伯爵邸潜入
アドキンズ伯爵邸は、広大で豪奢で、その上、異様なまでに厳重だった。
長々と続く塀に沿って立っているのは伯爵の私兵と思しき男たちで、数が多い。門から中に入る際には招待状をしつこく確認され、武器の持ち込みは禁止であることを、丁寧だが有無を言わさない口調で念押しされた。なるほど、確かにシリルがついてくるのは無理だっただろう。
ただ、どこの誰か、という点は何も訊ねられなかった。今日の夜会で隠すのは、顔だけではなく名前も、ということだ。正体の判らない者同士が、爵位や立場の上下に捉われず自由に楽しむ、というのが仮面舞踏会の醍醐味であるらしい。
しかしそのおかげで、平民のラヴィも何食わぬ顔で会場に入ることができた。
ドレスや装飾品は、エリオットに用意してもらうまでもなく、いくらでも自前のものがある。
なにしろラヴィは、ニコルソン商会の歩く広告塔でもあるのだ。若草色の光沢のある布地や、形良く結った栗色の髪に映える美しい髪飾りを見て、「あら、素敵」と囁き合う女性たちに自社製品の宣伝をしてしまいそうになるのをなんとか抑えた。
もちろん、ラヴィと彼女たちを含め、招待客全員が顔に仮面をつけている。
形や大きさは様々で、女性の仮面は美しさにこだわって凝った造りのものがほとんどだった。目の部分だけをくり抜いた布製のマスクをしている男性もいる。おおむね鼻から上を覆った形ばかりなのは、口元くらいは見せたいという自己顕示欲の表れなのだろう。
しかし中には、顔全体を隠す仮面を被っている人物もいた。
そこまでいくと、表情もまったく判らない。のっぺらとした無機質な黒い面に、目と鼻の穴だけが開いているので、洒落っ気よりも不気味さのほうが上回っている。
唯一明らかなのは、褐色の長い髪を後ろで括っているということと、体格がしっかりしているということくらいだ。衣装もあまり煌びやかではない落ち着いた色合いなので、周囲に埋没してしまうほど地味だった。
対して、ラヴィの仮面は蝶の形を模した華やかなものである。事前にルパートから「必ずそれをつけてくるんだよ」と言われて渡された。この目印がないと、ラヴィを見つけられないからという理由らしい。
ラヴィは人でごった返す会場内を、さも「相手を探している」風を装って練り歩いた。せっかくなので、少しでも情報収集をしなければ。
広間の中はうるさいくらいに賑やかだった。楽団が奏でる優雅な曲に合わせて踊っている男女もいるが、雑談に興じる人たちのほうが多い。貴族とは思えないような甲高い嬌声を上げる女性もいる。
上流階級の人々は、お茶会であろうと夜会であろうと、階級によって厳しい決まりがあったり、細かい礼儀作法を求められたりするのが普通だ。しかしこのような匿名の場では、そういう抑圧から逃れられるため、いつもよりも羽目を外してしまうのだろう。
貴族というのはなかなか窮屈なものらしいから、たまの息抜きとして楽しむのならいいのかもしれない。が、彼らの中には明らかに、はしゃぎすぎではないか、という状態の人もいた。
普段は淑やかなご婦人であろう女性が、明らかに夫ではなさそうな若い男性にべったり絡みついて、喉を仰け反らせて笑う姿は、あまり美しいものではない。
招待客は二十代から四十代くらいの男女が多いようだが、ちらほらと十代らしき若者の姿もあった。貴族の子息たちだろうが、彼らはみんな、なんとなく退廃的な雰囲気を全身にまとわせている。
そこに自分と同じくらいの年齢と思われる女の子が混じっているのを見つけた時、ラヴィはつい眉を寄せてしまった。ここは若い娘さんが来るようなところじゃありませんよ、と自身のことを棚に上げて胸の内で苦言を呈する。
──あら……
そこで、あることに気づいた。
彼女に声をかけるべきか迷って、その場に立ち止まる。
少し逡巡してから、やっぱり行こう、と決心して足を踏み出しかけたところで、後ろからぽんと肩を叩かれた。
「ラヴィだろ?」
振り返ると、そこにはルパートが立っている。非常に派手派手しい仮面は申し訳程度に目の部分を隠しているだけなので、にやけきった口元ですぐに判った。
すでにだいぶ酒を呑んでいるのか、頬が真っ赤だ。
「あら、ルパートさま。今日はお招きありがとうございます」
残念ながら、ラヴィの会場内探索はここで一旦中断せざるを得ないようだ。エリオットに言われたとおり、愛想よく笑って、礼を述べた。
「よく僕だと判ったな? 好きな男はたとえ顔を隠していても判る、ということか」
これで隠しているつもりだったのか、とラヴィはびっくりしながら「ほほほ」と流しておいた。ルパートのその言葉にも一理あると思ったので、否定はしない。
好きな人なら、たとえ顔を隠していても、一目で判る。
「まずは踊らないか?」
と誘われたが、ラヴィは困ったように微笑み、謹んで辞退した。
「ルパートさま、お忘れですか? わたしはただの平民ですよ。このような高貴な方々に混じって下手なダンスを披露するほど、厚顔ではありませんわ」
「ははは、そうだったな。平民は生活するのに手一杯で、ダンスなど知らないか」
ルパートは上機嫌で大笑いした。
彼がラヴィを気に入っているのは、こうして折に触れ見下して馬鹿にすることができる相手だからというのが大きいのだろうな、と内心で思う。
「じゃあさ」
肩を抱かれ、ぐっと引き寄せられた。
耳元にルパートの顏が近づいてきて、ラヴィは逃げそうになる足を根性で踏ん張った。吹きかけられる息は、ぷんと酒の匂いがする。
「……これから、僕の部屋に行かないか?」
展開が速すぎない?!
「ま、まあ、ルパートさまったら。わたし、まだ来たばかりですよ。もう少し夜会の雰囲気を楽しませてくださいな」
引き攣った笑顔で返しながら、距離を縮めてくるルパートの身体を手でぐいぐいと押しやった。しかしあちらも負けじと、どんどん身を寄せてくる。いっそ思いきり突き飛ばして、ついでに蹴りつけてやりたい。
「夜会はまだまだ続くんだぜ? 一時間や二時間して戻った頃には、今よりももっと盛り上がっているさ」
その一時間や二時間で何をするつもりなのだと思うと、もう寒気しかしない。
酔っているせいもあって、ルパートの目がいつもよりもどろんと濁っていて怖かった。肩に置かれた手は、痛みで顔をしかめてしまうくらいの力が込められている。そこに気遣いなどはカケラもなくて、ラヴィは今の自分が単なる「物」扱いされていることを、嫌でも実感させられた。
「誰もが顔を隠しているこの場では、何があってもみんな見て見ぬふりをするのが暗黙のルールだ。不倫だろうが、密通だろうが、多少強引な真似だろうが」
どこか据わった目つきで、ルパートはひそひそと言った。
「……なあラヴィ、今夜はそのつもりで来たんだろう? 勿体ぶって自分の値を釣り上げたいって魂胆だろうが、いい加減にしておいたほうがいいぞ。バカ騒ぎしている連中の中じゃ、悲鳴くらいはすぐにかき消されてしまう」
囁かれた内容にぞっとして、血の気が引いた。
いっそ大声を上げようか──だが、そんなことをしたところで、上手く逃げられるとは限らない。妙に淫靡な空気の漂う会場内は、ルパートが言うとおり、助けを求める声さえ「娯楽」の一つに変えられてしまいそうな軽薄さと冷酷さに満ちている。
ぎゅっと両手を握り合わせ、切羽詰まったラヴィは周囲に視線を巡らせた。みんな自分のことばかりで、誰もこちらを見ないし、気にしてもいない。
……いや、一人だけ、こちらを向いている。
顔全体を黒い仮面で覆った、褐色の髪の男性だ。表情は判らないが、グラスを片手に、無関心な様子で壁際に立っていた。
その目は確かにラヴィの姿を捉えているようだが、彼はその場からぴくりとも動かない。ルパートに腕を掴まれ、無理やり引きずられていきそうなラヴィを見ても、制止どころか注意をしようという素振りさえなかった。
その視線がふっと逸らされた。もはやラヴィにも興味を失ったように、自分の肩のゴミを払う仕草をする。
それを見て、ラヴィは覚悟を決めた。
「判りました……ルパートさま」
目を伏せて、小さな声で答える。
「お部屋はどちらですか?」
途端に、ルパートがでれっとやに下がった。「大人しくしていれば、手荒なことはしないよ。たっぷり可愛がってやるから」と嬉しげに耳打ちしてくるのが気持ち悪い。
「その前に、少し飲み物をいただいてもいいでしょうか。喉が渇いてしまって」
給仕を探すために顔を動かしたら、さっきの男性はもう壁際から姿を消していた。