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失われたもの



 公開演習が終わると、見学人たちはみんな、弾むような足取りで出口へと向かった。

 そこから出てくる騎士たちに声をかけるのが目的らしい。たぶんその時くらいしか、個人的なやり取りはできないのだろう。ラヴィも見物人の中に混じって、彼らがやって来るのを待った。


 心臓が今にも破裂しそうに、ばくばくと大暴れしている。


 名を呼ばれて相好を崩した騎士たちが向かっていく相手は、それぞれの家族か恋人か、あるいは婚約者のようだった。

 それ以外の女性たちは、控えめに声をかけて、差し入れを渡すくらいが精一杯だ。騎士たちのほうも心得たもので、軽い挨拶や礼を述べて、彼女らとの交流を楽しんでいる。

 その中で一人だけ、声をかけられても、小さな包みを差し出されても、そちらには目もくれず前方を見据えたままスタスタと歩く騎士がいる。


 彼は、女性たちの熱視線もあっという間に凍らせてしまいそうな冷ややかな表情を、ピクリとも動かすことがなかった。


 ラヴィはぐっと拳を握った。

 シリルと会うことはもうないだろうと諦めていた。いや、諦めなければいけないと、会いたい気持ちを無理やり奥のほうに押し込めていた。それが今、一気に浮上してラヴィの心を激しくかき乱している。

 シリルは女性たちのほうを一瞥もせず歩いているので、こちらには気づいていない。足を止めることなく前を通り過ぎていく横顔を見て、きりきりと胸が引き絞れるように苦しくなった。


 行ってしまう──


 その姿を見ないままだったら、ラヴィの恋心は静かに沈んで、いずれは消えていっただろう。でも、今はまだだめだ。実際に見てしまったら、自分でも抑えがきかない。

 どうしてもその名を呼ばずにはいられなかった。


「……シリルさま!」


 ラヴィが思いきって声を張り上げた瞬間、シリルの後ろ姿がぴたっと止まった。

 ずっと前に向けられていた顔が、弾かれたようにこちらを振り向く。

 高揚で頬を赤く染めたラヴィを見つけると、保ち続けていた鉄壁の無表情が崩れ、彼は大きく目を見開いた。


 やっぱり、シリルだ。


 記憶にあるよりもずっと大人びて、あの頃の屈託のなさも、柔い頬のラインも消えてしまったが、整った容姿はそのまま、いや以前よりもさらに磨きがかかっている。表情からは愛らしさと無邪気さが抜けて、代わりに抜き身の刃のような鋭さをまとっていた。

 周囲がぎょっとした顔をしている中、ラヴィはどきどきしながら足を前へと動かした。

 言いたいことはたくさんあるはずなのに、頭の中がぐるぐる回って、なかなか言葉が出てこない。気の早い涙はすでにぷっくりと膨れ上がって、視界に水の膜を作ってしまっている。

 ああどうしよう、なんて言えばいいのだろう。お久しぶり? お元気ですか? いや違う、それより何よりも、ラヴィがずっとシリルに言いたかったのは。

 会いたかった──


「……誰だ?」


 その言葉を出そうと口を開きかけたところで、低い声が耳を打った。

 一歩を踏み出した体勢で、ラヴィの動きがぴたりと止まる。一つ瞬きをした拍子に、溜まっていた涙の粒がぽろっと頬を伝って落ちたが、それも気づかないくらい、頭が真っ白になった。

 誰だ、って。


「あの、わたし──」

「知らない相手からいきなり名を呼ばれるのは不愉快だ。人に声をかけるのなら、礼儀くらい勉強してきたらどうだ」


 完全に咎める目でラヴィを見下ろしながら、シリルはぴしゃりと撥ねつけた。弁解も反論も許さない、厳しく威圧的な口調だった。

 組み合わせた両手が小刻みに震える。あまりの容赦のなさ、こちらに向けられる軽蔑の混じった目に、ラヴィの顔から血の気が引いた。足元が急に泥地に変わってしまったようで、まっすぐ立っているのも覚束ない。


「わ、わたし、ラヴィです。ニコルソンの──」

「知らないと言っている。人違いだろう」


 すげなく断言されて、目の前が真っ暗になった。

 人違い?

 では今、自分のすぐ近くにいるのは誰だろう。いや、シリルだ。間違いなく彼のはずだ。でもラヴィの知っているシリルは、少なくともこんな目をする人ではなかった。

 小さなラヴィがどんな失敗をしても、やんわりと窘めるだけで、「次からは気をつけてね」と優しく言ってくれた。危ないことをした時はお説教をされたこともあったけれど、こんな風に冷然と突き放すような真似は、一度もしなかった。


 ここにいるのは、シリルと同じ顔をした、ラヴィの知らない「誰か」だった。


 蒼白になって立ち竦むラヴィを無感動に見下ろして、シリルはさっと身を翻すと、足早に立ち去ってしまった。

 拒絶を露わにしたその背中は、こちらを振り返ることもない。

 周りにいる女性たちからの、くすくす笑いが降り注ぐ。突撃アピールを敢行した挙句に玉砕した、無礼で無謀な小娘に向ける嘲笑だった。

 ラヴィはしばらくその場で茫然と立ち尽くした。



 それでもラヴィはなんとか耐えた。迎えに来た父親と合流し、馬車に乗って王城の門を出て、王都の屋敷に着くまで、歯を食いしばって我慢した。

 ずっと黙り込んで俯いたままの娘を心配して、父親は何度も何があったのかと問いかけてきたが、それに答えることはできなかった。一度口を開いてしまえば、やっとの思いで堰き止めている涙が決壊して溢れ出てしまうのは確実だと判っていたからだ。

 が、屋敷に帰って、「おかえりなさい」と出迎えた弟のアンディの顔を見たところで、限界が来た。

 ラヴィは無言でアンディを引っ掴み、自分の部屋へと強引に連れ込んで、ベッドに座らせると、その小さな身体に縋りついてうわあんと泣いた。


「ね、ねえさま?」


 当たり前だが、アンディは目を白黒させた。しかし、賢く姉思いでもある十一歳の少年は、それを引き剥がすことはせず、大人しくラヴィに抱きつかれながら、よしよしと背中を撫でてくれた。

 言ってはなんだが、離れて暮らす期間が長かった父親との情よりも、二人で身体の弱い母を守り、喜びも悲しみも分かち合ってきた姉弟の結びつきのほうが、ずっと強くて深いのだ。


「王城で、イヤなことでもあった?」

「うっ、イ、イヤなことじゃないわ、むしろ嬉しいことよ。ひくっ、で、でも、こっ、こんなに悲しいことってあるかしら!」

「うん、まったく判らないな」


 おんおん泣きながらさっぱり要領の掴めないことを口走るラヴィを慰めつつ、アンディは根気よく事情を聞き出した。

 当時幼子だったアンディにシリルの記憶はほとんどないが、姉の口からうんざりするほどその名前を聞かされていたせいか、切れ切れの説明でも、すぐに何があったのかは把握できたようだ。


「……なるほど。ねえさまは一目でその人がシリルさまだと判ったのに、あちらはねえさまを見てもちっとも気づかなかった、と。おまけに別人のように冷たい態度を取られて、それがショックだったんだね?」


 弟に冷静に指摘されて、ラヴィはようやく大泣きするのをやめた。涙は止まらないので顔はくしゃくしゃなままだが、ぐずぐず鼻を啜りながら、小さく首を横に振る。


「そっ……そうじゃないのよ。シ、シリルさまの変わりようもショックだったけれど、い、いちばん悲しかったのは、わたしとシリルさまとでは、思い出の比重がまるで違っていた、ということなの……」

「比重、というと」

「わ、わたしがずっと、大事に大事に守り続けてきたものが、シリルさまにとっては、物の数にも入らない、ちっぽけなものでしかなかったんだって……それが判ってしまって」


 二年の間に交わした手紙も、育んだ友情も、築いた絆も、ラヴィにとってはどれも宝石のように美しく大切なものだったのに、シリルはそれをあっさりと屑籠に入れてしまった。記憶の彼方に追いやって、現在の彼には何も残っていない。

 その現実をまざまざと見せつけられて、今までずっと長いこと、二人の思い出を後生大事に胸の中にしまい込み、何度も取り出しては磨いていた自分が、たまらなく惨めで恥ずかしくなったのだ。


「うーん……」


 アンディは首を捻った。


「ねえさまのように個性的で時々突拍子もない人を、そう簡単に忘れるとは思えないんだけどな」

「個性的はともかく、突拍子もないって何かしら」

「もしも本当にまったく覚えていないとしたら、シリルさまの頭のほうに問題があるか、あるいは昔の思い出を塗り潰してしまうくらいの大きな出来事があった、ということかもしれないね」


 何気にひどいアンディの言葉に、ラヴィもようやく少し落ち着きを取り戻してきた。


「……そういえば、見学していた女性たちは、シリルさまを『孤高の冬狼』と呼んでらしたわ。誰に対しても冷たくて、他人と馴れ合わないからですって」

「すごい二つ名だね……どんな時でも情報収集を怠らないねえさまはさすがだよ」

「確かにシリルさまは、誰ともお喋りしなかったし、笑いもしなかった。昔はよくお腹を抱えて大笑いするような、朗らかで明るい性格だったのに」

「貴族は普通そんな風に大笑いしないから、よっぽどねえさまが面白かったんだろうね」

「そうね……そうだわ」


 アンディの突っ込みなど耳に入らないラヴィは、納得したように呟いて、うんうんと何度も頷いた。


「わたしったら、自分のことばかりで……この七年の間、シリルさまはシリルさまで、大変だったに違いないわよね」


 彼と別れることになった経緯を考えれば、当然の話だ。

 ラヴィは「忘れられた」ことにばかりこだわっていた自分を、深く反省した。離れていた期間、シリルがどこでどのように過ごしていたのか、ラヴィは何も知らない。もしかしたら、笑うことも忘れてしまうくらい、つらいことがあったのかもしれないのに。


「……それで、どうするの? ねえさま」


 アンディに改めて問いかけられて、ラヴィは目を伏せ、唇を強く引き結んだ。

 七年前に別れた時、ラヴィは子どもで、世間を知らず、歯がゆいほどに無力で、シリルのために何もしてあげられなかった。

 その時の後悔と罪悪感は、長いことラヴィの中にしこりとして残った。会いたい気持ちを強引に抑えつけていたのは、追いかけたところで、ただの商人の娘である自分にできることはないだろうと思っていたからだ。


 でも、シリルが笑っていてくれるようにと、それだけをずっと願い続けていた。


 ラヴィのいないところで、ラヴィの知らない世界で、隣に他の誰かがいたとしても、シリルがまた元のように楽しげな笑い声を立てていれば、それでいいと。

 ……なのに、現在の彼の顔に笑みはなく、冷たい無表情があるだけだった。

 しばらくしてから、ラヴィはぐいっと涙を拭って、顔を上げた。


「──もう一度、シリルさまとお会いする。昔の記憶がただ底のほうに追いやられているだけなら、きちんと顔を合わせて話をすれば思い出してくれる可能性もあるし」


 その場合、もしかしたら今度こそ、自分にもできることがあるのかもしれない。

 ラヴィの手は未だ小さいままだけれど、力の限り頑張るから。


「でも、もしも、それでもダメだったら」


 シリルが、本当にかつての思い出をすべて放り捨てて、この先ラヴィの存在も助けも必要ないというのなら。

 その時こそ、ラヴィはきっぱりと諦めよう。

 自分もシリルへの恋心を封印して、もう取り出すのはやめる。

 それからどうするか──結婚を考えるか、仕事に生きるかは、その時にまた検討すればいい。

 泣くのをやめてそう言うと、「それでこそ、ねえさまだ」とアンディはにっこりした。





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