいるのを感じていた。
何か上手い返しでもできればいいのに。そんなことを悔しがっていると、ドアの向こうから声がかけられた。
「団長。そろそろホールに来てください。時間です」
もうすぐ舞台が始まる。その言葉に緊張するノエ。
サフィナが立ち上がる。その顔には緊張も不安も感じられない。これから始まる舞台への、大きな期待で顔が綻んでいた。
「わかりました。今行きます」
ノエはその顔に見惚れた。それは彼が恋した女優の姿だったから。
今目の前にいるのは、女優ガルニールだった。
「それじゃあ行きますね。ノエさん」
そう言って歩き出すサフィナ。二歩三歩歩いたところで、彼女はそこで立ち止まって振り向いた。
「ノエさんも私の舞台、楽しんでくださいね」
無邪気に笑うサフィナ。とても楽しそうで、これから始まる舞台が楽しみで仕方ないといった様子。
そんな少女の姿に、ジョルジュも楽しそうに笑みを返した。
「サフィナさんも、楽しんでいってください」
すでにホールは満員となっていた。
ノエは客席から少し離れたボックス席に来ていた。そこは従業員だけが入れる場所で、今はノエだけがそこにいた。
客席を見る。大勢の人が席に座っていた。きっとどこかにジールも家族と一緒に座っているのだろう。それにルイズとロベールも……。
ここにいるのは、サフィナの劇を見に来た人々。これだけの数の人が彼女を見ようと集まったのだ。
多くの人が彼女の舞台を楽しみにしていた。そのことがノエには嬉しかった。
その時、開幕のベルが鳴った。そのけたたましい音に客席が静まり返ると、それを見計らったように幕が上がった。
舞台が照らされる。そこに作られた小さな世界の真ん中にサフィナがいた。その美しさに客席は溜息で包まれた。
それからサフィナが演じる舞台女優と、シモンが演じる亡霊の恋物語が始まった。
舞台で主役を演じ続ける女優と、かつてその劇場で亡くなった役者の亡霊。二人の恋の物語。
それは切なさも情熱も。喜びも悲しみも。全てを内包した物語。
サフィナとシモンの視線が絡まり合う。二人の愛の言葉が交わされる。
全ての時間、全ての瞬間が見逃してはならない夢の時間。
それは間違いなく、女優ガルニールの舞台だった。
あの時もそうだった。初めてガルニールの舞台を見に行った時、ノエも彼女の演技に心奪われたのだ。
そして今、彼はもう一度、彼女の演技に心を奪われていた。
誰かが言っていた。ガルニールの舞台を見た者は、彼女に恋をしてしまうと。
きっと今日も、誰かが恋に落ちてしまったことだろう。
その日、この劇場は間違いなく、世界一の劇場になっていた。
劇場から大勢の客が出てきた。誰もが口々にガルニールの舞台を讃えていた。
舞台が終わった今も、彼らはその興奮を友や恋人に語っていた。
舞台は大成功だった。サフィナをはじめ、団員たちの演技は間違いなく観客の心を捕えていた。観客も彼らの演技を見逃すことがないようにと、じっと舞台を見つめていた。
そうして舞台が終わった瞬間、劇場は万雷の拍手で包まれた。客席では立っていない者は一人もおらず、誰もが拍手を送った。
最後はサフィナたち役者がその拍手を一身に浴びて、満足そうに客席にお礼を告げていた。
明日の新聞はガルニールの復活でにぎわうことだろう。新聞屋の願い通り、彼らの新聞は先を争って買われるに違いない。
ノエは事務室の窓から、興奮して帰っていく観客を見送っていた。
彼らの楽しそうな顔を見ると、ノエも頬が緩むのだった。
「ノエさん!」
その時、サフィナが部屋に入ってきた。舞台の熱気がまだ残っているのか、彼女の頬が赤く染まっていた。
「おつかれさまです。サフィナさん」
彼がそう言うと、サフィナはお構いなしに彼に駆け寄った。
「サ、サフィナさん?」
彼女の勢いに戸惑うノエ。そんな彼にサフィナが問いかけた。
「今日の私の演技、どうでしたか?」
早く感想が聞きたくて、その瞳は蘭々と輝いていた。
「えっと……すごくよかったです。本当に」
彼がそう答えると、サフィナの笑みがますます強くなった。
「本当ですか!」
子供みたいにはしゃぐサフィナ。もう自分の感情を整理できないのか、彼女は自分を抑えられないでいた。
「あ……」
すると、彼女は自分の状況を理解し始めたのか、自分とノエの距離の近さを把握すると、一気に彼から離れた。
「あ……あの、すいませんでした……」
真っ赤な顔で呟くサフィナ。それまでの自分のはしゃぎようが恥ずかしかったみたいだ。
その様子にノエはつい笑ってしまう。普段は人と目を合わせるのも苦手なのに、劇のことになると饒舌になる性格は、見ていて可愛いとも思えてしまう。
「気にしないでください。女優の意外な一面が見れて、僕は楽しいですよ」
そんな意地悪に、サフィナはますます顔を赤くした。
「でも、本当に素晴らしい舞台でした。それは本当です」
ノエは改めてそう告げると、サフィナも嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。ノエさんが言うなら間違いなさそうですね」
そこでホッとしたように胸を撫で下ろすサフィナ。近くの椅子に座ると、そのまま肩の力を抜いた。
「でも、これで始めることができます。私の劇場を」
サフィナの劇場が始まる。これからサフィナはたくさん舞台に立ち、たくさんの物語を演じることになる。
彼女が誇らしげに笑った。
「そういえば、ノエさんはまだ小説を書いていないんですか?」
ふと、サフィナからそんな風に質問された。
「あ……そういえば、忙しくて書いていませんでした。すっかり忘れてた」
下宿先を追い出されてから、彼は小説を書くことはしていなかった。ここに来てからも忙しくてそれどころではなかったのもあり、すっかり意識の外だった。
こんなに書かなかったのは久しぶりのことで、サフィナに言われるまで気付きもしなかった。
「まだ書かないんですか?」
「いや……どうでしょう。考えていなかったですね……」
煮え切らない口ぶりだった。以前は書くこと自体が楽しかったのに、今はその情熱すら薄くなっていた。
彼自身どうしたいかわからない状態だった。
「……私は、ノエさんに書いてほしいです」
その時、サフィナがポツリと呟いた。
「え?」
「私、ノエさんの小説が読みたいです。あの日、ノエさんの小説を読んで、あの物語が美しいと思ったんです。だから、私は書いてほしいです。ノエさんの小説を」
サフィナの瞳がノエを捉える。真っ直ぐに見つめるその瞳は、ノエにその想いをぶつけるかのようだった。
「もし書くのに理由がいるなら、私がその理由になります」
その時、サフィナが笑った。まるで母親のような優しい微笑みがノエに向けられた。
「いつか読ませてください。ノエさんの物語を」
そんなお願いをされて、ノエは不思議な気持ちを抱いた。それが喜びなのか、はたまた別の感情なのかはわからない。
今はまだ書くかどうかわからない。だけど、世界の誰も自分の小説を待っていなくても、ここに一人、自分の小説を待つ人がいる。
そう思うと、彼の中で小さくなっていた炎が、もう一度燃え上がるのを感じた。
「……いつ書けるかわかりません。何年もかかるかもしれませんよ」
ノエが呟く。それだけ答えるので精一杯だった。
そんな彼の言葉を受けて、サフィナは嬉しそうに笑った。
「だったら、私も何年でも待ちます。あなたの小説が好きだから」
その言葉にドキリとするノエ。別に深い意味はないのだろう。
だけど、そう語る彼女の顔が、まるで恋する少女のように見えたものだから、ノエはつい顔を赤くしてしまうのだった。
この時代。マールは世界で最も華やかな街になっていた。多くの芸術家が集い、その才能と情熱で、色鮮やかに世界を彩った時代。
そんな時代を後世の歴史家はこう名付けた。
輝かしい時代、と。
これはそんな時代に生まれた、女優と作家の物語。