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プロローグ

 その時代。世界は大きく変わろうとしていた。


 産業革命によって起こった社会の変革は、それまで当たり前だったものを少しずつ否定し、新たな時代が世界を染め上げていった。


 赤く燃える石炭は世界を動かす原動力となり、鋼鉄は世界を支える基盤となり、馬車に変わって鉄道が世界を駆け巡るようになっていった。


 大陸のあらゆる場所で、鉄と石炭による革命が起きていた。


 アンネル共和国も例外ではなかった。産業革命によって、アンネルもその姿を変えていった。


 社会を動かすのは貴族から産業資本家になり、人間がやってきた仕事は、血の通わない機械がするようになっていった。


 変化を受け入れる者、拒否する者の区別なく、革命は全ての人々を巻き込み、新しい時代に同化させていった。


 そうして変わりゆくアンネルの中で、最も繁栄した都市があった。


 アンネルの首都であり、『太陽の都』と称される街。その名をマールと言った。






 産業革命の真っ只中にあるマールは、今も変革の途上にあった。


 それまでのマールは、古い建物が身を寄せ合うような形で密集し、その間を狭い路地が這うように張り巡らされた街だった。


 路地は人間二人分くらいの幅しかなく、三人も並べば息苦しくなるような有様だった。


 大袈裟に言えば空気の通り道はなく、太陽の光も降りてこないような、古い時代がそのまま沈滞したような街になっていた。


 しかし、産業革命を迎えたこの時代。近代化に意欲を持った若き市長は、ここを新しい時代に相応しい街に作り替えようとしていた。


 狭い道ばかりだったマールも、今では馬車が何台も並んで走れるほど広くなり、爽やかな風が流れるようになった。


 その道路の脇には、天を衝くほどに高い建物が、城壁のように遠く遠くまで並んでいた。


 マールはまさに『近代化』というものを形にしたような都市に生まれ変わろうとしていた。


 どこにいても太陽の光が降り注ぎ、爽やかな風がどこまでも流れゆく街。


 この都市を訪れ、その光景を目の当たりにした歴史家はマールをこう呼び称した。『太陽の都』と。


 産業革命を迎え、近代化を起こしたマールは、まさに繁栄の絶頂にあった。


 しかし、太陽の光があるということは、光の届かない世界も存在する。


 太陽の都と呼ばれるマールにも、影が広がる場所はまだ残っていた。



 そこは旧市街と呼ばれる場所であり、マールの外れに位置する区画だった。


 そこにはまだ近代化の波は来ておらず、昔ながらの古い街が残っていた。


 古臭い建物と狭い路地が伸びる街。道端には食べかけの残飯など、新時代に置いて行かれた世界があった。


 太陽の光は届かないのに、曇天の空からは雨が注がれていた。


 そんな路地の途上に、一人の青年が座り込んでいた。


 目の焦点があっていない。生気が感じられない。息はしているが立ち上がる体力もないのか、座り込んだまま雨に打たれていた。


(ここで、終わるのかな)


 わずかに残る意識の中、彼はそんなことを考えていた。


 青年・ノエは数日前、借りていた住居を追い出されていた。賃料を払えなくなり、追い出される形で部屋を出て行ったのだ。


 それから数日、収入のないノエはマールを放浪し続けた。その間は何も食べることもできず、この旧市街へと迷い込んだ。


 まるで、神の恵みを求める巡礼者のように。


 だが、そんなところに神の恵みなどあるはずもなく、彼を助けるものは何もなかった。


 二日前から空腹すら感じることもなくなり、もう動きたくないとばかりにその場に座り込んでしまった。


 そうして座り込んだまま、彼はその場で自分の最期を覚悟した。


(……冷たい)


 空腹は感じなくなったのに、雨の冷たさはまだ感じられるのだと、そんなどうでもいいことを考えていた。


 自分はここで終わるのだろう。それも仕方ないことだと受け入れていた。


 それでも、やはり悔しさはあった。


 自分がこのまま最期を迎えれば、新聞の片隅に小さな出来事として、名前が載るかもしれない。


 自分の最期が小さな記事で終わるのかと思うと、ただ悔しかった。


(……結局、物語の主人公にはなれなかったな)


 彼は傍らに置いてある鞄に目をやった。それは彼の持ち物の全てであり、彼を証明する唯一のものだった。


 それを悲しそうに見つめた後、彼はゆっくりと目を閉じた。もうそのまま、眠りに入ろうとするようにして。


 その刹那、彼は父のことを思い出した。


(ごめん、父さん)


 彼は喧嘩別れした父に対し、届かぬ謝罪を念じながら、そのまま眠りに就くのだった。



 ノエが目を覚ますと、そこは冷たい路地裏ではなかった。


 彼を包んでいるのは冷たい空気ではなく、ふかふかのベッドと毛布だった。


 目覚めたばかりの彼は、自分がどこにいるのかわからなかった。少なくとも天国や地獄ではないことは確かだった。


(……助かった?)


 よくわからないが、少なくとも生き延びることは出来たのだと、毛布の暖かさがそれを教えてくれた。


 ただ、自分が置かれた状況が理解できなかった。ここは病院なのかとも思ったが、そこに病院のような雰囲気は感じられなかった。


 誰かの家に連れて来られたのだろうかと考えながら、彼は身体を起こした。


 その時、心地良い風が横から流れてきた。彼はその風が流れてきた方へと顔を向けた。


「……え?」


 そんな間抜けな声が彼の口から漏れ出た。


 彼の視線の先には開け放たれた窓と、その傍らで眠りに就く少女の姿があった。


 ベッド脇に置かれている椅子に座り、少女はそのまま寝息を立てていた。


 まさか自分以外の人間がいるとは思っておらず、ノエは驚きで身体を硬くした。


(この子が、自分を助けてくれたのか?)


 今も眠り続ける少女。ノエは彼女を観察するように見つめた。


 綺麗に輝く栗毛の髪。きめ細かい白い肌。顔を半分隠すほどに大きい眼鏡の奥に、幼くも美しい顔が見え隠れしていた。


 その時、彼の中に既視感が芽生えた。


(どこかで、見たことがあるような……?)


 目の前の少女を見て、ノエは彼女に見覚えがある気がした。だが、彼女のような女性は知り合いにはいない。かといって道ですれ違ったとしても、彼女ような女性だったら記憶に残っているはずだ。


 彼はその既視感の正体を探ろうとしたが、その考えはすぐに霧散してしまった。


(……あ)


 ノエが少女の手元に目をやると、そこには束になった紙が置かれていた。


 それは彼の持ち物で、彼の大事なものだった。それが少女の手の中にあるのを見て思考を止めてしまう。


 その時、窓から強い風が流れ込んできた。カーテンが舞い、風で部屋の埃が舞い上がった。


「うわ」


 思わず声を上げるノエ。昨日の雨の冷気が残っているのか、冷たい風が頬を叩いた。


「……ん」


 その風に反応したのか、少女が小さく声を上げると、彼女はそのまま目を覚ました。


 寝ぼけ眼の少女が辺りを見回す。すると自然、少女とノエの視線が交差した。


「……あ」


 少女がノエと目を合わせると、彼女の顔が赤くなり始めた。


「……えっと」


 ノエはそれだけ言うのがやっとだった。何か言うべきだとは思うのだが、少女の反応を前にどうするべきか判断に迷ってしまう。


 彼がそうしていると、少女は勢い良く立ち上がり、その場で頭を下げた。


「ご、ごめんなさい!」


 少女はそう言うと、そのまま勢いよく部屋から出て行ってしまった。


 後に残されたのは静寂と、呆然とするノエの姿。


「……悪いことしたかな?」


 ノエは気まずさを覚えた。彼女に助けてもらったとするなら、お礼を言うべきだったと思う。それにここがどこなのかも訊いておきたかった。


 色々思うところがあったが、それら全てを差し置いて、彼はあることで頭がいっぱいだった。


 少女が手にしていた紙の束。彼はそのことが気になっていた。


「……あれ、僕の小説だよな?」


 そんなことを呟くノエ。少女はその紙の束を持ったまま、部屋を出て行った。




 少女が部屋を出てからしばらくすると、誰かがノックしてきた。


「失礼、お邪魔してもいいですか?」


 明らかにさっきの少女とは別の女性の声だった。


「あ、はい。どうぞ」


 ノエの言葉に応じてドアが開かれる。その時、彼は戸惑いを見せてしまった。


 入って来たのは少女だった。ショートカットの栗毛に、幼さを残した顔立ち。そこに怪しさを感じさせる笑みを浮かべていた。


 ノエが面食らったのは、彼女が男装をしていたからだ。


 小柄な体格で紳士服に袖を通したその姿に、ノエは目を丸くした。


 ただ、男装が似合っていないわけではなかった。むしろ彼女はその衣服を見事に着こなしており、紳士と言われても差し支えないほど様になっていた。


 これから夜会に向かうと言われても不自然ではなかっただろう。


「……あ」


 その男装の少女の後ろに、さきほどまでこの部屋にいた少女が隠れるようについてきていた。


「ほら、言いたいことがあるんでしょう?」


 男装の少女が彼女を前に押し出す。少女が青年の前に立つと、思い切って口を開いた。


「あ! あの! さっきは飛び出して行って、ごめんなさい!」


 そう言って頭を下げる少女。さっきのことを謝罪しているのだろう。それに対して、ノエも謝罪を返した。


「あ、いえ。気にしないでください。こちらも挨拶もできずに、申し訳ありませんでした」


 彼の答えに少女はホッとしたのか、ふわっとした笑みを浮かべてくれた。


 見れば見るほど大人しい少女だった。引っ込み思案と言うべきか、人と接するのが苦手なのかもしれない。


 そうしていると、お互いの間に沈黙が漂った。少女は顔を俯かせてもじもじしている。その少女にどうするべきか、ノエは声をかけられずにいた。


 困惑した彼は助けを求めるように周りに目を向けると、ある物が目に映った。


「それ、サフィナ・ガルニールのポスターですよね? お二人もファンなんですか?」


 それはこの国で最も有名な人間。サフィナ・ガルニールのポスターだった。


 女優・ガルニール。劇団コメディ・アンネリーズの人気女優で、多くの人を魅了した人気役者だった。


 ガルニールが演じた劇は数知れず、時には恋に燃えた東方の姫君を。時には愛と呪いに苦しむ悲劇のヒロインを。またある時は父の仇討に立ち向かう若き騎士など。


 劇場はいつも彼女の舞台を見ようと、多くの人で満席だった。彼女の情熱的な演技と福音のようなその声に、誰もが惚れ込んだ。


 そんな彼女のことを人々は『劇場の宝石』と呼び、彼女を一目見ようと劇場に足を運んだ。


「僕も彼女の舞台はよく見に行きましたよ。本当に素晴らしい演技で、すぐにファンになりました。初めて見に行ったリュイ・ブラスはよく覚えてますよ」


 ノエも彼女の舞台を見に行ったことがある。まだ下宿に住んでいた頃、友人に誘われて行ったのがガルニールが演じたリュイ・ブラスだった。


 ガルニールの名前は以前から知っていて興味があったし、それにリュイ・ブラスはノエが大好きな小説家の作品ということもあり、劇場に足を運んだのだ。


 その時に見たガルニールのリュイ・ブラスは素晴らしいもので、原作以上の舞台に昇華させているようにさえ思えた。


 彼女の演技を見た者は彼女に恋をすると言われているが、ノエも自分の中にも、恋に似た炎が燃え上がるのを感じるほどだった。


「そのポスターも良いですよね。ガルニールの美しさが出ているというか、舞台に立つ彼女を思い出します。リュイ・ブラスの時はすごく綺麗だったのを記憶してますよ」


 あの時の興奮が甦ったのか、ノエが饒舌にガルニールの魅力を語り続ける。


 すると、目の前にいる少女に異変を感じた。もじもじとさせているのは変わりないのだが、まるでその場から逃げ出したそうに身を縮こませていた。


 何か嫌なことを言ってしまっただろうかと、ノエは不安になった。


「よかったね、姉さん。あの時の舞台、見てくれていたって」


 その時、男装の少女がそんな風に語り掛けていた。


「あの時の、舞台?」


 ノエがそんな呟きを漏らす。そんなノエの反応に男装の少女が不思議そうに首を傾げた。


「あれ? 姉さん、まだ自己紹介もしていなかったの?」


「あ、あの、その、すいません!」


 その時、眼鏡の少女が一歩前に出る。真っ赤になった顔を上げて、眼鏡の奥から綺麗な瞳を向けてくる。彼女は恥ずかしそうにノエに顔を向けた。


「ありがとうございます……私がサフィナ・ガルニールです…………舞台を見てくれて、ありがとうございます」


 ノエは呆然としたまま、目の前の少女を見つめていた。彼の前に立っているのが、マールで最も有名な女優という事実に混乱した。


「あなたが、サフィナ・ガルニールさん?」


 ノエが問いかける。それは疑問というより、信じられないという気持ちが滲んだ言葉だった。


 その言葉をどう受け取ったのか、サフィナがびくっと身体を震わせた。


「は、はい。黙っていてすいません」


「い、いえ。……こちらこそすいません」


 慌てて謝罪するノエだが、やはり信じられなかった。今目の前に立っている少女は人と話したり、人前に立ったりするのが苦手そうに見えた。


 ノエが舞台で見たガルニールは、女王のように堂々としていた。何も恐れず、威風堂々と舞台に立ち、その卓越した演技で舞台を縦横無尽に立ち回っていた。


 そのガルニールが普段はこんな大人しい少女だったなんて、ノエには信じられなかった。


 少なくともこんな内気そうな少女が、幾万の観客が見る舞台に立っている姿なんて、想像できなかった。


 今も居心地悪そうにしているノエ。そんな二人を見て男装の少女が笑い声を上げた。


「あっははは。まあそういう反応になりますよね。みんなが知ってるのは舞台に立っている姉さんであって、普段はこんなもじもじしている女の子だなんて思わないですよねえ」


 ひとしきり笑ったところで、今度は彼女が名乗りを上げた。


「はじめまして。私は妹のルイズ・ガルニールと言います。そちらは?」


 そう質問されたところで、ノエはまだ自分が名乗っていなかったことを思い出した。


「すいません。まだ名乗っていませんでしたね。自分はノエ・プルストと言います」


「ノエさんですね。よろしく」


 手を差し出すルイズ。ノエもそれに応えるようにその手を握り返した。


「あの、それでここはどこですか? どうして自分はここにいるんでしょうか」


「ここは私達が借りているアパルトマンの部屋ですよ。昨日ここに帰って来る途中、路地裏でノエさんが倒れているのを見つけたんです。顔色も悪いし起きる気配もなかったんで、この部屋まで連れてきたんですよ」


 ノエが窓の外を見る。確かに彼が倒れていた旧市街からは、そんなに離れていないようだった。


「そうだったんですか……助けてくれて、ありがとうございます」


「いえいえ。気にしないでください。人助けが当たり前じゃなかったとしても、人が不幸になるのを当たり前にはしたくないですから」


 そんなことを笑いながら語るルイズ。その時、ノエは気になることを思い出した。彼はサフィナに顔を向けると、彼女の手元に視線を注いだ。


「すいません、それって僕の荷物ですよね?」


 言われてサフィナは、自分がノエの私物を手にしていることを思い出し、慌てて頭を下げた。


「ご、ごめんなさい! 気になってしまって……勝手に読んじゃってごめんなさい」


「いえ。大丈夫です。大したことじゃないですから」


 何か悪いことをしたような気分になり、ノエは口を閉ざしてしまう。


 部屋にわずかな沈黙が流れたところで、今度はルイズの方から話しかけてきた。


「ねえ。それよりノエさんはどうしてあそこで倒れていたんですか? お昼寝していたわけではないですよね?」


 その問いかけにノエは暗い笑みを浮かべた。


 昨日の雨が降る中、サフィナたちが見つけるまで、彼はあの路地で座り込んでいた。あのまま気を失ったまま放置されていたら、おそらく死んでいただろう。


「何があったのか、教えてくれませんか?」


 ノエは少し迷った。話しても気持ちのいい話ではないし、何より自分にとって苦い記憶を呼び起こすようなものだからだ。


 だが、助けてくれた相手に事情を離さないわけにもいかなず、彼はゆっくりと口を開いた。



「どこから話したらいいですかね……自分がマールに来たのは四年前。マール大学で勉強するためにやって来たんです」


「やっぱり学生さんでしたか。そういえばプルストっていう名前に聞き覚えがありますが、それってもしかして……」


 ルイズの反応にノエが苦笑いを浮かべる。


「ええ、想像の通りだと思います。僕の父は貿易会社・プルストの取締役で、自分はその息子です」


 貿易会社・プルスト。産業革命で頭角を現した産業資本家の一つで、貿易で財を成した一族だった。商売に精通する者なら知らない者はいない存在だ。


「ああ、本当にプルストの関係者だったんですね。そんな人がなんで行倒れなんてことに?」


 当然の疑問を口にするルイズ。汚い路地裏で倒れているのが大富豪の令息だなんて、普通は考えられないだろう。


 その疑問を受けて、ノエは自嘲するように笑みを浮かべた。


「まあ、簡単な話です。父とは喧嘩別れしてしまったんです」


 四年前、ノエは父の命令で、マール大学で勉強するためにここへやってきた。


 他の資本家がそうであるように、父親も彼に会社を継いでもらうことを考えていた。そのためには大学で勉強し、会社経営や経済学、他にも経営者になるために多くのこと学んでもらおうと思っていた。


 そんな父の願いを背負ってマールにやって来たノエだが、その期待とは裏腹に彼は学問以外のことに熱中した。


 世界の最先端を行くマールは学術だけでなく、芸術分野でも他より抜きんでていた。若き才能がマールに集まり、新たな芸術を日々生み出していた。


 マールで湧き起る新しい芸術運動を前にして、ノエはその芸術の息吹を一身に浴びるようになった。元々ノエは芸術に興味を持っており、絵画やコンサートを見に行くようになった。サフィナの演劇もそのうちの一つだった。


 そんな中、ノエが一番熱を上げたのが小説だった。彼は実家でもよく小説を読んでおり、その影響もあってか、マールに来てからも多くの本を読み漁っていた。


 そんな生活を送る中、彼の中で一つの想いが生まれた。


 自分も小説を書きたい、と。


 一度灯った炎は彼の中で燃え続け、もう誰にも止めることは出来なくなっていた。卒業を間近に控えた彼は、父に自分の想いを打ち明けた。


 そんな彼の想いに父は当然反対した。会社を手伝ってもらい、いずれは跡取りになってもらうために大学に送ったのに、それが小説家になるなどと言い出されては、親としては反対するのも当然だった。


 それからはお互い一歩も引かぬ親子喧嘩となった。最終的には父からは勘当を言い渡され、ノエも望むところだと反発し、そのまま家を飛び出した。


 家の束縛からも解放され、自由に小説を書けるようになった彼は、それまで借りていた部屋で小説を書き続けた。


 いつか自分が書いた小説が本になることを夢見て、小説を書き続けた。


 そうして夢を目指し続けた結果、彼を待ち受けていたのは出版社の容赦ない批判と、自分への失望だった。


 小説を完成させては出版社に持ち込み、採用されなかったらまた次の作品を書き上げて持ち込む。


 いつか成功する。そう思い続けてきたが、一向に認められることはなかった。


 ついには出版社の担当から諦めろとまで言われてしまった。


 その言葉が若者にとってどれほど苦痛であっただろうか。それからも小説を書いてみたが、いつしか書くことを楽しく感じられない自分がいた。


 そうして成功することがないまま月日は流れた。収入のないノエは生活を削り、それまで買い集めていた本を売り払い、本棚が空になると今度は本棚を売りに出し、次は小説を書くための机も売り払った。


 それでも成功することはなく、ついに家賃を払えなくなった彼は部屋を追い出されることになった。


 それからマールの街をさまよい続け、あの路地を終わりの地に定めるに至ったのである。




「そうして倒れていた自分を、お二人が見つけてくれたというわけです」


 最後はヤケクソ気味だった。それは自分を諦め、嘲る者の言葉だった。


 そんな彼の話を聞いて、ルイズが納得しながら頷いた。


「なるほどなるほど。夢に生きて、夢と運命を共にするところだったと」


 やけに楽しそうに笑うルイズ。対して後ろで聞いていたルイズは辛そうにしていた。


 ノエは一回息を吐いてから、また口を開いた。


「結局自分は才能のない、うぬぼれた若造だったんです。小説家を目指したことも父と喧嘩したことも後悔はしてないけど、才能がないことを受け入れるのは、やっぱり辛かったですね」


 そう言って彼はサフィナを見た。彼の視線の先には、今もサフィナが手にしている紙束があった。


「今ルイズさんが手にしているのは、自分が最後に書いていた小説なんです。結局最後まで完成させることができず、そのまま持ってきてしまいました」


 家を追い出されるまで書いていた小説。それが今、マールを熱狂させている女優の手の中にある。ある意味ではそれも慰めになるかもしれなかった。


「正直な話、自分はあそこで最期を迎えるのだろうと思っていました。もしお二人に助けてもらえなかったら、それが僕の遺作になっていたでしょう」


 遺言ではなく遺作しか残されていないと知れば、父はどんな顔をしていただろうか。それを思うと、ますます自分は不孝者だと思った。


「まあまあ、そんなことを言わずに。また小説を書こうとは思わないんですか?」


 何気なくルイズが訊いてくる。彼女からすれば、ノエを励ますために言ってくれたのだろう。


 だけど、彼にとってそれは嫌な現実を突き付ける言葉でしかなかった。


「……才能がないって言われたんです。そんな自分が書いても、意味なんてないでしょう?」


 価値を否定された彼の物語。今まで多くの物語を書いてきて、それらを否定されたことは、この若者の全てを打ち砕くようなものだった。


「いろんな物語を書いてきましたけど、どれも認められませんでした。僕の小説なんて、面白くなんてないんです」


 今まで書きたいものを書いてきた。自分が面白いと思ったものを書いてきた。それを全て否定されたのだ。


 もう小説なんて書きたくない。そう思わせるには十分だった。


「自分は、書くべき人間じゃなかったんです」


 ベッドの上で項垂れるノエ。そのまま彼は悲劇の中に埋もれようとしていた。全てを忘れるために。


「そんなことは、ないと思います」


 その時、そんな綺麗な声が部屋に響いた。


 ノエが顔を上げる。その視線の先には、彼の小説を抱えたサフィナが、まっすぐに自分を見つめる姿があった。


 その姿にノエは驚く。さっきまで静かにしていたサフィナが、真っ直ぐに自分を見つめ、その綺麗な声を自分にぶつけてきた。


 驚くノエに歩み寄りながら、サフィナが語り掛けてくる。


「私、この小説を読みました とってもきれいで、瑞々しくて、とっても綺麗な物語だと思います」


「……え?」


 彼女の言葉に戸惑うノエ。どこに持って行っても売れないと言われた自分の作品を、目の前の少女が美しいと誉めてくれる。ノエは


 突然のことに呆けてしまう。そんな彼にサフィナはさらに語りかけてきた。


「セリフもオシャレで、内容も素敵で、何より、物語に出てくる人たちは誰もが素敵で、みんなかっこよかったです」


 さっきまで大人しかったサフィナが歌うように話し続ける。自分の小説をこんなにも楽しそうに話すその姿に、ノエは目を離せなくなっていた。


 その時、サフィナがそっと目を閉じた。少女を包み込む空気が一変するのをノエは感じ取った。


 次の瞬間、彼らのいる小さな部屋が、世界で最も美しい劇場に変わった。


『私たち、何もかもが違うわ。生まれた国も違う。話す言葉も違う。瞳の色だって違う。全てが違う色をしているわ』


 サフィナが口にする言葉にノエは驚愕する。それはノエが書いた小説に出てくる場面で、ヒロインが主人公に告白をする場面だ。


 ノエは目の前の光景から目を離せなくなった。サフィナはそのヒロインの言葉を紡ぎ、その告白を美しく演じていた。


 いや、演じていたというレベルではなかった。まるで小説のヒロインが乗り移ったかのように、サフィナはそのセリフを語っている。


 ノエは小説を書いている間、もし登場人物たちが現実にいたらどんな人間だろうかと、ずっと考えていた。


 それが現実となっていた。彼の目の前で、サフィナはヒロインそのものになっていた。


『だけど、私は思うの。何度生まれ変わったとしても、きっとこれだけは変わらないわ』


 そうやって語り続ける少女は、ノエに微笑みかけた。


『どこに行っても何度生まれ変わっても、私はあなたを愛するのよ』


 その微笑みをノエはどこかで見た覚えがあった。それはどこだったか。


 そうだ。あの日初めて見に行った劇場でだ。友人が見に行こうと誘ってくれた劇場。


 そこに行った者は誰もが恋に落ちるという。誰もが彼女の演技に夢中になり、一目惚れをするのだと。


 そうしてノエもまた、女優ガルニールに一目惚れしたのだ。


 自分に微笑みかけてくる少女。その微笑みが証明してくれる。彼女が女優サフィナ・ガルニールであることを。


 少女の微笑みに釘付けになるノエ。そんな彼の前にサフィナは跪き、彼の手を取った。


『どうか教えてください。あなたの想いを』


 そうしてヒロインは主人公の言葉を待つ。それはノエが全てをかけて描いたシーンだった。


 目の前の少女は見事、その場面を演じ切ってくれた。


 しばしの沈黙が流れた。サフィナの演技の余韻が残る中、彼女はノエに語り掛けた。


「私、このシーンを何度も読みました。とてもまっすぐで、気持ちを込めて書いたんだなって思いました。今までにたくさん物語を読んできたけど、それに負けないくらい大好きになりました」


 そうして、サフィナはノエをまっすぐに見つめた。


「この物語を好きだという人が、ここにいます。だから、自分の作品がつまらないなんて、言わないでください」


 跪いて自分の手を握る少女。自分に微笑みかけるその姿はまるで、本当に愛の告白のように見えた。


 ノエは思い出す。自分がどんな想いでこの物語を書いていたのか。


 誰かに読んでほしい。読む人たちがみんな楽しんでくれたら嬉しい。それを想像しながら書くのは楽しくて仕方がなかった。


 今、その願いが叶った。サフィナがノエの手を優しく握った。


「素敵な物語を、ありがとうございます」


 本にもならず、誰にも読まれることがなかったノエの物語。その物語にはじめてファンが生まれた瞬間だった。



 二人の間に余韻が流れる。その時、部屋に拍手の音が響いた。振り向くと、ルイズがニコニコしながら拍手を送っていた。


「まるで愛の告白みたいだね、姉さん」


「え……?」


 ルイズの言葉にキョトンとするサフィナ。ルイズの言葉を反芻していると、みるみるうちに顔を赤くさせた。


「す、すいません! 変なことを言って!」


 そう言って、サフィナはまたも部屋の隅へ逃げて行った。さっきまでの堂々とした姿は消え失せ、最初の引っ込み思案な少女に逆戻りしてしまった。


「あはは! すいませんね、ノエさん、びっくりしたでしょう?」


「いえ。そんなことは……」


 大笑いするルイズと隅で恥ずかしそうに俯くサフィナ。対照的な姉妹の姿に、ノエは呆気に取られていた。


「姉さんっていつもこうなんですよ。いつもは大人しくしているのに、小説とか演劇とかの話になると、人が変わったように生き生きとするんです。まるでお菓子の家を見つけた子供みたいでしょう?」


「ルイズ!」


 サフィナが顔を赤くして怒り出す。その様子がおかしいのかルイズがますますにやけていた。


 ルイズの言葉に納得するノエ。小説のことを話すルイズの顔はとても輝いていて、本当に物語が大好きなのだと感じさせるものがあった。


「まあそれは一旦置いといて。ノエさん、これからどうするんですか? 一度家に帰られた方がいいんじゃないですか?」


 ここで現実的な話を持ち出すルイズ。確かに彼女の言う通り、実家に帰るという選択肢もあるし、むしろ最適解かも知れない。それはノエにも理解できる。


 だけど、どうしても彼はその答えを選べなかった。


「いえ……それはないでしょう。喧嘩までして家を飛び出したんですから。父も自分を許すとは思えませんし、そんなことをするのも情けないというか……」


「まあ、そうなりますよねえ」


 そう言ってニタニタ笑うルイズ。ノエ自身もつまらない意地の張り方だとは自覚していた。


 だけど、喧嘩をして飛び出した身としては、どんな顔をして帰ればいいのかわからなかった。


 何より、父親に負けを認めることがどうしてもできなかった。


「あの……いいですか?」


 その時、意外なところから声が上がった。部屋の隅でサフィナが小さく手を上げていた。


「ノエさんさえよかったらですけど……うちの劇団で働きませんか?」


「え?」


 サフィナの言葉にノエは間抜けな声を上げた。


「ああ、いいじゃないですか。それ」


「あの、劇団とは、どういうことです?」


「実は今、私達が新しく作った劇団の初公演の準備をしているんです。新聞で読みませんでしたか?」


 そういえばとノエが思い出す。一年前、女優ガルニールがそれまで所属していた劇団を退団することが報じられた後、しばらくしてガルニールが新たに劇団を発足したことが報じられた時があった。


「立ち上げたばかりの劇団で、今は人手が欲しいんです。家に帰りたくないのなら、しばらくはうちで働いてみませんか? 何をするのか決めてないのなら、それが決まるまでの間まででいいですから」


 空からパンが降って来たような気分だった。人気女優に助けられたかと思えば、今度はその女優の劇団で働かないかと持ちかけられた。信じられない展開だった。


「いや、ありがたいですけど、自分が劇団でできることがあるとは思えませんが……」


「さすがに舞台に立てとは言いません。事務とか書類とか、そういうのを手伝ってくれたらありがたいです。もちろん給料もお出しします」


 その時、隅に控えていたサフィナが近寄ってきた。


「どうでしょう? ノエさん」


 その言葉にノエは即答できず、戸惑うばかりだった。


 とは言え、魅力的な提案ではあった。仕事が手に入って給料も頂けるのはありがたい話だ。


 それに何より、女優ガルニールの劇団で働けるのは、魅力的な話だった。


 もう彼の答えは決まっていた。


「……わかりました。自分でよければ、働かせてください」


 その言葉が嬉しかったのか、サフィナが嬉しそうに笑ってくれた。


 路地裏で倒れていたら、人気女優の劇団で働くことになった。こんなお話、誰に語っても信じてもらえないだろう。


 自分のことながら目の前の不思議な出来事に、ノエも笑みを浮かべるのだった。


「あ、そういえば劇団のお名前は何と言うのですか?」


 ノエが問いかける。その問いかけに、サフィナは微笑みを浮かべて答えた。


「劇団・トレゾール。私の『宝物』です」


 宝物を意味するトレゾール。その名を冠した劇団の名を告げるサフィナ。


 その顔はまるで、大切な我が子を想う、母親のような微笑みだった。


「ようこそ、私の劇団へ」


 サフィナがその小さな手を差し伸ばす。その差し出された手を握り返すノエ。


 終わりを迎えようとしていたノエの物語が、再び始まった瞬間だった。

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