第3章
その光景をどう表現するべきか、ノエにはわからなかった。あるいは、説明できる言葉自体がなかったのかもしれない。
数え切れない数の烏の死骸が散乱している光景など、この世に存在していい光景だとは思えなかった。
どの死骸も身体を切り刻まれ、そこから流れ出した血が辺りを赤く染め上げていた。
この前の事件の時は赤いペンキだったが、今回は間違いなく血が流れていた。鼻をつくようなその生臭さは、それが間違いなく現実のものであることを告げていた。
そうして呆然としていると、周りにはさらに人が集まり出していた。危険を感じたノエがサフィナたちに声をかけた。
「二人とも、早く劇場に。目立たないように裏口から入りましょう」
サフィナとルイズが頷く。瞬間、サフィナの顔色の悪さを見て、ノエの胸に嫌なものが込み上げた。
劇場に入ると、すでに騒ぎを知った団員たちが身を寄せ合うようにして集まっていた。サフィナたちがホールに来ると、団員たちが三人に駆け寄ってきた。
「団長! 大丈夫ですか!?」
みんな心配そうな顔で声をかけてくる。それに対しサフィナは宥めるように笑みを向けた。
「私は大丈夫。何もないわ。みんなも大丈夫?」
「大丈夫です。さっきシモンさんが片付けに出たので、少ししたら戻ってくると思います」
その言葉にホッとするサフィナだが、明らかに団員たちの顔色は悪かった。その時、団員一人が歩み寄ってきた。
「団長。玄関の死骸もですが、実は劇場の門にまた悪戯書きがされていたそうです。『貴様の魂に呪いを刻もうぞ』と」
その言葉を聞いて、明らかにサフィナに動揺が走る。その言葉自体が呪いのように聞こえたのか、顔色の悪さがますます濃くなっていた。
「すぐに洗い落としたので、誰も見ていないとは思いますが……」
「そう……ありがとうございます。みなさんに何事もなければそれで構いません」
サフィナはそう言って、団員たちを労った。
その時、ノエは団員たちの顔を見た。あまりの顔色の悪さに同情すら感じた。烏もそうだが、門に呪いじみた血文字が書かれているのを見れば、恐怖の色に染まるのも仕方なかった。
その時、団員の一人がサフィナに声をかけた。
「団長……やはりこれは、呪いなんじゃないでしょうか……」
恐怖に震えながら語り掛けてくる団員。呪いという言葉に他の団員たちも反応して、一斉にサフィナに詰め寄ってきた。
「そうですよ! やっぱりこれは伯爵の呪いですよ!」
「このままだと私たち、伯爵に殺されるんじゃ……!?」
「やめて! 変なこと言わないで!」
彼らの恐怖が一気に燃え上がったのか、誰もが口々に騒ぎ出した。
彼らに共通しているのは、呪いという言葉に恐怖しているという点であり、誰もがその言葉を口にしていた。
もう誰もが恐怖で感情をコントロールできずにいた。放っておけば、彼らはいつまでも騒ぎ続ける勢いだった。
その時、サフィナの声がホールに響いた。
「落ち着きましょう、みなさん。私がそばにいますから」
その静謐なる声が彼らの心に響いたのか、まだ恐怖が残りつつも、彼らはそれ以上騒ぐのを止めた。
「とりあえずみなさんは身の回りの安全を確認してください。必要でない限り外には出ないように。もし記者さんに質問されても、何も答えないようにしてください」
「……わかりました。そのように」
渋々ながら、彼らは団長の言葉に従った。まだ彼らの中でモヤモヤしたものが渦巻いているのだろうが、それ以上騒ぐこともせず、それぞれのやるべきことに向かった。
「ノエさん、大丈夫ですか?」
その時、サフィナがノエに語り掛けてくる。心配そうな顔で見つめられ、ノエは思わず顔を背けた。
「あ……はい。自分は大丈夫です」
その言葉にサフィナも安心した様子を見せた。すると横にいたルイズが声をかけてきた。
「二人とも、とりあえずここはみんなに任せて、一旦私の部屋に行きましょう」
ルイズの言葉に応じて、ノエたちはホールを出て行った。そのまま三人はサフィナの部屋に向かおうとしたところで、団員の一人が声をかけてきた。
「すいません、オーナー。銀行の方が見えられてますが……」
「おやおや、相変わらず耳が早い。わかりました」
呆れたように笑うと、ルイズはノエに伝えた。
「先に部屋に行って待っててください。終わったら行きますから」
「はい。わかりました……」
ルイズがその場から立ち去るのを見てから、ノエたちはルイズの部屋へ向かうのだった。
ルイズの部屋に来た二人は、長椅子に座ったまま黙り込んでいた。
部屋が重苦しい空気に満たされる。ノエの中では、先ほどの光景が何度も反芻されていた。身体にこびりついたのか、血の匂いが鼻腔に残っていた。
ノエが対面に座るサフィナに目をやった。俯き加減の彼女の顔は眼鏡に覆われていて、どんな顔をしているのかわからなかった。だが彼女から流れてくる空気からは、辛そうな雰囲気が感じ取れた。
それがノエには辛くて、、彼はサフィナに話しかけた。
「サフィナさん、大丈夫ですか? やはり気分が悪いのでは?」
あんな光景を目の当たりにしたのだ。気分が悪くなっても無理はない。それに血の匂いというのは嗅いでいて気持ちのいいものでもない。慣れていない者なら卒倒してもおかしくなかった。
そう心配してのノエの言葉だったが、ルイズは首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。大丈夫、ですから」
そう答えるルイズの言葉からは力が感じられなかった。明らかにショックを受けているのがわかった。
あんなことが起きたのだから、ショックを受けない方がおかしかった。だがそれ以上話しかけるのもためらわれ、ノエもそれ以上は何も言わなかった。
その時、ルイズが部屋にやって来た。
「お待たせ。二人とも、大丈夫?」
ルイズの姿にサフィナもわずかに安堵したのか、ホッとしたような顔を見せた。
「ルイズ。みんなは大丈夫?」
「とりあえず今は落ち着いている。たださすがにショックを受けているかな」
無理もない。あんなショッキングな光景を目の当たりにして、冷静でいられるはずがなかった。
「稽古はやってもいいけど、無理なようだったら休んでもいいと思う。姉さんもそれでいいよね?」
それがいいだろう。団員たちの間には今回の騒動でかなり動揺している。そんな精神状態では良い稽古ができるとは思えなかった。
「ノエさんも気分が優れないでしょうから、無理そうだったら休んでください」
サフィナから気遣いをもらうノエ。彼女も大変だというのに、周りにそんな素振りを見せず、団長としての仕事をこなしている。
痛々しいその姿にノエも胸が痛くなる。ただ彼女は夢を叶えようとしているだけなのに、その夢に悪意が襲ってくる。ノエは世界の不条理さを感じずにいられなかった。
「しかし『呪いを刻もうぞ』なんて。『復讐の丘』のセリフを使うとか、悪趣味なことだね」
そんな空気の中、ルイズがそんなことを呟いた。
「え? あれって『復讐の丘』のセリフでしたか?」
『復讐の丘』とは、ローグ王国の作家が世に送り出した小説だった。とある名家の令嬢と恋仲に落ちた男が、令嬢に裏切られることで始まる復讐劇を描いた物語だった。
ノエも『復讐の丘』を読んだことがあるのだが、『呪いを刻もうぞ』などというセリフは記憶になかった。それ故、そんなセリフがあっただろうかと彼は首を傾げていた。
その疑問にサフィナが答えた。
「はい。でも小説の方ではなく、舞台になった戯曲に出てくる言葉なんです。戯曲では内容が少し変わっていて、戯曲にだけ出てくるセリフなんです」
「ああ、なるほど」
サフィナの言葉にノエも納得する。彼も一度だけその舞台を見たことがあるが、確かにそんなセリフがあったように思った。
「しかし、姉さんの劇場にそんな言葉を書き殴るなんて、センスがいいのか意地が悪いのか」
ルイズが溜息を吐く。女優であるサフィナにそんなセリフを投げつけるのだ。かなり陰湿な所業と言えるだろう。
「そういえばルイズさん。また銀行の方が来たみたいですけど、何か言われましたか?」
ノエの問いかけにルイズは呆れ笑いを浮かべて肩をすくめた。
「また同じことを言われましたよ。まあ、劇団が失敗したら資金の回収もできなくなるから、言いたくなるのもわかりますけど。今は私の部屋で待ってもらっています」
もはや聞き飽きてしまったとでも言いたげなルイズの表情だった。
「まあわからなくもないですが……でも、返済できなかったらどうするんですか?」
「そこは大丈夫です。融資してもらう時にこの劇場を担保にすることを条件にしましたから。支払い自体は問題ないですよ」
確かに事務室で目にした書類の中に、担保についての書類があったのをノエは思い出した。それならば返済自体に問題はないだろう。
だが、問題はそこではない。確かに劇場を売り払えば返済の問題は解決する。
しかし、それだけはしてはいけないと思った。そうしてしまえば、手離すのは劇場だけではない。それはサフィナの夢も手離すことを意味しているのだ。
夢を手放す辛さはノエも知っている。彼も小説家になる夢を失い、生きる理由を見失っていた。
それはあまりにも辛くて、悲しいことだった。
その時、ノエがサフィナを見る。彼女は手をじっと握って、何かに耐えるように静かにしていた。
きっと彼女は想像しているのだ。夢を手放してしまうことを。そうなってしまった時、自分がどうなってしまうのかを。
その姿を見て、それだけは絶対にあってはならないとノエは思った。
「とりあえず、今はこれ以上騒ぎが大きくならないようにしないと。これ以上劇団のイメージが悪くなると、それこそ初公演も失敗しちゃうし。姉さんもそれでいいよね?」
「……うん、そうね。みんなには自分の身を守るように言っておいてちょうだい」
そんな会話をするサフィナたち。その時、ノエが一歩前に出た。
「サフィナさん。僕にできることは何かありませんか?」
ノエの瞳がルイズに向けられる。その瞳を見て、サフィナが驚いたように彼を見返した。
正直、ノエにもこの時の気持ちがよくわからなかった。正義感から出た言葉なのか、悪を対する憎しみに燃えていたのか、はっきりとはわからない。
だが一つ確かなことがあった。彼はサフィナの夢を守りたいと思っていた。その気持ちが、彼を一歩前に出させたのだ。
そうした想いに燃えているノエに対し、サフィナは静かに首を振った。
「ノエさん。お気持ちはありがたいですが、無理はなさらないでください。どうか危険なことはせず、自分の身を守ってください」
自分を気遣っての言葉であることはわかった。彼女の言葉はありがたいことだとも理解はできた。だけどノエは、胸に沸き起こった想いを抑えることが出来なかった。
「でも! あんなことしてくる相手を放っておくことはできませんよ! どうにかして相手を捕まえないと!」
「ノエさん」
その声にノエは押し黙った。静かで透き通った声だった。なのに、その声にノエは気圧されていた。
サフィナがじっと彼を見つめる。その瞳に見つめられて、ノエは何も言い返せなかった。まるで悪戯を責められる子供のように。
そんな彼にサフィナが優しく語り掛ける。
「ありがとうございます。でも、その気持ちはどうか抑えてください」
ノエが何か言おうとするが、何も言えなかった。その様子をクスリと笑うと、サフィナはさらに口を開いた
「ノエさん。私は私の夢で誰かが傷つくことだけは絶対にしたくないんです。もしそうなってしまえば、私はその夢を愛することができなくなるから」
ここに劇団を作るというサフィナの夢。その夢のために誰かが傷付いた時、彼女はその夢を誇りに思えなくなるだろう。
もしかしたらそれは、夢を失うより悲しいことかもしれない。
そう言われてノエは黙って俯いた。そんな彼に対し、サフィナは優しく微笑えんだ。
「大丈夫。この劇場も、この夢も諦めません。絶対に叶えて見せます。ですから」
そう言って彼女は慰めるように、ノエに微笑みかけた。
「ノエさんは私の夢を応援してください。それが一番励みになりますから」
そんな彼女の微笑みを見て、ノエは嬉しく思うが、同時に寂しくもあった。
彼女のために何もすることができないというのは、想像以上に辛いことだった。
「……わかりました。自分は事務室に行ってジールさんと話してきます」
ノエはそれだけ言うのが精いっぱいだった。
そう言って部屋から出るノエ。そんな彼をサフィナとルイズは手を振って見送った。
一人で廊下に佇む自分の姿に、ノエは孤独感を抱いた。
まるで自分だけ世界から疎外されているような、そんな寂しさを感じた。
しかたなく事務室に向かうノエ。休むよう言われたが、それでは書類の塚がまた築かれてしまう。
ジールに何かやることがないか聞いてみよう。そんなことを考えながら廊下を歩いていた。
その時、どこかから声が聞こえてきた。
耳を澄ますと、声はすぐそこの部屋の中から聞こえてきた。
「シモンさん。このままここにいても大丈夫なんでしょうか?」
それは役者たちの声だった。雰囲気から何人かが部屋の中にいるようだ。
「私達、アンネリーズを抜けてここに来たけど、こんな気味の悪い劇場、本当に初公演ができるのか不安で……」
そこから聞こえる声は不安の色に染められていて、聞いていて気持ちのいいものではなかった。
「みんな、不安になる気持ちはわかるが、そう気に病まないでくれ」
そんな中、シモンの声も聞こえてきた。どうやら団員たちが集まって、シモンに相談しているようだった。
「呪いなんて馬鹿げているし、団長も私達を守ると言ってくれている。今までもそうだったんだ。団長を信じよう」
「団長は信じてます。だけど……」
「せっかくサフィナさんと一緒に演劇をやるためにここに集まったんだ。これまでの時間を無駄にするのか?」
「それは……そうですが」
不安を訴える団員と、彼らを宥めるシモン。そんな会話が繰り返されているようだった。
彼らの言葉に聞き耳を立てるノエ。その時、団員の一人が口を開いた。
「……でも、やっぱりアンネリーズに戻った方がいいじゃないですか? ロベールさんも私たちに戻るよう言っていますし」
その言葉にノエは、自分の心臓が凍り付いたような気がした。
ロベールがここの団員たちを引き抜こうとしている? バカなと思いつつも、ノエはそれを完全に否定できずにいた。
元々ここの団員はアンネリーズに所属していた者たちだ。引き抜かれた側のロベールとしては、彼らを引き戻したいと思うのは当然だ。
それならば、これまで起きた騒ぎは、彼らを引き抜くためのロベールの犯行なのでは? そんな想像がノエの中で渦巻いた。
彼はそんなことをしないとサフィナは言っているが、本当にそうだろうか?
「シモンさんもロベールさんに戻るよう言われていましたよね? 時々お話をされているようですし、アンネリーズに戻ろうと思ってないんですか?」
「……それだけはない。私はサフィナさんと舞台に立つためにここにいる。絶対だ」
心の底から振り絞るように言葉を紡ぐシモン。その言葉に嘘はないと、ドア越しに聞いていたノエはそう思った。
「とにかく、今は一旦落ち着いてくれ。今日は休んで静かに過ごしてくれ。いいな」
「……はい」
そんな風に語るシモンの声をドアの前で聞くノエ。すると、団員たちが部屋から出ようとしていることに気付き、ノエはその場から離れた。
部屋から離れ、誰もいない廊下で立ち尽くすノエ。
一体これからこの劇場はどうなるのか。サフィナの夢はどうなるのか。
答えの出ない自問を繰り返すノエ。
小説では主人公の運命を描けるけど、自らが望む運命はどうしようもない。
その事実を前に、ノエは自分の無力さを思い知らされていた。
数日後、ノエたちはいつも通り劇場に来ていた。ノエはこの日も書類を片付けていた。
「ノエさん。どうも調子が悪いようですね」
唐突にジールからそんな言葉がかけられた。ノエが顔を上げると、ジールが心配そうな顔をしていた。
ノエは何でもないと言うように、無理矢理笑顔を作ってみせた。
「そうですか? いつも通りだと思いますけど」
「そうですか? それならいいのですが……」
ノエの言葉を信じたのか、ジールもそれ以上何も言わなかった。
あの事件から数日が経っており、劇団も通常の生活を続けていた。
ただ、人の心までは元通りとはいかないようで、ノエは以前と同じように笑うことができずにいた。
きっとサフィナたちにもバレているだろう。時々彼女たちが、ノエを心配そうに見つめる時があった。
情けない。そう思いつつもどうしてよいかわからず、ノエは余計に悩むのだった。
「まあ……無理もありませんか。あの事件以来、団員のみなさんも元気がないようで、稽古の方も上手くいってないようです」
あの事件が起きてから、劇団の空気は明らかに悪かった。特に稽古を再開した役者たちの動きは悪く、以前のような熱の入った稽古にはならなかった。
時々ノエも稽古を見に行っているが、役者たちの動きは明らかに悪かった。あの事件が尾を引いているのは明白で、誰も稽古に集中できないようだった。
この劇場全体が暗い空気に包まれていて、息をするのも苦しかった。まるで本当に呪われているみたいに。
そんな空気を感じ取ったのだろう。ジールが手を休めてノエに語り掛けた。
「ノエさん。一回休憩にしましょう」
「え?」
その申し出に戸惑うノエ。明らかに自分に気を使っているとわかった。
「私も休憩しようと思っていましたし、ノエさんも自由にしてください」
申し訳ない気持ちもあったが、実際仕事が手に付かないのも事実だった。ノエは好意に甘えることにした。
「わかりました。少しだけ外に出ていますね」
そう言ってノエは部屋から出て行くのだった。
とは言え、部屋から出たものの、ノエは何をしようか途方に暮れた。
「……サフィナさん、どうしてるかな?」
サフィナのことが気になるノエ。今の時間はホールで稽古をしていたはずだ。
せっかくなので、稽古の様子を見に行こうとホールに向かって歩き出した。
その時、ホールの入口に佇む男が目に入った。
男はじっと舞台を見ていた。そこではサフィナたちが稽古をしていて、男はその様子を観察するように眺めていた。
「おや? あなたは?」
男はノエの気配に気づいたのか、その視線をノエに向けた。無機質で温度を感じさせないその瞳にノエは寒気を覚えた。
「えっと……はじめまして。事務所で働いているノエと言います。あの、そちらは?」
「失礼、私はロイツェル銀行の支店長、イザークと申します。今日はルイズオーナーにお話をしに伺いました」
銀行という言葉に嫌なものを感じるノエ。今日もここにいるということは、きっと今までルイズを質問責めにしていたに違いない。
「はじめまして……その、支店長はここで何を?」
「いえ、大したことではありません。みなさんの様子が気になったので、ここで見学していたんです」
今までの事件のこともあるのだろう。劇団の運営に問題がないか、その目で確かめに来たようだ。
支店長は稽古の様子をじっと眺めていた。
「ノエさん、でしたか? 最近働き始めたかと思いますが、今回はの事件は災難でしたね」
その時、支店長からそんな言葉がかけられた。そんなことを言われると思っていなかったので、ノエは戸惑いながら言葉を返した。
「あ、ああはい。そうですね。烏もひどいけど、いたずら書きまでされたんですよ。あんまりです」
「ああ。確か復讐の丘の言葉が書き殴られていたとか。劇場に向かって戯曲を使った嫌がらせとは、悪趣味なことですな」
溜息を吐く支店長。彼も今回のことで思うところがあるようだ。
「銀行としては返済に支障が出るようなことは許されません。どうか何事もなく、劇団が成功してほしいところですよ」
そんなことを吐き捨てるように語ってくる。彼も融資している側として、事件のことで苛立っているのかもしれない。
その時、街にある教会の鐘が鳴らされた。
「失礼、そろそろ行かなければ。ルイズさんによろしくお伝えください」
「あ、はい。お気をつけて……」
ノエの言葉は聞こえたかどうか、男は振り返ることなくセカセカと歩いて行った。
銀行は勘定や数字を相手にする仕事だ。数字ばかりしているとああなるのかと、ノエは呆気に取られた。
「あれ、ノエさん? どうしたんですか?」
その時、舞台の方からルイズがやって来た。
「ああ、ルイズさん。自分は休憩でここにいるんですけど……さっきまで銀行の方と話をしていたんです。もう帰っていったけど、ルイズさんによろしくと」
「ああ、支店長ですか? 相変わらずせっかちですね」
そんな風に笑うルイズ。彼のせっかちな性格はいつものことのようだった。
「ノエさんも驚かれたでしょう? いつもあんな感じなんですよ。ちょっと無愛想で怖いところもありますけど、良い人ですよ」
「そ、そうなんですか?」
ルイズの言葉に同意しづらい気持ちのノエ。
ただ少なくとも、自分とは違う世界の住人だろうと彼は直感していた。
「そういえば、サフィナさんたちの様子はどうですか?」
ノエのその問いかけに、ルイズは困ったように笑みを浮かべた。
「稽古は順調……と言いたいですけど、やっぱり雰囲気は暗いですね。どうにも演技に身が入っていないというか」
ノエも舞台の様子を見た。演劇に関しては素人だが、そんな彼でもサフィナたちの様子は芳しくないことがわかった。
やれやれといった様子で笑みを浮かべるルイズ。
その言葉に何も言えず、ノエも暗い表情を浮かべるしかなかった。
「まあ、ノエさんは気にしないでください。姉さんたちを信じてやってください」
「……そう、ですね」
彼のその呟きは、ホールに寂しく響くのだった。
外の空気を吸おうとノエが歩いていると、門のところで団員たちが集まっているのが見えた。
彼らは大道具など美術関係の仕事をしている者たちで、外を指差しながら何か話しているようだった。
この前のシモンと団員たちの密談のこともあり、あまり良い予感がしなかったが、気になったノエは彼らに話しかけてみた。
「すいません、何かありましたか?」
「あ、ノエさん。いえね、外に集まっている人たちのことで話していたんですよ」
「ああ、野次馬の人たちですか?」
ノエはすぐに得心した。この前の騒ぎの後から、劇場の周りには野次馬が集まるようになっていた。また何か起きるのではないかという、嫌悪すべき期待を彼らはしているのだ。
彼らの習性に呆れながら、ノエは団員たちに話を促した。
「何かありましたか? もしかして嫌がらせをされたとか?」
「ああいえいえ。そんなことはありませんよ。ただ変な目で見られていると、やっぱり嫌な気持ちですからね。みんなで愚痴ってたんですよ」
団員の気持ちも無理はない。あの事件の直後は記者たちがずっと張り込んでいて、団員たちから何か聞き出そうといつも出待ちしていたのだ。
最初の頃より落ち着いているが、それでも野次馬が減ることはなく、彼らの好奇心に団員たちは辟易していた。
「中には不気味な男もいるから、余計気持ち悪くて嫌になりますよ」
「不気味な人、ですか?」
「そうなんですよ。劇場の様子を伺っているというか、他の野次馬と違って目つきも鋭いというのか。黒服で目立つから、不気味というより怖いんですよ」
「自分もその男を見たんですけど、なんだか近寄りがたいというのか。もしかしたらこの前の事件も、そいつが犯人じゃないかって話していたんですよ」
「そうでしたか……」
ノエはその話が気になった。どんな男かわからないが、もしかしたら危険な相手かも知れない。
ファンの中にも女優への愛に狂う者もいる。昔は女優との無理心中を図った者もいたという。
その男がそうだとは言えないが、しかしサフィナや団員に危害を加えないとも言い切れなかった。
「ノエさんも気を付けてくださいね。何をされるかわかりませんから」
「わかりました。教えてくれてありがとうございます」
団員の間に不安が広がっている今、これ以上騒ぎが起きるのは避けたかった。それに色々な意味で注目を浴びてしまっている。
何もない事を祈るノエだった。
仕事が終わり、家路に就くノエとサフィナ。ルイズは仕事が残っているとかで、二人に先に帰るよう伝え、ノエたちもそれに従って二人で帰ることにした。
アパルトマンに向かう馬車の中で、ノエとサフィナは無言で座っていた。特に会話をすることもなく、蹄の音だけが聞こえてきた。
外を眺めながら、ノエは事件のことを考えていた。
犯人は何者なのか。一体何が目的なのか。彼はそれについて考えてみた。
伯爵の呪い。ロベールへの疑惑。事件の数々。それらを考え、思考を繰り返すノエ。
しかし、その行いが実を結ぶことはない。
小説・ジョセフ教授の冒険では、教授は見事な推理を披露し、事件を解決していく。
ノエも教授のように思考を巡らせてみたが、一向に解決編に向かうことはできなかった。
自分にはジョセフ教授のような能力はないし、物語の主人公にもなれない。それを思い知る形になり、ノエは溜息を吐いた。
「ノエさん。お疲れですか?」
その時、サフィナが声をかけてきた。彼の溜息を見て、心配そうな顔をしていた。
「あ、いえ。大丈夫です。すいません、溜息なんてしちゃって」
なお心配そうな顔をするが、サフィナもそれ以上何も言わず、また押し黙ってしまった。
ルイズも余計なことを言ってくれたものだと、ノエは内心でだけ溜息を吐いた。
アパルトマンに戻ったノエたちは、それぞれ自室で休んでいた。
ベッドに横になり、一息つくノエ。
最近色々ありすぎて、整理するのに思考が追い付いていなかった。
下宿を追い出されて最期を覚悟したら、女優・ガルニールに助けられて、そのガルニールが立ち上げた劇団で働くことになった。
そうかと思えば、その劇団では事件が起こり、さらにその劇場は呪われているとまで言われた。
この数日間で起こったことを小説にしても、それが実際に起きた出来事だと信じる者はいるだろうか。
「小説よりも変なことになっちゃったな……」
小説家になれなかった自分が、小説以上におかしな出来事に巻き込まれている。誰か自分を主人公に物語を書いてくれないか。そんな考えさえよぎっていた。
「そういえば、父さんはどうしてるかな?」
ノエは喧嘩別れした父親のことを思い出した。あれからだいぶ経つが、どうなっているだろうか。
もしかしたら自分のことは忘れて仕事に精を出しているのかもしれないし、その方がいいのかもしれない。
親不孝な自分のことで、これ以上父親を悩ませたくはない。そんな風に思った。
外を見ると、すでに太陽は沈み、闇が深くなっていた。まだここら一帯は開発の途上で、街灯もほとんどなかった。周囲にある建物から漏れ出る光だけが、点々と辺りを照らすのみだった。
「ノエさん……」
その時、ドアからサフィナの声が聞こえてきた。
「サフィナさん……?」
ノエはその声に違和感を覚えた。いつもの彼女の声と違い、どこか不安そうな色を感じた。
彼がドアを開けると、そこには顔色を悪くしたサフィナが立っていた。
「どうしました? どこか具合が悪いんですか?」
すると彼女は無言で部屋に入ると、そこで窓を指差した。
「そこから通りを見てもらえますか。できる限り外に姿が見えないように」
「は、はあ……わかりました」
何のことかわからないが、ノエは窓から通りの方を見た。
最初は何なのかわからなかった。辺りは暗く、何も見えないように思えた。
だがよく目を凝らすと、そこには確かに誰かがいた。そこには全身黒ずくめの男が一人立っているのが見えた。
思わずゾクリとした。不気味なその印象は、人の世のものとは思えなかった。夜の闇に溶け込んでいるように見えて、まるでそこから生まれたようにさえ思えた。
ノエは昔読んだ小説を思い出す。恋に狂った黒い怪人の物語。一人の女性に恋をした怪人が次第に狂い、闇に紛れて彼女を追い回すようになるお話。
今見えたのはその怪人ではないのか? そんなことをノエは思った。
「やっぱり、誰かいますよね……?」
サフィナが不安そうに口を開く。どうやら彼女も自室であの男を見つけてしまったのだろう。恐怖で震えているように見えた。
「サフィナさん。あの男に見覚えは?」
「ありません。さっき外を見た時に気付いたんです。たぶん私たちが帰って来た時からいたんだと思います」
もしサフィナの言う通りなら、ら男は劇場から自分たちを尾行してきたのかもしれない。
その時、ノエは昼間の団員たちの話を思い出す。野次馬の中に黒服の不気味な男がいると。
もしかしたら、それはあの男のことなのか。ノエは悪寒で身体を震わせた。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。ノエたちが何も言わずにいると、ルイズがドアを開いて入ってきた。
「ルイズさん! お帰りなさい。実は……!」
ノエがそこまで言いかけたところで、ルイズが静かにするよう手で制してきた。それから小さな声で二人に語り掛けた。
「気付いていると思うけど、通りに怪しい男がいる。たぶん私たちが目的だと思う。あの男に気付かれないようにここを出るよ」
ルイズの言葉に頷き、ノエたちは準備を始めるのだった。
生き物の気配すら感じない夜の街を、一台の馬車が走る。周りには誰もおらず、家々の灯りもすでに落ちていた。
御者が馬車を停める。その目の前には劇場があった。馬車が停止したのを確認してノエ、サフィナ、ルイズの三人が馬車から降りた。
馬車が走り去った後、三人はそのまま劇場へと入っていった。
「とりあえず、今日はここに泊まりましょう」
ルイズがそう言うと、ノエたちもコクンと頷いた。
怪しい男に監視されていると知った三人は、誰にも知られないようにアパルトマンから出て行くことに成功した。それからルイズの提案で、今日は劇場で身を潜めることにしたのだ。
「たぶん監視の目は掻い潜ったと思うし、ここに来てることはバレてない。ここなら安全ですよ」
「そう、ですね」
ノエはそう答えながら、アパルトマンで見た男のことを思い出す。
あの不気味さ。あれは物語に出てくる怪人そのものに思えた。本から出てきたような異様さは、思い出すだけで身体が震えた。
「ルイズさん。あの男は何者なんでしょうか?」
その問いかけに一瞬ルイズは考え込んだ。
「……わかりません。ですが、あまり良い想像はできません。少なくとも私たちに対して、不穏な空気を向けているのは確かだと思います」
その言葉にサフィナが不安そうな顔をした。あの男のことを思い出しているのだろう。
「念のため、私はシモンさんたちを呼んできます。近くに住んでいるので、一緒にいてもらうように話してきます」
「待ってください。それなら僕が行きます」
ルイズを行かせるより、自分が行くべきだとノエは声を上げた。だがルイズはそれを制しながら言葉を返した。
「私は大丈夫です。それより、姉さんのそばにいて守ってあげてください」
ノエがサフィナを見た。不安そうにしているサフィナの姿に、彼も不安を抱いた。
「……わかりました。ですが、危なかったらすぐに戻ってきてください」
ノエの言葉に頷くルイズ。その時、サフィナが口を開いた。
「気をつけてね。ルイズ」
「大丈夫。すぐに戻って来る。その間は王子様に守ってもらってね」
そんな冗談を残して、ルイズは一旦劇場から出て行った。
後に残されたノエたち。静寂に包まれ、物音ひとつ聞こえない。
ノエは少し気まずさを感じた。何か安心させる言葉をかけたいとは思うのだが、どんなことを言えばいいのか、迷ってばかりだった。
「ルイズさん、早く戻ってくるといいですね」
結局そんな言葉しか出てこない自分に呆れてしまう。ノエは自分が情けなくなった。
「すいません、やっぱりルイズさんに残ってもらうべきでしたね」
「いえ、そんなことはないです。それにルイズもノエさんのことを信頼してここを任せたんだと思います。私もノエさんに残ってくれてありがたいです」
「それならいいのですが……」
そう言ってお互いに顔を見る二人。急いで出てきたからか、明らかに疲れた顔をしていた。
「何か飲み物を持ってきましょうか? 厨房に行けば何かあると思いますよ」
「……ありがとうございます。お任せします」
サフィナの言葉に応えて、ノエはそのまま厨房へと向かった。
真っ暗な廊下を歩いて行くノエ。ほとんど周りは見えなかったが、日頃から仕事している場所だ。どこをどう歩けばいいか、すでに感覚が覚えていた。
最初に来た頃よりは改装も進んでおり、劇場も完成に近かった。これなら初公演に間に合わせることはできるだろう。
とはいえ、稽古をしている団員たちを見ると、やはり心配になる。事件以降、稽古は続けているものの、やはりショックが大きかったのか、集中できないようだった。
このまま稽古を続けても、彼らにとって満足できる舞台にはならないかもしれない。
その時、サフィナは公演を開くことに同意するだろうか。
ノエは深い溜息を吐く。きっと彼女は舞台に立つことをためらうだろう。
自分が悩んでも仕方ないことだとはわかっている。それでも何も思わずにはいられなかった。
「……とりあえず今は目の前のことだな」
自分たちを監視していた不気味な男のこともある。ノエは頭を切り替えて歩みを強めた。
とりあえず水差しにするか、それともお湯を沸かせて紅茶でも淹れようか。そんなことを考えながら厨房のドアを開いた。
瞬間、ジョルジュは誰かに殴られる感覚に吹き飛ばされた。
「があ!」
思わずうめき声をあげてしまった。誰かに殴られたことだけはわかった。いきなりのことでノエの身体は吹っ飛び、そのまま厨房の床に仰向けに倒れてしまった。
そんなノエの身体に男が馬乗りになり、身体の自由を奪った。
「だ、誰だ!」
そうして声を上げようとしたところで、男はノエの口をふさいだ。
ノエが周りを見る。ノエに馬乗りになっている男の他にもう二人、厨房に忍び込んでいた。
三人とも覆面をしており、どんな顔かまではわからなかった。
その時、男の一人がその手に持っていた松明に火を点け、大きな炎が立ち昇った。
考えるまでもない。その手に持った火を放つつもりなのだ。
そんなこと、させるわけにはいかなかった。ノエは力を振り絞って、口を塞いでいる男の手に噛みついた。
その痛みに驚き、男が身をよじらせる。その隙を突いてノエが男を押しのけて立ち上がった。
「やめろ! 動くな!」
ノエが男を止めようと駆け出す。しかし相手も黙っていなかった。二人目の男が立ちはだかり、ノエに体当たりした。
衝撃が身体に走る。身体にひびが入りそうな衝撃にノエは声も出せなかった。それでもノエは止まることなく、目の前の男に襲い掛かる。
ノエの勢いに驚いた男は懐からナイフを取り出し、ノエに向けて構えた。
それでもノエはその勢いのまま駆けていく。
向かってくるノエに男はナイフを握る手に力を込めた。
その時、ガラスの割れる音が聞こえた。
「ノエさん!」
その声にノエが振り向くと、ドアのところにサフィナとルイズ、それにシモンら団員たちが立っていた。ルイズはその手に小さなガラス瓶を持つと、それを男目掛けて投げつけた。
男の頭で瓶が割れて、中に入っていた水が男の顔を濡らした。
「う……! なんだこれは!」
男がうめき声を上げる。さらにシモンたちも同じガラス瓶を男たちに投げつけながら声を張り上げた。
「動くな! 大人しくしろ!」
男たちを牽制するシモン。しかし、それに従うような男たちではなかった。松明を握っていた男が、その手に握られた炎を床に叩きつけた。
すでに油を流していたのか、一瞬で炎が燃え広がった。その閃光にノエたちの目が視界を失った。その隙を見逃さず、男たちは厨房から逃げ出した。
「待て! 逃がすか!」
「シモンさん! そっちはいいから、先に火を消して!」
駆け出そうとするシモンをルイズが制する。シモンは躊躇したが、すぐに消火に向かった。
「ノエさん! 大丈夫ですか!?」
「……はい。でも、どうしてここに!?」
「あの後ルイズたちが劇場に戻って来た時、厨房でノエさんの声が聞こえてきたんです。間に合ってよかったです」
ほっと胸を撫で下ろすサフィナ。たまたまノエが厨房に向かったことで男たちの暴挙を食い止めることができたわけである。
その時、炎が勢いを増したような気がした。
「ノエさん! ここは私たちに任せて、姉さんを安全な場所に連れて行ってください!」
ルイズに言われて自分もと言い出しかけたが、確かにサフィナの身も守らねばならなかった。
「……わかりました。サフィナさん、ついてきてください」
そう言ってサフィナの手を握り、彼女を外に連れ出すノエ。
その時、サフィナが泣きそうな顔になっていたのを、ノエが気付くことはなかった。
「ここまで来れば大丈夫だと思います」
そう言ってノエたちが来たのは、いつもサフィナたちが稽古をしているホールだった。ノエは周りに誰もいないことを確認してから、舞台までルイズを連れてきた。
「今灯りを付けますから、待っていてください」
そう言ってノエは近くにある燭台にいくつか灯りを点けた。舞台が照らされて、暗闇が消し飛んだ。
自分たちを照らす光に目が痛くなる。ノエは目をこすりながらサフィナに近寄った。
「サフィナさん、大丈夫ですか? どこかお怪我は?」
そう語りかけた時、ノエの目が大きく開かれた。
ノエが見たのは、自分を見て泣き出しそうな顔をしているサフィナの姿だった。
「だ、大丈夫ですか? どこか痛いですか?」
心配して駆け寄るノエだが、サフィナは首を横に振った。怪我でないとすれば、先ほどの男たちが怖かったのだろうか。そう思いかけたところで、彼女が小さく声を上げた。
「ごめんなさい……!」
小さく、そして悲痛な声だった。サフィナの声はまるで叫び声のようにジョルジュの中でこだました。
「あの、何が……」
どうして彼女が謝るのか。理解できず困惑するノエ。そんな彼にサフィナが一歩近寄り、その手で彼の頬に触れた。
「ごめんなさい……私のせいで……」
サフィナの顔が悲しみで崩れる。そこに至ってノエは理解した。彼女は男に殴られた頬を見て、それが自分のせいだと思って謝っているのだと。
「あの……ルイズさんが謝る必要は」
ないですよと言いかけたが、それをサフィナが遮るように声を上げた。
「私の……私のせいです。私のせいで、こんなことに……」
サフィナは自分を責めるように言葉を紡いだ。自分を許せないのか、どこまでも自分を痛めつけていた。
「姉さん! ノエさん! 大丈夫ですか!」
その時、ルイズが二人のところへやって来た。周りにはシモンたちもいるようで、彼らは観客席からノエたちを見上げた。
彼らも言葉を失った。ノエに向かって涙を流すサフィナ。燭台の光に照らし出される二人の姿は、何かの劇を演じているようでさえあった。
いつまでも泣き続けるサフィナを支えるように抱き止めるノエ。どうしてよいか、彼は戸惑うしかなかった。
その時、サフィナが口を開いた。
「ごめんなさい……もう迷惑はかけません」
「……サフィナさん」
その言葉に悪寒を抱くノエ。ルイズの言葉に彼の中で警鐘が鳴り響く。
だめだ。それ以上聞いてはいけない。彼女に言わせてはならない。
「私の夢で、誰かが傷つくのを見たくありません」
彼女はその場にいる全員に聞こえるように声を上げた。
「劇団は諦めます。みんなを守るために」
嗚咽と共に絞り出されたサフィナの言葉を、ルイズもシモンも黙って受け止めていた。
一人、ノエだけは別だった。一番聞きたくない言葉だった。それを彼女の口から聞かされて、形用できない感情が渦巻いた。それは絶望なのか、それとも落胆なのか。
重く、苦しいその感情に、ノエはもう呼吸するのも苦しかった。
ホールにはサフィナの嗚咽だけが響いていた。