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第1章

 太陽の都に朝が訪れる。この日も太陽の光が街に降り注ぎ、爽やかな風が街の空気を入れ替える。


 人々が家から出て、隣人と挨拶を交わしたり、仕事場へ向かったりと、それぞれの一日を始めようとしていた。


 そんな街の音が心地良かったのか、ノエがゆっくりと目を覚ました。


「ん……」


 その場で一回伸びをする。それだけで身体の中にある不純なものが出て行くような気がした。


 ノエとサフィナたちが出会ってから一週間経っていた。あれからノエはこの部屋で静養し、体調の回復に努めていた。その間、サフィナたちはノエが劇場で働くための準備をしてくれていた。


 そして今日、すっかり体調も戻った彼は、これから働くことになる劇場に初めて向かうことになる。


「今日からか……」


 緊張で顔が強張った。あのガルニールの劇団で働くことに、お腹の奥が重くなるのを感じた


 一週間前は薄暗い旧市街を彷徨い、死の淵をフラフラしていた。それが今では人気女優の劇団で働くことになったのだ。


 運命に羅針盤はない。そんなことを語った作家がいたが、ノエはそれを身をもって実感した。人生はどこに漂着するかわからないものだ。


 その時、ドアの向こうから小さな声が聞こえてきた。


「ノエさん、もう起きてますか?」


 それはサフィナの声だった。控えめに問いかける声にノエが返す。


「あ、はい。どうぞ」


 ドアを開いてサフィナが入ってくる。その手にはパンなどが載せられたトレーが抱えられていた。


「こちら朝ごはんです。どうぞ食べてください」


「ありがとうございます。ルイズさんは?」


「あの子は先に劇場に行ってます。仕事が溜まっているようで……」


 最後は消え入りそうな声だった。初めて話した時もそうだったが、どうも人と話すのが苦手なのかもしれない。目を合わせるのも苦手なのか、目線は下を向いていた。


「じゅ、準備ができたら下に来てください。お待ちしています」


 それだけ言うと彼女は答えも聞かず、足早に部屋から立ち去って行った。


 その場に立ち尽くすノエ。彼女から見て自分は怖く見えるのだろうか。そんな不安に駆られるノエ。


「なんか、申し訳ないな……」


 これから上手くやっていけるのか、不安な出だしだった。




 準備を終えたノエがアパルトマンの玄関に向かう。そこにサフィナが立っていた。


「すいません! お待たせしました!」


 勢いよく飛び出すノエに、びっくりして身を震わせるサフィナ。


「だ、大丈夫です。まだ時間はありますので……」


 ノエと視線を合わせないまま、言葉を紡ぐサフィナ。


 足元まで長い青色のスカートに真っ白なブラウス。首元には青いブローチが飾られている。


 頭には小さな帽子をちょこんと乗せており、とても可愛らしい出で立ちだった。


 その可愛らしさと反比例して顔は今も俯きがちで、さらに大きな眼鏡で隠れていた。決して視線を合わせようとせず、ただ押し黙ったまま立っていた。


 どうしていいかわからず、ノエもつい押し黙ってしまう。そんな二人に苛立ったのか、馬が大きく息を吐いた。その音に驚いたサフィナが顔を上げた。


「す、すいません! それじゃあ馬車に乗ってください! これから劇場に向かいますから!」


 そう言って逃げるように馬車に乗り込むサフィナ。戸惑いつつも、彼女に続いてノエも馬車に乗り込むのだった。



 旧市街を走る馬車では、地面からの衝撃が身体に強く響いてくる。痛むほどではないが、整備されていない道では馬車も跳ねたりするので、快適な乗り心地とは言えなかった。


 だがそれ以上に、ノエは別の意味で緊張を強いられていた。


 彼の正面には、サフィナがじっと黙ったまま俯いていた。まるでノエと目を合わせないためにそうしているように見えた。


 そんな彼女と馬車の中で二人っきり。そんな状態では落ち着けることもなく、ノエは気まずさと息苦しさを感じていた。


 その時、急に馬車の揺れが穏やかになった。それまでの激しさはなくなり、蹄の音も心地良いモノに変わっていた。


 どうしたのかとノエが外を見ると、景色が一変しているのに気付いた。


 そこは幅の広い道路が整備され、舗装されたばかりの道が遠くまで伸びていた。


 その脇では新しい建物を建てるため、至る所で建設工事が進められていた。


(こんなところにも開発の手が伸びているのか……)


 ノエが感嘆の想いを心中で呟く。マールの開発がここまで進んでいることに驚いていた。


 きっとつい最近までは、ここにも古い街があったのだろう。これから開発が進めば、この地区の価値も高まるだろう。


 そんなことを考えていた時だった。ノエは奇妙なものを視界の隅で見つけた。


 彼の対面に座るサフィナが、不思議なことをしていたのだ。


 俯いていた顔を上げたかと思うと、チラチラとこちらの様子を伺っていた。さらには小さく口を開いたかと思うと、すぐに閉じてはまた俯く。それを何度も繰り返していた。


 何をしているのだろう? 当然ノエは疑問に思うのだが、彼が何か声をかけようとすると、サフィナはびくりと反応して、また俯いてしまう。


 そうなるとノエも話しかけることができず、結局二人とも押し黙ってしまうのだ。


 やはり、自分のような男と二人っきりというのは怖いのだろうか。そう思うと彼女に対して申し訳なく思うのだった。


 その時、蹄の音が鳴り止んだ。



 馬車が停車したかと思うと、御者がドアを開けて下車を促した。サフィナがそれに応じて降りると、それに続くようにノエも馬車を降りた。


「うわあ……」


 彼の口から溜息交じりの声が漏れ出た。その光景を前に、ノエの中で昂揚感が熱を帯びていた。


「こ、ここが私の劇場です」


 サフィナが目の前にそびえる建物を紹介してくれた。そこには一際立派な建物が威容を放っていた。


 美麗な装飾と重厚な雰囲気を見せつける建物。その建物に多くの業者が出入りし、金槌の音がひっきりなしに聞こえてきた。


「すいません、公演に向けて修繕の最中でして、今も作業中なんです」


 よく見ると建物もひび割れや損壊している部分があった。初公演に向けて、それらを修復しているようだった。


「立派な劇場ですね。あ、あそこの彫像ってもしかして」


 ノエが指を差す。劇場を装飾するいくつかの彫像の中に、『ピステスの喜劇』と思われるものがあった。


 ピステスとはかつて多くの喜劇を生み出した作家で、今も演劇の題材に使われている作品だ。彫像はそれら喜劇の一場面を模したもののようだった。


「あれってピステスの喜劇ですよね? あれは『山羊の歌』ですか?」


「そう! そうなんです! ノエさんにもわかりますか!」


 そんな声が通りに響き渡った。


 ノエが振り向くと、そこには嬉しそうに目を輝かせたサフィナが、詰め寄るようにしてノエに語り掛ける姿があった。


「ノエさんの言う通り、あれは『山羊の歌』がモデルなんです! 私、ピステスの喜劇も好きで、『山羊の歌』もよく読んでいたんです! この劇場は買い取ったものなんですが、あの彫像に一目惚れして買っちゃったんです! 他にも色々な作品がモデルになった彫像があるんですよ!」


 そんな風に熱く語るサフィナの姿に、ノエは自分の目を疑っていた。


 周りの目も気にせず、いや気にすることもできないくらい興奮気味に話すその姿は、さっきまでのサフィナからは想像できないものだった。


 サフィナの嬉しそうな声色に周りの人間も彼女を見たりしている。それにも気付かないほどに彼女は興奮していた。


「……あ」


 すると、それまで話続けていたサフィナが唐突に話すのをやめた。かと思うと、顔を真っ赤にさせて恥ずかしそうに顔を背けた。


「そ、それじゃあ中に案内しますね! 中も作業中ですので、足元に気を付けてくださいね」


「あ、はい。わかりました……」


 ノエはそれだけ答えるので精いっぱいだった。


 正直驚きでいっぱいだった。サフィナがあそこまで饒舌に話すなんて、今でも信じられなかった。


 しかし同時に、嬉しそうに語るサフィナの笑顔を、ノエはとても可愛いと思っていた。



 劇場の中でも修繕作業が進められており、所狭しと作業員が右往左往していた。


 そんな劇場の中をノエたちは進み、二人は大きなドアの前まで来た。どうやらそこが舞台のあるホールのようだった。


「ここがホールですか?」


「はい。ここにルイズと、他のみなさんも集まっていると思いますので、ノエさんに紹介しますね」


 そう伝えながら、サフィナはそのドアをゆっくり開いた。


 その光景にジョルジュは息を飲んだ。数百人は座れるであろう客席に、美しい天井画と太陽のように輝くシャンデリア。その荘厳さにノエはしばし見惚れた。


 以前サフィナが公演した劇場も素晴らしいものだったが、それも霞むほどに目の前のホールは美しかった。


 周りを見渡していると、舞台に何人かの人間が集まっているのが見えた。


 ノエが目を凝らすと、その中にルイズがいるのが見えた。彼女もノエたちが来たことに気付くと、大きく手を振った。


「姉さーん。それにノエさんもー」


 彼女が声を上げると、 それに反応して周りの人間がノエたちに目を向けてくる。


 緊張するノエ。それを知ってか知らずか、ルイズはお構いなしに語り掛けてくる。


「私達の劇場へようこそ。いかがですか?」


「どうも。とても素敵な劇場ですね。こちらの方々は?」


「こちらは役者のみなさんです。みなさん、こちらは前から話していたノエさんです。今日からここで働いてもらうことになりますので、よろしくお願いしますね」


 前々からノエのことは説明されていたようで、役者たちは納得した顔で笑みを浮かべていた。


 その中で、役者たちの束ね役と思われる男がノエに近寄った。


「初めまして。私はシモン・カマラと言います。よろしく」


「あ、どうも。ノエ・プルストです。よろしくお願いします」


 ノエは差し出された右手を握り返す。シモンの手からは力強さが伝わってきた。


 役者らしく立派な体格に口髭を蓄え、独特の色気を醸し出すシモンの姿に、ノエはつい見惚れてしまった。


「何かあれば気軽にお話に来てください」


 そう言ってシモンは微笑みを寄越してくれた。その笑みにノエも安心して微笑み返すのだった。


 それから他の役者たちもノエに声をかけてくる。集まっていた役者は比較的若者が多く、ノエとも気兼ねなく言葉を交わしてくれた。


 一通り挨拶を交わすと、サフィナが声をかけてきた。


「ノエさん。私はここでみなさんと稽古をしますので、ここでお別れです。あとはルイズが案内しますので」


「わかりました。ここまでありがとうございます」


 ノエの言葉に笑みを返してから、サフィナは役者たちと話し合いを始めるのだった。


「それじゃあここからは私が案内しますので、ついてきてください」


 そう言って前を歩き出すルイズ。それについて行こうとして、ノエは一回だけ振り向いた。そこでは役者たちと話し合うサフィナの姿があった。


 後ろ髪を引かれる思いだったが、彼はそのままルイズの後をついて行くのだった。


 ルイズに連れられて、道具係や衣装係など、いろいろな所を案内された。


 そうして劇場を歩く中、最後に彼らが辿り着いたのは、事務所の札が提げられたドアだった。


「ジールさん。入りますよ」


 ドアを叩きながら声をかけるルイズ。入室を促す声が聞こえてくると、ルイズは勢いよくドアを開いた。


 中に入ると、その光景にノエは半歩あとずさりした。


 部屋の中は紙束の山で埋まっていた。見れば書類とわかるそれらは、まるでミルフィーユみたいに何重にも折り重なっていた。


『鬱蒼』という言葉が似つかわしいその場所に、その男はたった一人、そこにいた。


「やあ、オーナー。ようこそいらっしゃいました」


 生気がない。その一言に尽きた。部屋にいた男は疲れた様子でこちらに顔を向けてくる。血が通っていないのか、顔色もいいとは言えなかった。


 ただ、ノエたちを見るその目だけは爛々と光っていた。


「ジールさん。この前話していた新しい人を連れてきましたよ。こちらノエ・プルストさん。今日からここで働いてもらうことになりますから、色々教えてあげてください」


「ほう」


 ルイズの言葉にジールの顔が変わる。彼は立ち上がると、そのままノエの前まで歩み寄る。まるで睨みつけるようにノエを見つめた。


「えっと、はじめまして。ノエ・プルストと言います。よろしくお願いします」


 男の様子に戸惑いつつノエが名乗りを上げる。それに呼応するようにジールも笑みを返した。


「はじめまして。ジール・クロードと言います。よろしく」


 差し出されたジールの手を握り返すノエ。一瞬だけ、インク独特の匂いを感じた


「あの、ここで自分は何をすればいいんですか? 見たところ事務所のようですけど」


「ここは会計室ですよ。私はここで帳簿を任されているんです。他にも各所に提出する書類の作成など、事務手続きのほとんどをここでやっています。ノエさんにはそれを手伝ってもらおうと思ってます」


 ジールが簡単に説明するのだが、目の前の書類の山を見てノエは唖然とした。部屋の中には書類の塚が何個も築かれている。それをこれまでジール一人で片付けてきたのかと思うと、その仕事量に開いた口が塞がらなかった。


 それを考えると、ジールの生気のなさにも納得がいった。


「それじゃあ私はこれで。がんばってくださいね。ノエさん」


 ルイズはそう言い残して、部屋から立ち去って行った。


 後に残されたノエとジール。先にジールの方から語り掛けてきた。


「さて、さっそく仕事をしてもらおうと思います。大学に通っていたと聞き及んでいますが」


「あ、はい。去年まで大学に通っていました。経営学とか会計とかも勉強していました」


「ほう。それはいいことです。それなら読み書きや計算の心配はなさそうですね」


 ジールはそう言うと、何枚かの書類を机の上に置いて、そこに座るようノエを手招きした。


「こちらで書類の手続きをお願いします。まずは簡単なものからでいいのでやってみてください。わからないところがあれば教えしますので」


「わ、わかりました」


 言われるがままに着席するノエ。そこに置かれた書類に目を通してみた。


 これならできそうだと考えると、後はペンを走らせるだけだった。




「いやはや、大学に通っていたとは聞いていましたが、飲み込みが早いですね。こんなに仕事が片付いたのは久しぶりですよ」


 そう言いながらジールは紅茶を口に含んだ。心からホッとしているのか、安堵の表情で微笑んでいた。


 時刻は夕刻、二人は黙々と書類仕事を進めた。ノエはペンを走らせながら、時折ジールにわからないところを聞いて、またペンを走らせる。そうして二人で仕事を進めていき、書類の塚を切り崩していった。


 かなりの量の書類を片付けたところで、ジールから休もうと提案された。見れば夕刻に差し掛かろうとしていた。


「ありがとうございます。お役に立てたならいいんですけど」


「いえいえ、十分ですよ。事務仕事ができるだけでなく、帳簿の計算もできるのはありがたいことです。文字は書けても計算までできるというのは貴重ですからね」


 腕組みしながら頷くジール。実際、全ての人が文字を書けるわけではないし、仮に文字が書けても計算ができない者も珍しくはない。


 とはいえ、ノエは少し複雑だった。大学で会計や帳簿を勉強していたのも、元はと言えば喧嘩別れした父親に命じられたからだった。


 小説を書くことはなくなったのに、今度は帳簿や書類にペンを走らせることになり、誰かの役に立っている。嬉しいことであると同時に、父に命じられたことがこうして人の役に立っているというのは、複雑な気分だった。


 彼がそんな戸惑いを感じていると、ジールがさらに語り掛けてきた。


「オーナーからあなたのことを聞いた時は、本当にありがたかったです。ずっと一人で仕事をしてきたので、仕事仲間が増えるのはありがたいことです」


「オーナー?」


 ノエが首を傾げる。ジールの言うオーナーが誰のことかわからず、つい疑問符を浮かべる。


「おや? 聞いてないんですか? ルイズさんがこの劇団のオーナーですよ」


「え? そうなんですか?」


 つい驚きの声を上げるノエ。女性がオーナーをやっているのは初めてのことだ。少なくとも、ノエの知る限りこの劇団が初めてのはずだ。


「ええ。ルイズさんはオーナーをやりながら、外部との交渉などをやっています。本当に優秀な方ですよ。生まれが生まれなら今なら産業資本家か、立法院議員をやっていたかもしれません」


 ルイズを思い出す。確かに男装姿の彼女は、若手議員と言われても納得できる雰囲気があった。


「オーナーが連れてくる人なら優秀だと確信していましたが、期待通りの人材でほっとしていますよ」


「あはは……でも、この量をずっと一人でやってたんですよね。それもすごいですね」


 そう言いながら周りを見るノエ。だいぶ片付いたとはいえ、処理しなくてはならない書類はたくさん残っていた。ノエが来るまでは、ジールはこれ以上の量を相手にしていたはずだ。よく身体を壊さなかったものだとノエは感心した。


「今は劇団が出来上がったばかりですから、必要な書類が多いんです。色々な所に提出する書類もあるし、銀行などにも書類を出さないといけないんですよ」


 劇団を立ち上げる際に役所や取引先など、必要な手続きが必要であり、その分提出する書類も増えてしまうものだ。ジールはそうした書類を一人で片付けてきたのだ。


「まあそれも今だけですよ。もう少しすればここの仕事も楽になると思います。それまでには人も増やしていきたいですね」


 軽く言葉にするが、ジールにとっては切実な想いだろう。それが叶うことをノエも願うのだった。


 その時、コンコンと誰かがノックしてきた。


「お疲れ様です。入りますよ」


 入って来たのはルイズだった。彼女は部屋に入って周りを見ると、書類が片付いていることに気付いた。


「ノエさん、がんばってくれたみたいですね」


 ルイズが嬉しそうに笑みを零すと、ジールも笑みを返した。。


「ええ。彼のおかげで、今日はゆっくり眠れそうです」


「それはよかった。それならホットワインを飲むのをお勧めしますよ。身体が温まって気持ちいいですよ」


「それはいい。しかしそれだと夢から覚めるのがもったいないですね」


「そうなったら、今度は夢の中で仕事をしてもらいましょうか」


 二人の間で軽妙な会話が交わされる。二人ともこの会話が楽しいのか、笑い声が交錯した。


「そうそう。そろそろ時間ですし、仕事はもう終わっていいですよ。それで、ノエさんをこのまま連れて行ってもいいですか?」


「ああ、いいですよ。こちらもある程度は終わってますので」


 ジールの言葉に頷いてから、ルイズがノエに語り掛けた。


「それじゃあノエさん、荷物を持って一緒に来てください」


「は、はあ。いいんですか?」


 心配になりノエが振り向くと、ジールが笑いながら手を振っていた。


「大丈夫ですよ。仕事は明日からも続きます。休める時に休んでください。明日もよろしくお願いします」


「わ、わかりました。それじゃあ、失礼します」


 ノエの言葉を受けて、ジールは彼らを見送るのだった。




 ルイズの後を追うように歩くノエ。その時、振り向きながらルイズが問いかけてきた。


「どうです? 仕事は何とかやれそうですか?」


「あ、はい。どうにかやっていけそうです」


「それならよかった。やっぱり大学で勉強しただけありますね」


「そんなことは……そういえば、さっきジールさんが言ってましたけど、ルイズさんがここのオーナーなんですね」


「ああ。そういえば言ってませんでしたね。姉さんが団長で、私がオーナーをやってるんです。ほら、姉さんって人と話をするのが苦手でしょう? だから私がオーナーになって、仕事相手とかと交渉するようにしてるんです。姉さんだと悪い人に騙されるでしょうからね」


 ルイズの言葉に苦笑いを返す。サフィナのことを思うと、あり得ない話ではないなとノエも複雑な笑みを浮かべた。


「あの、それでどこに向かってるんですか?」


「ああそうそう。せっかくだからノエさんにも見てもらおうと思いまして」


 そう言ってルイズがさらに歩いて行く。ノエも彼女の後に続くと、二人はその目的地へとたどり着いた。


 そこはこの日、一番最初に訪れた場所。この劇場のホールだった。


 大きな両開きのドア。そのドアの向こうから、鋭い声が聞こえてきた。


「今のって、確かシモンさんの声ですか? 何をしているんです?」


「ふふ」


 問いかけに対し、ルイズが蠱惑的な笑みを向けてくる。まるで人を惑わすようなその笑みにノエはドキリとしてしまう


 そんなノエの反応を楽しみつつ、彼女はニッコリと笑った。


「女優・ガルニールの舞台稽古。見たいと思いませんか?」


「え……?」


 その言葉に、ノエの胸がどくんと鳴った。


 あのガルニールの舞台稽古。そんなもの、見たいに決まっている。


 胸が高鳴る。そのドアの向こうでガルニールが稽古をしている。そう思うと、早くそのドアの先に行きたいとノエの気持ちが前に行こうとしてしまう。


 その気持ちが顔に出ていたのか、ノエを見てルイズがニヤリと笑う。


 彼女はそのドアを開き、ノエもその先へと足を踏み入れた。



 舞台上では、役者たちの声が響き渡っていた。


 役者たちが舞台の上を立ち回り、演じ、心を燃やす。


 その白熱した演技に、ホールの空気が沸騰しているように感じられた。


『聞かせてください。あなたの声を。教えてください。あなたの名前を』


 澄んだ声がホールに響き渡る。水晶のように磨かれ、透き通った声。


 ノエの心が鷲掴みにされた。彼の中でその声が、何度も繰り返し反響していた。


 そんな彼の視線の先、舞台の中央にサフィナがいた。


 彼女は眼鏡を外して、素顔のままで演技をしていた。その顔はまさに女優・ガルニールそのものだった。


 サフィナが立ち回る。サフィナが言の葉を紡ぐ。サフィナが舞台で演じる。それに応じるようにシモンたち役者も彼女を中心に演技を続ける。


 その演技にノエは釘付けになる。彼女の演技はあまりに美しく、その一挙手一投足、視線の流れや指先に至るまで、ノエは彼女の演技に心奪われていた。


 彼らが演じているのは小説『恋する舞台の亡霊と君』だった。とある劇団で人気女優となったヒロインと、かつて劇場で亡くなった役者の亡霊。彼らの間で紡がれる恋物語。


 物語の中で女優は亡霊と出会い、彼の演技や語らいを聞くうちに、彼に恋焦がれるようになる。


 それまで演劇でしか恋を語ることのなかった彼女は、亡霊と出会うことで初めて、本物の恋を語るようになる。


 ノエもその小説を読んだことがあり、特に好きな作品だった。物語で語られるヒロインと亡霊の語らいは、切なくも美しい話だった。


 今、サフィナはそのヒロインを演じていた。相手の亡霊役はシモンが演じており、二人はその美しい恋物語を熱演していた。


 二人が舞台で語り合う。物語で女優と亡霊が語っていたように、サフィナとシモンの視線が交差し、言葉が交わされる。


 そんな中にあって、ノエはじっとサフィナを見つめていた。


 やはりそうだ。出会った時も思ったが、サフィナは役を演じているというより、役に『成り代わっている』ように思えた。まるで彼女自身が最初から、その役の人間であったかのような存在に変わるのだ。


 それは演じているのではなく、魂そのものが演じる役になってしまう。そう思えるほどに、彼女の演技には凄味があった。


 周りではサフィナを中心に役者たちが立ち回っている。サフィナの熱意が伝染したのか、彼らの演技も力強く、迫力のある物だった。


 舞台の上で演じる彼らの息遣い、心の機微、歌うような語りがノエを捕えて離さない。


 ノエは無心で舞台を見つめた。その様子をルイズが横から見つめ、楽しそうに微笑んでいた。




「よし! 今日はここまで。各自予習や練習をしておくように!」


 シモンが声を上げて、この日の稽古の終わりを告げた。役者たちは疲れを見せつつも、充実した笑みを浮かべた。


 白熱した演技を続けていたからだろう。汗が額から流れ落ちていた。


 ノエはしばし舞台を見つめていた。それまで見ていた光景に目がばちばちになり、脳が覚醒したような感覚を覚えていた。


「あ……サフィナさん」


 その時、ノエが舞台の上にいるサフィナに視線を向けた。彼女も稽古で白熱していたせいか、頬が紅潮し、少し息も上がっているようだった。


 その時、サフィナが客席にいるノエに気が付いた。


 ほんの一瞬だっただろう。二人は偶然目を合わせただけで、何でもない一瞬だったはずだ。


 その何でもない刹那、サフィナは赤くなった頬のまま、ノエに向かって楽しそうに微笑んだ。


 まさかそんな顔を見せてくれるとは思っていなかったノエは、驚いたままぼうっとしてしまうのだった。




 稽古が終わった後、ノエは一人、休憩室にいた。


 ルイズは何か用事があるらしく、終わるまでここで待っていてほしいと言われたのだ。


 彼女も色々忙しいのだろう。言われたとおりここで待つことにした。


 椅子に座ってじっとするノエ。すると彼は大きく息を吸って、一気に吐き出した。


「……すごかった」


 そんな心の声が漏れ出していた。


 ノエはホールで見たサフィナたちの稽古を思い起こしていた。


 舞台の上で物語を演じるサフィナたち。その光景は綺麗で、魂が燃え上がるような熱さを感じさせた。


「やっぱりサフィナさんは女優なんだ……」


 ふと、そんな言葉が出てきた。それはノエが抱いている一つの疑問だった。


 あのアパルトマンで言葉を交わしたサフィナが、女優ガルニールと同一人物だとは、やはり確信が持てなかった。


 あの大人しい少女が、舞台の上で演技する姿というのが、どうしても想像できなかったのだ。


 そんな彼女がどうしてあんな演技ができるようになるのか。それが彼の疑問になっていた。


 答えの出ない疑問を繰り返していると、ドアがノックされた。


「ルイズさん?」


 ルイズが帰って来たと彼は思った。だがドアを開いて入ってきたのはサフィナだった。彼女も帰り支度を済ませているのか、すでに着替えを済ませており、顔を隠すようにまた大きな眼鏡をかけていた。


「すいません、入ってもいいですか?」


「サフィナさん? いや、もちろん構いませんが……」


 彼女はこの劇場の主なのだ。断る理由などない。ただ、ルイズが来ずにサフィナだけ来たことが疑問でもあった。


 その疑問が顔に出ていたのか、サフィナが察したように話した。


「ルイズはまだやることが残っているみたいで、私だけここへ来るように言われたんです。ここでノエさんと待つようにって」


「なるほど。そういう事でしたか」


 その説明にノエが納得した様子を見せると、サフィナがノエの対面に座った。


「失礼します」


「あ、どうぞ」


 そうして机を挟んで、向き合うようにして座る二人。


 二人の間に気まずさと沈黙が漂う。朝と同じように、ノエはただじっとしていた。


 ノエがサフィナの様子を伺うと、彼女もどこか居心地悪そうにしていた。どうしたらいいのか、自分はここにいていいのか、そんな風に困った顔を浮かべていた。


 さすがにこのままでは精神的によろしくない。気後れするが、ノエは意を決して口を開いた。


「「あの」」


 二人の声が見事にハマった。お互いに顔を上げて、同時に声をかけたのだ。相手の声に二人とも戸惑った。


「な、なんでしょうか?」


「あ、いや。そちらからどうぞ」


 お互いに譲り合う二人。そちらから。いやそちらからと、そんな風に譲り合い続けて、最後には諦めたようにサフィナが手を下げた。


「えっと……それじゃあ私からいいですか?」


「はい。何でしょう?」


 ノエが彼女の言葉を待つ。サフィナは言うべきか否か、まだ迷った様子を見せた後、思い切った様子で問いかけた。


「さっきの私の演技、どうでしたか・・・・・・?」


 そんなことをおずおずと問いかけてくるサフィナ。逆にその質問が意外すぎて、ノエは呆気に取られてしまう。


 この国で最も有名な女優の演技。その評価を素人である自分に訊いてくるなんて、変な話だと思った。


 畏れ多いと思ったが、質問したサフィナが真っ直ぐ見つめてくる。彼がどんな答えを出してくれるのか、恐る恐る待っているようだった。


 なので、ノエは率直な感想を伝えることにした。


「あの、演劇のことは詳しくはありませんけど、とてもよかった思います。なんていうのか、引き込まれるというか、目が離せなくなるというか。ずっと見ていたいと思いました」


 小説を書いていた割には陳腐な言葉だと、ノエは自分の言葉に呆れていた。


 だが、そんなノエの答えを聞いたサフィナは、ホッとした様子で胸を撫で下ろした。


「よかった……ありがとうございます」


 ニッコリと笑うサフィナ。その笑みをノエは真っ直ぐ見れずに、恥ずかしさで顔を赤くさせた。ノエは赤くなった顔を誤魔化すために、彼女に質問を返した。


「そういえば、今やってるのは『恋する舞台の亡霊と君』ですよね? あの話、自分も好きだからすぐにわかりましたよ」


 すると、その問いかけにルイズははっと顔を上げて、驚いたようにノエを見た。


「はい! そうなんです! 私、あの作品が大好きなんです! ノエさんも読んだことがあるんですか?」


 はしゃぐように語り掛けてくるサフィナ。その圧力に驚きつつ、ノエは答えを返した。


「え、ええ。何度も読んだことがあります。僕も好きなお話でしたから」


「本当ですか! どんなところが好きですか!」


 ノエの言葉に彼女がさらに詰め寄ってくる。彼女の嬉しそうな顔が目の前にあり、ノエは自分の体温が上がるのを感じた。


「そうですね……ヒロインと亡霊が誰もいない二人きりの舞台で、即興で恋愛劇を演じるシーンは特に好きですね」


 作品の中で、亡霊に出会った女優は少しずつ相手にに惹かれていき、二人だけの語らいを重ねていく。そんな二人が舞台の上で、恋愛劇を演じる場面があった。


 演技ではあるけど、二人の想いが重なり、まるで本当の恋のように心を通わせるシーン。ノエは繰り返しそのシーンを読み返してきた。その時の二人の幸せそうなシーンに、ノエも幸せを感じたのを覚えている。


 その時、ノエの答えを聞いたサフィナが嬉しそうに叫んだ。


「私もです! 私もそのシーンが大好きで、何度も読みました!」


 ノエが自分と同じシーンを好きだという話が嬉しかったのか、これまで以上にサフィナは感情を爆発させた。


「あのシーンは二人が想いを通わせる場面で、演技をしているのに心は演技ではない。そんな二人の言葉がとても愛おしくて、セリフの一つ一つが心に響くんです。本当にいいシーンだと思います」


 そんな風に語るサフィナの様子を、ノエは驚きの眼で見つめていた。


 意外だと思った。今まで大人しく、どちらかというと暗い印象もあったサフィナが、こんなに表情豊かに笑ってくれる。今までと違う彼女の姿に、ノエは戸惑いを感じていた。


 だけど同時に、そんな風に楽しそうに語る彼女の姿を、ノエは嬉しくも思っていた。


 サフィナは楽しい顔のまま、さらに語り掛ける。


「ノエさんは他にどんなお話を読みましたか?」


「そうですね……『ジョセフ・ベルの冒険シリーズ』を読みました。初めて読んだ推理小説ですけど、すぐ夢中になりましたよ」


 ジョセフ・ベルの冒険は大人気の推理小説で、大学教授のジョセフ・ベルが難事件を解決していくという冒険譚だった。


 ジョセフの天才的な推理と強烈な個性が読者の心を掴み、今では神の次に信仰される探偵と言われていた。


「ああ! ジョセフ・ベル! 私も読みました! ジョセフ先生がかっこよくて大好きなんです!」


 サフィナが嬉しそうに声を上げた。まるで子供のようにはしゃいで、抑えきれない想いを声に出しているようだった。


「私、シリーズの中では『宝石商事件』が好きなんです! あのお話でジョセフ先生が最後に犯人言った言葉がすごいカッコいいと思うんです! 『そんなに金貨がお好きなら、監獄でゆっくり金勘定をおやりなさい』って」


「ああ、わかります。僕もあのお話は何度も読みましたよ。友人もあのお話が好きだと言ってましたね」


「やっぱり、そうですよね!」


 楽しそうに話し続けるルイズ。このまま放っておけば、いつまでも話し続けるのではないか。仕掛け時計みたいに延々と語り続けるのではないか。そうなってしまったサフィナを想像してしまい、ノエは小さく笑った。


 すると彼女はハッとしたかと思うと、居心地が悪そうに身体を小さくした。


「あ……すいません。変なことを言って」


 申し訳なさそうにするサフィナ。さきほどまで楽しそうだったサフィナの変わりぶりに、ノエも戸惑うしかなかった。


「いや、あの、どうして謝るのです?」


 ノエが問いかけると、彼女は恥ずかしそうな顔を向けてきた。


「……私、いつもこうなんです。物語とかの話になると、つい夢中になって好き勝手喋ってしまうんです。それでいつも相手を困らせてしまうんです。ルイズにも言われたけど、悪い癖だから直した方がいいって……」


 そこまで言うと、サフィナは押し黙って椅子に着席した。


 彼女の様子を見て、ノエにも彼女のことがわかりつつあった。物語が好きな彼女は、その好きという感情が強すぎて、つい周りが見えなくなってしまうようだった。きっと今までも同じことを繰り返してきたに違いない。


 そこまで思い至ったノエは、彼女に対して好ましい感情を抱いていた。


 好きなことを好きと語り、溢れる想いを熱く語る。そんなサフィナの姿が本当の彼女のように思えたし、そっちの方がノエは可愛いと思っていた。


 だからだろう。ノエはつい口を開いてしまった。


「その……悪いことではないと思いますよ。好きなことを話したいって気持ちはわかりますから。それに、自分も好きな物語のことをお話できて、とても楽しかったです」


 実際楽しかったことは嘘ではない。サフィナが自分と同じ物語を好きだというのは単純に嬉しかったし、話していてとても楽しかった。時間が許せばもっと話したいと思うほどだった。


 そんなノエの言葉を聞いたサフィナは、驚いたように顔を上げた。


「本当ですか……? 私と話していて、楽しかったですか?」


 何故そんなことを聞くのか。理由はわからなかったが、ノエは率直に答えてあげた。


「ええ、楽しかったですよ。とても」


 そう答えた時、サフィナはホッとしたように安堵の笑みを浮かべた。


「よかった……」


 益々わからないノエ。何故彼女がそんな顔をするのか。


 その疑問に答えるように、サフィナが語り掛けてくる。


「私、人とお話するのが苦手で、何か話そうとしてもどう話していいのかわからなくて、それでいつも黙ってしまうんです。本当はお話したいのに、またさっきみたいに変なことを話して困らせてしまわないかって、いつも不安で……」


 その話にノエは不思議と納得してしまう。確かに引っ込み思案なサフィナは、人と話すのは苦手そうだ。


 そういえば自分と二人っきりになった時も、どこか居心地悪そうだったのを覚えている。この劇場に来る馬車の中でも、彼女はどうしていいかわからない様子だった。


「……ん?」


 そこまで考えたところで、ノエはあることを思い出す。馬車の中で自分の方をちらちら見ていたサフィナのことを。


「もしかして今朝、馬車で一緒にここ来る時、僕に話しかけようとしていたんですか……?」


 自分をちらちら見てくる彼女の様子を、ノエは自分のことを怖がっていると思っていた。でも本当は、自分と何か話をしようとして、どうしていいかわからなかったのではないか。


 どんな話をすれば楽しんでくれるのか、悩んでいたのではないか。


 ノエの中でそんな推理が思考されると、彼女は上目遣いに見つめてきた。


「ごめんなさい。やっぱり、変でしたよね……?」


 その恥ずかしそうな顔が、ノエの推理が正しいことを告げていた。


 自分に対してそんなことを悩んでいたかと思うと、ノエは申し訳ない気持ちになった。



「でもよかった。私とのお話を楽しんでくれてよかったです」


 サフィナが落ち着きを見せた後、静かに口を開いた。


「さっきも言いましたけど私、『舞台で恋する亡霊と君』が本当に好きで、いつか舞台でやりたかったんです。だからこの劇団を立ち上げた時も、最初にやるのはこれにするって決めてたんです」


 その作品を演じることが楽しみで仕方ないのだろう。その喜びを噛み締めるように彼女は笑った。


「今まで色々な本を読んできましたし、大好きな物語もたくさんあるんです。だからこの劇団で、そのお話を全部やってみたいって思ってるんです」


「へえ……そうなんですね」


 確かにルイズも、サフィナは物語が大好きだと言っていた。こんなにも感情が熱くなるくらいに、彼女は物語が大好きなのだとノエにもわかった。


 大好きな物語をこの劇団で演じてみたい。そんな彼女の想いを聞いて、ノエはその夢が素晴らしいもののように思えた。


「それは、とても素敵なことだと思います」


 何気なく、心から思ったことを口にするノエ。その言葉を受けて、サフィナが目を丸くした。


「本当にそう思いますか?」


「ええ、思います。それに、そんな劇をやってくれるのなら、僕もぜひ観てみたいです」


 彼女がどんな物語を演じたいのかはわからない。だけど、彼女が舞台でその物語を演じるというのなら、ノエも観てみたいと思った。きっとそれは、素敵な舞台に違いないのだから。


 その言葉に何を思ったのだろう。サフィナは嬉しそうな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。そう言ってもらえて、嬉しいです」


 そんな彼女の笑みを見て、ノエは彼女との語らいが楽しくなってきた。


 小説で辛い思いをしてきたが、こうして物語のこと語り合うことができるのは、やはり楽しかった。


 何より、物語が好きだというサフィナが楽しそうに話すのを見て、不思議と嬉しくなっていた。


 久しぶりに楽しい会話ができることを、ノエは幸せに感じるのだった。


「あ、そうだ。よかったら他に観てみたい物語とかありませんか? 他にもノエさんの好きな物語があったら教えてください! 面白そうなのがあったらそれもやってみたいです!」


「ちょ、ちょっと」


 そう言って身を乗り出すサフィナ。止まらない感情に後押しされているのか、彼女は自分を止めることができていない様子だった。


「すいません、お待たせしました。あれ?」


 その時、いきなりルイズが休憩室に入ってきた。ノエに詰め寄るサフィナというその光景に、ルイズは意地悪そうな笑みを浮かべた。


「ごめん、お邪魔だった? 姉さん」


「え、あ……」


 ルイズに言われて自分の状況を理解したサフィナは、すぐにノエから離れた。


「あ、あの! すいませんでした!」


「いえ……お気になさらずに……」


 お互いに言葉を交わす二人。その様子ににんまりと笑うルイズだった。



 三人を乗せた馬車がアパルトマンに向かって走る。新しく舗装された道を馬車はリズムよく走っていく。


 ノエが外を見ると、真新しい建物が誇らしげにその姿を見せつけていた。この古い街も開発され、変わりつつあるのがわかった。


「ここもだいぶ開発が進みましたね。新しいアパルトマンもできてるし、ここら一帯も変わるんですかね?」


「本当ですね。そう言えば知っていますかノエさん? この街にも鉄道が通ることが決まっていて、駅の建設も始まっているんですよ」


「え? そうなんですか?」


 その話に目を丸くするノエ。鉄道が通るというのはそれだけでも大きな出来事であり、駅ができるとなれば、それは繁栄を約束されたようなものだった。


「そういうのもあって開発が進められているんですけどね。資本家のみなさんはこぞってこの土地の開発に乗り出しましたから、これからもっと発展していきますよ」


 鉄道は新しい時代と共に、莫大な富をもたらしてくれる。きっとこの街にも、新しい時代が訪れることになるだろう。


「この街にもお店が増えると思いますよ。素敵なカフェテリアとかできたら嬉しいんですけどね」


 ルイズはそう言うと、横にいるルイズにも声をかけた。


「姉さんはどんなお店ができてほしい?」


「え?」


 いきなり話しかけられびっくりするサフィナ。彼女がその問いかけに考え込むと、真剣な顔で答えた。


「私は……本屋ができたらいいかな……」


 それが意外な言葉に聞こえたのか、ルイズは我慢できないとばかりに笑い出した。


「そうだね。素敵な本屋ができるといいね」


「……何で笑うのよ。せっかく答えたのに」


 そんな風にふくれっ面になるサフィナとそれを笑うルイズ。その様子にノエも内心でだけ笑った。


「ははは、ごめんごめん。でも、それくらい発展したらいいよね。その時は私たちの劇場が、この街の自慢になってほしいな」


 そんな風に語るルイズは、どこか楽しそうな顔になっていた。彼女の言う通り、新しく生まれ変わったこの街で、彼らの劇場がこの街の誇りになる。そんな未来を想像しているのだろう。


「……うん、そうだね」


 それを聞いていたサフィナも、楽しそうにはにかんだ。彼女の夢がこの街の自慢となる。それは彼女にとっても嬉しいことに違いない。


「ノエさんはこの街に何があったら嬉しいですか?」


「僕ですか?」


 唐突にルイズから質問が投げられる。ノエはその問いかけに少しだけ考えてから小さく答えた。


「綺麗な街ができたらと思います。散歩するのが楽しくなるように」


 太陽の光が降り注ぎ、爽やかな風が吹き通る街。そんな街を多くの人が笑いながら練り歩く。そんな街の中を散歩する。その想像がノエには楽しくて、そうなってほしいと思っていた。


 そんな偽りのない答えを呟くと、サフィナもルイズも呆気に取られた様子で彼を見つめた。


「……? 僕、変なことを言いましたか?」


 首を傾げるノエ。そんな彼を見ておかしそうにルイズが笑い出す。


「それ、いいですね。とても楽しそうで」


 そう答えつつも笑いをこらえきれないルイズ。横を見ると、サフィナも笑うのを我慢できない様子だった。


「……ふ、ふふ。ごめんなさい。つい」


 謝りつつもまだ笑っているサフィナ。ここまで笑われるとは思っていなかったので、ノエとしては不思議な気分だった。


 ただ、自分の答えに面白そうに笑うサフィナが見れたのだ。そこまで悪いことではないと思った。


「ふふ、でも」


 ルイズが笑うのを止めると、外を流れる街を見た。まばらに灯される街の光。それも開発が進めば、夜でも明るい街が生まれるだろう。


 それを想像して、ルイズは微笑みを浮かべた。


「その内、散歩をするのが楽しくなりますよ。きっと」


 その言葉にノエもサフィナも同じように笑みを浮かべる。


 彼らの笑みに応えるように、蹄の音が小気味よく響くのだった。




「ノエさん、おはようございます。起きてますか?」


 そんな声がドアの向こうから聞こえてきた。ノエはベッドの上に横たわったまま目を覚ます。


 まだ疲れが残っているのか、夢の世界が名残惜しいのか、頭はぼんやりとしたままだった。


 窓に目をやると、鋭い日差しが差し込んでいるのが見えた。


「ノエさん?」


 再び向こうから声が聞こえると、ノエは慌てて声を上げた。


「すいません。ちょっと待ってください」


 彼はそう言って簡単に身支度を整えると、声の主に入室を促した。


「失礼します。気分はいかがですか?」


 入って来たのはルイズだった。彼女はノエの様子を見ると、にっこりと笑みを浮かべた。


「まだまだ寝足りない様子ですね? そんなに寝心地がよかったですか?」


「失礼。ふかふかのベッドが私を離してくれないので、起きるのが遅くなりました」


「なるほど。色男は大変ですね。こういう時は、お姫様のキスで目覚めてくれますかね?」


「それは嬉しいことですが、残念ながら僕は王子様ではありませんので」


 そこまで言い終えたところで、ノエたちはお互いに笑い声を上げた。この軽口が楽しくて、ノエは自然と笑っていた。


「ふふ、よかった」


 ルイズがそんな風に呟いた。一体何のことかわからないノエは不思議そうな顔をした。


「何がです?」


「いえね。今、ノエさんが普通に笑ってくれるのを見られてよかったと思いまして」


 その言葉にノエはますます怪訝さを強くする。そんな彼にルイズは答えた。


「ノエさん、数日前は笑うのもぎこちなかったのに、今は自然に笑ってくれてる。元気になってくれたと思うと、私も嬉しいってことですよ」


 言われてみて、自分が普通に笑うことができることにノエは気付いた。数日前までは命の危機にあって、心がぼろぼろで笑うのも辛かったのに、今はこんな風に軽口で笑うことができている。


 ほんの数日だけど、サフィナたちと出会い、彼女たちと言葉を交わしたことで笑えるようになったのだろう。


 こうして笑えるようになったことにノエは心底からほっとした。


 そんな彼に笑みを向けてくるルイズ。彼女はにっこりと微笑むと嬉しそうに言った。


「よかった。元気になってくれて」


「……あ、はい。どうも、ありがとうございます」


 その笑顔を向けられて、ノエは思わずどきりとしてしまう。今も男装はしているけれど、その微笑みを見れば、やはりルイズも女性なのだとは思い知らされた。


「まあでも、もし目覚めが悪かったら私の持っている香水をお渡ししましょうか? 私のお気に入りでして、香りを嗅ぐだけでも頭が冴えますよ。よかったら」


「そうですね。今度お願いしますよ。それより何か御用では?」


「そうそう。そろそろ劇場に向かうので準備の方をお願いします」


「わかりました。そういえばサフィナさんは?」


「姉さんは先に準備してますよ。下の方で待ってますから、準備ができたら降りてきてください」


 ルイズに言われて、ノエはついサフィナのことを考える。今日も一緒に馬車に乗ることになるのだろう。待たせてはいけないと急いで準備することにした。


 その様子を見ていたルイズは、もう一度笑みを浮かべた。


「姉さんが起こしに来た方がよかったですかね。ノエさんとしては」


「え? あ、いやそんなことは……!」


 慌てて訂正しようとするノエ。見たかった反応が見られて満足したのか、ルイズはまた笑い出すのだった。



 準備を終えたノエが玄関までやって来ると、そこには昨日と同じように馬車が一台と、その横にサフィナとルイズが待っていた。


「あ、ノエさん」


 サフィナが近寄ってくる。昨日と同じ衣服を纏い、やはり眼鏡をかけている。顔が半分くらい眼鏡で隠れているが、その奥では嬉しそうな笑みを浮かばせていた。


「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 そんな風に挨拶をくれるサフィナ。まだまだぎこちなさそうにだが、ノエに向かって笑ってくれた。


「はい。こちらこそよろしくお願いします」


 自分に向かって笑いかけてくれる。それだけでもノエには嬉しかった。昨日みたいに怖がられているよりは全然よかった。


「それじゃあ行きましょうか。二人とも、馬車に乗ってください」


 ルイズの言葉に振り返って、三人は馬車に乗り込んだ。今日も劇場に向かうために。






「あれ?」


 三人を乗せた馬車が劇場の近くまで来ると、ルイズが怪訝そうに声を上げた。その声に反応してノエが問いかけた。


「どうしました?」


「今劇場が見えてるんですけど、何故か人が集まっています」


 ルイズの言葉に反応してノエも外に視線を向ける。確かに劇場の周りに人だかりができていた。何が起きているかわからないが、少なくともよろしくない空気は感じ取れた。


 馬車が到着すると、三人は人だかりをかき分けて劇場前までやってきた。


 そうしてその光景に三人は絶句した。


 劇場の玄関前にある道に、おびただしい量のインクがぶちまけられていた。


 真っ赤なインクなので、大量の血が流されたような錯覚すら覚えた。


 ノエはもう一度前を見た。赤いインクが流れる中、それがとあるメッセージを伝えてくるのがわかった。


 まるで怒鳴り声のように書き殴られたその文字は、ノエたちにこう叫んでいた。


『屋敷から出て行け』と。

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第1章は、静かで丁寧な筆致で描かれた日常の始まりから、主人公ノエの心情の変化と劇場の世界への足掛かりが巧みに描かれており、物語の世界に自然と引き込まれます。引っ込み思案なヒロイン・サフィナの演技への情…
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