最後の試練
翌日、ラヴィが騎士団詰所に行くと、いつもは大勢の騎士たちが寛いでいる休憩所は無人で、がらんとしていた。
「あら……」
ラヴィは小さく呟いて、途方に暮れた。何か緊急のことでも起きたのだろうか。
少しだけその場に立ち尽くしていたが、一つ息をついて身を翻した。誰もいなければ自分がここにいる意味もない。この分では、戻ってきたとしても慌ただしくて、ご用聞きなどできる雰囲気ではないだろうし。
「あれっ、ラヴィ!」
詰所から出たところで、駆けてきたリックと顔を合わせた。ラヴィは驚いたが、あちらも目を丸くしている。
「リックさまだけお戻りですか?」
「うん、そうなんだ。今みんなバタバタと準備に追われていてね、僕は副団長の命令で、必要なものを取りに来たんだ」
副団長は名ばかりの団長と違って、非常に厳しいことで有名な人である。気が急いているのか、リックはそわそわと足踏みしながら答えた。
「そうなのですか。お仕事お疲れさまです。それでは、わたしはこれで」
何があったのかは聞かないことにして、ラヴィは頭を下げた。訊ねたとしても、それに答えるような騎士は一人もいないだろう。
「あ、待って、ラヴィ」
リックとすれ違うようにして立ち去ろうとしたら、あちらから慌てたように声をかけられた。
振り向くと、彼は少し困ったような顔で頭を掻いている。
「……その、もしよかったら、ちょっとだけ手伝ってもらえないかな? なにしろ『持ってこい』と言われたものがたくさんあって……僕だけで一度に運びきれるか、自信がないんだよ。往復して時間をかけたら、副団長にこっぴどく叱られるし」
「まあ」
ラヴィは手に口を当てて、軽く笑った。
「わたしでよければ、喜んでお手伝いさせていただきます」
***
リックは詰所の近くにある、倉庫のような建物へと向かった。
制服のズボンのポケットから鍵を取り出し、穴に差し込んで回す。鉄製の重い扉の取っ手に手をかけ、ギイ、と音を立てて開けた。
中は天井が高かった。鉄格子のついた小窓が左右の壁の上部に一つずつあるので、それほど暗くはない。そこから入る陽射しが、空中に舞う埃をきらきら輝かせている。
ここがどんな用途の建物なのかは、少し覗いただけですぐに判った。
扉を開けた途端、ぷんと火薬独特の臭いが鼻をついたからだ。石の壁には剣がずらりと並んでかけられ、三台ある大きな棚には向こう側が見えないほどに道具類がみっちりと詰め込まれてあった。床には、いくつかの樽や、人が入れそうなくらいの大きな箱が無造作に置かれている。
これは武器庫だ。
「入って、ラヴィ」
「え……」
先に中へ足を踏み入れたリックに言われ、ラヴィは戸惑った。どう考えても、ここはラヴィのような第三者、しかも平民の娘が気安く入っていいような場所ではない。
「だめですよ、それは許されないでしょう?」
「うん、部外者は立ち入り禁止と言われているね」
「でしたら、わたしは外でお待ちしています」
「でも、ラヴィは『部外者』じゃないだろう? なにしろ、団長直々に詰所への出入りを許可されたくらいなんだからさ。すでに騎士団の『関係者』じゃないか」
「それは詭弁というものですよ、リックさま」
笑いながら窘めると、リックも笑った。
笑いながら、ラヴィの手を素早く掴んだ。
そのまま、驚くような乱暴さで武器庫の中へ引っ張り込むと、扉を閉めて、錠を下ろした。
ガチャン、という無慈悲な音が大きく響く。
──閉じ込められた。
抵抗する間もなく、ラヴィは武器庫の中で捕らわれの身となった。他の騎士たちと比べ小柄なリックとはいえ、動きの速さと力の強さはルパートの比ではなかった。強く引かれた反動で床に倒れ込んでしまったラヴィは、扉を背にしてこちらを見下ろすリックを茫然と見返すことしかできない。
「ごめんね、ラヴィ」
「リックさま……」
リックは表情の抜けた顔で、謝罪の言葉を口にした。
その声はいつもの彼と違って、ひどく無感動なものだ。どこか遠く、虚ろな口調に、ラヴィの背中をひやりと冷たいものが伝った。
「──今朝、唐突に、団長から命令が下された。今夜、アドキンズ伯爵邸に一斉に踏み込んで、伯爵を捕縛するんだって。みんな、仰天してたよ。当然だよね、あまりにも急すぎる。だけど、団長はすべての疑問と不満を完全に黙殺した。僕も驚いた。本当に……声も出ないくらい驚いたよ」
リックは一本調子で淡々と喋った。その目は確かにラヴィに向けられているはずなのに、まったく違うものを見ているようでもあった。
「伯爵の悪事の決定的な証拠でも掴んだのかな? ひそかに内偵でも放って調べさせていた? まったく余計なことをするよね。今夜なんて……それじゃどんなに急いで知らせても、間に合わない」
ラヴィは血の気の引いた青い顔でゆっくりと立ち上がり、口を開いた。
ぎゅっと両手を握り合わせる。
「……あなたが、騎士団の内通者だったんですね?」
その問いに、妙に茫洋としていたリックの瞳が、徐々に焦点を合わせていった。
口の端を上げ、ちらりと笑う。
普段の彼の笑い方とはまったく違う。年寄りじみて、疲れきった、痛々しさを感じるくらいの笑みだった。
「そうか、ラヴィ、やっぱり君がその内偵だったんだ。おかしいと思ったんだよ、平民がいきなり騎士団内に入り込むなんて」
正確に言えばエリオットの当初の目的はシリル専用の餌だったわけだが、結果的にこうして内通者を炙り出すことになったのは確かなので、ラヴィは黙っていた。
「でも、こうしてあっさりと捕まるあたり、警戒心が足りないね。ニコルソン商会の娘というのは本当のようだし、やっぱり所詮は素人ということか。君は女の子なんだから、傷がついたら困るだろう?」
相変わらずその声に抑揚はないが、「傷がついたら困る」というのは別に脅しでも皮肉でもなく、リックの本心から出された言葉であるようだった。
「ええ、困ります」
「じゃあ、こんな危ないこと──」
「でも、このことを知ったら、リックさまの妹さんも、取り返しのつかない大きな傷を負うと思います。……肉体ではなく、心に」
リックがぴたっと口を閉じた。すうっと眇められた目がこちらに向けられる。
「──なんだって?」
「先日、アドキンズ伯爵主催の夜会で、見覚えのある髪飾りをつけた女性を見ました。あれは、リックさまの妹さんですよね?」
「見間違いだろう。似たような髪飾りなんていくらでもある」
「いいえ、わたし自身が吟味して、選んだ品物ですもの。見間違えるなんて、あり得ません。それに、『妹に誕生日のプレゼントを』とリックさまがおっしゃった時、妹さんの髪や目の色、身長、服の好み、雰囲気も伺いました。その特徴ともぴったり一致していましたよ」
あの夜会で、若者の集団の中に混じっていた女性。
彼女の頭につけている髪飾りを見た時、すぐに気づいた。あれはリックの妹だと。
それでラヴィはシリルに頼んで、調べてもらうことにしたのだ。
その調査結果が出たのが三日前。それから今日まで、ラヴィはずっと憂鬱な気持ちで過ごしてきた。どう転ぶにしろ、この先起きるのは喜ばしいことではないだろうと。
「はは……さすが、一流商人の娘というわけだ」
リックは力なく笑った。
「僕の妹も、ラヴィくらい強かったらよかったのに」
肩を落とし、ぽつりと呟く。
「……妹さんは、ずっと病弱でいらしたのですよね?」
一瞬、「そんなことまで知っているのか」という驚いた顔をしたが、もう否定する気力も失せたのか、うな垂れるようにして認めた。
「昔からね……少し動くと激しい咳に苦しめられて、すぐに熱を出す。いつもベッドに縛りつけられて、友だちもおらず、部屋の中で寂しい毎日を送っていた」
クレアと同じだ。
「両親も僕も、なんとか妹に元気になってほしくて、いろいろと手を尽くしたんだ。でも、ちっとも良くはならなかった。どちらかといえば、年々悪くなっていた。僕の家はあまり裕福じゃないから、高い薬には手が出せない。発作が起こるたび、なんとか少しでも症状が和らぐよう、神に祈るしかなかった」
そんな時、知人に「竜の血」という薬を勧められた。異国で作られる貴重なもので、大変によく効き、これを飲むことで劇的に症状が改善した人が大勢いるという。
どれほど高価なのかとおそるおそる聞いてみたら、リックの家でも十分賄えるくらいの値段だ。
父と母は、大喜びでその話に飛びついた。
「その薬は確かによく効いた。妹も嬉しそうにしていたし、母なんて泣いていたくらいだった。僕も安心したんだ。運悪く病弱に生まれついた可哀想な妹だけど、これからはすべてが上手くいくような、そんな気がした」
しかし、症状が改善するのは、薬が効いている間だけ。しばらく飲まずにいると、また発作に襲われる。それでリックの妹は、薬を朝晩と欠かさず飲むようになった。それだけ薬代はかかるが、両親は生活を切り詰めてでも必死でその金を捻出した。
「……一年もすると、妹は見違えるくらい元気になった。外出もできるようになって、本人も明るく浮かれていたよ。いろんなところに出かけて、友人を作って、今まで知らなかった遊びも覚えて」
だがやっぱり薬は手放せない。同時に、妹の言動に少しずつおかしなところが見られるようになった。笑っていたと思ったら突然ぼうっとしたり、物忘れが激しくなったり、何もないところでふらついたり。
「夜中、急に大きな悲鳴を上げることもあった。その時点で、僕と両親は、これはあの薬のせいなんじゃないかと疑い始めた。でも、一度薬をやめてみないかという提案に、妹はまったく耳を貸さない。これを飲むのをやめたら、またベッドに逆戻りだと異常なくらい怯えて、泣き喚いて抵抗するんだ」
体力を使い果たすまで暴れるので、両親は薬を与え続けるしかない。購入のための出費はどんどん嵩み、とうとう借金までするようになった。
「僕も親も身を削るようにして働いたけど、結局どうにもならなくなってね……もう全員で平民になるしかないとまで思い詰めた時に、アドキンズ伯爵から援助の手が差し伸べられた」
両親は縋るようにその手を取った。しかし借金は借金である。高い利子までついて、金額は膨れ上がる一方だ。
リックの一家は伯爵に逆らうことができなくなった。
……シリルの父親と同じだ、とラヴィは胸の内で思った。
相手を罠にかけて苦しい状況に追いやり、助けると見せかけて、より深い地獄へと引きずり込む。それがアドキンズ伯爵の常套手段なのだろう。
「もともとの薬の出所も伯爵だったと、後で知ったよ。要は、すべてあの男の手の内だった、ということさ。まんまと策に嵌って、僕は内通者として騎士団の情報を横流しする役割を負わされた。そうしなければ、自宅を売り払ってでも今すぐ借金を返せと言われてね。無一文で外に放り出されたら、僕たち一家はおしまいだ。子どもの頃から憧れて、ようやく入れた王立騎士団だけど、僕はもう誇り高い騎士でもなんでもない。ただの悪党の手先、三下のゴロツキと同じだ」
ラヴィは勢いよく首を横に振った。
リックはいきなり騎士団内に入り込んだラヴィという異物について、アドキンズ伯爵側へは何一つ伝えていなかった。意地や良心がそうさせたのかもしれないが、あるいはそれこそ、彼の中にある「騎士の誇り」と呼ぶべきものではないかと思う。
「リックさま、今からでも遅くありません。エリ……騎士団長さまにすべて打ち明けて、助けを求めましょう。アドキンズ伯爵の摘発に協力すれば、必ず寛容な処分が下されます。他の騎士のみなさまだって」
「だめだよ」
ラヴィの懸命な訴えにきっぱりと返して、リックは目を上げた。空虚な瞳は、ぽっかりと穴が開いたようだった。
「伯爵邸で妹を見たんだろう? 世間知らずの妹は、すっかりあちらに取り込まれてしまったんだ。ただの遊びと言われて賭博にも手を出した。他にも、本人の知らないところで悪事に加担させられている。僕が手を引くと、妹は牢に入るしかない。薬を飲むのをやめたら、ひどい発作が起きるのに──無理だ、そんなことになったら、妹はもう惨めに死ぬだけだ。今は『毎日が楽しい』と、あんなにも朗らかに笑ってるのに……!」
リックの顔がはじめてくしゃりと歪んだ。ぶるぶる震えるほど強く拳を握りしめ、悲痛な呻き声を上げる。
ラヴィは眉を下げた。自分にも、リックの苦しさは理解できる。
大事な人には、いつでも笑っていてほしい。
その願いは同じであるはずなのに。
「でも、このままでは……」
「だから君に協力してもらうことにしたんだ」
リックはそう言って腰に右手をやった。
鞘からスラリと剣を抜く。白刃の不気味な輝きに、ラヴィは硬直した。
短銃の次は、剣か。
「ラヴィを人質にして、シリルと取引をする。今夜の作戦を失敗させるか、せめて延期に持ち込むよう工作させるんだ」




