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第4章

 放火事件から数日経っていた。劇場は静まり返り、改装のための業者も今は来ていなかった。


 事務室で一人椅子に座るノエ。机に置かれた紅茶はすっかり冷めきっており、彼は何をするでもなく、ただぼんやりとしていた。


 一瞬だけ、頬から痛みを感じた。そこは放火事件の日に男たちに殴られた場所で、今も赤くなっていた。


 あの事件が起きた後、ルイズは放火事件が起きたことを団員に説明し、このままだと団員に危険が及ぶ可能性があるため、劇団の立ち上げを取り止めることを伝えた。


 辛そうな顔をしている者。諦めの表情になる団員もいた。受け止め方はそれぞれではあったが、誰もが劇団の解散を受け入れていた。


 それまでの事件のこともあり、何人かはこうなることを予想していたのだろう。解散を粛々と受け止めていた。


 ノエが窓から外を見ると、荷物を持って出て行く団員たちの姿が見えた。解散が決まってからはこうして、劇場から立ち去っていく姿を何度も見てきた。もう残っている者もほとんどいない。


 最初は団員たちが立ち去っていくのが辛かった。もはやそれにも慣れてしまったのか、ノエは顔色一つ変えず、彼らの背中を見送った。


 その時、事務室にジールが入ってきた。落ち込んでいるノエの姿を見て苦笑いを浮かべた。


「その様子ですと、仕事も手に付かないようですね」


「ジールさん……すいません」


「いえ、構いません。ノエさんのおかげで書類のほとんどは終わってましたし、むしろ感謝してますよ」


 慰めるように語るジール。そのノエが終わらせたという仕事も、解散が決まった今では全て無駄に終わったわけだ。そう思うと空虚な気持ちになってしまった。


「ジールさんは辛くないんですか? これまでずっと書類仕事していたのに、全て無駄になってしまって」


「そうですね。辛くないと言えば嘘になります。ですが、解散する時にも必要な書類というものはあります。それが終わってやっとこの仕事は終わります」


 そう言って書類を手に取るジール。その手に握られている書類がどんな内容のものかわからないが、ジールはそれを寂しそうに見つめていた。


「自分もやりましょうか?」


「いえ、大丈夫です。それほど多くはありませんから。それに」


 ジールがノエを見た。いつも通りの顔つきではあったが、その眼差しは優しさに満ちていた。


「ノエさんに解散のための書類をやらせるのは辛いかと。こういうのは私のような人間がやるべき仕事です。ノエさんは気になさらないでください」


「……わかりました。ありがとうございます」


 ジールは優しく微笑むと、書類をまとめて部屋から出て行った。


 後に残されたノエは部屋を見回した。最初にここに来た時はたくさんの書類が山積みになっていた。それを一人で処理し続けていたジールと共に、書類を少しずつ片付けて行った。


 大変ではあったけど、その忙しさはノエに生きていることを実感させてくれて、その感覚が楽しくもあった。


 事務室にはもう、書類はほとんど残っていない。その光景に彼は寂しさを感じた。


 その静けさが、解散が事実であることを教えてくれた。




 寂しさの中をノエが漂っていると、誰かがノックをしてきた。


 ノエは返事をしなかったが、それでもドアは否応なしに開かれた。


「ノエさん、お加減はいかがですか?」


 入って来たのはルイズだった。彼女はノエの姿を見ると、ジールと同じような苦笑いを浮かべた。


「せっかくの色男が台無しですよ、ノエさん」


「色男、ですか。こんな顔になっても好きになってくれる人なんて、いますかね?」


 ノエが殴られた頬を撫でた。


「大丈夫。少しくらい傷がある方が男は魅力的ですよ」


 そう言って笑うルイズ。その笑みに釣られてノエも小さく笑った。


 ルイズが椅子に座る。机を挟んで向かい合う二人。先に口を開いたのはノエだった。


「ルイズさんはまだ仕事があるんですか?」


「ええ。取引先と解散について説明をしに行きます。明日は銀行と話する予定です」


 ジールも忙しそうだったが、ルイズも同じように後始末が残っているようだ。


「大変ですね」


「いえいえ。大変ということもないですよ。こういうのもオーナーとしての仕事ですし。こういう時こそ、私を頼ってください」


 細い指でショートの栗毛に触れるルイズ。きっと自慢の髪なのだろう。


「そうですね……そういえば、サフィナさんはどうされてますか?」


「今日も自分の部屋に引きこもっています。まあ……無理もないですけど」


 苦笑いを浮かべるルイズに、ノエは悲しそうな顔を見せた。


 あの事件からサフィナは、劇場にある自分の部屋にずっと引きこもっていた。団員たちに解散を告げた日からずっと部屋にいて、何か用事がある時以外はそこから出ようとはしなかった。


 そのことが余計に辛かった。


「すいません。巻き込んでしまって」


 その時、ルイズから謝罪の言葉が告げられた。何のことかわからないノエは思わず訊き返した。


「えっと……巻き込んでって、何のことです?」


「姉さんの夢に巻き込んでしまったことです」


 ルイズが困ったように笑いながら話を続けた。


「ノエさんには実家に帰るという選択肢もあったし、それ以外の道もあった。それなのに私達がお願いしてここで働いてもらって、その上怪我までさせてしまいました。その傷は私達の夢に、あなたを巻き込んでしまったせいです。だから、謝らせてください」


「いえ、そんなことは……」


 頭を下げるルイズに慌てて手を振るノエ。元々死にそうなところを助けられたのはノエの方だ。その上劇団で働かせてもらうこともできた。ノエがお礼を言うことはあっても、謝られるようなことはないと彼は思っていた。


「お二人に助けてもらって、この劇団で仕事までさせてもらった時、本当に嬉しかったんです。まるで自分も劇団の仲間になれた気がして、自分を必要としてくれたことに、本当に救われたんです。それなのにこんなことになってしまって……お力になれず、すいません」


 辛そうに頭を下げるノエ。その姿にルイズはまた苦笑いを浮かべた。


 少しの間そうしていると、ルイズが口を開いた。


「正直、これでよかったかもしれないって、自分では思うんです。姉さん、ずっと辛そうな顔をしていたんです」


「……そうなんですか?」


 ノエが顔を上げる。それは妹だけが知る、サフィナの本当の話だった。


「最初の事件の時から、姉さんの中で罪の意識があったんです。団員のみんなが辛そうにしていると、それは自分のせいなんだって」


「自分のせいって、どうして?」


 以前もサフィナはそんなことを言っていた気がした。ノエがその真意を問うと、ルイズはその問いかけに答えてくれた。


「この劇場は姉さんの夢なんです。姉さんが作りたいと願って生まれた劇団です。その劇団で事件が起きて団員を悩ませている。それは姉さんにとって、みんなを自分の夢に巻き込んだからだって感じているんです」


「それは……」


 違うんじゃないかと、そう口から出かけていた。団員たちはルイズの夢の下に集まり、共に劇団を立ち上げたのだ。彼女の夢のせいではないはずだ。


 だが、ノエの意図を察したルイズがその言葉を制した。


「事実はどうあれ、姉さんは苦しんでいます。何より、団員たちは苦しみ、辛い思いをしている。姉さんにとってそれは、自分の夢のために彼らが苦しんでいるように見えていると思います。姉さんにとってそれは本意ではありません。姉さんは自分の夢のために、誰かが苦しむのは許せないんです」


 自分の夢のために誰かが苦しむ。確かにそんなこと、あのサフィナが許せるとは思えなかった。


「姉さんはなんとかして劇団を成功させようと、みんなの前で気丈に振舞っていました。絶対に諦めないって。だけどその裏で、団員のみんなが苦しんでいるのが辛かったんです」


 ノエは思い出す。ロベールに対して諦めないと語るルイズの姿。普段の彼女からは想像できない気丈な姿だった。


 だけど本当は、彼女は苦しんでいたのだ。団員たちが苦しんでいることに。


 ずっと悩んでいたことだろう。このまま夢を追いかけていいのか。団員たちに無理を強いてしまっていいのか。


「そんなことが続く中、この前の放火事件が最後のきっかけになったみたいです。これ以上何かあれば団員たちの身に危険が及ぶかもしれない。現にノエさんに怪我をさせてしまいましたしね」


 そう言ってルイズはノエの頬に視線を向けた。


「私も姉さんの夢は叶えたいです。だけど、その夢のせいで姉さんが苦しんでほしくはありません。妹としては、これでよかったかもしれないって、そう思うんです」


 ルイズはずっと、サフィナが苦しむ姿を見てきたに違いない。それは妹だけが知るサフィナの姿だ。


 こうして笑みを浮かべてはいるが、人知れずルイズも苦しんでいたのかもしれない。


「まあ、ここを諦めたとしても、まだ夢は諦めませんがね。ここでダメならどこか田舎で劇団を作ることもできますし。またどこかで立ち上げてみますよ」


 そう言って大きく笑うルイズ。こういうところはオーナーとして頼もしいところだと思った。


「ノエさんは明日、ここを出て行かれるんですか?」


「ええ。名残惜しいですが、自分ができることはもうないと思いますから」


「別にこのまま一緒にいてもいいと思いますけど」


「いえ、そういうわけには……またどこかでがんばってみますよ」


「そうですか……どうするかは決めてないんですか?」


「そうですね。実家に戻るか、誰かを頼るか。少し休みながら考えようと思います」


 実際どうするべきかわからなかったが、これ以上彼女たちに甘えるわけにもいかなかった。彼にも男としての見栄があるのだ。


「それでしたら、私のお願いを聞いてもらえますか?」


「お願い……ですか?」


 何だろうかと首を傾げるノエに、ルイズがニコリと笑った。


「最後に姉さんと話をしてあげてください。今も部屋に引きこもっていますから。このまま何も言わずに行くのも、寂しいじゃないですか」


 ね? と笑いかけるルイズ。


 正直サフィナの下に行くのは気が引けたが、せめてお礼だけは伝えるべきだと思った。


「……わかりました。あとで行かせてもらいます」


 ノエの言葉にルイズも笑みを返すのだった。



 夕刻になり、ノエはルイズとの約束通り、サフィナの部屋にやってきた。


 そこは彼女のために作られたプライベートな部屋で、ほとんどの者が立ち入ることのない部屋だった。


 女優・ガルニールの部屋。人気女優の秘密の空間について、団員たちはどんな部屋なのかを想像していた。


 煌びやかな衣服が何着もあるとか、ファンからの贈り物で溢れているのだとか。もしくはお店を開けるほどにたくさんの宝石があるとか。団員たちは面白おかしく自分たちの想像を語り合っていた。


 部屋を前にしてノエは緊張していた。あのガルニールの部屋に入るという事実は、二の足を踏ませるには十分だった。


 ノックをしようとしても、手は虚空を彷徨った。目の前にあるのはたった一枚のドアなのに、ノエはその一歩を踏み出せずにいた。


 その時、ノエはサフィナのことを思い出す。


 放火事件の夜、自分を見て苦しそうな顔を見せたサフィナ。


 もしかしたら今も彼女は泣いているかもしれない。そう思った時、彼の中にあった迷いは霧散した。彷徨っていた彼の手がドアに向けられた。


「サフィナさん。ノエです。入ってもいいですか?」


「……どうぞ」


 ドアの向こうから小さな声が聞こえた。その声に促され、ノエは部屋に入った。


「……え?」


 入った瞬間、その光景に彼は唖然とした。別に部屋が散らかっているとか、汚れているとか、そういうことはなかった。


 ノエが目にしたのは、全ての壁が本で埋め尽くされた部屋だった。


 まるで小さな図書館だった。部屋自体は広いのだが、四方を本棚に囲まれているせいか、実際よりも狭く感じられた。


 本を見てみると、それらは全て小説や物語の本だった。物語が大好きなサフィナの部屋としては納得できた。だが、団員たちが話すような宝石やドレスといったものはどこにもなかった。そのことがノエには意外だった。


 そんな部屋の主が、部屋の中心に置かれた机に着席していた。


 彼女を見ると、本棚を眺めながら何か物思いに耽っているようだった。


 不覚にも、その横顔が綺麗だと思った。こんな時に不謹慎だとはノエも思うのだが、それでも目の前の光景に嘘をつけなかった。


 そんな彼の様子を不審に思ったのか、サフィナが首を傾げながら彼を見た。


「ノエさん?」


「あ、その、すいません。お邪魔でしたか?」


 慌てて声を上げるノエに、サフィナは笑みを返す。


「いえ、大丈夫です。ノエさんこそ、何か御用があったのではないですか?」


「ああ、はい。その……自分も明日ここを出るので、その前にお話したくて……」


 別れの挨拶としてはあまりに色気のない内容に、ノエも我がことながら呆れてしまう。


 サフィナは一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。


「そうですね。せっかくですから、お話ししましょう」


 彼女はそう言うと、机に置かれたもう一つの椅子に座るよう促してきた。それに応じるようにノエはその椅子に座った。


 そうして少しの間、二人の間に沈黙が漂う。ノエは何か言うべきだとは思うのだが、この状況で何を言えばいいかわからなかった。


 どんな言葉を使っても、彼女を慰めることができる気がせず、ノエはかけるべき言葉を紡げずにいた


「すいませんでした」


 その時、サフィナが頭を下げてきた。その言葉にノエは戸惑いを見せた。


「えっと、何がですか?」


「騒ぎに巻き込んでしまったことです。この前は怪我までさせてしまって……本当に申し訳ありませんでした」


 サフィナがはもう一度頭を下げた。そのことが逆に申し訳なくて、ノエは慌てて手を振った。


「い、いえ。気にしないでください。サフィナさんが悪いわけではないですから」


 そう言って彼女を慰めるノエ。それでも申し訳なさそうな彼女に気まずさを感じてしまう。


 何か話題を変えようと、ノエは周りにある本に視線を向けた。


「初めてここに入りましたけど、本がたくさんありますね。驚きました」


「ああ。そういえばノエさんがここに入るのは初めてでしたね。ええ、ここにある本は全て私が集めたものなんです。どれも大切なもので、この部屋も自分の部屋というより、本を置くために作ってもらったんです」


 サフィナが部屋を見回す。本を見るその眼差しは、慈愛に満ちた光を宿していた。


「私、子供の頃から物語が好きで、人よりも本を相手にすることが多い子供でした。そのせいか人と会話をするのが苦手で、今でも初対面の人を相手にするのが怖くなるんです」


 そんな彼女の話を聞いていたノエは、彼女の子供時代が容易に想像できた。彼女は今も人と話すのが苦手なのだ。昔はもっと他人が怖かったことだろう。


 その時、ノエは気になっていたことを思い出し、そのことを彼女に問いかけてみた。


「でも、人が苦手なのに今は女優をやっているんですよね? どうして女優になったんですか?」


 彼がずっと気になっていたこと。それは引っ込み思案な彼女がどうして女優になったのかということ。普段は人前に出ることすら怖がる彼女が女優になったのには、どんなきっかけがあったのだろうか。


 その疑問をぶつけてみると、サフィナは懐かしそうに目を細め、昔話を始めた。


「きっかけは学校で開かれた学芸会でした。その頃も本を相手にしていた私でしたが、学芸会で『聖杯物語』を劇でやることになったんです」


『聖杯物語』は中世の時代に描かれた有名な騎士道物語だ。聖杯を探し求める騎士たちの冒険と友情を描いた作品で、ノエも読んだことのある物語だった。


「私、あの話も大好きで、騎士のクレチアンの活躍が本当に好きなんです。そんな大好きなお話を劇でやるって決まった時、つい手を上げてしまったんです。クレチアンをやりたいって」


 意外だと思った。自分から前に出ようとする彼女の姿が想像できず、ノエは驚きの顔をした。その反応に彼女も笑い出した。


「自分でも驚きました。思わず手を上げてしまって、周りからも女の子が騎士様をやるなんて、たくさんからかわれました。だけど、自分でもクレチアンをやりたいっていう気持ちを抑えることはできなかったんです」


 そこにどんな感情があったのかは、ノエには想像できない。


 騎士になりたいと憧れたのか。物語の世界に行きたいと願ったのか。その真意は誰にもわからないだろう。


 確かなことは、サフィナが初めて物語の中心に足を踏み出したということだった。


「それから私はクレチアンに選ばれて、必死で練習して、男の子たちに負けないように騎士を演じました。そうして本番の舞台で、私はクレチアンを演じ切って見せました。小さな学校の子供だけの学芸会だったけど、自分が物語の主人公になれたような気がして、そこに立っていることがとても嬉しかったを覚えています」


 それまで人前に出ることもなく、静かな場所で本を読んでばかりだった少女が、初めて世界の中心に立った日。彼女はそこで初めて、世界を冒険する英雄になれたのだ。それは彼女にとって、とても誇らしい思い出に違いなかった。


「でも一番嬉しかったのは、劇を見に来てくれたお母さんが誉めてくれたことです。とても良い演技だったって。お母さんが嬉しそうに笑ってくれたのが嬉しかったんです」


 その時のことを思い出しているのか、サフィナは懐かしそうに笑っていた。彼女にとってとても大事な思い出なのだろう。


「それがサフィナさんにとっての、初めての舞台だったわけですね」


「ふふ、そうかも知れませんね」


 偉大な女優の初舞台。それが小さな学校の学芸会というのも、なんだか不思議な話だった。


「それからです。私が女優になりたいって思い始めたのは。お母さんに誉められて、騎士を演じることができた私は、他にもたくさんの物語を演じたいって思うようになったんです。それが女優を目指すきっかけだと思います」


 小さな学校で開かれた学芸会。ある意味それは、女優・ガルニールが誕生した瞬間と言えるのかもしれない。もしその学芸会で彼女が手を上げなかったら、今の彼女はここにはいなかっただろう。


 聖杯物語では、騎士たちは聖杯の導きによって世界を駆け巡った。彼女も同じように、聖杯物語によってここに導かれたのだ。


 その時、彼女はもう一度周りの本に目を向けた。


「ここにある本は私が大好きな物語で、そんな物語を舞台で演じてみたいんです。王子様と結ばれるお姫様や孤独な夜の女王。それに、ジョセフ・ベルの冒険だって」


 以前ノエは、好きな物語のことで彼女と語り合ったのを思い出した。その時の彼女は本当に楽しそうで、幸せそうに笑っていたのを思い出す。


 そんな大好きな物語を演じたい。それが彼女の夢だった。


 そして、この劇場はその夢を叶えるために作られた場所だったのだ。


「あと少しで、夢が叶うところだったんですけどね」


 サフィナの寂しそうな呟きが聞こえた。ノエが視線を戻すと、彼女の悲しそうな瞳が本に向けられていた。


 きっとそこには演じてみたい物語がたくさんあるのだろう。これからどんな物語を演じようか。それを想像してずっと楽しみにしていたはずだ。


 そんな彼女の夢が叶うことはなくなった。


 その寂しさを前にして、ノエは胸が締め付けられた。


 寂しそうに悲しむサフィナの姿。それはまるで、彼自身のように思えた。


 彼もまた夢破れた人間だ。小説家になろうと物語を書き続けたけど、その夢も叶うことなく、小説家になれないままここにいる。


 そんなノエにとって、サフィナの悲しみは他人事ではないのだ。


 彼女の夢を諦めさせたくない。どうにかして彼女の夢を助けたい。そう思った。


 だけど、彼にはどうすることもできない。この状況を好転させる方法など、彼が持ち合わせるはずがなかった。


 彼はジョセフ・ベルみたいに事件を解決することも、騎士クレチアンのように活躍することもできない。


 悔しいけれど、彼は小説を書くのが好きなだけの、普通の人間なのだ。


「ノエさんはこれから、どうされるつもりですか?」


 話題を変えたかったのか、彼女からそんな風に問いかけられた。


 ノエは答えに迷った。ここを出て行くと決めていたが、何をするかは決めていなかった。


「まだ何も……しばらくはこの街で過ごそうと思います。何か仕事を見つけて、それでやっていきますよ」


 本当は何も考えていなかった。この答だって適当に考えたものだ。もしかしたらこの街を出て行くこともあり得る。


 そんなノエの適当な答えに、サフィナは残念そうな顔を見せた。


「小説は書かないんですか?」


 その言葉に心臓が跳ねあがった。そんな質問が来るとは思っておらず、ノエは心底驚いた。


「小説、ですか?」


「はい。ここに来る前はたくさん書いていたようですし、もう小説を書こうとは思わないんですか?」


 考えてもいなかった。ここに来る前は小説家になろうとたくさん作品を書いていたのに、今では遠い昔のことのように思えた。


 それに小説には苦い記憶がある。もう小説を書く気になれなかった。


「もう、書かないと思います。才能がないとか言われたし、自分が書いても意味はありませんから」


 自分が小説を書く理由も必要もない。もう小説からは離れたいとすら思っていた。


 その言葉に、サフィナが寂しそうな顔をした。


「そんなこと、ないと思います」


 ノエはサフィナを見た。何故か彼女は悲しそうな顔を見せていた。


「私、ノエさんの小説を読みました。とても素敵で、とても綺麗な物語だと思いました。才能とか理由とか、私にはそういうのはわかりません。だけど、私はノエさんの物語をもっと読みたいと思いました」


 その言葉が意外すぎて、ノエは呆けてしまう。サフィナがさらに言葉を紡いだ。


「もう書かないなんて言わないでください。私はノエさんに、もっと書いてほしいです」


 そこまで言って、彼女は微笑みを浮かべながらノエに伝えた。


「どうか、ノエさんは夢を諦めないでください。またここから、夢をはじめてください」


 ノエにもわかる。それはサフィナから送られる別れの言葉であり、自分の背中を押してくれているのだと。


 夢を手放したサフィナにそんなことを言わせてしまったことが、ノエは悔しかった。どこまでもこの人に助けられて、今度は自分の夢を助けようとしてくれる。


 本当は自分こそが、彼女の夢を助けたいのに。


「……ありがとうございます」


 無力なノエはただそれだけしか答えることができなかった。




 翌日。マールは久しぶりに曇り空となった。雨が降り出しそうな空気だった。


 そんな暗い空の下、アパルトマンの前でノエとルイズ、そしてサフィナが向かい合っていた。


「短い間でしたけど、お世話になりました。助けてくれたことは忘れません」


「こちらこそ、一緒に仕事できて楽しかったです。ありがとうございました」


 そんなことを語り合うノエとルイズ。ルイズも寂しそうに笑いながら、ノエと握手を交わした。


 本当に短い間だったが、彼女たちと生活できたことは得難い幸運だったと思う。きっと一生忘れることはないだろう。


 その時、ノエはサフィナを見た。


 サフィナは一歩後ろに下がっていた。前に出るのをためらっているというより、この場にいるのが辛そうだった。


 もしかしたら、別れることを拒んでいるのかもしれない。


「ほら、姉さん」


 そんな彼女の心情を察した上で、ルイズが前に出るよう促した。


「あ……」


 サフィナが一瞬言葉をためらう。何を言うべきか。言いたい言葉は何か、そんな想いがせめぎ合っているようだった。


 そんな葛藤を繰り返した後、サフィナは顔を上げた。


「ノエさん、ありがとうございました。ご縁があったら、またどこかでお会いしましょう」


 本当に、今度こそ別れの言葉だった。彼女の中で何かが溢れ出そうだったのかもしれない。


 そんなことをしてしまえば、きっと彼女は止まることができない。それがわかっている彼女は、ありきたりな別れの言葉だけ伝えてきた。


 そんなサフィナに対して、ノエも簡単に挨拶を渡した。


「サフィナさんも、どうかお元気で」


 門出を祝福するための言葉ではない。寂しさを押し隠すための言葉だった。


 まるでこの空のように暗い気持ちのまま、彼らの別れの儀は終わってしまった。





 一人街を歩くノエ。この前までは劇場で仕事をしていた時間なのに、今は一人きり。本当に劇場は終わったのだとノエは実感した


 陰鬱な気持ちに追い打ちをかけるように、雨が降り出してきた。


 空の気まぐれに怒っても仕方ないのに、ノエはつい怒りの眼差しを向けてしまった。


「……そういえば、あの日もこんな雨だったな」


 ノエとサフィナたちが出会った日。あの日もこんな雨の日で、あの旧市街の路地裏で最期を迎えようとしていた。


 今となっては笑い話のような出来事だと思えた。


「あの街、今も残ってるのかな?」


 ふと、そんなことを思った。あまりロマンチックではないが、自分とサフィナが出会った場所。それが今はどうなっているのか、ノエは気になってしまった。


 せっかくだから行ってみよう。そう思ったノエの足は、あの出会いの場所へと向かうのだった。




 久しぶりにやって来た旧市街は、人の気配が全くなかった。見ればいくつかの建物は取り壊されたりしていた。


「ここも開発されるのか……」


 古い時代はわずかでも残さずに消し去る。それが義務であるかのように、この街でも近代化は推し進められていた。


 それをノエは、特に何も感じることなく受け入れていた。


 都市にも変化というのは必要だ。いつまでも淀んだ空気が蔓延すれば、社会全体が窒息してしまう。


 だからこれも必要なことなんだと、ノエは静かに感じ取っていた。


 それでも自分とサフィナが出会った街が姿を消すというのは、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。


「今も残っているかな」


 縁起の悪い場所ではあるが、最後くらいは目にしておこうかと歩き出そうとした。


 その時、彼は意外なものを目にして足を止めた。


「……シモンさん?」


 そこにいたのは劇団にいたシモンだった。彼がここにいることも不思議だったが、彼の隣に並んでいるもう一人の姿にノエは凍り付いた。


「あれは……ロベールさん?」


 シモンの隣には、コメディ・アンネリーズのオーナー、ロベールがいた。彼らは特に何かを話すでもなく、神妙な面持ちで歩いて行くのが見えた。


 何故あの二人がここにいるのか。この場に似つかわしくない光景にノエは混乱した。


 その時、ノエはシモンと団員たちの会話を思い出す。


 烏が殺された事件の後、シモンと密談を交わす団員たち。彼らはロベールに、アンネリーズに戻ることを相談していた。


 それに団員たちは言っていた。シモンもアンネリーズに戻るつもりなんじゃないかと。


 その時の記憶が甦ったノエは、前を歩くシモンたちの姿に冷たいものを感じた。


 彼は無意識にシモンたちの後を追っていた。





 シモンとロベールが辿り着いたのは、この旧市街でもさらに奥まった場所だった。ここも人の立ち退きが済んでいるようで、周りの建物からは命の気配を感じなかった。


 人目を避けるようなその場所で、シモンたちはひっそりと語り合った。


 そんな彼らの会話を聞き取ろうと、ノエはできるだけ二人のそばに近寄った。


「……それで、団員たちは話の通り、アンネリーズで受け入れてくれる。それでいいですか?」


 そんなシモンの冷めた声が聞こえてきた。


「ああ、それでいい。受け入れの準備はできている」


 それに答えるロベールの言葉。淡々と繰り出される言葉を聞いて、ノエは心臓が凍り付いた気がした。


「元々お前にも話していたからな。団員もやりやすいだろう」


 淡々と語る彼らの言葉に、ノエの中で一つの疑念が燃え上がった。


 ロベールはアンネリーズから脱退したサフィナと、彼らを追いかけていった団員たちを取り戻したいと思っていた。


 ならば彼はシモンと秘密裏に繋がり、団員たちを取り戻すよう働きかけていたのではないか?


 あの倉庫で行われていた団員とシモンの会話。団員の話では、シモンとロベールは繋がっていたと言っていた。


 それが本当なら、シモンとロベールは手を組んでいて、サフィナや団員がアンネリーズに戻るよう画策していたのではないか?


 そして、そのために劇場を脅すような事件を起こしたのではないか?


 ノエは否定したかった。だけど、一度燃え上がった疑念は簡単に消すことはできない。彼は憤りを燃え上がらせていた。


 その時、ロベールがシモンに問いかけた。


「それで、やはりサフィナはこっちには戻らないと?」


「ええ。お話してみましたが、こちらの誘いを断りました」


 その言葉にロベールが溜息を吐いた。


「そうか……サフィナにも戻ってほしかったが、どこまでも頑固な娘だな」


「サフィナさんのこと、諦めますか?」


「仕方あるまい。そんなにも夢と駆け落ちしたいというのならそうするといい。あの子が夢にフラれないことを祈ろう」


 呆れたように語るロベールに、気まずそうに肩を落とすシモン。


 そんな二人の姿に、ノエの怒りは沸騰していた。


 この二人がサフィナの夢を壊した。そう思うと目の前が真っ赤に染まり、思考が怒りに染まった。


 彼らがサフィナの願いを壊した。サフィナの夢を壊した。彼の中でその言葉が渦巻く。ノエは呼吸することすら苦しかった。


 許せない。許さない。そんな言葉が彼の中で氾濫していた。


「無駄だと思うが、もう一度サフィナに話してみてくれ。それで戻ってくれたらいいんだが」


 そう言って歩き出すロベール。その後を追うようにシモンを歩き出した。二人はノエの隠れている角の方へ歩き出した。


 もう二人を許すつもりのないノエは、彼らが目の前まで来たところで襲い掛かった。



 騒々しかった劇場も、今は誰もいなかった。作りかけの劇場は、完成を前にその歩みを止めてしまった。


 団員たちが去った後の劇場に、サフィナたちとロイツェル銀行の支店長、二人の事務員がやって来ていた。


「それでは、これで本件は処理させていただきます」


 事務員の淡々とした言葉が劇場に流れる。その言葉にルイズだけが頷いた。


 隣にいたサフィナは、ただ黙って座っていた。目の前で行われる書類のやり取りを、眉をひそめて見つめていた。


 ノエが立ち去った後、、劇場にいた団員は全ていなくなった。あとは銀行との書類処理を終えれば全て終わる。


 それはつまり、彼女の夢が終わることを意味していた。


 この劇場を買い取って一年。それから建物を改修したり、団員を雇ったり、初公演に向けて稽古を続けてきた。もう少しで夢が叶うところまで来ていた。


 だけどあの夜。ノエが暴漢に襲われて顔に傷ができたのを見て、彼女は心が壊れそうになった。


 自分の夢を叶えるためなら、命を削る覚悟だった。だけど、自分の夢のために誰かが傷つくことは耐えられなかった。


 自分の夢が誰かを傷つけてしまう。その可能性に気付かされた時、彼女はもう耐えることができなくなった。


 これ以上誰かが傷付く前に、サフィナは自分の夢を手放すことを決めた。


 これでみんなを守れる。これ以上団員のみんなが不幸になることを防げる。そう思えば後悔はない。


 そう思っていた。だけど、いざ目の前で夢が終わる瞬間を見るのは、やはり悲しかった。


「それでは、こちらにサインをお願いします」


 事務員が書類を差し出した。そこにサフィナがサインを書いた瞬間、彼女の夢は終わってしまう。


「……わかりました」


 ペンを取って書類に向かうサフィナ。それを横から見つめるルイズ。


 夢を終わらせるのなら、せめてそれは自分の手で。それがせめてもの慰めになると思った。


 だけど、やっぱりそれは辛かった。自分の名前でこの劇場を手離すのは胸が痛かった。


『夢を失うのは、魂を半分失うようなものだ』


 昔読んだ戯曲にそんなことが書かれていたのを思い出す。


 半分どころではない。魂そのものを失うような痛みだった。


 だけど、もう終わらせなくてはならない。彼女はその痛みにこらえて、ペンを走らせようとした。


「サフィナさん! いますか!?」


 その時、ドアを勢いよく開いてノエが姿を現した。


「ノ、ノエさん?」


 ルイズが振り向くと、息を切らせたノエがそこにいた。それに彼だけでなく、シモンとロベールも並んで立っていた。


 意外な人物の登場にその場の誰もが驚いていた。ノエは部屋の様子を確認すると、安心したように大きく息を吐いた。


「どうやら、間に合ったようですね」


「あの、どうされました? それにシモンさんとロベールさんも。何かありましたか?」


 戸惑いつつサフィナが声をかける。サフィナに視線を一瞬向けたかと思うと、ノエはその視線を奥の人物に向けた。


「あなたが、呪いの犯人だったんですね。イザーク支店長」


「……え?」


 ノエの視線の先にいるのは、ロイツェル銀行の支店長・イザークだった。


 サフィナもルイズも立ち上がってイザークを見た。事務員たちも戸惑いを見せる中、イザークだけは無表情だった。


「……何ですかいきなり。呪いとは何のことです?」


「この劇場に向けられた嫌がらせの数々。そして放火犯を差し向けたのも、あなたが計画したということです」


 ノエが淡々と語る。イザークが犯人という彼の指摘に、サフィナもルイズも唖然としていた。


 その告発を受けてなお、イザークは表情を崩さず反論してきた。


「何故私が嫌がらせをしなければならないのですか? 嫌がらせをすれば劇団は失敗し、資金の回収もできなくなるのに。そんなことをしてどんな意味があるというのですか?」


 それまでの話をイザークが否定する。自分には嫌がらせをする理由はないのだと。


 その時、ノエは自分が見つけた真実を叩きつけた。


「それはあなたが、サフィナさんとの契約を履行させるより、この劇場を手放すことの方が大きな利益になると気付いたからです」


「……大きな利益?」


 怪訝な顔を見せるサフィナたち。それに応えるようにノエはさらに続けた。


「状況が変わったのは、この街に鉄道計画の話が持ち上がった時です。この街にも鉄道が繋がることが決まると、この旧市街の再開発が始まりました。それにより、この街の土地価格は一気に高騰をはじめました。その時、あなたは気付いたんです。このまま債務を履行させるより、担保になっているこの劇場を手に入れた方が、はるかに利益になることを」


 話を聞いていたサフィナたちは驚愕の顔を見せた。


 サフィナたちが劇場を買い取った後、この旧市街にも鉄道が繋がることが決まった。それにより街の再開発が始まり、同時に土地価格は一気に跳ね上がった。もはやこの土地は金塊以上の輝きを放つようになっていた。


 この劇場も価値が一気に跳ね上がった。おそらく、最初に買い取った時の金額はとっくに上回っているはずだ。


 そのことに気付いた時、イザークはこのまま契約を履行させるより、失敗させることを選んだ。それにより、担保になっているこの土地を手に入れることができる。それこそ、金塊以上の価値となったこの土地を。


「あなたはその利益を手にしようとして、この劇場に嫌がらせをはじめました。サフィナさんたちがこの劇場を手離して、自分の物とするために。そうすれば、あなたの手元に莫大な利益が舞い込む。あなたの目的は担保となったこの土地であり、この土地が生み出す大量の金貨だったんです」


 ノエが語る真相にサフィナたちは信じられない気持ちだった。そんな彼らを前にノエはさらに語り続けた。


「最初に違和感を覚えたのは、烏が殺された事件の数日後、あなたが僕と話をした時です。僕が復讐の丘のセリフをいたずら書きされたことを言うと、あなたはそれを戯曲のセリフだと言って、悪趣味だと仰っていました」


「ええ。確かにそう言いましたが、それが何か?」


「それではおかしいんです。確かにいたずら書きされた言葉は復讐の丘のセリフです。だけど僕はそれが戯曲にあるセリフだとは一言も言ってないんです。なのにあなたはそれを戯曲に出てくるセリフだとわかっていた。それはつまり、あなたが犯人に何を書かせるかを指示していたからではないですか?」


 汝の魂に呪いを刻みつけようぞ。それは戯曲にしか書かれていないセリフで、ノエも最初は戯曲に出てくるものだとは気づかなかった。


 だがイザークはそれが復讐の丘の、しかも戯曲のセリフだと看破していた。


 呪いの言葉は誰にも見られないようにすぐに消していたにも関わらずだ。


 その違和感に気付いたノエは、イザークが犯人ではないかと考えたのだ。


 今思えば、あの時イザークがサフィナたちの稽古を見ていたのも、劇団の状況を探っていたのだろう。


 そうして彼らの精神が参っているの見て、トドメとして男たちに放火をさせようとしたのだ。


 ノエの鋭い視線がイザークに向けられる。だがイザークはその表情を崩すことはなかった。


「……さきほどから不名誉なことを仰いますが、その話に信憑性はありますか? 全てあなたの推測なのではありませんか?」


 イザークの鋭い指摘が入る。彼の言う通り、これまでのノエの話には確たる証拠がなかった。あくまで状況証拠であり、そうであろうという話でしかなった。


「何か証拠があるのですか? そうでなければあまり不愉快なことは仰らないでいただきたい」


 叱責するように言葉を投げかけるイザーク。彼の堂々とした反論にサフィナもびくついてしまう。


 しかし、その言葉にもノエは負けることはなかった。


「証拠はありません。ですが、証人がいます」


 ノエはそう言うと、後ろにいたシモンに合図を送る。シモンは廊下の方に向かうと、また新たに何人かが部屋に入ってきた。


「おい! やめろよ! 痛いから引っ張るなよ!」


 そんな怒声が響き渡った。あまりの響きにサフィナがびくっと身体を震わせた


「……な!」


 入って来たのは警察官と探偵のモリス。そして彼らに腕を掴まれた一人の男だった。その男を見て、イザークの目が見開かれた。


 連れてこられた男の顔には、赤いアザみたいなものができていた。皮膚がただれたようになっていて、見ていて痛々しいほどだった。


「この男は劇場に忍び込んで放火を働こうとした犯人の一人です。彼があなたの命令で犯行に及んだと証言してくれました」


 ノエがイザークを見つめると、明らかに動揺していた。先ほどまでの堂々とした態度はすっかり消え失せ、もはや判決を待つ罪人のように狼狽えていた。


 それでも、彼の中にいくらかの気概が残っていたのか、震える声で反論してみせた。


「わ、私はそんな男は知らない! その男の証言だって、でっち上げじゃないのか!」


「いえ。でっち上げではありません。それは彼の顔の火傷が証明しています」


 ノエはそう言うと、ポケットから何かを取り出した。それはルイズから譲られたアロマ用の精油だった。


「これはベルガモットという柑橘系の果物から作られた精油です。あの事件の夜、私たちは劇場で遭遇した犯人たちにこの精油を投げつけました。その時、男の顔に精油が浴びせられました」


「それが何だと言うんだ!」


「あまり知られていませんが、ベルガモットには光毒性と呼ばれる性質があります。ベルガモットに含まれる成分には太陽の光に反応するものがあり、その精油が肌に付着して太陽の光を浴びると皮膚が炎症を起こすんです。ちょうど、今の彼みたいに」


 ベルガモットなど一部の柑橘系の果実には光毒性・光アレルギーなどがあり、それが皮膚に触れたまま日光を浴びることで炎症を起こしてしまう。重症の場合は火傷みたいな症状を引き起こすこともあった。


 男の横でシモンが口を開いた。


「我々はこの街の病院を全て調べ、顔に火傷を負った患者を探しました。そうして我々はこの男を探し当てることに成功しました。彼はすぐにあなたが犯人だと証言してくれましたよ。イザークさん」


 イザークの顔から血の気がなくなるのを感じた。もはや生気すら奪われているように思えた。


 きっとイザークは、男が見つかることはないだろうと思っていただろう。それ故、自分に嫌疑がかかることもないと確信していたはずだ。


 だが、その確信は崩れやすい信用で成り立っていた。信用がすでに崩れ去っていたことを知って、イザークは愕然としていた。


 そのイザークに犯人の男が口を開いた。


「悪い。だんな。他の仲間も捕まってる。もう手遅れだ」


 男が皮肉交じりに語る。彼自身諦めているのか、もう誤魔化す気もないようだった。


 横で聞いていた事務員は狼狽し、イザークはもう息も絶え絶えだった。サフィナはその様子に同情すらしていた。


 その時、ノエがイザークに向けて言い放った。


「金貨の輝きは人を簡単に変えてしまいます。あなたはその輝きに惑わされて、金の亡者になってしまったんです」


 この劇場は呪われていると噂されていた。ある意味それも間違いではなかった。金の亡者に呪われていたのだから。


 ノエの言葉に立ち尽くすイザーク。そんな彼に警察官が宣告した。


「イザーク支店長。医者もこの男の火傷がベルガモットの精油によるものだと証言している。もはや言い逃れ場できませんぞ。このまま署まで同行願います」


 警察官の言葉に反抗する気もなかったのか、イザークは黙って項垂れるのだった。




 警察官に連れ出されるイザーク。後に残された事務員も関係者として警察官に連れて行かれた。


 静寂が漂う。目の前で起きた出来事に、サフィナもルイズも呆気に取られていた。


「サフィナさん!」


 そんな彼女にノエが駆け寄る。興奮している彼は、サフィナの手を取った。


「間に合ってよかった……! 本当に」


 サフィナは手を握られてびっくりしていたが、すぐに冷静さを取り戻して、ノエに視線を向けた。


「えっと、どうしてノエさんがここに? それにシモンさんとロベールさん。それと……」


 サフィナがモリスに目を向ける。不安そうなその視線に気づいて、モリスが帽子を取って会釈した。


「失礼、名乗っていませんでしたね。私は探偵をやっているモリス・フローベルと申します。以後、お見知りおきを」


「は、はあ……」


 自ら探偵を名乗るモリスに、なお不思議そうな顔を見せるサフィナ。何故探偵がノエたちと一緒にここにいるのか。彼女はその疑問を口にした。


「あの、その探偵さんがどうしてここに? 一体何があったんですか?」


「実は昨日、シモンさんたちと偶然会ったんですが……」


 それからノエは事件の真相に気付いたこと。放火犯たちを探し出したこと。そうして今ここに来たことを話した。話を聞いていたサフィナたちも、推理小説のような出来事に目を丸くしていた。


「そんなことがあったなんて……」


「ええ。本当に大変でした。さっきの放火犯を見つけるのに、街中の病院を探しましたよ」


 シモンがそんなことを呟くと、やれやれと言った様子で肩を叩いて見せた。


「そういえばさっきの男はどうやって見つけたんですか? 病院と言ってもこの街にはいくつもあるんですよ。全部探したんですか?」


「モリスさんが協力してくれたんです」


 ルイズの疑問に対し、ノエがモリスの名を挙げた。


「探偵をしているモリスさんなら、犯人が行きそうな病院を絞り込んでくれて、そこを重点的に探すようにしたんです」


 ノエの話を受けて、モリスが誇らしげに笑った。


 探偵という職業柄、この街の裏社会にも精通しているモリスは、犯罪者が行くような病院についても把握しており、そこからある程度の予想ができたのだという。


「でも、それでも犯人を捜すのは大変だと思いますが・・・・・・」


 そんなサフィナの言葉に、ノエが小さく微笑んだ。


「私たちだけじゃありません」


 その言葉にサフィナたちは首を傾げる。一体彼が何を言っているのか、二人とも理解できずにいた。


 そんな二人にノエはもう一度、笑みを浮かべて答えた。


「みなさんが協力してくれたんです」


 ノエはそう言うと、彼はサフィナの手を取って彼女を連れ出した。


「ノ、ノエさん?」


 戸惑うサフィナに構うことなく、ノエは彼女を大広間まで連れてきた。


「団長!」


 そんな声が広間に響いた。その声にサフィナが顔を上げると、彼女はその光景に目を見張った。


「団長! 大丈夫ですか!?」


「犯人は捕まりましたか!?」


 彼女の前には、この劇場を去った元団員たちがそこに集まっていた。彼らはアンネリーズに戻った団員で、もうここに戻ることはないはずだった。


「みなさん……どうして?」


 彼らの姿を信じられない様子で見つめるサフィナ。そんな彼女に団員の一人が声を上げた。


「ノエさんに言われたんです。犯人を見つけてほしいって」


 その言葉に周りの団員も強く頷く。それでも何のことかわからないサフィナだが、後ろからロベールが声をかけてきた。


「そこのノエさんが彼らに言ったんだよ。犯人を見つければ劇場を守れるって。そのために犯人探しに協力してほしいと」


 ノエはシモンたちに頼んで、犯人捜しのためにアンネリーズに行った元団員たちの力を貸してほしいとお願いしたのだ。


 話を聞いた団員たちは誰も断ることなく、犯人捜しのために駆け回ってくれたのだ。彼らは街のいたるところで『顔にアザのある男』の情報を集め、犯人を探し当てることに成功したのだ。


「お前の劇場を守れると聞いたら、みんな喜んで飛び出して行ったよ。全く、がっかりだよ」


 そんな風に悪態をつくロベール。今ならそれも彼の不器用な優しさだとわかると、ノエも苦笑いを浮かべた。


 今も立ち尽くすサフィナ。その光景に喜んでいるのか驚いているのか、もはや彼女自身にもわからなかった。


 そんな彼女に団員たちが叫んだ。


「団長! 劇場は手離さなくてもいいんですよね!」


「私、またここに戻ってもいいですか!」


 誰もが鼻息荒く、同じ輝きを彼女に向けていた。


 サフィナが横にいるノエに顔を向ける。


「ノエさん……」


 サフィナの目から涙が零れる。涙でぐしゃぐしゃの顔のままノエに語り掛けた。


「ありがとうございます……ノエさん、本当に……」


 ノエが劇場を守ってくれた。そのことにお礼を告げるサフィナ。だがノエは首を横に振った。


「私の力じゃありません」


 彼はそう言うと、周りにいる団員たちを見回してから言った。


「みんなが、あなたの夢を愛してくれたからです。サフィナさん」


 ここに集まっているのは、サフィナの夢のために集まった人々。彼女の夢を愛し、共に夢を叶えたいと願った人々だ。


 彼女の夢のために集まってくれた。そのことを知り、サフィナはもう一度ノエを見た。


「ありがとうございます……夢を守ってくれて……」


 それからサフィナは泣き続けた。演技でもなく、台本にも書かれていない、彼女の本当の涙。


 そんな彼女をノエは優しく見守るのだった。




 こうして事件は解決し、劇場は守られた。離れて行った団員たちも戻り、以前と同じ劇場に元通りとなった。


 事件の後、イザークのいた銀行はサフィナに謝罪し、返済については一旦保留とすることにしてくれた。


 シモンたち団員も劇場に戻ってきた。アンネリーズに戻ったはずの団員たちも全員サフィナのところに戻ってきたようで、ロベールは特に何も言わず、彼らが戻っていくのを止めたりはしなかった。


 元に戻った劇場は再び初公演に向けて動き出した。団員たちは稽古を繰り返し、ノエとジールは再び書類の山と戦うことになった。


 そんな日々を繰り返して、彼らはその日を迎えることになった。

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