なにより大事
「そ、そんなこと……無理です」
ラヴィは青い顔で首を振ったが、リックがそれを聞き入れる様子はなかった。
「無理じゃないよ。シリルは絶対に、君の安全のほうを優先させる。そんなこと、あいつを見ていればすぐに判る。そもそもシリルは騎士団内でも浮いていたんだ、仲間を裏切っても、僕と違ってそんなに痛痒は感じないよ。……ここには、大きな武器を収納するための箱があるからね、ラヴィを縛ってその中に閉じ込めておく。せめて伯爵が証拠を隠すだけの時間が稼げればそれでいいんだ。大人しくしていれば何もしない、約束する。だからラヴィ」
「──なるほど。つまり、『証拠』は確実に存在する、というわけだな?」
突然割って入った張りのある声に、リックは弾かれるように反応した。
その声は扉の向こうではなく、武器庫の奥から聞こえた。
リックが直ちに床を蹴って腕を伸ばし、ラヴィを抱きかかえるようにして、後ろからがっちりと拘束する。流れるように剣の先をラヴィに突きつけたが、「動くな!」という鋭い一喝で、ピタリと止まった。
「頼むから、これ以上罪を重ねてくれるな、リック」
そう言って、棚の裏から姿を見せたのは、第二王子で騎士団長のエリオットだった。
ガタガタと音がして、さらに数名の騎士たちがその後に続く。棚の裏だけではなく、床に置かれた樽や大きな箱も蓋が開き、中から次々に騎士が出てきた。
あっという間に、武器庫内には十人ほどの騎士がずらりと並んだ。彼らはみんな、手に剣を持っている。
その中に、シリルの姿はなかった。
「……どうして」
リックが震える声を絞り出した。彼と密着しているラヴィには、大きく上下する胸の動きが背中越しにはっきりと伝わってくる。そしてそれと一緒に、肩に当たる、ゴリッとした硬い感触にも気づいた。
「おまえが内通者だということは判っていたが、捕まえたところで絶対に何も言わないだろうと思って、ちょっと罠にかけさせてもらった。今夜アドキンズ伯爵邸に踏み入るという話は真っ赤な嘘だ。おまえを焦らせたら、必ずなんらかの突発的な行動に出るだろうと思ってな」
事前の調査で妹のことは掴んでいたので、ここまでしないとリックは一人で黙って罪を背負いかねないと判断した──エリオットはそう言って、顔をしかめた。
「しかしラヴィを連れてくるとは予想外だった。彼女を離すんだ、リック。もう逃げ場はどこにもない」
扉の外にも騎士たちが待ち構えているのだろう。視線を上に向けたら、鉄格子のついた窓からは、長銃を構えた騎士がリックに狙いをつけていた。
その顔ぶれの中には、リックと仲の良かったノーマンとジェフの姿もあった。騎士全員が苦渋に満ちた悲しげな表情で、剣先を同僚に向け、引き金に手をかけている。
「おまえにはずっと見張りがついていたんだ。朝の通達の後、こっそり武器庫の鍵を持ち出したことも把握していた。それで準備で慌ただしいというフリをして、この中で待ち構えることにした。……てっきり武器を伯爵に渡すつもりなのかと思って、そこを捕らえる手筈になっていたんだが」
苦々しい表情ではあるものの、エリオットは冷静だった。説明する声はいつもと違って非常に重々しく、騎士たちを従えて堂々と立つ姿は王立騎士団の団長としての風格を漂わせている。
唖然としてそれを聞いていたリックは、「──ふ」と唇を曲げて息を漏らした。笑っているつもりなのかもしれないが、まるで泣き顔のように見えた。
「やられました、完敗です。命運は尽きたというわけだ。僕も、両親も、妹も。……何もかもが、終わった……」
虚空に視線を投げ、独り言のように呟く。
「リック、ラヴィを離せ」
エリオットが強い声で命じたが、リックの手はラヴィから離れない。右手は今も、しっかりと剣を握っている。
彼の目がラヴィに向けられた。
「ねえラヴィ、僕は地獄に行くけど、神さまは、何も知らない妹だけは見逃してくれるかな? あの子には、天国で笑っていてほしいんだ」
「リックさま──」
「ラヴィに当たる可能性が高いから、あの場所から長銃は使えない。みんなの剣先が僕に届くのと、僕が自分の喉を掻っ切るの、どちらが早いか試してみようか」
その言葉に、武器庫内の空気がぴりっと緊迫した。エリオットの「よせ、リック」という声にも、焦燥が滲んでいる。
「動かないでください。狙いが外れてラヴィまで一緒に斬ってしまったら大変だ。ここで死ぬのは僕一人でいい、そうでしょ?」
「……ふざけるな」
低く押し殺した声が聞こえた。
騎士たちが左右に分かれ、彼らの後ろから、短銃を両手で構えたシリルがゆっくりと進み出てくる。
顔色が悪いが、彼は怒気を露わにしてリックを睨んでいた。銃口はまっすぐそちらに向けられている。
「死に逃げなんて、俺は絶対に許さない。犯した罪は自分で償い、妹にもきちんと向き合え。今のままじゃどちらにしろ、おまえの妹はどんどん堕ちていくだけだ。おまえ以外に、誰が彼女に手を差し伸べられるんだ?」
リックは醒めた目つきでシリルを見た。
「同い年なのに偉そうだなあ、シリル。君に何が判る? 大体、こんなところで発砲する気? ここは武器庫だ、火薬がたくさんあるのに」
「火薬はすべて出してある。俺の銃の腕前は知ってるよな?」
「君の大切なラヴィも、巻き添えを食うよ」
「俺がラヴィを傷つけるわけあるか。彼女に掠り傷でも負わせる者は、誰であろうと許さない。その剣が少しでも動いたら、即座に撃つ」
「どうせなら心臓を狙ってくれないかな」
「命には別条ない、だが死ぬほど痛くて苦しいところを撃ってやるさ。死なせないぞ、リック。そうやってすべてを放り投げて、自分だけが逃げた後、残された者たちがどんな思いをするか少しは考えろ」
その言葉がリックの中の何かを刺激したらしい。彼の瞳が暗く底光りした。
「……何も知らないくせに」
「そうやって被害者ぶって楽しいか? 主人公気取りで悲劇に浸る前に、いくらでもすべきことはあっただろう。薬の悪い影響が出始めていると気づいた時、伯爵から内通者になれと命じられた時、妹がおかしな連中と付き合い出した時、別の道を選ぶことだってできたのにそうしなかった。どうしようもなかったなんて、言い訳だ。おまえはただ、自分が楽なほうへと逃げただけなんだ。最後までそうやって卑怯者でいるつもりか」
「黙れ!」
リックが大声で怒鳴る。
ラヴィは、シリルが彼をわざと怒らせようとしているのだと気がついた。怒りは時に絶望よりも強い力を持つことを、シリルは知っているからだ。そしてその矛先を、自分自身に向けさせようとしている。
「おまえに何が判る?! 顔も能力も将来も、何もかもが揃っていて、黙っていても幸運が手の中に転がり込んでくるおまえに!」
「今度は八つ当たりか。どこまでもみっともないやつだ」
「……いい度胸だね、シリル。今、僕の腕の中にはラヴィがいるんだよ。この子を殺したら、おまえも僕の気持ちが少しは判るかな? 最も大事なものを失くしたら」
「その時は俺も同じことをやり返すとは思わないのか? それは信用されたものだ」
皮肉げに投げつけられたシリルの言葉に、リックはぐっと詰まった。悔しそうに、ギリッと歯を食いしばる音が聞こえる。
彼は結局、妹の存在がなによりも大切で、見捨てられないのだ。いくら彼女がリックの苦悶の原因でも。
息詰まるような沈黙が続いた。
誰もが固唾を呑んで成り行きを見守るしかないその状況で、先に動いたのはリックのほうだった。
ふいに、彼の肩から力が抜ける。ふー……と深い息を吐き出した。
「判った。降参だよ、シリル」
その言葉に、ぴんと張り詰めた場の空気が緩んだ。騎士たちがホッとした顔になる。
しかしシリルは銃を下ろさず、引き金から指も外さなかった。
「剣を動かすな。そのまま柄から指を離せ。一本ずつ、ゆっくりと」
「了解」
言われたとおり、リックが人差し指、中指……と順番に剣の柄から指を離していく。
薬指が離れて親指と小指だけで柄を支えている状態になると、シリルもやっと安堵したのか、全身の強張りが緩んだ。
それとともに、短銃の構えを解こうとする。
コン、コン。
ラヴィは咄嗟に足を動かした。靴裏が床を叩くその音を聞いて、シリルの表情が引き締まる。
「……っ!」
彼はすぐさま構えを戻して手に力を込めた。それと同時に、ガシャンと音をさせて剣が床に落ち、リックの左手が思いきりラヴィの身体を横に突き飛ばした。
制服の内側に右手を差し込み、隠し持っていた銃を抜く。ガン、ガンと二発分の銃声が続けて武器庫内に反響した。
撃ったのはシリルとリック、わずかにシリルのほうが早かった。
「シリルさま!」
ラヴィの悲鳴は、騎士たちの大声と入り乱れる足音にかき消された。リックは自分の右手を押さえ、シリルは肩を押さえている。どちらも指の間から赤い血が滲み出ていた。
その場にしゃがみ込んだリックは、騎士たちに捕らえられた。彼はまったく抵抗する様子を見せず、ただ、残念そうにため息をついただけだった。
「動揺させたら、うっかり心臓を撃ち抜いてくれるかなと思ったのに……まったく腹立たしいほど腕がいいやつだよね、シリルは。敏腕内偵のラヴィとお似合いだ。まさか髪飾り一つで破滅させられるとは思わなかった」
「破滅じゃなくて、救われたんだよ」
傍らに立ったエリオットに言われて、リックは口を噤んだ。
しばらく黙ってから、目を伏せる。
「……そうかもしれません」
ラヴィはシリルのもとへ駆け寄った。眉を寄せて肩を押さえていたシリルが、「ラヴィ、大丈夫?」と心配そうな顔をする。ラヴィは眦を吊り上げた。
こんな時まで、あなたって人は!
今はまず自分のことでしょうと口を開きかけたら、その前に腕が伸びてきた。血のついた手がラヴィの背中に回り、ぐっと抱き寄せられる。
ラヴィの頭に自分の顎を強く押しつけて、囁くような声を出した。
「──怖かった。君を失うくらいなら死んだほうがマシだ」
目の前が水の膜で覆われる。シリルの胸に自分の顔を埋めて、ラヴィは嗚咽を漏らした。
***
その後、リックは騎士団の情報をアドキンズ伯爵に流していたことを正式に認めたと、シリルが手紙で教えてくれた。
妹に対しては最大限の配慮をする、というエリオットの言葉に頷いた彼は、武器庫での姿が嘘のように、落ち着いた様子で訥々と語ったという。
エリオットからシリルの過去を聞かされた時には、驚いた顔で「そうか、シリルも苦労していたんですね……」としみじみ呟いていたらしい。
シリルは「ずっと憎んでいてもよかったのに」と書いていたが、人を憎むより許すほうがずっと難しいし、きっと後者を選んだほうが結局は本人のためになるのではないか、とラヴィは思う。
そしてリックから得た証言をもとに、今度こそ本当に王立騎士団は、アドキンズ伯爵邸へと一斉に踏み込んだ。
その際は、ラヴィが作成した屋敷の間取り図もなかなか役に立ったようだ。伯爵の書斎には実際に隠し扉があって、そこからは怪しげな帳簿や顧客名簿が大量に見つかったそうである。
現在、アドキンズ伯爵は王城内に拘禁されて、エリオットを筆頭に騎士たちから、ねちっこい取り調べを受けている。この件は長いこと、多くの貴族を巻き込んだ一大スキャンダルとして、連日新聞紙面を賑わせた。
完全にこの騒ぎが収束し、伯爵が法廷の場に引きずり出されるまで、まだまだ多くの時間がかかるだろう。
リックは捜査に協力的であったことと、情状酌量の余地があること、シリルを含めた騎士たちからの嘆願があったことにより、それほど厳しい処罰を受けずに済むようだ──という言葉で、手紙は締めくくられていた。




