願いはひとつ
ルパートの私室は屋敷の二階にあるらしい。
階段を上って、美しく磨き抜かれた廊下を進んでいくうち、一階の広間で行われている夜会のざわめきは徐々に遠くなっていった。使用人たちも全員がそちらに駆り出されているのか、姿が見えない。あるいはこういう時にルパートが女性を部屋に連れ込むのは日常茶飯事で、近づくなと命じられているのかもしれなかった。
ラヴィは足を動かしながら、屋敷の中の間取りをできるだけ頭に叩き込んでおいた。数ある部屋の扉はすべて閉じられていて、中を覗くことまではできなかったが。
──しかし、たぶん最も奥にある部屋が、アドキンズ伯爵の私室か書斎なのだろう。
あの部屋だけ扉が重厚な造りで、ちょっとやそっとでは壊れないくらい頑丈そうだ。
廊下には、立派な絵画や大きな花瓶の他に、金ピカの鎧までが飾られている。
「ここだよ」
一つの扉の前で立ち止まり、ルパートが懐から鍵を取り出した。どうやらこの屋敷は部屋ごとに施錠できるようになっているようだ。それだけでも強い警戒心が窺える。
「まあ……いつも鍵をかけているのですか?」
「今日は客が多いから、父上に厳しく言われているんだ。どんなやつが紛れ込んでいるかも判らないしね」
ラヴィはそれを聞いてがっかりした。
「迂闊」が服を着たようなルパートでさえこの調子なら、アドキンズ伯爵本人はもっと用心深いのだろう。書斎に忍び込んで隠し扉の中から秘密文書を見つけ出し、華麗に窓から飛び降りて脱出する計画は、諦めたほうがよさそうだ。
「さあ、入って」
扉を開けて、ルパートがラヴィの背中を押す。
室内は分厚いカーテンが引かれ、壁に設置された燭台で蝋燭が灯されていた。薄暗いが、大きなベッドが真っ先に視界に入り、ラヴィはもう一度強く両手を握り合わせた。
「怖がらなくても、僕が……」
ニヤニヤしながら背後からラヴィの腰に手を伸ばそうとしたルパートの言葉が、ふいに途切れた。
ラヴィはぱっと後ろを振り返った。
声が出せないのも道理だ。彼は今、背後から回された手で口を塞がれ、もう片方の長い腕で首をぐぐっと絞められている。ルパートはふがふがともがいて暴れたが、両者の力の差は明らかだった。拘束から逃れようと両手でしゃにむに抵抗しているが、そんなことでは相手はびくともしない。
せめて顔を見てやろうとしたのか必死になって目を動かしているが、それも無駄なあがきというものだ。
振り返ることができたとしても、黒い仮面しか見えなかっただろう。
鍛えられた腕に首を圧迫されたルパートは、呆気なく白目を剥いて気絶した。
ラヴィは急いで廊下を見渡して誰もいないことを確認し、扉を大きく開けた。仮面の男性が粗雑にルパートを室内に放り込むのを見届けてから再び閉めて、中からしっかりと施錠する。
それからルパートの口に猿轡を噛ませ、両手両足を縛ってクローゼットの中に押し込んでおいた。これなら、目が覚めた後もすぐには動けまい。
ふうー……とラヴィは深い息を吐き出し、額の汗を拭った。
「……ありがとうございました、シリルさま」
そう言うと、黒い仮面の下で苦笑する気配がした。
手が動いて、ゆっくりと仮面が外される。室内は暗いが、蝋燭の炎がその下から現れたシリルの顔を照らし出した。
「無事でよかった、ラヴィ。いつ俺だと判った?」
その問いに、ラヴィは「一目で」と自信満々に言いきった。たとえ顔が隠されていたって、身体つき、立ち方、動作の一つ一つで、すぐに判る。
好きな人だから。いつも彼のことを目で追ってしまうから。
「……覚えていてくれたんだね、『合図』」
「もちろんです」
──足で地面を二回叩いたら「警戒せよ」、手で肩を二回叩いたら「動いてよし」。
子どもの頃の記憶は、まだ色褪せてはいない。
「遅くなってごめん」
「いいえ、助けてくださるって信じていましたから」
ラヴィが飲み物をもらって時間稼ぎをしている間に、シリルはひそかに二階に上がって待ち伏せしていたのだろう。幸い、廊下には花瓶を置いた台や趣味の悪い鎧などがあり、身を隠す場所に不自由しない。
「それにしてもシリルさま、どうやって屋敷の中に?」
「簡単さ。招待状がないなら、他のところから手に入れればいい」
「手に入れる、というと……」
「招待状を持っている人に交渉して、譲ってもらったんだ」
シリルはさらりと言って、指をぽきぽき鳴らした。どんな「交渉」をして、どんな手段で「譲ってもらった」のかは、今は問うまい。
「よくそんな人を見つけられましたね」
評判の悪いアドキンズ伯爵主催の、不義密通も賭博もなんでもありという、秘密と後ろ暗さ満載の夜会である。客たちも自ら言い触らすような真似はしないだろうし、むしろ絶対に周りには知られないよう沈黙を貫くはずだ。
「シンプソン夫妻に協力してもらった」
「クレアさまとギルバートさまに?」
「二人の知人友人に、『ここ最近、悪い仲間とつるんで、賭け事にのめり込んでいるような若いやつはいないか』と聞いて回ってもらったんだ。貴族は身分と年齢が高ければ高いほど閉鎖的になりがちだが、どちらも下の場合は、そのあたりわりと気軽に噂の種にするからね」
なるほど。クレアたち経由なら、後で入れ替わりがバレても、シリルには辿り着けないだろう。
「エリオットさまには……」
「無断で」
「い、いいのですか? 命令違反で叱られたりするのでは?」
「団長は、『ラヴィに同行するのは無理だ』としか言わなかっただろう? つまり、俺が勝手に行く分には構わない、ということさ。……大丈夫だよ、ラヴィ。あの人のことだから、これくらいは想定済みに決まってる」
シリルはサバサバと言って、肩を竦めた。ラヴィとしては、そういうものなのか……と強引に納得するしかない。ラヴィは未だに、あの第二王子が何を考えているのかなんて、さっぱり判らないのだ。
「その髪は?」
「カツラ。女性物だから、長くてね」
肩に垂らされた髪の先に触れて、シリルは少し照れ臭そうに言った。シルバーグレーの短髪も素敵だが、褐色で長髪もまた彼によく似合っている。いつもよりもワイルドな感じがくらくらするほどセクシーだ。今後ニコルソン商会でも男性用カツラを手広く扱うよう父に進言しなければ、とラヴィは決意した。
「他に質問は?」
シリルが首を傾げて訊ねてくる。
次から次へと問いを重ねるラヴィを面白がるように、彼の口元が少し上がっているのを見て、ちょっとムッとした。
「それならそれで、事前に教えておいてくださってもよろしかったではないですか」
シリルが来てくれると知っていれば、自分ももっと余裕が持てた。
これでもラヴィは前日からずっと緊張し、あれこれ考えすぎて食事もろくに喉を通らず、ほとんど眠ることもできなかったのだ。
「ごめん。ギリギリまで上手くいくかどうか自信がなくて」
「上手くいかなかった場合は、どうするつもりだったのです?」
「屋敷に忍び込んでボヤ騒ぎでも起こし、夜会そのものを中止させようと思っていた」
真顔で返ってきた内容は物騒すぎて、冗談なのか本気なのか判断がつかない。冗談だと思うことにして、ラヴィは少し笑った。
「そんなことをしたら、シリルさまが宿願を果たせる日は、どんどん遠ざかる一方ですよ」
「いいんだ」
思いがけず、シリルは真面目な顔をしたまま、静かに言った。
「……本当に、いいんだ。ラヴィが無事なら、他のことはすべて後回しで構わない。君が危ない目に遭うことのほうが、俺にはずっと耐えられない」
「そんなこと──」
「ラヴィ」
反論を遮るように名を呼んで、シリルがラヴィの両手を取り、ふわっと掬い上げた。
両側から大きな掌に包まれて、ぎゅっと握られる。彼の手の中にすっぽり収まった小さな二つの手は、自動的に重ね合わさる形になった。
ラヴィの顔がみるみる赤くなる。まただ。どうしてこれくらいのことで、こんなにも無様なほど動揺してしまうのだろう。
逃げたいような、ずっとこのままでいたいような、相反する気持ちでぐらぐらと心が揺れる。
こんな風になるのはシリルだけだ。ルパートに触れられても、嫌悪感しか湧かなかった。シリルただ一人が、ラヴィを容易く天に昇らせたり、地獄へ突き落としたりすることができる。
「……怖かっただろう?」
胸の奥のほうまで沁みるような声で問いかけられて、不覚にも一瞬、言葉に詰まった。
「いえ──わたしは、これくらい」
「気づいてないの? 君は昔から、怖いのを我慢する時、いつも両手を強く握り合わせるんだ。小さなラヴィも、時々こうしていた。父上の不在が多い環境で、身体の弱い母上と幼い弟に心配をかけさせまいと、口では威勢のいいことを言って笑いながら、自分の手をぎゅうっと握る。まるで何かに祈るように。──自分の感情に素直で、思ったことをすぐ口に出すラヴィ。でも君は、いちばん大事なことは胸に秘めて隠しがちだ」
「…………」
ふいに、泣きたいような気分に襲われた。自分の身の裡が一つの感情でいっぱいになって、他のものをすべて押し潰してしまいそうだった。
──両親にも弟にもクレアにも、今まで気づかれたことはなかったのに。
「わたしはもう、小さな女の子ではありません……」
「判ってる。君はもう子どもじゃない」
シリルがそう言いながら片手を離し、ラヴィの顔の仮面に指をかけて、そっと外した。
そんなことをされたら、いくらここが薄暗くても、ラヴィの頬も耳も目元も真っ赤なのがバレてしまう。顔を伏せて隠したいのに、まっすぐ向かってくるシリルの目が、それを許してくれなかった。
彼の瞳から視線を逸らせない。今この時、ラヴィの世界はシリルだけで占められてしまったかのようだ。
「ラヴィ、七年前、俺が別れを告げに行った時のこと、覚えてる?」
「は、はい……もちろん」
「あの時、俺は本当に疲れきっていた。この先どうなるか判らない不安で、苦しくてたまらなかった。母親は自分のことで手一杯で、俺に縋りついて泣くばかり。正直に言うと、自分も何もかも投げ出して今すぐここから逃げたいと、それだけを願っていた」
無理もない。当時、シリルはまだ十五歳の少年だったのだ。いきなり背負わされたものは、一体どれほどの重みだったことか。
「──でもラヴィは、俺のことだけを心配してくれた。俺のためにわあわあと思いきり泣いて、俺の代わりに真剣に怒って、自分に何ができるかと精一杯考えてくれた。あの時の俺にとって、それがどんなに凄まじいほど嬉しいことだったか、判るかい? 周りから見放され、もう味方なんてこの世界のどこにもいないと思っていた俺が、どんなに救われたか。……離れていた間も、ラヴィの顔と言葉を何度も思い出した。深くて暗い穴に落ちていきそうな時は、君に恥ずかしくない人間でいようと、それだけを支えにして踏みとどまった」
再会してからも──と口にして、シリルは少し微笑んだ。
「成長した君は、やっぱり前向きだった。団長や騎士たちに無茶な要求をされても、いつも見事に切り抜けてしまう。恐怖心を懸命に隠し、しっかりと地に足をつけて、明るい笑顔と巧みな弁舌で相手を丸め込む姿は、本当に綺麗だと思った。無邪気だった小さなラヴィは、七年の時間を経て、強く賢く美しい魅力的な女性になった。その上、頑固で無鉄砲で行動的で──だからこそ、目が離せない。君は俺にとって、眩しい光のような存在なんだ、昔も今も」
シリルがじっとこちらを見つめながらそんなことを言うので、ラヴィはいよいよ混乱の極致に陥ってしまった。
彼はさっきから何を口走っているのだろう。
これじゃまるで……まるで、ラヴィを口説いているかのようではないか。
「あ、の」
「ラヴィのほうは、どうして? どうして、俺のためにここまでしてくれるんだろう。昔、一緒に遊んだ友だちだから? それとも、俺の境遇に同情して?」
「ち、違います!」
とんでもないことを言われて、驚いたラヴィはすぐさま否定した。
同情でこんなことをしていると思われるのは、あまりにも心外だった。
「わたしは、ただ」
「うん」
「ただ、シリルさまに……また、笑ってほしくて」
視線を落とし、赤い顔でもごりと出したその返事に意表を突かれたのか、シリルはきょとんとした。
「……なんて?」
間の抜けた反問に、ラヴィはキッと眦を吊り上げた。
「だって今のシリルさまは、まったく笑わないではないですか! そんなだから、ご令嬢がたに『孤高の冬狼』なんて呼ばれてしまうんですよ! 本当はあんなに優しく笑えるのに! 冬どころか、ぽかぽかしてあったかい春みたいな笑顔なのに! それを誰も知らないのが、わたしは悔しくてたまらないんです!」
「え、ラヴィ、その名前、どこから聞いた?」
シリルはどうやらその愛称があまり気に入っていないらしい。狼狽したように目を泳がせて、「あれは俺の知らない間に勝手に……」と釈明する。
「シリルさまが笑っているところを見ると、わたしも嬉しいし元気になるんです! シリルさまから笑顔を奪った原因が伯爵との因縁なら、それをさっさと消滅させてしまえば、また笑えるようになるかもしれない、そう思って協力を申し出ました! でもそれはわたしの勝手な願望ですから、シリルさまが気になさる必要はありません、以上!」
ヤケになって一気に言いきると、シリルは戸惑う顔になった。
「俺に笑ってほしい……たったそれだけのことで?」
「他に理由が要りますか? わたしにとってはそれが最重要課題です」
またシリルが元のように笑えるようになったら、その時こそラヴィは自分の心にけじめがつけられるだろうと思ったから──とまでは言わずに、むくれた表情で見上げると、シリルは唖然として固まっていた。
手で額を押さえて下を向き、小さく肩を震わせる。
「本当に──まったく君って人は」
それから一拍置いて、我慢できなくなったように勢いよく噴き出した。
「……なんで笑うんです?」
唇を尖らせると、シリルは「笑ってほしいって言ったくせに……」と、さらにくくっと肩を揺らした。
そりゃそう言ったが、ラヴィが求めていた「笑顔」とはなんだか違う。
むうと膨らませた頬を、目を細めたシリルの長い指でするりと撫でられて、ひゃっ、と短い悲鳴を上げた。せっかく引いた顔の赤みが戻ってきて、全身が火照ったように熱くなる。
「……ラヴィは俺が笑うと、嬉しくて元気になるの?」
まだ笑いの余韻を残したまま、シリルが囁くように問いかけた。
「え……あの」
なぜそんな妙に色気のある声を出すのだと、ラヴィは心の中で盛大に文句を言った。実際には身体も口も固まったままで、ただ彼を見返すことしかできなかったが。
足だけがかろうじて後ろに一歩下がったが、いつの間にかシリルの腕が背中に回っていて、それ以上は逃げられなかった。どうしてこんなことになっているのか、わけが判らない。
「じゃあ俺は、多少は自惚れてもいいのかな」
何を?
訊ねたいことは山ほどあるが、シリルの顔が徐々に近づいてきて、それどころではなくなった。
「ラヴィ──俺は、君が」
吐息がかかるくらい、シリルを間近に感じた。その声は、甘い熱を孕んでいる。
彼の唇が、そっとラヴィの額に押し当てられた。優しく、壊れ物に触れるように慎重に。
それから少し離れて、目を見開いているラヴィを見つめた。子どもの頃の、「兄が妹に向けるような」ものとは、明らかに異なる眼差しで。
ラヴィ、ともう一度名を呼ばれて、シリルが再び顔を寄せてくる。今度の口づけは額ではない、ということが判った瞬間、ラヴィはようやく我に返った。
「シ、シリルさま!」
それ以上の接近を阻むため、慌ててシリルの顔を自分の両手で覆って押し留める。
「いつまでもこの部屋に閉じこもっているわけにはいきません。誰も二階に上がってこないうちに、早くここから出ましょう!」
腕の力が緩んだ隙に、ラヴィはするっとそこから抜け出した。彼の手から自分の仮面を取り返し、扉へと向かう。
シリルは少し傷ついた顔をしていたが、見ないようにした。
きっと、ここがこんなにも薄暗いのが悪いのだろう。これでは誰だって、雰囲気に流されてしまう。ただでさえ敵地潜入中という通常とは程遠い状況なのだ。明るい場所に出れば、シリルも正気に戻るはず。
──そうでなければ、こんな酷いことはしない。
ラヴィは心の中で呟いて、再び仮面をつけた。
一粒こぼれ落ちた涙を隠せて、ちょうどいい。




