第2章
ノエたちの周りでは、やいのやいのと人々がその光景を前に騒いでいた。騒ぎを聞きつけた野次馬が集まってきたようだ。
騒ぎが大きくなり始めた時、劇場からシモンら役者たちがこちらにやってきた。
「邪魔だ邪魔だ! どいてくれ! 帰った帰った!」
周りに集まる野次馬たちを牽制しながら、シモンたちは赤く汚れた呪いの言葉を掃除し始めた。
そんな彼らを見に来ようと人がさらに集まってくる。このままだと騒ぎを聞きつけた記者たちも集まって来るだろう。そうなっては面倒だとノエは思った。
「二人とも、早く中に入りましょう」
「……そうですね。わかりました」
ルイズが頷き、歩き出す。その時、サフィナはその場を動けずにいた。見れば顔面蒼白になり、呼吸も荒くなっていた。
「サフィナさん。こっちへ」
心配したノエは彼女の手を取って、劇場へと連れて行こうとした。
「あ……はい」
手を握られて驚きつつも、サフィナはその手を握り返す。彼女はノエに連れられて、劇場へと入っていった。
「あ! サフィナさん! ルイズさんも! 大丈夫でしたか?」
三人がホールまでやって来ると、団員たちがそこに集まっているのが見えた。彼らはノエたちがやって来るのを見ると、助けを求めるようにサフィナに駆け寄った。
「外に人が集まっていたけど、何か言われませんでしたか?」
心配そうに話しかける団員に、サフィナは安心させるように微笑んだ。
「私は大丈夫です。みなさんは何もありませんでしたか?」
「私たちも大丈夫です。みんな無事です」
サフィナの微笑みに団員たちはほっとしたように笑みを浮かべた。
「何が起きたの? 教えてくれる?」
ルイズが団員たちに問いかける。それに応えるように団員の一人が話し始めた。
「あれを見つけたのは私です。今日もいつも通りに劇場にやって来たのですが、劇場の前に何人か人が集まっているのが見えました。何があったのか見に行ったら、あんな風にいたずらされていたんです。日が昇るころにはすでに書かれていたみたいです」
その時の光景を思い出したのだろう。団員は恐ろしさで身体を震わせていた。見れば他の団員も、青ざめた顔になっている。
あの呪いの言葉に、誰もが恐怖しているようだった。
その時、団員の一人が大きく声を張り上げた。
「団長! こんなことするはアンネリーズの奴らですよ! あいつら俺たちの劇場を壊すつもりですよ!」
その声が引き金になったのか、他の団員たちも口々に叫び始めた。
「絶対そうよ! ずっと団長にあれこれ言ってきて、醜いったらありゃしない!」
「ロベールさんが何かやってるに違いませんよ!」
団員たちは口々に怒りの声を上げていた。犯人に心当たりがあるのか、彼らの怒りの矛先は同じ方向を向いているようだった。
ただ、事情を知らないノエだけが途方に暮れていた。アンネリーズとかロベールとか、一体何のことかわからないまま、怪訝な顔を見せていた。
「みんな、落ち着いて」
その時、凛とした声が舞台に響いた。その声に団員たちは静まり返った。
団員たちの視線は、サフィナ一人に注がれていた。
「ロベールさんはそんなことはしない人です。勝手なことは言わないであげてください」
毅然と団員たちに言い放つサフィナ。まるで審問官のように言い放つその姿に、団員たちは委縮したように押し黙った。
そんなサフィナの姿を、ノエは信じられない様子で見ていた。人と話すことが苦手で、目を合わせるのも苦労していたサフィナ。そんな彼女が今、団員たちに堂々と語り掛けている。ノエは彼女の変わりようを受け止められずにいた。
ルイズの態度に気圧される団員たち。それでも彼らはおずおずと声を上げた。
「ですが団長。こんなことをするのはロベールさんくらいしか思い当たりませんよ」
「そうですよ。もしそうでないなら、本当に呪いってことに……」
そこまで言いかけたところで彼らは口を閉ざした。それ以上言葉にしてはいけないという風に、全員押し黙ってしまった。
ホールに静寂が満ち始めた時、ホールのドアを開いて何者かが入ってきた。
恰幅のいい冷たい顔をした紳士が、サフィナに向かって歩いて来るのが見えた。
「待ってくださいロベールさん! 今は立て込んでるので今度にしてください!」
その男を追って、シモンが慌てて声をかけている。だがその声に応じることなく、男はそのまま舞台までやって来るのだった。
周りにいる団員たちを一瞥する男。その男に鋭い視線を向ける団員たち。事情を知らないノエでも、よろしくない状況であることは理解できた。
「変な騒ぎになっていると聞いてやってきたが、初公演を直前に控えてこの騒ぎか。本当に大丈夫なのかね?」
嫌味ったらしく語り掛けてくる男に、団員たちは怒りを募らせているのがわかる。そんな団員たちを置いて、サフィナが男に応じる。
「騒がせてしまって申し訳ありません。私たちは大丈夫です」
「……そうかね」
サフィナの言葉に男はそれだけしか答えなかった。
「あの……あちらの方は誰なんです?」
そんな様子を見ながら、ノエは男の正体についてルイズに問いかけた。
「あの人はコメディ・アンネリーズのオーナー、ロベール・ジェルマン。姉さんがアンネリーズに所属していた頃からお世話になっている人ですよ」
ルイズの説明にピンと来るノエ。以前サフィナが所属していたアンネリーズのオーナーがそんな名前だったのを思い出した。
そのロベールがわざわざここに来て何の用なのか。状況を把握できないままのノエを置いて、サフィナとロベールの対峙は続いた。
「門の前はだいぶ大騒ぎになっているじゃないか。誰かに恨まれているんじゃないのか?」
ロベールの言葉が鋭く突き刺しに来る。彼の言葉に団員たちの嫌悪感は増すばかりだった。
「前も言っただろう。このままでは成功できないと。あんな悪戯までされて。もう諦めてうちに戻ってこい。今ならまだ間に合う」
ロベールの言葉にさすがのノエもムッとする。わざわざ嫌味を言いに来たのかと思うと、腹立たしさが湧き起っていた。ノエはロベールに何か言おうと踏み出そうとした。
「諦めません。この劇場も、私の夢も」
凛とした音色の中に、強い意志を込めた声がホールに響き渡った。
サフィナが真っ直ぐにロベールを見つめ、その言葉を紡いだ。
「ここは私の劇場で、私の夢です。誰にも……邪魔させません」
誰にも邪魔させない。そう言い放ってくるサフィナの姿に、ノエはそれまで見てきたサフィナとは全く違う雰囲気に驚いた。
怒っているでもない。嫌悪しているでもない。ただ彼女は、一歩も引くことのない意志を向けていた。
「……変わらないな。その目も、頑固さも」
そんなサフィナの視線を受け止めて、ロベールは呆れたように呟いた。
そうして二人は見つめ合ったまま対峙した。まるで決闘が始まるような雰囲気に、ノエも団員たちも緊張した。
「まあまあロベールさん。そんな怖い顔をしていると、女の子が逃げていきますよ」
その空気を破るかのように、ルイズが前に出る。飄々と歩きながら彼女はロベールに語り掛けた。
「女の子と話す時は笑顔にならないと。せっかくの色男が台無しですよ」
「別に、私が笑う必要はない。色男ならうちの劇団にもたくさんいる。私の代わりに御婦人を楽しませてくれるさ」
ルイズの軽口にロベールは言葉を返す。異様な雰囲気だが、ルイズはそんな中でも楽しそうな笑みを浮かべていた。
「こんな状態で大丈夫なのか? とてもじゃないが、難しいんじゃないか?」
「心配いりませんよ。稽古も順調、改装ももうすぐ終わります。それに、こういう試練を乗り越えるのも、素敵な物語だと思いませんか?」
「どうだろうな。そのまま悲劇で終わらないといいが」
「大丈夫。我が劇団は涙溢れる悲劇よりも、拍手喝采の喜劇が大好きですから。きっと私達のお話もハッピーエンドになりますよ」
そこまで伝えて、ルイズはにっこりと笑った。
「初公演の際は、この『世界一の劇場』に招待して差し上げますよ」
その一言に、ロベールの肩がピクリと反応した。
世界一。つまり、この劇場はコメディ・アンネリーズも上回る劇場にしてみせるという、ルイズの挑戦状だった。
ルイズたちの間に緊張が走る。一言でも口を開けば、何かが壊れそうな雰囲気だった。
ノエをはじめ、団員たちは二人を遠巻きに眺めていた。
その時、団員の一人がルイズに近寄ってきた。
「オーナー。銀行の方がお見えになりましたが……」
ルイズはそれに頷き、二つ三つ言葉を返してからロベールに向き直った。
「すいません。お客様がいらっしゃいましたので、これで失礼します」
「……そうか。なら私も失礼する。邪魔したな」
そう言ってロベールはその場を立ち去ろうと歩き出す。その最後、彼は振り返ってルイズに言った。
「初公演、できるといいな」
無愛想な声を投げかけるロベール。それに対して、ルイズは笑みを浮かべたまま手を振り返した。
「その時は、お気に入りのボックス席に招待しますよ」
ロベールがそのまま振り返ることなくホールを後にすると、団員たちの間に安堵感が漂った。それまでの緊張から解放されたことで、お互いに笑みを交わしていた。
「大丈夫ですか? 団長」
その時、シモンが心配そうにサフィナに声をかけた。その声にハッとした彼女は、身体を小さくして口を開いた。
「あ、はい。その……大丈夫です」
そのサフィナの姿を見て、ノエはまたしても戸惑いを覚えた。さっきまでロベールに向かって堂々と立ち向かっていたサフィナの姿はなく、もじもじとしている引っ込み思案なサフィナがそこにいた。
「あ、あの……それより稽古はどうしますか? 今日はあんなこともあったし、気分が優れないならお休みにしますか?」
「いえ、ただ色々あってみんな動揺しているようですし、稽古は後にしましょう。団長も一回お休みされてください」
周りを見ると、団員たちの不安そうな視線がサフィナに向けられていた。その視線を受けて、サフィナもその提案に頷いた。
「わかりました……それでは少し休んできます。みなさんも無理はなさらないでください」
「団長も気を付けて」
そう言って歩き出すサフィナ。その時、ノエが彼女を見ると、その足元がふらついていることに気付いた。
「サフィナさん」
ノエが彼女を呼び止める。こちらを振り返る彼女の手を握り、そのまま歩き出した。
「一緒に行きましょう。昨日の休憩室でいいですか?」
「あ……はい。ありがとうございます」
よく見ると、その顔も血の気が引いており、手も震えていた。
ノエはその手をぎゅっと握りしめ、彼女を連れて行った。
休憩室に入ると、サフィナは椅子に深く座り込んだ。そのまま身体の中の悪いものを全部吐き出すように、大きく息を吐いた。
「大丈夫ですか? サフィナさん」
「……はい。大丈夫です」
辛そうな顔で答えるサフィナ。すると、今度はサフィナが頭を下げてきた。
「ノエさんもすみません。変なところを見せてしまって」
「いえ、そんなことは……」
そう答えつつ、彼には気になることがあった。それについて聞くべきかどうか迷っていたが、これ以上黙っていることもできず、彼は意を決してその問いを投げかけた。
「サフィナさん、さっき団員のみんなが『呪い』と言ってましたが、何のことですか?」
その時、サフィナの身体がびくりと震えた。ノエの問いかけに明らかに動揺していた。
さっきロベールが来る前、団員たちは『呪い』と口にしていた。
何かを恐れるような彼らの顔に、只事ではない何かをノエは感じ取っていた。
彼らが恐れる呪いとは何のことか。ノエは真相を知りたかった。
そんな彼の問いかけに、サフィナは気まずそうな顔を見せた。
言うべきではない。きっとそんな風に思っているのだろう。だけど、ここまで来てしまったのだ。これ以上無関係でいるわけにはいかない。ノエは黙って彼女の言葉を待った。
「……わかりました。お話しましょう」
そう言って、サフィナはノエの顔を見た。
「始まりは一年前。私がアンネリーズを退団した後です。私は自分の劇団を作るために退団した後、どこに劇団を作るかルイズと考えていました」
ノエもよく覚えている。サフィナが前の劇団を退団し、その後新たに劇団を立ち上げたことを新聞が報じていたのを覚えている。
「私たちはまず、どこかに劇場に最適な建物はないか探すことにしました。そうした中で、私たちはこの劇場に辿り着きました。ただ、見つけた時は劇場ではなく、ただの持ち主のいない空き家ではありました」
「空き家……ですか? この劇場が?」
ノエが怪訝な顔を見せる。これほどの建物がただの空き家だというのは考えにくかった。それに持ち主がいないというのもおかしな話だ。
ノエの疑問を察して、サフィナが話を続けた。
「ここは昔、それこそ革命が起きる前、当時ここに暮らしていたジェラール伯爵という貴族が建てたお屋敷でした。伯爵はここに屋敷を建て、頻繁に宴を催していたそうです」
「ここが屋敷? これほど大きな建物が、一個人が建てた屋敷だというのですか?」
それこそ劇場と呼んでも差し支えないほどの豪華な建物だ。それを一個人で建てたというのは、正直信じられらなかった。
そんな当然の疑問にもサフィナは答えた。
「伯爵は国内でも有数の資産家だったので、劇場を建てるくらいはできたでしょう。このお屋敷を建てたのも、友人を招いて大きな宴を催すためだったと聞いています」
これほど大きな屋敷で客を招いて開かれる宴など、想像もできなかった。おそらくその伯爵にとっては、その宴こそ自らの隆盛を誇るためのものだったのかもしれない。
「ですが、それも革命によって全てが変わりました。この国で革命が起きると、伯爵が保有していた資産は全て価値を失くし、伯爵は一気に没落することになりました。そうなると伯爵に取り入っていた人々が彼から離れるのはすぐだったそうです」
ノエたちが生まれるずっと前、貴族が世界を動かしていた時代。貴族支配を打破するための市民革命が起きた。革命はアンネルのみならず、大陸全土に広がるほどの勢いとなり、世界は大きく変わることになった。
革命は貴族による支配から市民たちによる国政へと歴史を動かした。この時、多くの貴族たちが没落し、かつての栄華は幻の如く消えていった。
「没落したジェラール伯爵には、当時付き合っていた女性がいました。彼は女性をこの屋敷に招いて、自分と一緒に国外に逃げようと言いました。ですが女性はすでに他の男性と付き合っており、伯爵への情はすでに失われていました。彼女に裏切られたことで伯爵は、その場で自殺しました。その時、屋敷の床には血が流れていたそうです」
思わず背筋が寒くなるノエ。あまりに悲惨な結末に、伯爵に同情の念すら抱いてしまう。
「その後、屋敷は色々な人の手に渡りました。上級役人や富豪。それに高級将校など。ですが、それらの人々は全て不幸に見舞われました。失脚や暗殺。原因不明の病死など。それらが続いた後、人々は口々に囁きました。この屋敷は伯爵に呪われている、と」
この屋敷を手にした者は、誰もが不幸に見舞われる。恐ろしい話にノエは肩を震わせた。
「なるほど……この屋敷で死んだ伯爵が、この屋敷を呪っているということですか……」
神妙な面持ちで呟くノエ。怨念と言うべきか亡霊と呼ぶべきか。多くの人を不幸にした伯爵の呪いは、それだけ伯爵の無念が強かったと思わされた。
その時、小さな笑い声が聞こえた。
「……と、そういう噂が立っているというお話です」
そんなことを言って、サフィナが苦笑いを浮かべていた。
「サフィナさん?」
「すいません。変なことを言って。安心してください。呪いではありませんよ。その証拠に伯爵は死んではいませんから」
「……そうなんですか?」
意外な話に呆気に取られるノエ。それが面白いのか、サフィナはさらに笑みを強めた。
「確かに女性をここに招いてフラれたところは同じです。ただその後も伯爵がしつこく言い寄ったところ、怒った女性が思いっきり顔を殴ったそうなんです。床に流れた血というのも、伯爵の鼻血だったそうです。その後伯爵は国外にいる親戚を頼って生き延びて、穏やかな人生を過ごしたそうです」
血生臭い惨劇は一転、酒の肴にしかならない笑い話に変わっていた。それまでの不穏さはなくなり、ノエも呆れたように息を吐いた。
「なんだか、情けない話ですね」
ノエの言葉にサフィナも苦笑いを浮かべる。
「そうですね。でも、その後屋敷を手にした人たちが不幸に見舞われたのは事実です。自らの不正で失脚したりとか、原因不明の病気もただの不摂生だったり、暗殺も部下に嫌われて裏切られたりと、ほとんど自業自得ではありました。だけど、それらの話は伯爵の話と繋がってしまい、この屋敷が呪われているという話になっていったんです」
「なるほど……それが団員たちが言っていた呪いということですか」
事実がどうであれ、人々にとってこの屋敷は呪われているという噂こそが、真実として受け止められているようだ。あの時の団員たちの顔は、呪いこそ真実であるとして恐怖していた。
「そうして誰も買い手つかなくなり、放置されるままだったこの屋敷を、私たちが買い取ったということなんです」
「そういう事でしたか……しかしよく買おうと思いましたね。伯爵の話はともかく、呪われたなんて話では、買う気にならないと思いますが」
「そうですね。ノエさんの言うことも最もですが、ここが手に入れやすかったんです」
ノエの当然の疑問にサフィナが口を開く。
「この屋敷が呪われているという噂ができると、買い手が付かないこの屋敷の価値はどんどん下落していったんです。信じられないかもですが、ここを見つけた時の価格は確か……」
サフィナが口にした金額は、素人目に見てもあり得ない価格だった。これほど大きな建物を買うのは絶対不可能な金額だ。
「それくらい下落したこともあって、私達はここを買い取ることにしたんです。それでも私の貯金だけじゃ足りなかったんで、銀行からも借りましたけどね」
サフィナはそう語るが、不動産取引としてはあり得ない買い物だった。よほど伯爵の呪いというのが恐ろしかったのだろう。
それが今では劇場になろうとしているのだ。物事はどう流れるわからぬものだと、ノエは思った。
そこまで話したところで、ノエはもう一つの疑問を口にした。
「ですが、それだと今日みたいな事件は誰がやったんですか? 犯人に心当たりは?」
これが呪いではないのは当然として、今日のような事件も呪いではなく、生きている人間がやったことで、犯人は必ずいるはずなのだ。
「団員のみんなも言ってましたが、やはりロベールさんが?」
団員のみんなはアンネリーズのオーナー、ロベールが犯人だと言っていた。確かにノエが見たロベールの印象からは、彼が犯人だと言われても信じてしまいそうだった。
「それはあり得ません」
そんなノエの考えを、サフィナがぴしゃりと否定する。有無を言わさない言葉の力に、ノエも思わず口を閉ざした。
「すいません。ノエさんのお考えもわかるのですが、でもそれだけは絶対にありません。ロベールさんは、こんなことはしない人です」
ロベールに対して大きな信頼を寄せるサフィナ。あそこまで嫌味を言われたのに、どうしてそんな風に言えるのか。ノエは当然の疑問を抱いた。
「どうしてサフィナさんはあの人を信じているのですか? あんな嫌味を言われて」
「その……ロベールさんは誤解されやすいと言いますか。悪い人ではないのですが、言葉がキツイところがあって、あまりよく思われないところがあるんです」
実際ノエが見たロベールの印象は最悪だった。彼が犯人だと言われてもそうだとしか思えなかった。
だが、サフィナはそんな彼が犯人ではないと言っている。彼女はその理由を口にした。
「ロベールさんは演劇をとても愛しています。そんなロベールさんが、演劇への愛を裏切るようなことは、絶対しません」
その言葉には嘘がないように思えた。彼女はそれほどロベールを信じているのだとノエにもわかった。
アンネリーズで共に仕事をしてきたのだ。きっとサフィナにしかわからないものもあるのだろう。
「それに、ロベールさんとしては戻ってほしいのは事実だと思います。ここにいる団員のみなさんは、元々はアンネリーズにいた人たちですから」
「え? そうなんですか?」
「はい。団員の半分くらいはアンネリーズから来てくれた人たちです。私がアンネリーズを抜けてこの劇団を作ろうとした時、私の劇団に入りたいと言ってくれたんです。もちろん私は喜んで受け入れたのですが、ロベールさんにとっては面白くないことだと思います」
サフィナの言う通り、ロベールにとっては面白くないことだろう。ここにいる団員たちはサフィナを慕ってアンネリーズを抜けてやってきた。見方を変えれば、アンネリーズは団員の多くを引き抜かれてしまったわけだ。
オーナーであるロベールにとってはつまらない話であり、サフィナを含め団員たちを引き戻したいと思うのも当然だ。
「そういうこともあって、ロベールさんとしては応援できないんだと思います」
困ったように笑いながら話すサフィナ。そんな彼女の話を聞いて、ノエはなお憤りが滾っていた。
サフィナがロベールを信頼しているのはわかったが、正直ノエの中では、ロベールが犯人だという考えがどうしても消えなかった。
本当なら警察に対応してもらってもおかしくないことだ。
そこまで考えたところで、ノエがある疑問を口にした。
「そういえば、警察には相談はされたんですか? そういう話は伺っていませんが……」
今回の事件はさすがに常軌を逸しており、一度警察に連絡するべきだとノエは思った。だがその問いかけに対し、サフィナは首を横に振った。
「それは……ルイズがやめた方がいいって。最悪、劇場を開けない可能性も出ると言って」
「どういうことです?」
「ノエさんの言う通り、警察に相談するべきだとは思います。ですがルイズの話では、状況次第では警察から劇場を開くのは危険と判断され、初公演を中止されることも考えられます」
ルイズの懸念もわからないではなかった。呪い云々はともかく、確実にこの劇場に恨みを持つ者がいる。もしかしたら、団員に被害が出ることも考えられた。そのような状況で初公演をするのを警察は中止する可能性は十分あり得る。
「それに銀行への返済期限が迫っていまして、初公演を成功させないと、返済が難しくなるんです。銀行の方も期限を守ってもらうように言われているので、中止だけは避けたいんです」
そういえば今、銀行の人間がここに来てルイズと話をしているはずだ。もしかしたら事件の話を聞いて、返済について色々小言を言われているのかもしれない
ノエも事務室で仕事をする中、銀行との取引に関する書類をいくつか目にしていた。そこに書かれていた金額を思えば、銀行も返済に対して口うるさくなるのも頷けた。
「それにこれ以上大きな騒ぎにしたくないですしね。呪われた劇場だなんて噂が広まったら、チケットが売れなくなりますから」
「……確かに、あまり風聞はよくないでしょうね」
呪いなんて不穏な噂が広まれば、客足が遠のくことは容易に想像できた。
伯爵の呪いなどと言っているが、ある意味本当に呪いのような存在だ。劇場のこれからの道行きに大きく立ちはだかる存在。
ノエは思う。童話では魔女の呪いは恋人のキスで治り、二人は幸せになって物語が終わる。それなら、伯爵の呪いの解き方など存在するだろうか。そんなことをぼんやり考えていた。
「すいません。私、そろそろ稽古に行かないと。ノエさんも仕事があると思いますが、あまり無理はなさらないでくださいね」
まだ精神的に回復していないはずなのに、それでも稽古に向かおうとするサフィナ。さすがにノエも心配になった。
「大丈夫ですか? もう少し休まれた方が……」
「いえ、少しでも稽古はしておきたいですし、それに舞台に立てば、嫌なことも忘れられますから」
そう言って笑みを浮かべるサフィナ。このまま行かせるのも心苦しいが、舞台に行きたいという彼女の意志を止めるのも、ノエには憚られた。
「わかりました。サフィナさんも無理はしないでください」
ノエがそれだけ伝えると、サフィナは笑みを返してから、部屋を退室した。
部屋に一人残ったノエは、自分の不甲斐なさが情けなくなった。もっと気の利いた言葉が言えなかったのか。ただただ悔しかった。
「ああ、何か騒がしいと思ってましたが、ロベールさんが来ていたのですか。それは災難でしたね」
事務室で書類を片付けるノエとジール。ノエはあれから事務所に来てから、外で起きていた悪戯のこと、ロベールがやって来たことを説明すると、ジールは納得した様子で苦笑いを浮かべていた。
「ロベールさんのことは伺っていると思いますが、サフィナさんがアンネリーズにいた時からのオーナーさんでして、時々ここにやって来るんですよ。」
「サフィナさんから色々聞きましたよ。何だか嫌味な人でしたね」
「はははは。まあ無理もありません。愛想の悪さも重なって、良い印象がありませんからね。決して悪い人ではないんですけどね」
そんなことを笑いながら呟くジール。
本当にそうだろうかとノエは訝しんだ。話を聞く限り、ロベールには事件を起こす動機は十分だと思われた。
劇団を退団され、さらに団員たちを取られた形になるのだ。ロベールにしてみれば、サフィナたちを妨害する理由としては十分ではないのか。
そこま考えたところで、ジョルジュは気になることを質問した。
「今日外で起きた事件は、ロベールさんがやったものじゃないんですか?」
質問を受けて、ジールは手を止めた。
朝の騒ぎの時、団員たちが口にしていた。ロベールがやったに違いないと。
サフィナと団員たち。そしてロベールの関係を考えると、団員が疑うのも無理はないし、そうであったとしてもおかしくはなかった。
そう思ってのノエの問いかけに、ジールは少し考えてから口を開いた。
「その質問をされるということは、ノエさんはロベールさんがやったと考えているということですか?」
「……まあ、そうです」
ジールの言葉にノエはそれだけ返した。
実際ロベールがどんな人なのか、ノエにはわからない。ジールの言うように悪意を向けてくる人ではないかもしれない。でも、本当にそうなのかはノエにはわからないことだ。
善意の人間であっても、一滴の悪意が人を染め上げることもある。彼がその一滴に身を任せたとしてもおかしくはなかった。
ノエの中でロベールに対する疑念が蠢いていると、ジールは静かに口を開いた。
「私も彼のことを疑っていないと言えば噓になります。ですが、疑おうと思えば誰にだって疑いの目を向けることもできます。アンネリーズの団員が勝手にやったことかもしれませんしね」
実際ジールの言う通りかもしれない。ロベールが関知していないところで、アンネリーズの団員が暴走したという可能性もあった。
ただ、そう思うとノエは焦りに似た感情を抱いた。どうにかして犯人を捕まえられないか。彼の中で義憤の感情が渦巻いていた。
そんな彼の心情を察したのか、ジールが宥めるように笑みを向けてきた。
「まあ、私たちが考えても仕方のないことです。今は自分たちの仕事に集中しましょう。ここで手を止めてしまえばば、それこそ劇団の運営に支障が出ますからね」
「……そうですね。わかりました」
正直、今すぐにでも犯人探しに行きたい気持ちではあったが、ジールの言う通りなのも事実だった。ノエはそれ以上何も言わず、目の前の書類にペンを走らせた。
太陽が高くなった頃、ジールからの申し出でノエたちは休憩を取ることにした。ノエも疲れを感じていたのでちょどよい頃合いだと思った。
ノエは部屋を出て少し歩くことにした。小説を書いていた時もそうだが、やはり座りっぱなしの作業は色々な意味で疲れてしまう。血の巡りも、心の呼吸も。
少し歩いてこの疲れを癒したかった。
「あ、ノエさーん!」
その時、ノエを呼ぶ声が響いた。彼が声をする方を見ると、ルイズが手を振って近寄ってくるのが見えた。
「ああ、ルイズさん。お疲れ様です」
「お疲れ様です。今お休みですか?」
「ええ、ちょっと歩こうかと思って。ルイズさんも休憩ですか?」
ノエがそう問いかけると、ルイズが肩をすくめながら苦笑した。
「今まで素敵な男性から熱烈な言葉を言われてましてね。熱い言葉に火傷しそうでしたよ」
「は? はあ……」
彼女が何を言っているのかわからず、怪訝な顔をするノエ。
ノエは思い起こす。確かルイズは、銀行から来た客人の相手をしていたはずだ。
「……もしかして、銀行の人から何か言われたんですか?」
その問いかけにルイズは微笑みを浮かべた。
「ええ。事件が起きて劇団は大丈夫なのか。返済は守ってもらうとか。熱い気持ちが止まらないのか、こんな時間まで話が弾みましたよ」
そんな風に茶化すルイズに同情するノエ。例の事件の話を聞きつけてきた銀行員が、返済能力や劇団の経営に詰問を繰り返したのだろう。
銀行からしても劇団が失敗すれば資金の回収ができなくなる。今回みたいな事件がきっかけで返済計画を頓挫させるわけにはいかないのだ。
相手の心情も理解はできるが、それでもずっと質問攻めに合っていたルイズに、同情せずにいられなかった。
「今までずっと相手してたんですか? 大変でしたね」
「ははは。心配してくれてありがとうございます。いつものことですよ」
そう言って、何でもないというように手を振るルイズ。
オーナーを務めるルイズは外部との交渉や経営を任されているという。そんな彼女がオーナーとして、銀行や出資者の相手をするのも仕事のうちなのだろう。
そんな仕事をする彼女の姿に、ノエは尊敬の念を覚えた。
「まあ以前からよく来てますからね。この劇団ができてから、新聞にも色々書かれましたよ」
「新聞?」
オウム返しにノエが疑問符を返す。
「ええ。この劇団を作った時から、色々なことを言われましたよ。前はアンネリーズから団員を誘拐して、無理矢理働かせているって記事を書かれたこともありました。もしくはガルニールは魔女で、団員を洗脳して奴隷にしているとか」
あまりに荒唐無稽な内容に、ノエは眉をひそめた。そんな記事が出ていたなんて、信じられなかった。
「それ、本当に新聞に載っていたんですか? どう考えてもデマじゃないですか」
「でしょうね。その新聞は面白い記事を書くことで有名なので。それに記事が真実かデマかは関係ない。売り上げが伸びる方を選ぶところですから」
確かに世の中には、売り上げのためならデマを載せる新聞も存在する。
問題は、大衆はそんな記事を受け入れ、真実と思い込んでしまうということだった。
「いいんですか放っておいて。劇団のイメージが悪くなりますよ」
「まあ仕方ありませんよ。それだけガルニールにみんなが注目している証拠ですから」
注目を浴びるということは、それだけ書かれる記事も多くなるということだ。人々はガルニールのどんな話でも聞きたがるし、新聞はそれを記事にして売り上げを伸ばすのだ。
「まあ、そんなことにも対応するのが私の仕事ですから。心配しなくても大丈夫ですよ」
「ルイズさんが?」
「ええ。あまり大事にならないように私で対処してますよ。こう見えて交渉は得意ですから」
得意気に話すルイズに舌を巻くノエ。オーナーという仕事もそうだが、外部との交渉事までするのは、並大抵のことではない。
そんな仕事を一人で背負っている。ノエは思わず声を上げた。
「ルイズさんはいつもこういった仕事をされているんですか?」
「そうですよ。これでもオーナーですからね」
「はあ……大変でしょうに、よくオーナーなんてできますね」
「まあ、本当なら劇団の代表は姉さんがするべきなんですけどね。ほら、姉さんって人と会話するのが苦手でしょう? だからそういう仕事は私がしてあげないといけませんから」
「ああ……確かに」
人と顔を合わせるのも苦手なサフィナのことだ。交渉事なんて、絶対にできないだろうとノエは思った。
その時、ノエは思い出す。今朝ロベールが来た時、彼に立ち向かったサフィナのことを。
あの時のサフィナはロベールに対して一歩も引かず、真っ直ぐに彼と対峙していた。
普段の引っ込み思案な彼女の姿からは想像できない姿だった。少し怖いくらいに。
「どうしました? ノエさん」
ノエがそんなことを考えていると、不思議に思ったルイズが声をかけた。
「え? あ、すいません。その……ロベールさんが来た時のサフィナさんを思い出して……」
彼がそう言うと、ルイズは納得したように笑った。
「いつもと違う姉さんを見て、怖くなりました?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
慌てて否定するノエの様子が面白いのか、ルイズは吹き出して笑った。
「ははは。驚くのも無理はありません。この劇場は姉さんにとって大切な夢で、守りたい宝物なんです」
「宝物、ですか?」
そう言われてノエは思い出す。ロベールと対峙した時、確かにサフィナもそんなことを言っていたような気がした。
「ええ。姉さんは大切なものができたら、何があっても守ろうとする人ですから。あの時の姉さんを見て、そう思いませんでしたか?」
「まあ、そうですね……」
実際あの時のサフィナからは、言葉にできない迫力が感じられた。
だからこそノエは不思議だった。普段は引っ込み思案なサフィナが、あんな姿を見せるという事実が。
その疑問に対する答えなのか、ルイズはさらに言葉を紡いだ。
「姉さんは意地っ張りで強情で、大切なもののために頑張ろうとする人なんです。本当は人と争ったりするのが苦手なくせに、守りたいものがあれば戦うような人。そういう人なんです」
そんな風に笑うルイズだが、その話を聞いてノエは不思議と納得してしまう。
元々はアンネリーズにいたサフィナ。彼女の夢は自分の大好きな物語を演じること。この劇団はそれを叶えるために作られたサフィナの劇場だ。
言い換えれば、この劇場はサフィナの夢なのだ。
「夢のためなら戦うことだって恐れない。姉さんはそんな人で、素敵な人ですよ」
そんなことを呟きながら、ルイズ微笑みを浮かべた。
出会って日が浅いノエには、サフィナたちがどんな姉妹なのかわからない。
だけどそんなルイズの微笑みを見て、少なくともルイズが姉のことを大事に思っていることだけはわかった。
「まあ、今日のことはあまり気にせず、いつも通り相手してやってください。姉さん、ノエさんとお話するのが好きみたいですから」
「……そうなんですか?」
その言葉にキョトンとするノエ。少し前まで自分と話をするのに苦労していたのに、サフィナがそんな風に思っているとは考えにくかった。
「ええ。人付き合いが苦手なだけで、嫌いってわけではありませんから」
苦手と嫌いはどう違うのだろうか? ますます怪訝な表情を強めるノエだった。
ルイズとの話の後、ノエは部屋に戻って仕事を再会した。事件が起ころうとそうでなくても、書類の山が消えるわけではない。ノエとジールはせっせと書類を片付けはじめた。
黙々と処理を続ける二人。ノエも仕事の覚えが早く、仕事のスピードは確実に良くなっていた。
そんな風に仕事を続ける間も、ノエの中では疑念が渦巻いていた。
誰が事件を起こしたのか。そのことをずっと考えている。彼の中ではアンネリーズのオーナー、ロベールが犯人ではないかと、そんな疑いがあった。
そうだとして、目的はただの嫌がらせなのか。それとも別にあるのか。
それに、団員たちが口にした『呪い』という言葉。サフィナたちはただの噂だと答えたが、本当にそうなのだろうかと、ノエの中で消化されないまま残っていた。
その疑念はこの日の仕事が終わるまで、彼の中で蠢き続けるのだった。
この日の仕事も終わり、帰り支度をするノエ
彼は疲れ切っていた。頭が重く感じられ、そのせいで足元がフラついていた。
原因はわかり切っている。仕事中、彼は事件のことや呪いのことがずっと頭の中で渦巻いていたからだ。
事件のことで頭を使い続けたことで、脳が硬くなったような気がした。
考えても解決されることはないのに、どうしても考えずにはいられなかった。自分のことながら呆れてしまうノエだった。
仕事を終えてノエは休憩室へと向かった。
「……あ、サフィナさん」
休憩室に行くと、すでに稽古を終えていたのか、サフィナが静かに座っていた。ノエの顔を見て、彼女は笑みを浮かべてくれた。
「あ、ノエさん、お疲れ様です」
「サフィナさんも、お疲れ様です」
ノエも笑みを返す。ただ、彼は自分が上手に笑えていたか自信がなかった。疲れや悩みに支配されていて、心から笑えた気がしなかった。
そんな彼の心情を察したのか、サフィナが困ったように笑った。
「すいません、お疲れですよね。あんなことがあった後ですから」
「い、いえ。そんなことは……」
否定しようにも、その言葉に力はなかった。そんなノエに優しさを感じたのか、サフィナはふっと笑った。
お互い黙り込む二人。先に沈黙を破ったのはノエだった。
「大丈夫ですか? サフィナさん。稽古や団長の仕事も忙しいのに、あんな悪戯をされて。お疲れではないですか?」
初公演に向けての毎日の稽古。団長としての責務。そこに今朝みたいな事件が起これば、心が壊れてもおかしくない。それでも彼女はこうしてその責務を果たそうとしている。そんな彼女の姿にノエは心配になる。
だがノエの心配する声にも、彼女は何でもないとばかりに笑った。
「大丈夫です。まだまだ私は元気です。シモンさんや団員のみなさもいますから」
そう言って力強く笑みを見せてくるサフィナ。
「それに大好きな演劇や物語のことですから。そのためなら私は頑張れます」
その微笑みに嘘はなかった。サフィナの物語に対する想いは本物だ。そして、その想いを彼女は守り抜こうとしていた。
ルイズは言っていた。サフィナは物語が大好きで、大好きな物語のためなら絶対に退かない。そんな心の強さがあると。
今、ノエはその意味を思い知らされていた。彼女の物語に対する想いは、きっと誰にも負けない輝きがあるに違いないと。
その輝きを前にして、ノエの中に一つの想いが芽生えた。
彼女の想いを、自分が守りたいと。
「……そうですよね。ここはサフィナさんの夢なんですよね。だったら、負けていられませんよね」
この劇場は夢だとサフィナは言った。彼女はその夢を守り抜くと言った。
その夢を自分も守りたい。ノエはそう願い、言葉にしていた。
その言葉がどんな響きに聞こえたのか、サフィナはとても嬉しそうに笑った。
「はい! 負けません。絶対に」
夢を語るサフィナは、本当に楽しそうに笑ってくれる。その微笑みを、ノエは守りたいと願うのだった。
それから数日、ノエたちは劇場で働く日々を送った。初公演に向けてサフィナの稽古は熱を上げ、団員たちの士気は日に日に高まっていった。
その熱量に比例するように、ノエたちが相手にする書類の量も増えていった。だが団員たちの熱気にノエも狂わされたのか、書類を相手にしても苦にはならなかった。
その間は新たな事件も起きず、彼らは誰にも邪魔されず、初公演に向けて働き続けた。
おそらく、団員の中には事件のことを忘れている者もいたかもしれない。それほど無心で、余計な物は全て削ぎ落して、彼らは初公演に向けて働き続けた。
そんな日々をノエは熱に浮かされたように楽しむのだった。
ノエたちを乗せた馬車が劇場に向かって走る。この道も前より舗装が進み、随分走りやすくなっていた。
「ここら辺もだいぶ開発が進みましたね。駅舎も完成が近いみたいですし、またアパルトマンが増えますね」
外を流れる光景を眺めながら、ルイズが満足そうに笑う。
「本当ですね。これで劇場が完成すれば、この街も華やかになりますね」
そう呟くノエ。この生まれ変わった街で、サフィナの劇場が新たなシンボルとして人々に愛される。そんな光景を想像して、ノエは自然と頬を緩ませた。
サフィナも同じことを想像したのか、彼女は特に何も言わず、押し黙ったまま微笑んでいた。
「そうですね。これだと姉さんの希望通り、素敵な本屋ができるかもしれませんね」
「ちょ、ちょっと何を言うのよルイズ」
ルイズの唐突なからかいに恥ずかしそうに反応するサフィナ。そんな二人を微笑ましく見つめるノエ。
楽しかった。とにかくこの時間を過ごせることがノエには嬉しかった。
夢を語り、未来を夢想し、歓談を交わすこの時間が、ノエはとても楽しかった。
この先に不安も憂いも一切なく、自分たちはこのまま夢を叶えることができるのだと、ノエは信じて疑わなかった。
「……ん?」
そんな夢想の中から、ノエが異変に気付いた。馬車の向かう先、劇場の前にまたも人が集まっているのが見えた。
「ルイズさん。劇場の前に人が集まってますよ」
「え?」
ノエの言葉にルイズが反応する。見れば劇場の前には多くの人が集まり、劇場を取り囲んでいた。
嫌な空気を感じた。また何か事件が起きているのではないかと。
その嫌な雰囲気を感じ取ったのだろう。サフィナが不安そうな顔になっているのが見えた。
馬車が劇場までやって来ると、彼らはすぐに馬車を降りて劇場に向かう。
そうして目にした光景に、彼らは言葉を失った。
この前はペンキで悪戯をされていたが、今回はその比ではない。
劇場の前に夥しい数の烏の死骸が、血まみれの状態で散乱していた。