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それからの日々



「──そういうわけで、わたしの初恋は美しくも悲劇的な幕切れを迎えたのです」


 せっせと櫛で金色の髪を梳きながらしんみり語ると、その髪の持ち主であるクレアは読んでいた本をぱたんと閉じて、呆れたように鏡の中のラヴィと目を合わせた。


「あのね夏鳥、その話、わたくしはもうすでに何十回も聞かされているのよ」

「何度聞いても飽きないでしょう?」

「だいぶ飽きたわ。もっと刺激的な楽しい話はないの? 演劇になるような」

「シリルさまとの出会いから別れまで、即興の一人芝居で演じてごらんにいれましょうか?」

「いやだわ、それはそれで怖いわ」


 引き攣った顔で、クレアは首を振った。

 彼女はラヴィの母と同じく身体が弱い。少し無理をすると激しく咳き込んだり、熱を出したり、ひどい時には呼吸困難を起こしたりもする。だから観劇なども行ったことがなく、部屋の中で本を読んで過ごすことが多いため、大体いつも娯楽に飢えているのだ。


「クレアさまを楽しませるのも、わたしの役目のうちですからね」


 ラヴィは十五歳になってから、下級貴族の屋敷で行儀見習いとして働き始めた。いつまでも落ち着かない娘を心配した父親に、社会勉強だと強引に決められてしまったのである。

 もともと病弱だった母は、ラヴィが十三の時にとうとう天国へ旅立ってしまった。

 その後ラヴィとアンディは王都の屋敷に引っ越したのだが、ただでさえ多忙な父が、自分だけで姉弟をきちんと育てられるのか不安に思った、というのもあるのだろう。

 商人である父の才覚を引き継いだラヴィは、目端の利くしっかり者に成長した。最初は下働きだったこの男爵家での仕事も、一年以上経過した現在では、娘のクレアの世話を任されるまでになっている。

 クレアはラヴィの二歳上だ。病がちな彼女を見ていると、どうしても母親のことを思い出す。だからラヴィは裏表なく献身的に、せっせと面倒を見た。そんなラヴィをクレアのほうも信用し、姉のように、または友人のように接してくれているのだった。

 ちなみに「夏鳥」とは、クレアがラヴィにつけた愛称である。


「それで、シリルさまのその後の消息は判らないままなの?」


 クレアの問いに、ラヴィは櫛を持つ手を動かしながら頷いた。


「そうなのです。きっと今頃は、神々しいまでの美丈夫におなりでしょうねえ」

「でも、調べようと思えば調べられるでしょう?」

「まあ、そうですね」


 シリルは母親の実家に身を寄せると言っていたのだし、オルコット伯爵夫人のことを調べるのは、実はそれほど難しくはない。

 ましてやラヴィの父は、情報が命と言ってもいい商人なのだ。彼が本格的に動けば、シリルがどこに住んでいるのかくらいはすぐに掴めただろう。


「……でも、シリルさまはきっと、それを望んでおられないでしょうから」


 わざわざラヴィに別れを告げに来たのは、これから新しい人生を歩む彼が、それまでの過去と決別する必要があったためだろう。埋めようとしたその「過去」の中に、ラヴィとの思い出が含まれていたのなら、それを無理にほじくり返す必要はない。

 もちろんそんな風に考えられるようになるまで、長い時間がかかった。時々発作のように突き上げてくる「シリルに会いたい」という衝動を押さえ込むのは、毎回ものすごく大変だった。

 しかしそれも、三日に一回、十日に一回、一月に一回と、徐々に間隔を空けていき、なんとかラヴィは、シリルの覚悟を自分も受け入れよう、というところに落ち着いたのだ。


「おかげで今は、シリルさま探しの旅に出ようと荷物をまとめることが、年一回くらいまでに減りました」

「未練タラタラじゃないの」


 黙っていれば繊細な美少女なのに、中身は結構な毒舌家であるクレアは、ばっさりとそう言った。

 それから、窺うように少し目を上げる。


「……夏鳥が知りたいと思うなら、わたくし、協力してもよくてよ」


 ラヴィは一度ぱちりと目を瞬いてから、にこっと笑った。


「よろしいのですよ、クレアさま。たとえばシリルさまの現在が判ったとしても、だからといって、わたしにできることは何もありませんから」


 貴族と平民の違いについて、もう子どもではないラヴィはきちんと理解しているつもりだ。

 もしもあのまま何事もなく伯爵が健在でいたとしても、いずれラヴィはシリルと距離を置かなければならなかった。

 十歳のあの時と同じで、ラヴィの手は小さいままなのだ。


「さあ、おぐしを整え終わりましたよ。次はお薬を飲んでくださいね」


 わざと陽気な声を出して、クレアを鏡台の前からテーブルへと促す。

 そこに置いてあるグラスに入った、少量のどろりとした赤黒い液体を目にして、クレアはうんざりしたように眉を寄せた。


「いつものことだけど、これを見ると憂鬱になるわ」

「見た目からして、美味しくなさそうですものねえ」

「美味しくないどころじゃないの。まるで本当に血を飲んでいるかのような不快さがあるのよ。匂いもきついし、喉越しも最悪だし」


 実際、この液体は「竜の血」と呼ばれているらしい。もちろん本物の竜ではなく、「竜の樹」という名の樹木から採られるものだからだ。

 竜の樹は、太い幹がぐねぐねとうねるように伸びる樹木で、外見が伝説の生き物の竜に似ているところからその名がつけられた。幹に傷をつけると、そこからは赤い血のような汁が滴るというのだから、なおさら本物じみている。

 しかし、その不気味な赤い樹液は、特定の症状に対して非常に有効な薬になるという。


「ずいぶん貴重なものらしいですね」

「そうなの。『竜の樹』というのは、特殊な環境下でしか育たないんですって。苗を他の場所に運んで植えてもすぐ枯れてしまうから、とても数が少ないの。だからこのお薬も、かなり高価なのよ。負担ばかりかけて、お父さまには本当に申し訳ないと思っているのだけど……」


 クレアは細い肩をすぼめて目を伏せた。

「竜の血」は高価な上に手に入りづらく、クレアの父である男爵は娘のために毎回大変な苦労をして取り寄せているそうだ。クレアがこれを見るたび「憂鬱になる」と言うのは、なにも味が不満だからというわけではなく、父への罪悪感と、身体の弱い自分に対する自己嫌悪に苛まれるからなのだろう。


「なにをおっしゃってるんですか。もしも母の病気に特効薬があったなら、わたしも父も、なんとしてでもそれを手に入れていましたよ。大事な人にはいつでも元気でいてほしい、笑っていてほしい。それは当たり前の感情であって、負担でもなんでもありません。それなのにその大事な人がしょんぼりしていたのでは、本末転倒でしょう? 男爵さまの愛情には、クレアさまの健康と笑顔で返すのがいちばんです」


 ラヴィがきっぱり断言すると、クレアは「夏鳥の単純明快な思考が羨ましい」と皮肉を言いつつも、やんわりと目元を和らげた。


「ニコルソン商会でも取り扱えればいいのですけどねえ」

「あら、薬関係は扱いが難しいわよ。特に『竜の血』は流通ルートが限定的なの。いくらニコルソン商会が大手でも、途中参入はできないと思うわ」

「お詳しいのですね」

「そりゃあ、自分の身体の中に入れるものだもの、頑張って調べたのよ。あのね、実は『竜の樹』によく似た樹木があって、その樹液にも似たような効能があるらしいの。でもそちらは……」


 それから続けられた長い蘊蓄を、ラヴィは感心しながら拝聴した。竜の樹はディルトニア国からずっと離れた遠い地でしか生育していないのに、ここまで勉強するのは相当な努力が必要だったはずだ。

 しかし、クレアの話を聞いて、確かに自分の身体の中に入れるものに対して慎重になるのは当然かもしれないな、とラヴィは思った。利を得るのも、害を被るのも、どちらも自分自身なのだから。


「──毒と薬は紙一重、ということですねえ」

「そうよ。夏鳥も気をつけなさい」

「わたしは父に似て頑丈なので」

「薬に限ったことじゃないのよ。あなたはよく気が回って行動も素早いけれど、たまに早合点で突っ走るところがあるから、きちんと事の良し悪しを見極めてから動きなさいと言っているの」


 姉が妹を叱るようにクレアが滔々と説教を始めたところで、部屋の扉がノックされた。


「クレアお嬢さま、ギルバートさまがいらっしゃいましたが」


 その言葉に、クレアが「あら」とぽっと頬を染める。ラヴィは微笑んで、薬の入ったグラスを差し出した。


「クレアさまに元気で笑っていてほしい方が、もうお一人いらっしゃいましたね。さあ、早くお薬を飲んで、お迎えしなければ」

「……判ったわよ」


 クレアは拗ねたように唇を突き出して、グラスを持った。


「あとで、口直しに美味しいお茶を淹れてちょうだいね」

「もちろん。甘いお菓子も、ちゃーんとお二人分、ご用意しますよ」


 ギルバートさまがいらっしゃる時は、空気だけでも甘いですけどねえ、とからかうように付け加えると、顔を赤くしたクレアが「いやな夏鳥」とそっぽを向いた。

 シンプソン子爵家の嫡男であるギルバートは、クレアの婚約者である。しかも、自分では子爵夫人の役割が満足に果たせないかもしれないから、と渋る彼女を熱烈に口説き倒して承諾を取りつけたくらい、ぞっこんに惚れ込んでいる。

 竜の血のおかげで寝込むことが少なくなってきたクレアは、一年後、正式にギルバートのもとに嫁入りする予定だ。

 そしてそれと同時に、ラヴィも行儀見習いを終え、男爵家を辞める。クレアは残念がってくれたが、そもそも最初から期間限定と決まっていたので仕方ない。


 ──シリルさまも、今頃は婚約者がいるか、すでに結婚しているんだろうなあ。


 いそいそと部屋を出るクレアに従いながら、ラヴィは心の中で呟いた。





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