極秘任務
「ラヴィ、この一月ほど、シリルを追いかけ回していないな。もうやめたのか?」
いつものように騎士団詰所でご用聞きをしていたラヴィに、そう訊ねてきたのはノーマンだった。
ラヴィはちらっと周囲に目をやった。休憩所では騎士たちがそれぞれ雑談に興じたりして休息を取っているが、その中にシリルの姿はない。
少し顔を寄せ、抑えた声で返す。
「……そうなのです。これ以上しつこくするのは、シリルさまにとってご迷惑以外の何物でもないでしょうから、諦めました」
「えらく謙虚なことを言うようになったな。俺はラヴィを応援していたんだが」
「娯楽としてでしょう?」
「当たり前だろ。シリルなんて、どんどん迷惑をかけてやりゃいいんだよ」
ふん、と鼻で笑うように言い放つノーマンは、まだシリルに対して悪感情を抱いているらしい。今後のシリルを案じて、ラヴィは眉を下げた。
これでは伯爵の件を解決したとしても、騎士団員たちとの間に信頼関係を作るのは、かなり難しいのではないか。
「シリルさまは真面目な方ですよ。それはノーマンさまだってご存じでしょう?」
「まあ……それはそうだが」
そこは否定できないのか、ノーマンが不承不承認めて口を結ぶ。
「ですからどうか、そんなことはおっしゃらないでください。シリルさまも同じ騎士団の仲間ではありませんか」
ラヴィは殊勝げにそう言って、微笑んだ。
しかし内心では不満たらたらだ。ストレスがたまってしょうがない。
本当は、十でも二十でもシリルの美点を並べ立てたいのである。これまで辛酸を舐めてきたというのに、それでも歪まずに生きてきたその性質の素晴らしさを一日かけて語りたい。彼がずっと仲間を遠ざけていたのは、万が一のことを考えて誰にも迷惑をかけたくなかったからなんですよ!
が、なにしろラヴィとシリルは、第二王子エリオットから、「二人は無関係というように装うこと、特に騎士団内では」と厳命されている。
王立騎士団には、アドキンズ伯爵の内通者がいると目されているからだ。それが誰なのか判らない以上、注意深く行動せねばならないのだという。
そのため、人目のあるところでは、ラヴィはシリルに近づくのを避けているし、彼のほうでも距離を取るようにしているのだ。
シリルは以前からそうだったので別になんとも思われていないようだが、ラヴィが掌を返すように態度を変えては、怪しむ人もいるかもしれない。
傷心しているように思われたほうが、これ以上突っ込まれずに済むだろうかと、ラヴィはいかにも悲しげな顔を作って、息を吐いた。
「わたしのためを思うなら、そっとしておいていただけると……」
「ああ、いや、すまん。でもまあアレだ、そんなに悲観することもないさ」
まんまとラヴィの演技に乗せられて、ノーマンがちょっと慌てたように手を振った。さすが女性に優しいと言われるだけのことはある。
「俺は、完全に脈なしというわけでもないと思ってるぞ」
話が意外な方向に向かって、ん? とラヴィは首を捻った。
「どうしてです?」
「いや、騎士の中で、ラヴィに目をつけてるやつが何人かいるんだけどな。そいつらが先日、『どうやってあの娘を落とすか』なんてことで騒いでいたんだ。そうしたらいつの間にか、近くにシリルが立っていて」
その時、シリルはいつもに増して無表情であったらしい。無言なのに全身から立ち上る空気は真っ黒でやたらと迫力があり、お喋りしていた騎士たちがたじろいで、「な、なんだよ」と言ったら、「別に」と一言だけ返して立ち去ったという。
「で、すぐ後の訓練で、見事に全員、シリルにボコボコにされていた。まあ、あまりタチのよくない連中だったから、同情はしないがね」
「…………」
ラヴィが口を噤むと、隣のテーブルにいたリックが「あ、それを言うなら」と思い出したように声を上げた。
「三日くらい前、ラヴィと僕、詰所の入り口近くで立ち話をしたことがあったでしょ?」
「ありましたね」
妹へのプレゼントにとリックが購入した髪飾りについて、反応はどうだったかと訊ねていたのだ。すごく喜んでいたと言ってもらえたので嬉しくなり、今の流行や、あの髪飾りと意匠がお揃いの首飾りもある、という説明をして、時間ギリギリまで二人で盛り上がった。
「ラヴィが帰るのと入れ違いくらいにシリルが戻ってきたんだけど、その時、やけに険悪な目で睨みつけられたんだよね。やっぱりあれ、気のせいじゃなかったのかなあ」
「…………」
ラヴィはそっと額に手を当てた。
そういえば昔も、ラヴィが男の子にからかわれたりすると、敢然と立ちはだかって守ってくれたっけ。シリルの目からは、騎士たちやリックがイジメっ子にでも見えたのだろうか。
「自分に好意を持っていたはずの女が他のやつに取られそうになると途端に焦る、というやつだな。そういう傲慢さは気に食わないが、確かに有効だ。押して押して、その後で引く、という姑息な悪女作戦は上手くいっている。あともう少しだ、ラヴィ」
「人聞きの悪い。作戦じゃありません」
思わずムキになって言い返してから、いやある意味作戦ではあるけど、と思い直して混乱した。
「何にしろ、シリルがラヴィのことを気にかけてるのは間違いないよ。ここで諦めないで、頑張るべきだ」
人の好いリックにまで激励されて、ラヴィは困ってしまった。おかしい、どんどんエリオットの命令から離れていっている気がする。なぜこんなにも応援されてしまっているのだろう。
「ですから、いいんですってば! わたしはもうシリルさまのことは──」
「だからといって、ヤケになるのはよくない、ラヴィ」
今度は後ろから声がかかった。え、と振り返ると、大柄で強面のジェフが腕組みをして立っている。
相変わらず不愛想だが、こちらに向けられる瞳には、心配と、窘めるような色が乗っていた。
「ヤ、ヤケになる?」
「最近、あまり素行がよくないという噂を耳にした」
そんな、年頃の娘に注意をする父親のような顔をしないでもらえませんか。
「悪いことをした覚えはありませんけど」
「品行のよろしくない者と付き合っている、という噂を聞いたぞ。貴族の子息の中には、親の権力を使って無理を押し通すような輩もいる。軽率な真似をして、あとで苦しい思いをするのはラヴィなんだからな」
「えっ、そうなの? ラヴィ、捨て鉢になるのはよくないよ」
「変な男に引っかかるくらいなら、シリルにしておけ。少なくともシリルには、遊んでから捨てるなんて器用なことはできないだろうからな。なんだったら俺のほうから、あいつにガツンと言ってやってもいい」
ジェフとリックとノーマンに詰め寄られて、進退窮まったラヴィは「わ、判りました。今後、気をつけます!」と教師に叱られた生徒のような返事をして、早々にその場から逃げ出すことにした。
三人の騎士から向けられる、「シリルに振られて自暴自棄になったラヴィが不良に」という憐れみ混じりの目がなんとも居たたまれない。失礼な。
もちろん、心配してくれるその気持ちは嬉しい。嬉しいのだが。
──シリルさまも含めて、誰もかれも、わたしのことを「監視と保護が必要な、小さな女の子」と思っているんじゃないかしら!
***
「やあ、ラヴィ」
馴れ馴れしく名を呼び、ニヤつきながら待ち合わせ場所に現れたその男を目にして、ラヴィは両のこめかみに指を当て、中央に寄った眉を左右に引っ張った。
この男のせいであんなことを言われる羽目になったのだと思うと、つい苛々が顔に出そうになってしまう。半分以上は自分の責任なので、その腹立ちは結局ラヴィ自身に返ってくるわけだが。
「どうした、頭でも痛むのか?」
「いえ、美容のため顔の筋肉をほぐしているだけですわ、ルパートさま」
笑みを口元に貼りつけ、ラヴィは適当なことを言った。
そう、ジェフが耳にしたという噂は間違っていない。最近、ラヴィがよく会っているのは確かに貴族の子息で、品行がよろしくなく、親の権力を使って無理を押し通すようなロクデナシなのだ。
もちろん、アドキンズ伯爵の息子、ルパートのことである。
シリルが時間をかけてようやく近づいたというルパートは、ほんの一月ほどであっさりとラヴィに対して心の門を開けた。もともと全開の状態だったのではないか、と疑問を覚えるほど簡単だった。
王城敷地内をフラフラ歩いていたところに偶然を装って声をかけ、ニコルソン商会の娘だと名乗ったら、怖いくらいにスルスルと話が進み、今はこうして町で会うまでになっている。まるでデートをしているようで不本意極まりないものの、やむを得ない。
「もっと距離を縮めよう」と毎回のように露骨な誘いをかけられるのは閉口するが、今のところ、商人の娘らしく上手いこと言いくるめて逃げおおせていた。いざとなったら暴力行為も許す、全力で揉み消すから手加減無用、というエリオットの言質も得ている。
「ここは僕の馴染みの店なんだ」
その日連れていかれたのは、王都でも評判の、気取った高級料理店だった。
広くて豪華な店内では、上品に着飾った客たちが食事を楽しんでいる。シリルと一緒に入った場末の店とは何もかも違うが、あちらで抱いたわくわく感はカケラも湧いてこなかった。
「材料も一流のものばかりが厳選されていて、ここでしか食べられないという料理もあるんだぜ」
「スゴーイ」
「まあ僕くらいになると、どれも食べ飽きてしまったけどね」
「サスガー」
「いくら大商人の娘でも、平民のラヴィじゃとても入れない場所だろう? よかったなあ、僕と知り合えてさ!」
「ウレシー」
完全に棒読みなラヴィの一言コメントに、ルパートは満足げにフフンと鼻息を荒くした。
あまりにもチョロすぎて、逆に罠なのではないかと不安になるくらいだ。しかしこれはたぶん、ルパートの頭がカラッポだという以外に、平民であり若い娘でもあるラヴィを心底舐めきっている、という理由が大きいのだろう。
何をしようが、いざとなれば親の名前と金の力でなんとかなる、と絶対の自信を持っている。まるで舌なめずりでもするように自分を眺めるルパートの視線に、ラヴィは時々、本気でぞっとした。
その点、相手がシリルの場合、貴族で騎士という肩書きが、ルパートの一応最低限はあるらしい警戒心の砦を打ち砕けなかったのかもしれない。「僕の金にたかろうと寄ってくる、ハエのような連中のうちの一人」とルパートは馬鹿にしていたが、その目にはちらちらと怯えのようなものも覗いていた。
取り巻きにするにやぶさかではないが、どうしても無意識の恐れや反発心も拭いきれない──といったところか。
それはそうだ。なにしろシリルは強く、頭が良く、性格も良く、顔も良く、隠しきれない品格も滲ませて以下略、という、控えめに言って世界で最高の男性なのだから。ルパートと比べたら、道端の小石とダイヤモンドくらいの違いがある。燦然と輝くシリルに対して劣等感を抱いてしまうのはしょうがないというものだ。
「ラヴィ、どうした?」
「いいえ、なんでも」
道端の小石を見る目をルパートに向けて、ラヴィは首を横に振った。
「それじゃ、そういうことでいいな?」
ん?
「そういうこと?」
「なんだ、聞いてなかったのか?」
いい加減な相槌を打ちながらシリルのことを思い浮かべていたら、いつの間にか話が進んでいたらしい。
そうだった今の自分はスパイ活動中なのだった、とラヴィは緊張感を取り戻した。
「申し訳ありません、なんでしたか?」
「だからさ、今度、僕の屋敷で面白い催しがあるんだよ」
ルパートがぐっと身を乗り出して顔を寄せ、声を低めて言う。一瞬後ろに身を引きかけて動きを止めたのは、聞き捨てならない単語を耳にしたからだ。
「僕の屋敷?」
それはルパート個人所有の屋敷、という意味ではないだろう。そんなものがあったら、とっくにそこへ連れ込まれそうになっているはずだ。
するとこの場合の「僕の屋敷」とは、アドキンズ伯爵邸、ということか。
急に、心臓が激しく脈打ち始めた。
「まあ、面白い催しとは、どんなものなのですか?」
声が上擦らないように気をつけて、ラヴィは訊ねた。ルパートの頭にあるであろう「平民娘」のイメージに沿って、目をキラキラさせて首を傾げる。
「ラヴィが知らない、見たこともない世界、ということさ」
へらへら勿体つけていないで、さっさと言え。
「もしかして、大きな夜会かしら? お金持ちの貴族さまですもの、きっとそうだわ」
「まあ、夜会といえばそうかな。でも、普通とは違うんだ」
「どう違うのでしょう。想像もできません」
「だろう? なにしろ招待客全員が、顔に仮面をつけるんだから」
「あら、仮面舞踏会?! 素敵ですね! 物語の中のようだわ!」
「ダンスなんて退屈なものだけじゃないよ。あまり大っぴらには言えないゲームもあってね……大人の秘密の社交場、とでも言えばいいかな」
大っぴらには言えないゲーム……賭博だろうか。
ラヴィははしゃぎながら、大急ぎで頭を働かせた。この絶好の機会を見逃すわけにはいかない。
「それは確かに、わたしの知らない世界ですね……わあ、憧れてしまうわ」
うっとりと夢見るような吐息を漏らすと、ルパートは唇の端を上げた。
「ラヴィも来るかい?」
「いいのですか?!」
食い気味に声を上げると、ルパートは「本当はダメなんだ」「招かれる客は貴族の中でもごく一部だけ」「そもそも平民が屋敷に足を踏み入れたことはない」「まあ、僕が特別に計らってあげれば、できなくはないけどね」とさんざん気を持たせてから、ようやくピラリと封筒を取り出した。
そろそろと手を出したら、触れる直前で、パッと引っ込められてしまう。
ルパートがラヴィと目を合わせ、にやりと笑った。
「……必ず一人で来るんだよ、ラヴィ。それと、このことは誰にも内緒だ。親には、女友達のところに泊まるとでも言っておけばいい。平民はそのあたり、うるさくないんだろう? 僕の屋敷に来たら……判ってるよね?」
右手で封筒を持ったまま、伸びてきた左手がラヴィの手を握る。指の腹で甲を撫でられ、全身に鳥肌が立ったが奥歯を食いしばって耐えた。
──これは間違いなく、シリルが喉から手を出るほどに欲しがっていたものだ。
七年かけて模索していた、アドキンズ伯爵の罪を暴くための第一歩。
何度探りを入れてみても、ルパートの話からは大した情報は得られなかった。聞けたのは、自慢と虚勢と下品な冗談くらいである。
きっと伯爵も息子の口と頭の軽さを警戒して、何も教えていないのだろう。それがここに来て、一気に敵の本拠地に入り込めるというのだ。
もちろん、「一人で」という言葉に、迷いや躊躇が生じなかったわけではない。
行くところは、黒い噂が絶えないというアドキンズ伯爵の屋敷だ。まるで魔窟に足を踏み入れるような恐怖もある。そのようないかがわしい夜会に招待されるような客だって、きっと真っ当な人はいないだろう。
実行にはかなりの危険を伴う。果たしてラヴィに微笑むのは、天使か、それとも悪魔か。
ルパートの粘つくような視線から逃れて、ふらりと目を動かしたら、店のガラス窓の向こうに、見慣れた人の姿を見つけた。
建物の陰からこちらを伺い、ひどく険しい顔をした、シルバーグレーの髪の青年。
それを目にした瞬間、心が決まった。
「ええ、もちろん判っています、ルパートさま」
にっこりしながら自分の手を引き、そのままルパートの右手から封筒をするりと抜き取る。
「今から楽しみで楽しみで、夜も眠れませんわ」




