夏鳥と冬狼
超がつくくらい多忙続きだったシリルと顔を合わせることができたのは、武器庫での一件から二月近く経過した頃だ。その間、ラヴィは騎士団詰所への出入りを止められていたので、会うのは彼が銃で撃たれた日以来である。
シリルが案内してくれたのは、以前の場末の食堂とは異なり、大通りにあるきちんとしたレストランだった。
こぢんまりとはしているが、それなりに格式が高くて品が良く、雰囲気も落ち着いている。案内されたのは店の奥にある席で、人目を気にせずに済むのもいい。
場所が場所なので、向かいに座ったシリルは礼儀に則った正装をしている。こういうところに育ちの良さが出るのか、よく似合っていた。
淡い色のすらりとしたドレスを身につけたラヴィは、ちょっとそわそわして結い上げた髪を手で整えた。
「ごめん、ラヴィ。今までろくに連絡もせず」
「いいえ、昔のようにお手紙をいただいて、嬉しかったですよ」
微笑んで返すと、シリルはホッとしたように目元を緩めた。
「変わりはなかったかい?」
「はい。王城に行かない分、時間が余って仕方なかったので、商会の仕事を手伝っていました」
せっかく仕事の面白さが判ってきたところでもあるし、以前のような接客の他に、新商品の開発にも関わってみたりした。
きっかけは、シリルの手紙である。
あまりに殺伐とした内容なので気を遣ったのか、便箋の端に自作の絵が添えられていたのだが、それが相変わらず「謎の生命体」としか思えないシロモノで、ラヴィを大いに悩ませたのだ。
敢えて実存の生物に見做すなら、いちばん近いのはカエルだろうか。昔はオタマジャクシに見えたから、それを考えると成長したとも言える。しかし真面目なシリルがそんなふざけた考えで女性宛ての手紙にカエルの絵を描くとも思えない。だとするとこれはやっぱり、猫……なのだろうか。いや、きっとそうだ。たぶんおそらく。
そこでラヴィはピンと閃いた。
──壊滅的に絵がヘタクソなシリルのために、いっそ、猫の印章を作ってしまえばいいのでは?
現在、貴族の家紋などを彫ることが多い印章だが、もっと安価な材料を使って、気軽に使えるものにしよう。可愛い猫をデザインして彫っておけば、誰でも押すだけで簡単に絵を残せる。
わりと失礼な動機で作り上げたその新商品は、思いがけないほどの好評を得て、現在もどんどん注文が入っている。父がこの件を全面的にラヴィに任せてくれたので、他にもいろいろな絵柄の簡易印章を作っている最中だ。
そういうわけで、ラヴィはラヴィで忙しかったので、不安や寂しさで落ち込む暇もないのは幸いだった。
「それよりシリルさま、お怪我のほうはどうですか?」
リックに撃たれて負傷したシリルは、三日ほど入院しただけで強引に退院し、エリオットと同僚の制止と反対を振り切って仕事に復帰した。ようやく念願叶ってアドキンズ伯爵を追い詰められるという時に、のんびり静養などしていられなかったのだろう。
「それはもう大丈夫。撃たれた箇所も大して問題のあるところじゃなかった」
その言葉の真偽は判らないが、彼の動きはいつもどおりで支障があるようには見えない。
リックが隠し持っていたのは騎士団のものではなく伯爵から渡されたものだそうで、小型であまり威力がないのも幸いしたという。
「でもあまり顔色がよくないようですけど」
「このところ休みなく動き回っていたから、ちょっと疲れはあるかな。それと、まあ、今は少し緊張もしているし……」
台詞の後半から急に、口調が曖昧になった。
視線がうろうろとテーブルの上を彷徨っているので、何か言いました? とも聞きにくい。騎士団の仕事については機密に関わることでもあり、あまり話せないということだろうか。
「伯爵のほうは、どんな様子ですか?」
「ああ、相変わらず、頑として『知らない、認めない』の一点張りだね。びくびくしたところを見せればまだ可愛げがあるのに、ずっとふんぞり返って威張っているのが腹立たしい、と団長が愚痴っていた」
あのエリオットを愚痴らせるとは、やっぱり一筋縄ではいかない相手である。
「最終的には、法廷で争うことになるかな。それまでに小さなものから大きなものまで、他のあらゆる容疑も合わせ、証拠・証人・証言を片っ端から集めろと指示されている。きちんと立件できそうなものだけでも、膨大な数になりそうだ。団長はすぐにでも『魔女の血』をディルトニア国内で禁じる法を制定してやると息巻いていたよ」
現在、『魔女の血』を常用している人数は、かなり多いらしい。いきなり禁止されては、その人たちも混乱するだろうし、困るだろう。そちらの救済措置も考えねばならず、エリオットは頭の痛い日々がしばらく続きそうだ。
「……実は、俺も伯爵と話をした」
テーブルに置かれたグラスに目をやりながら、ぽとりと言葉を落とすように打ち明けられて、ラヴィは驚いた。
「ど、どうでしたか? 伯爵はシリルさまに謝罪をしましたか」
「いや、まさか」
シリルは苦笑した。
「──それどころか、伯爵は『オルコット』という名前も覚えていなかった。とぼけているわけではなく、本気でやつの頭には残っていないようだった。俺にとっては人生を根底から引っくり返されたような出来事だったのに、伯爵にとっては単に数ある詐欺行為のうちの一つ、覚える価値もないものでしかなかったんだ」
「そんな……」
ラヴィは眉を寄せて、口をぐにゃりと曲げた。
それではあまりにも……シリルも彼の両親も、報われない。
「正直、やりきれなかった」
短い言葉と伏せられた目に、シリルの複雑すぎる感情の一端が垣間見えた。
悲しい、悔しい、腹立たしい、虚しい──彼の胸の中にあるものは、きっと「怒り」という一言では言い表せないだろう。
「シ、シリルさま」
「うん?」
「あの、やっぱり一発くらいは殴ってもよろしいのではないでしょうか! それだけで、ちょっとは──ほんのちょっとくらいは、スッキリするかもしれません。わたしのほうからも、エリオットさまにお願いしますから。きっと少しくらいは目を瞑ってくれますよ。最大限に効果的な一発を喰らわせるための道具などが必要でしたら、ニコルソン商会の総力を挙げてなんとしても手に入れます、たとえ地の涯にあろうとも!」
拳を握って力説すると、シリルは一瞬ぽかんとして、それからふはっと噴き出した。
「ラヴィ……君の発想は、どうしていつもそう暴力的なんだ……?」
「では、穏便に毒を使用するというのはどうでしょう。死なせるわけにはいかないので、そうですね、十日くらい激しい下痢と腹痛に悩まされるような」
「やめて、これ以上笑わせないで」
シリルはテーブルに突っ伏して、本格的に笑い転げた。なにやらツボに入ってしまったらしく、なかなか収まらない。
……笑い上戸なところは、昔と変わっていないのかも。
「ちゃんと笑えて、自分でもホッとした。やっぱりラヴィはすごいな」
シリルは顔を上げ、ありがとう、と優しい声で礼を言った。
「納得はしていないけど、伯爵が捕まったことで、一応の気持ちの決着はつけられた。これからは過去にばかりこだわるのはやめて、きちんと未来を見据えて歩いていきたいと思っている」
「……はい。わたしも」
ラヴィは微笑んだ。
また、こうしてシリルの笑顔を見られるようになった。
子どもの頃とは少し違うけれど、それでもこれは現在のシリルの、心からの笑みなのだろう。
よかった。望みが叶って、ラヴィはもう満足だ。これでなんの心残りもない。
──自分もやっと、過去の思い出と現在の気持ちを胸に、前へと足を踏み出せる。
「ええっと、それでね、ラヴィ、その件で今日は君にどうしても話したいことが」
ごほんと咳払いをして、改めてシリルが切り出した。
真面目な表情なので、ラヴィは思わず姿勢を正したが、なかなかその「話」とやらが始まらない。両手の指を何度か組み替えて、口を開いたり閉じたりしている。
なんだろう。ひょっとして早速「婚約が決まったんだ」などと言われてしまうのだろうか。ラヴィはドキドキした。
「いや、そうかしこまられると……あ、そういえば、武器庫でのことが心の傷になってはいない? 怖い思いをしたし、悪い夢を見たりしていないかい」
明らかに話したかったのはそれではないと思うが、そちらはそちらで気になるのか、シリルがぐっと身を乗り出してくる。
肩透かしのような、少しホッとしたような気分で、ラヴィは首を横に振った。
「いえ、毎日ちゃんと眠れています」
「それならいいけど……あの時は本当に心臓が止まるかと思ったよ。てっきりリック一人が入ってくると思ったのに、ラヴィまで放り込まれて」
血相を変えてすぐに飛び出そうとしたシリルを、エリオットと他の騎士たちが必死に止めていたのだという。ラヴィも大変だったが、あの時棚の向こうでそのような攻防が繰り広げられていたとは、思ってもいなかった。
「どうしてリックについていくなんて危険なことをしたんだ?」
いつの間にかお説教モードに移行している。
「だって、詰所に誰もいないから、たぶん何か裏があるんだろうなと……それならわたしがあまり警戒心を出すとまずいんじゃないかと思って、全力で『いつもどおり』に振る舞いました」
「勘が良くて頭も回るのに、行動が抜けている……」
シリルが手で額を押さえた。
「ラヴィのそういう無謀なところ、シンプソン夫人も心配していたぞ」
「クレアさま?」
「夜会の件で訪問した時に、いろいろ話を聞いたんだ。……『夏鳥』の由来も」
「ええっ!」
ラヴィは叫び声を上げて、両手をぱっと頬に当てた。なにもそんなことまで言わなくてもいいのに、クレアさま!
「なんでも、『冷たい風が一度吹いただけで冬が来たと勘違いして、急いで南に飛んで行ってしまう、おっちょこちょいで慌てんぼうの夏鳥』という意味だとか……」
そこで、シリルがぷっと噴き出す。ラヴィはますます赤くなった。
「気が回って行動も迅速だけど、たまに早合点で突っ走るところがあるから、なるべく気をつけてやってほしい、と言われたよ」
アンディといい、クレアといい、なぜ身近な人は口を揃えて同じことを言うのか。
「そういうところ、あまり子どもの頃と変わっていないんだと思って……」
くくく、と下を向いて可笑しそうに肩を震わせる。
「それ以来、空を飛ぶ鳥を見かけると、つい目が向いてしまうんだ。だから手紙にも絵を描いた」
あれは鳥だったのか! 衝撃の事実が続いて、頭がくらくらしてきた。これから急いで鳥の印章を作らねば。
「クレアさまのお屋敷に勤め始めた頃は確かにいろいろ失敗もしましたけど、今はもう大人ですから、そんなことありません」
頬を膨らませて反論するラヴィに、シリルは目を細めた。
「別にいいじゃないか、『夏鳥』なんて可愛らしい愛称だ」
「理由が可愛くないのです」
「ラヴィはいつでも可愛いよ」
さらりと出した言葉でラヴィの呼吸を一瞬止めさせてから、ぽつりと付け加える。
「……それに、『冬狼』と似合いの名前だと思わないか?」
呼吸だけではなく、ラヴィの身体全体の動きも停止した。
シリルがまっすぐ視線を合わせてくる。この真摯な青い瞳を向けられると、ラヴィの思考はいつもぐずぐずに溶けてしまって使い物にならない。
「夫人はこうも言っていたよ。『ラヴィはずっと一途に、初恋のあなたのことを想い続けていました。わたくしはあの子の幸せを切に願っております』とね」
ラヴィの顏だけでなく、目の前までが真っ赤に染まった。
どうして今この時に、そんなことを言い出すのだ。ラヴィはシリルとの別れを静かに受け入れた後は、彼を忘れることはもう諦めて、恋心を胸に秘めたまま独り身で過ごし、仕事に生きようと誓いを立てたところだというのに。
えっ、じゃあもしかして、あの夜会の時、ラヴィの気持ちはもうシリルに知られていたということ?!
「俺の気持ちはもう伝わっているんだろう? ラヴィ、もしも君も俺と同じように思ってくれているのなら……」
そっと手を伸ばし、長い指がラヴィの指の先に触れようとしたところで、シリルはぎょっとして言葉を止めた。
ラヴィがぽろぽろと涙を落とし始めたからだ。
「ラ、ラヴィ?」
「うっ……ど、どうして、そんな酷いことばっかり、言うんですか……!」
べそべそ泣きながら抗議すると、「酷いこと……」と呟き、シリルの指がまた離れていった。
苦しげに細い息を吐き出して、沈痛な表情をする。リックの前では毅然としていた彼が、まるで置いてきぼりにされた子どものように頼りなさげに見えた。
「……ラヴィはもう、俺のことなんて嫌いになった? 再会してからの俺は、君を幻滅させてしまっただろうか。確かに、伯爵家の長男だった頃とはいろいろ変わったと思う。君にきつく当たって、ひどい態度も取ってしまったし……」
「そっ、そんなわけないじゃないですか! シリルさまは昔も今も、強くて、包容力があって、優しくて、頼りになって、世界一素敵な人で、わたしにとって他の誰より最高の男性です! たとえシリルさまでも、シリルさまを貶めるようなことを言うのは、わたしが許しませんよ……!」
「うん、意味不明だけど、少し安心した。だったら、どうして俺を拒むの?」
「だって、だって!」
ラヴィは涙で頬を濡らし、ぶんぶんと首を横に振った。
「シリルさまは、わたしに、期間限定の恋人になれとおっしゃるんですか?!」
シリルは呆気にとられる顔をした。
「期間、限定……?」
「そんなことになったら、ますますお別れする時がつらくなるだけではないですか! 今、シリルさまに別れを告げるのでさえ、こんなにもつらいのに!」
「わ、別れ?」
「はっ! それともひょっとして、わたしに愛人か妾になれと?!」
「いや待って」
「どうしましょう、口にしたらそれもちょっといいかなって、心が傾きかけています! でもやっぱり、正妻の人のことを思うと……」
「なんで君を愛人や妾にして、他に正妻を持たなきゃいけないんだ?!」
バン、とシリルがテーブルを叩いて叫んだので、一瞬、店内がしんと静まり返った。いくら人目につかないと言ったって、大声を出せばそれなりに響く。
それで少し頭が冷えて、ラヴィはぐすっと鼻を啜って涙を拭った。
「……だって、シリルさま、もしかしてご存じないのですか。貴族の嫡子と平民の結婚は、法律で禁じられています」
その言葉に、シリルは訝しげに眉を寄せた。
「もちろん知ってる……でも、それになんの関係が? 俺はもうオルコット家の嫡男じゃない」
「でも、レイクス子爵家の跡継ぎなんですよね? それはつまり嫡男と同じ扱いになるのでしょう?」
「は……?」
シリルが絶句した。
まじまじとラヴィの顔を見て、冗談ではなく心の底から本気で言っていることが判ったらしく、口元をぐっと引き締める。
「ラヴィ……それ、誰に聞いた?」
やけに静かな声で問いかけられた。
「騎士さまたちはみんな、そうおっしゃってましたけど」
「そう。それで、そのことを君は一度でも、当人である俺に確認したかな?」
「えっ、だって……」
ラヴィはぱちぱちと目を瞬いた。
それはよく知られた話だと、みんな確定事項のように口にしていたから、わざわざ本人に訊ねる必要を感じなかった。
あれ?
「つまり君は、母を見殺しにした子爵家を俺が喜んで継ぐと、これっぽっちも疑うことなく信じたわけか。そんな人間だと、へえー」
わあ、再会した最初の時よりもずっと冷たい顔をしています、シリルさま。
「いえ、その、でも、それとこれとは」
「そんな風に割り切ることができる性格なら、俺は七年もの間、執念深く一人の男を追いかけたりしていない」
「なんて説得力」
「まあ、確かにそんな話を持ちかけられたのは事実だ。でも、即座に断った。当たり前だろう? しつこく言われたから、もしも俺があの家を継いだ場合、昔の恨みがぶり返して草も生えないほど跡形もなく消滅させてしまうかもしれない、と返したら逃げるように引き上げていったよ」
「ええ……」
「現在は他の親戚から養子を取って、そちらが跡を継ぐともう決まっている。こんなこと、ニコルソン商会の情報網を使えば、あっという間に掴める事実だろうに」
「あのう……シリルさま」
シリルは冷ややかに唇の端を上げ、納得したように頷いた。
「ふ、そうか──思い込みが激しく、早合点であっという間に遠くへ飛んで行ってしまう夏鳥……なるほど」
そしておもむろに、すうっと大きく息を吸った。
「そういうところ、やっぱり全っ然昔と変わっていないな、君は!! いいか、もう二度と変な勘違いをしないようにはっきり言うが、俺は君が好きなんだ、大好きだ! 自分でもどうかと思うが、ラヴィのそういう困ったところも含めてすべてが愛おしい! 貴族平民なんて関係なく、これからもずっと一緒にいたいんだ!!」
今度は、店内どころか、外を歩く人の耳まで痺れさせるほどの大音声だった。
ラヴィはその後、かなり長い年月をシリルとともに過ごすことになるのだが、彼がそこまでブチ切れたのは、後にも先にもこの一回きりである。
次回、エピローグ




