二度目の鐘が鳴り響く
「クレアさまの花嫁姿は、本当にお綺麗だったわ……」
ガタゴトと揺れる馬車の中で、窓から外を眺めながらラヴィが呟くと、向かいに座っている父親が「また思い出しているのかい?」と少々呆れ気味に訊ねてきた。
「結婚式が行われたのは三月も前のことなのに」
「あらお父さま、美しいもの素晴らしいものは、何度思い返してもうっとりしてしまうものですよ」
「それにしたって、今じゃなくても。せっかくはじめての王城なんだから、そちらに感嘆したり、うっとりしたりすればいいんじゃないかな」
「ええまあ、確かに大きくて立派ですね」
「雑な感想!」
窓を覗けば、その小さな枠内にはとても収まりきらない壮麗な建物が、前方に見えてきている。
ディルトニア王国が誇る、巨大な王城だ。
王族が暮らし、政の中心でもあるこの城は、当然のことながら国で最も堅固、かつ警備も厳重なことでよく知られており、敷地内に立ち入れる人間も限られる。
「平民の商人が大手を振って王城の門を通れるとは、時代も変わりましたね」
「そうだねえ。ここ数年、力を持った平民がどんどん台頭してきたから、貴族のほうも無視できなくなった、という事情も大きいかな。それに加えて、今の国王陛下は寛大なお方だから」
もちろん、王城が門戸を開くのは、平民の中でもごく一部である。つまり、力がありお金もある、という者だけだ。
ディルトニア王国では近年、貴族の権威が衰えはじめており、上流階級でも窮乏することは珍しくない。そんな時、彼らが金を借りるのは裕福な商人だ。貴族たちは、昔ほど平民に対して大きな顔ができなくなった。
「ニコルソン商会もすっかり大きくなってしまいましたものね」
ラヴィは父親のほうに向き直り、他人事のように言った。
乙女心が判らず、幼い頃のラヴィが「こんなことではすぐに商会を潰してしまうのではないか」と心配していた父親は、どこか頼りない風貌で商売敵を欺きつつ客の信用を得て、するすると世渡りしながら、いつの間にか王都で知らぬ者はないという大商人にまでのし上がった。 現在の父だったら、さすがにシリルの両親も頼ってくれていたのではないかと思うと、残念でならない。
今では「ニコルソン商会」の品は平民貴族どこの家庭でも必ず一つはあると言われており、こうして王城に出入りすることが許されるまでになっている。
叙爵の話もあったが、上手いこと言い訳して断ってしまったそうだ。貴族になると、それはそれでいろいろと面倒事が多いらしい。
「あんまり大きくしすぎると、跡を継ぐアンディが大変でしょうに」
「大丈夫だよ、あの子は僕よりもずっと賢くて、ラヴィよりもずっと現実的だからね」
「どういう意味ですか」
クレアのいる男爵家での行儀見習いを終え、家業を手伝うようになったラヴィは、もはや立派な一人前のレディである。いつまでも子どもの頃のような、世間知らずの箱入り娘と思われては心外だ。
「いや、ラヴィも十七歳だし、そろそろクレアさまのように、結婚のことを考えてもいい頃かなあ、って」
「…………」
ラヴィはそれには返事をせず、再び窓の外に視線を戻した。
最近の父親が、しきりとそれについて話を振ってくることに、少しうんざりする気分もあった。こうしてラヴィを王城での商談に同行させることにしたのも、「ラヴィにお城の絢爛さを見せてあげたい」という表向きの理由とは別に、あわよくば城勤めの文官にでも見初められないかな、と父が考えていることだって、ちゃんとお見通しだ。
だからこそ、はじめての王城だって心から楽しめないのではないか。
──文官か。
外の景色を見ながら、ラヴィは心の中で呟いた。
いつぞや、シリルに対して「王城で仕事をする」と宣言したことを思い出す。平民が貴族の嫡子と結婚できるように法律を変えよう、と張りきっていたが、その夢はシリルの運命が大きく変わると同時に、急激に萎んで消えてしまった。
今のラヴィは、ニコルソン商会の会長の娘であるとともに、一人の従業員という立場でもある。
商品について学び、接客をすることもあるが、跡を継ぐのは弟のアンディと決まっている。少々中途半端な位置にいるラヴィに早くいい嫁ぎ先を見つけたい、というのは彼の親心なのだろう。
幸い、儚げな美貌の持ち主であった母親のほうに似たラヴィには、十七歳になった現在、いくつもの縁談が持ち込まれていた。それらを片っ端から蹴飛ばしている娘の将来を、父が案じてしまうのも無理はない。
……それでも、ラヴィは未だ踏ん切りがつかない。
あのような成り行きでシリルと別れることになって、ラヴィの恋心は大きくなることはなくとも小さくなりもせず、時間を止めたまま同じ形を保って心の中に残っている。
これを捨てるか埋めるかしないうちは、誰に対してもきちんと向き合えないような気がするからだ。
結婚をする気にはなれず、かといって他に情熱を持てるものもない。今のラヴィは、行く先を見失ってふらふらと空を彷徨う鳥のようだ。着地する場所がないから、仕方なくなんとか羽ばたいているだけの。
せめて何かきっかけがあればいいのだけど、と考えるラヴィを乗せて、馬車はどんどん王城へと近づいていった。
いくら王城への出入りができるようになったとはいえ、父の商談の相手は王族や高位貴族ではない。おもに城で使われる食器類や各種文具など、細々とした備品を購入してもらうのが目的だ。
しかし取引する量が多いからまとまった金額になるし、箔もつくので、王城相手の商売はメリットが大きい。交渉相手は文官とはいえ、ほとんどが貴族なので、基本的に居丈高な上、やたらと買い叩かれるのが困ったところではあるが。
煌びやかな王城内の、地味で事務的な一室で、商談は行われた。ラヴィは眺めていただけだが、父はお得意の人の好さそうな笑顔と、のらくらした態度と、適当なお世辞と、たまに皮肉な切り返しを織り交ぜた駆け引きで、なんとか成約にまで持ち込んだ。見事なものである。
それでもやはり緊張はしていたのか、その部屋を出ると、ようやく二人してホッとした顔になった。
「僕はこれからもう少しご挨拶に回らなければならないんだ。ラヴィはどうする? 一緒に来てもいいけど、せっかくだから王城を見物していくかい?」
ラヴィは喜んでその提案に乗ることにした。商談の最中、父の後ろに立ってずっとにこにこし続けていたので、肉体も表情筋もクタクタだ。
「それなら、王立騎士団を見にいくといいよ。今日はちょうど月に一度の公開演習の日のはずだし、他に見学の人もたくさんいるのではないかな」
「王立騎士団、ですか」
噂で聞いたことがあるわ、とラヴィは思った。
貴族の子息だけで構成された少数精鋭の王立騎士団の面々は、見目麗しい男性ばかりを揃えているため、特に若い女性に大人気なのだとか。
「そうですね、行ってみます」
正直なところ、筋肉ムキムキのむさ苦しい男所帯にさして興味があるわけではないのだが、アンディへの土産話にはなりそうだと思って、頷いた。
見渡す限り貴族ばかりの王城で、取り立てて他に見たいものがあるわけでもない。ラヴィはつんと取り澄まして静かで堅苦しい城よりも、市井の賑やかで自由闊達な空気のほうが好きだった。
「じゃあ後で迎えに行くよ。敷地が広いから迷わないようにね」
父に場所を教えてもらい、騎士団の演習場に向かうと、そこにはすでに多くの見学の人たちがいた。
騎士たちの家族や恋人たちなのだろうか、鉄柵を隔てて演習の様子を眺めているのは、圧倒的に女性が多かった。つばの広い帽子を被っていたり、小さなパラソルを差したりして、きゃっきゃと浮かれながらお喋りしている十代の女の子の集団もいる。騎士の愛好者、ということかもしれない。
そのグループの隣の隙間に入って鉄柵の内側の演習場を見ると、百人ほどの騎士たちが整然と並んでいた。
騎士服を身につけ、腰に剣を佩いて、きりりとまっすぐ立つ姿は、確かに目を引く。
「第一隊はみなさま美麗な方ばかりで」
「あら、わたくしは第二隊のほうが素敵だと」
「第三隊の方々は男らしい顔立ちの方が多いわよね」
耳に入ってくるご令嬢がたの会話に、ラヴィはふむふむと内心で相槌を打った。どうやら騎士団は、隊ごとに女性たちによるランク付けがされているらしい。彼女らの評価基準は騎士としての技術ではなく、顔面のほうに重きが置かれているようだが。
「わたくしはニコラスさまがいちばんだと」
「でしたらイアンさまのほうが」
「いえ、大人の魅力といったらやっぱり」
彼女らは騎士と思しき名前をいくつも上げて、「誰が最もカッコイイか」という話に熱中していた。こういうところは平民でも貴族でも変わりないのね、と思いながら、ラヴィは一糸乱れぬ動きをする騎士団をぼんやりと眺めた。
「エイブルさまとティモシーさまとバーナードさまには、もう婚約者がいらっしゃるのですって」
それにしても詳しいですね、お嬢様がた。
「あらっ、みなさまご覧になって、『冬狼』の君だわ!」
そんな愛称までつけられているのかあ。
「まあ、相変わらずクールなお顔。誰も笑顔を見たことがない、という話は本当みたいねえ」
「先日、カミラさまが勇気を振り絞ってお声をかけたら、冷たい一瞥だけで無視されたそうよ」
「だって『孤高の冬狼』ですもの。気高い志で、他人とは決して馴れ合わないのよ。そういうところがたまらなく素敵ではなくて?!」
冷たく無視されたら逆に燃え上がってしまうとは、もはや被虐趣味の域に入っているのでは?
令嬢たちは盛り上がっているが、ラヴィはかなり引いてしまった。ラヴィの好みは、優しくて包容力があり、明るい笑顔でこちらの心まで温かくしてくれるシリルのような男性なので、彼女らの言葉がまったく理解できない。
どこのどいつですか、可愛い女性に声をかけられても平気で無視して立ち去るような、冷淡で傲慢な人でなし野郎は。
その「冬狼」とやらの顔を拝んでやろうと目を凝らしたラヴィの耳に、また別の声が飛び込んできた。
「あの髪色も銀狼のような風格がおありになって、青い瞳は澄んだ冷たい水のよう。もっとお近づきになってお名前をお呼びしてみたいものよねえ、シリルさまって!」
その瞬間、ガシャンと大きな音がして、令嬢たちはぴたっと口を閉じた。
音が鳴るほど鉄柵を勢いよく両手で掴んだラヴィは、彼女たちの目が一斉に自分に向けられたことにも気づかない。へばりつくようにしてぐっと身を乗り出し、食い入るような視線を演習場に集う騎士に向けた。
鉄柵を握る手が小さく震えている。他の雑音、それ以外の景色は、この時のラヴィの耳にも目にも入らなかった。
そして、見つけた。
シルバーブロンドの髪に青い瞳。身長はぐんと延び、肩幅もずいぶん広くなった彼に、もはや昔の少年らしさは残っていない。
けれどその目、その鼻、その口は、間違いなくラヴィがこれまで何度も何度も思い返したものと同じ形をしていた。
十歳の時に別れてから、ただの一度も忘れたことなんてない。一通も欠かさず机の引き出しにしまわれた手紙のように、ラヴィの胸にも、彼の表情、声、仕草の一つ一つが今もなお明確に刻まれている。
──また、会えた。
その時、ラヴィの頭の中で、二度目の鐘の音が高らかに響き渡った。