冬の日の別れ
まだ冬のはじめだというのに、ひどく冷たい風が吹く、寒い日だった。
急な気温の変化で体調を崩してしまった母を気遣い、暖炉に薪をくべてガンガン燃やすことに専念していたラヴィは、前触れもなく帰ってきた父親の姿を見てびっくりした。
「どうしたのですか、お父さま。王都のお仕事が忙しいのではなかったの?」
母親が熱を出すのは、あまり珍しいことではない。彼女が寝込むたびに父を呼びつけていては、休む間もなく屋敷と王都の遠距離を往復させることになる。だから今回も、もう少し様子を見てからにしようと思って、何も知らせは出していなかった。
「これが愛の力というやつですか。いやですね、そうやってシリルさまへの恋心を抱き続ける娘に夫婦の絆を見せつけて。でも、本当に今回はそんなに大したことにはならないと思いますよ。今朝、お医者さまにも診ていただいて──」
父の不在が多く、病気がちな母、幼い弟と暮らすラヴィは、十歳にして医師の手配も慣れたものだ。母が伏せっている間、他にあれこれ采配する人間がいなければ、メイドたちだって困ってしまう。
が、きびきびとした口調でそこまで説明してから、ラヴィは父の表情に気づき口を閉じた。
「ラヴィ」
分厚い外套を脱ぎもせず、父親は真面目な顔でじっとこちらを見つめている。あまり聞いたことのないその低い声と、真剣な面持ち、そして隠しきれない瞳の暗さに、心臓がどくどくと大きく脈打った。
無意識に両手を握り合わせる。
──何かよくないことが起きたのだ、と一瞬で悟った。
ここ最近のラヴィが最も恐れる「よくないこと」は、身体の弱い母が病をこじらせ、そのまま天に召されてしまうことだ。
それに比べれば、何があろうと別に大したことではないと思っていた。母がいなくなってしまう以上に、恐ろしく悲しいことなんてない。他に小さな「不幸」があっても、そんなものは笑って吹き飛ばしてしまえばいいと。
でも、違うのだ。不幸に大小などなく、比較できるものでもなく、恐ろしくて悲しいことに変わりはない。こちらが重くてこちらが軽く、だから平気だなんてことはまったくない。
そしてそれはいつも唐突に、かつ一方的に襲いかかってきて、人々を悲嘆の渦に巻き込んでいくものなのだ。
「……ラヴィ、よく聞いて。オルコット伯爵が亡くなった。財産をあらかた失って、自分で命を絶ったらしい。隣の領地は人手に渡り、屋敷も手放さなければならないそうだ」
父の声をやけに遠くに感じながら、血の気の引いたラヴィはただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
伯爵が亡くなったというのに、その葬儀は非常にひっそりとしたものであったらしい。
参列したのは伯爵の妻、そして知らせを受け寄宿学校から急いで戻ってきた一人息子のシリル、それから数少ない親類、知人のみ。
おそらく、亡きオルコット伯爵の財産がほぼ無に近かった、という理由が大きかったのだろう。いやそれどころか、彼は莫大な負債を残していったようで、誰もが距離を置くことを選んだのだ。
伯爵が健在だった頃は、彼におもねり、腰を低くして群がっていた人々は、潮が引くようにしていなくなった。どんなに親しくしていても、旨味がなくなれば離れていく、それが貴族というものらしかった。
葬儀の際、うち萎れる妻子に声をかける人は、誰もいなかったという。
ラヴィの父がその話を聞いたのは、すべてが終わってからだった。すぐに王都を出発し、悔やみを述べたいと使者を送ったが、あちらから断られてしまったそうだ。
「オルコット伯爵は投資に失敗したそうでね……資金繰りのために、他の貴族を頼ったらしいんだが、それがあまりタチのよくない人物だったようで、利子が嵩んで余計に借金が膨らんだ。どうにも首が回らなくなり、このままでは爵位も領地も維持できなくなると、追い詰められてしまったんだろう。……こちらに相談してくれていたら、いくらでも力になったんだけどもね。平民の商人から金を借りるのは、伯爵にはどうしても許せなかったんだろうねえ」
プライドが高く、自分の意見に固執して、人の助言にはあまり耳を貸さない。
二年前、シリルが不安視していたその部分を、オルコット伯爵は結局、直すことも変えることもできなかったのだ。
昔はともかく、現在では、商人から借金をする貴族なんて珍しくもない。オルコット伯爵は平民を見下すことはしないけれど、かといって頭を下げることはどうしてもできない、という人物だった。
その結果、破滅し、自らの命を投げ出した。
妻と子を置いて。
「そ、それで……シリルさまと、お母上さまは……?」
震える声で訊ねると、父は沈痛な顔つきで首を横に振った。
「お気の毒だけど、貴族にとってこれはれっきとした醜聞だからね、伯爵の周囲は躍起になってこの件を外に漏れないよう隠すしかない。いろいろな噂は出回るだろうが、それも正確なものとは程遠いだろう。今後お二人がどうされるかは、ご本人たちにしか判らない、ということだよ」
はっきりしているのは、伯爵という頼れる大木を失った二人を待ち受けているのは苦難の道のりでしかない、ということだけだ。
領地を失った彼らにはもう収入を得る手立てがなく、現在の屋敷に住み続けることもできない。残った資産があればそちらを運用して生活していくことが可能だろうが、借金があったということはそれも見込めないだろう。昨日まで当たり前だった暮らしがガラリと変わるのだ。今まで使用人任せだった何もかもを自分の手でしなければならなくなった時、彼らはどれほど途方に暮れることか。
没落した貴族の悲惨な末路については、母から聞いてよく知っている。
しかし父の訪問を断ったということは、こちらからの援助も介入も断るという意思表示に他ならなかった。平民のほうから貴族に手を差し伸べることは許されず、だとしたら父にできることはもう何もない。
もちろん、ラヴィにも。
父はその厳しい現実を、自らの口で伝えるために帰ってきたのだろう。
沈黙の落ちる居間の中で、寒風が窓を叩く音と、暖炉で燃える炎の立てる音だけが、かすかに響いていた。
***
それからラヴィは、鬱々として日々を過ごした。
本当なら今頃は、もうすぐやって来る長期休みのことを考えて、ワクワクしながら指折り数えているはずだった。こちらに顔を見せるたび、どんどん凛々しくなっていくシリルに会えるのを、今か今かと楽しみに待っているはずだったのに。
すっかり塞ぎ込んで無口になったラヴィを、屋敷のみんなは腫れ物に触れるように扱った。母親もこれはおちおち休んでいられないと思ったのか、ベッドから出て、こちらを気遣っている。四歳のアンディさえ、姉のことを心配して、よく顔を覗き込んできた。
彼らに悪いなとは思いつつ、それでもラヴィはどんよりと落ち込んだままだった。
シリルはちゃんとご飯を食べているだろうか、寝られているだろうかと考えると、ご馳走を前にしても、ふかふかのベッドに潜っても、どうしようもなく罪悪感が湧いてくる。
近頃のラヴィは食事もあまり喉を通らず、屋敷の庭でぼうっとしていることが多くなった。
冷たい風に吹かれながら、じっと自分の小さな手を見る。
神さまというのがいるのなら、お願いだからシリルにこれ以上の試練を与えないでほしい。もうお嫁さんになれなくてもいいから。ワガママは言わないようにするから。甘いお菓子だって我慢するから。
──どうかシリルが、またあの笑顔を取り戻せますように。
今までさんざんつれない態度だったのだから、一つくらいはわたしのお願いを叶えてくれたっていいんじゃないでしょうか。
限りなく文句に近いラヴィのその祈りを、神さまはほんの少しだけ、聞き届けてくれたらしい。
「……ラヴィ」
どこからか、名を呼ばれた。
今この時、もしかしたらこれから先も、聞くことはないかもしれないと思っていた声だ。
信じられない思いでラヴィがぱっと振り向くと、そこにはずっと自分が頭に思い浮かべていた人が立っていた。
前回会った時よりもぐんと背が伸び、精悍な顔立ちになったシリルは、まるで人目を避けるかのような地味なマント姿だった。
この庭で、彼とよく遊んだ。花の名前を教わり、虫を見つけて騒ぎ、ぽかぽかと暖かい日差しを浴びながら一緒にお茶を飲んだりもした。二人でお喋りし、笑い合った。
現在、その庭の木は枝ばかりになり、花も咲いていない。近くの四阿にはかさかさの枯葉が舞っている。冷たい風が吹きすさぶだけの、色を失くした寂しい風景の中で、彼もまた白っぽい顔をしていた。
「シ、シリルさま……!」
あっという間に、ラヴィの顔はみっともないくらい涙でぐしゃぐしゃになった。今度会う時は、お稽古にお稽古を重ねたレディの挨拶を見事に披露してシリルを驚かせ、称賛を浴びようと画策していたのに、何もかも台無しだ。
すぐさま駆け寄って、マントにしがみつく。突然目の前に現れたシリルは幻ではなく、ちゃんと実体があった。
「いきなり来てごめん。ニコルソン家の門番は優しいね、なんの知らせも出していないにもかかわらず、咎めもせず僕を通してくれたよ」
それはそうだ。何度もここに来たシリルのことは、屋敷の全員が知っている。誰に対しても分け隔てない態度で接する彼は、みんなから慕われていた。まだ十五歳の少年を襲った不幸についても、それによってラヴィが意気消沈していることも知っている。
だからこそ門番は何も訊ねることなくシリルを中に招き入れ、メイドたちはすぐさまラヴィのもとへと案内してくれたのだ。
「手紙も出せなくてごめん」
シリルの言葉に、ラヴィは無言でぶんぶんと首を横に振った。
きっと、それどころではなかったのだろう。ラヴィは何度か手紙を送ったが、それはすべてそのまま戻されてしまった。旧オルコット邸には、もう誰も住んでいないからと、そう言われて。
伯爵が亡くなってからの一月ほど、シリル母子はどこでどう過ごしていたのか、想像するだけで胸が痛くなる。
「何があったのかは、もう聞いている?」
その問いに、こくんと頷く。
そう、と短く返事をするシリルの表情は、明らかに疲労が滲んでいた。いや、憔悴しきっていた。顔色が悪く、頬もこけている。
十五歳の少年が、すべてを失い、屋敷からも領地からも追い出され、たくさんのものを背負って、たった一人で母を守っていたのだ。今の彼は、以前あった溌溂とした生気が抜け落ち、代わりに虚脱した雰囲気に覆われて、一気に年を取ってしまったようだった。
「僕らはこれから、母上の実家に行くことになった。とても遠いところで、もうラヴィとも会うことはないと思う。だから最後に、無理を言ってここに寄ってもらったんだ。せめてお別れを言いたくて」
市井に下るのなら、父が今後について何かと手を回すこともできただろうが、二人はその道を選ばなかったということだ。ラヴィの母親も似たような境遇だったが、あの伯爵夫人にそれは無理だろう、と実家を含めた周囲の判断があったのかもしれない。
シリルの口からは具体的な地名は一切出てこなかった。それは止められているか、自分の意志で黙っているかの、どちらかだろう。
これから彼がどこへ行き、どのように暮らすのか、まったく判らない。連絡も取りようがない。彼のほうも、もうここへは二度と来る気がない。
それはラヴィにとって、シリルという存在が失われるというのと同じだ。
「……っ」
ラヴィはぐっと拳を固く握りしめた。
「わ、わ、わたしに、なにか、できることはありますか」
お嫁さんにはなれなくても、ずっと好きだった。親友ではないとしても、かけがえのない友人だった。大事なその人が、苦難のあまり笑うことも忘れ、それでも最後に別れを告げに来てくれたというのに、ラヴィはただ棒のように突っ立っていることしかできない。
「おっ、お金は、シリルさまの助けに、なりますか。わたしが貯めていたお小遣いのぜんぶをあげたら、少しは、役に立ちますか」
涙も慰めもシリルにとってなんの意味もないのなら、せめて少しでも今後の足しになるものを渡したい。そう思いながら言うと、シリルは首を振り、「いいんだ」と静かに断った。
「そのお小遣いは、ラヴィの将来のために大切に取っておいて。父はお金で身を滅ぼした。それは人を生かしも殺しもする。簡単に人にあげたり貸したりしてはだめだよ」
そう言うシリルの顔は、まるで面を被ったかのように表情がなかった。笑うことどころか、泣くことさえ忘れてしまったかのようだった。
「シリルさま……」
「大丈夫、大丈夫だよ。父は悪い人に騙されて何もかもを失った。僕までが道を踏み外すわけにはいかない。母上は泣くばかりだから、せめて僕がしっかりしないと……だから大丈夫」
無表情のまま、自分に言い聞かすように「大丈夫」と何度も呟く姿は、あまりにも痛々しい。
ラヴィの涙腺は再び決壊した。
「う……うわああん! シ、シリルさま、どこのどいつですか、その悪いやつは! わたしが、このラヴィがっ、絶対にこの手でやっつけてやります! 二年前、シリルさまに助けてもらったお返しに、今度はわたしがシリルさまを助けてあげますからあっ!」
わんわんと大声で泣き出したラヴィに、シリルはぽかんとして目を瞬いた。
その勢いと台詞の内容に呆気にとられたせいか、その表情と瞳から思い詰めたような翳りが消えた。
「──ラヴィ」
「そ、そうです、いいことを思いつきました! お父さまの商会を乗っ取って、秘密組織を立ち上げるのです! そして怖い人をいっぱい雇って、わたしが頭目となり、シリルさまに代わって悪人を懲らしめてやります!」
「……ふふっ」
涙でべしょべしょになりながら、ろくでもない誓いを立てるラヴィに、シリルが思わずというように噴き出した。
それから、ぴたっと動きを止めた。自分がまだ笑えるということに驚いたような顔をして、口に手をやる。
くしゃりと目元を崩し、ようやく、十五歳の少年らしい情けない泣き顔になった。
「ありがとう、ラヴィ。でもいいんだ、君はそんなことを考えないで。ラヴィは今のラヴィのままでいてほしい」
そう言って、そっと指先でラヴィの涙を拭った。こちらに向ける眼差しに、いつもの温かく優しい光が戻っていた。
「──元気でね」
最後に、彼らしい微笑みを浮かべながらそう言って、シリルは去っていった。