かつての少年
シリルの話が終わっても、ラヴィはしばらく口を開くことができなかった。
父親のオルコット伯爵を亡くしてから、シリルはきっと大変だっただろうとは思っていた。しかし彼の話は、自分の想像を軽々と超えてはるかに壮絶だった。
抑えた口調で淡々と語られた内容は、これでも最低限でしかないのだろう。おそらく、実際のところはもっと屈辱的なことも、苦痛だったことも多くあったに違いない。
けれど、それは自分が踏み込んでいい領域ではないと、ラヴィはぐっと言葉を呑み込んだ。きっとシリルもそれは望んでいないはず。
彼にとってこの話は、あくまで本題に入るための前置きに過ぎないのだから。
「宿願、というと」
ようやくラヴィが問いかけたところで、店主が両手に料理の皿を持ってやって来た。彼が注文の品を次々とテーブルに並べている間、二人して口を噤む。
シリルは目を壁のシミに向けて口元に手を当て、これから話さねばならないことと、自分の心のほうを整理しているようだった。
なるべく追憶に引っ張られないように。
「──子爵家にいた間」
店主がまた厨房に戻ると、シリルはぽつぽつとした調子で話を再開した。
「俺はできるだけ情報を得ようと躍起になっていた。伯爵家に勤めていた使用人たちは全員辞めてもらったが、最後までいてくれた執事が、ぽろっと『旦那さまが、持ちかけられた投資話に乗りさえしなければ、こんなことにはならなかった』と俺に漏らしたからだ。考えてみれば、それまでまったく興味のなかった父が、いきなり投資を始めるなんておかしい。それについての知識だって大してなかった。だとしたら、誰か第三の人物が介在していたはず。父はその誰かに嵌められたんだと、俺は確信した」
だからラヴィとの別れの時も、「父は悪い人に騙されて何もかもを失った」と言っていたのだ。
子爵家でこき使われる傍ら、シリルは自力で調査を開始した。管財人に連絡を取ってすべての書類に目を通し、父親の知人友人に片っ端から手紙を書いて、何か知っていることがあるなら教えてほしいと頼み込んで。
「一時期、父がしきりと誰かと会っていたようだとは、母も言っていた。ただそれがどこの誰で、どんな話をしていたかまでは判らない。父は、母には社交のことだけ任せて、それ以外のことは何も教えていなかったんだ」
領地のことも、オルコット家の懐事情も。
「おそらく俺が寄宿学校へ行っている間、伯爵家の財政は徐々に苦しくなっていたんだと思う。しかし父は、そのことを俺にも母にも必死に隠していた。気づかれまいとしてか、家計を切り詰めることもしなかったから、母は父が亡くなる前日まで、次に仕立てるドレスはどんなデザインにしようかと考えていたそうだよ」
シリルは苦笑した。
ディルトニア王国内では、貴族は年々弱体化しつつある。爵位が高くても金銭的に苦しくなることは珍しくない。そういう場合、大抵は貴族の誇りをなげうってでも平民の商人に頭を下げ、金を借りたりするものだが、オルコット伯爵はどうしても、それだけはできなかったのだ。
自分でなんとかしようと焦り、詳しいわけでもないのに差し出された怪しげな投資話に乗って、逆に破滅への道を進んでしまった。
「何もお力になれず……」
しゅんとして頭を下げかけたラヴィを、シリルが手を上げて止めた。
「父は決してラヴィの父上を信用していなかったわけじゃないんだ。ただ、『貴族』という鎖に強く縛られすぎていた。つまらない自尊心なんてさっさと捨てていればよかったのに、そうしなかったのは父の罪だ。自分だけ逃げてしまったことについては、俺はまだあの人を許していない」
突き放すようなことを言って、目を伏せる。
「でも……父一人だけに罪がある、とも思っていない」
テーブルの上にあった手が拳になって握られた。今までずっと淡々としていた声に、隠しきれない怒りが滲んでいる。
「偽りだらけの投資話を持ちかけて父を騙し、伯爵家の財産を根こそぎ掠め取っていった誰かがいる。しかしそいつはひどく狡猾で用心深く、自分の痕跡をほとんど残していかなかったから、見つけ出すのは容易じゃなかった。結局、俺がその人物を特定するまでに、五年以上もの月日がかかってしまった」
それが、アドキンズ伯爵だったということだ。
「伯爵本人に接近するのは難しく、その息子のルパートに標的を変えて、さらに時間を費やした。だけど何年かかってもいい、俺はどうしても、あいつに罪を償わせたい。父が亡くなってから、ずっとそればかりを考え続けていたんだ」
その途中で母を亡くし、たった一人で。
──あの男が手を染めた悪事のすべてを陽の下に明らかにして、相応の処罰を受けさせたい、とエリオットにも言っていた。
「それは、法の裁きを受けさせたい、という意味なのでしょうか」
「そう。アドキンズ伯爵には他にもいろいろと黒い噂があってね。それらをまとめて法廷の場で本人に突きつけてやりたいと思っている」
「……ご自分の手で復讐したいとは、思われなかったのですか?」
少しためらいがちに問いかけたのは、ラヴィならきっとそう考えるだろう、と思ったからだ。
相手は、父を自死に追いやり、自分と母を苦しい境遇に突き落とした人物である。その男のせいでシリルは平和な日々を失い、約束されていた将来も失って、虐待めいた扱いをされても黙って耐えるしかなかった。倍にしてやり返したい、せめて同じ思いをさせてやりたいと願うのは、人として当然の心理なのではないか。
「まったく思わなかったと言えば、それはもちろん嘘になるけど」
そこでシリルのまとっていた空気がふっと和らいだ。
固かった顎の線が緩み、わずかに口角が上がる。
「……そんな時はいつも、ラヴィの顔が浮かんで」
「え、わたしですか?」
まさかここで自分の名が出てくるとは思わなかったので、ラヴィはびっくりした。
「うん。父上の商会を乗っ取って秘密組織を立ち上げ、俺に代わって悪人を懲らしめてやるんだ! と勇ましく宣言した、小さな女の子の顔をね。その時のラヴィの真剣な顔と突飛な台詞を思い出すたび、どうしても笑いが込み上げ……いや、冷静さを取り戻して」
今、言い直しましたね?
「どんなに惨めで悔しくても、アドキンズ伯爵への憎悪が湧いても、ラヴィにそんなことをさせたらいけないな、と思うとなんとか気持ちが落ち着いた。汚い手を使って伯爵を陥れるような真似をすれば、今度は俺自身が『悪人』になってしまう。ラヴィに軽蔑されるような人間にだけは、成り下がりたくなかった」
「軽蔑なんて……わたし、そんな立派な人間じゃありません」
ラヴィはおろおろしながら反論した。
シリルは少し、昔のことを美化しすぎていないだろうか。ラヴィはそれほど「正しさ」にこだわる潔癖な人間ではないし、多少汚かろうがなんだろうが、場合によっては手段よりも目的を優先させるのはアリだと考えている。
「いや、これは俺の内面の問題だから。……小さなラヴィは、あの頃の幸福な思い出も含めて、俺に残された唯一の宝物だったんだ」
「宝物……」
その言葉に、じわりと熱いものが胸に込み上げた。
ラヴィは、シリルと過ごした二年のことを、「宝石」だと思っていた。美しく輝いて、時に取り出しては磨き上げ、そのたびに心が満たされる、そういうものだと。
──シリルも、似たようなことを思っていたのだろうか。
あの頃の記憶と思い出を、大事に自分の中にしまっておいてくれたのか。
だとしたら、それだけで、小さなラヴィの恋心はきっと報われる。幼かった自分の、愚かだけれど一途で全力な想いは、無駄ではなかったと思うことができる。
「だから、君にはこれ以上この件には関わってほしくな──」
「判りました、シリルさま! なんとしても伯爵に罪を贖わせましょう! わたしも頑張ります!」
「聞いてない……」
力強く言ったら、シリルが片手で顔を覆って天を仰いだ。
「そうとなったら、まずは力をつけないといけませんね! 冷めないうちにお食事をいただきましょう。わあ、美味しそう!」
顔を覆っていた手を外すと、シリルは改めて苦々しい表情になって、フォークを持ったラヴィに厳しい目を向けた。
「ラヴィ、真剣に聞いて」
「わたしはいつでも真剣そのものです」
「今日はそれを言うために、君を呼んだんだ。ずっと距離を取っていたのは、どうしてもラヴィを俺の事情に巻き込みたくなかったからだ。アドキンズ伯爵は、君が思うよりもずっと危険な人物なんだ。もしもやつに目をつけられたら、どんな形で利用されるか判らない。俺は自分以外の誰もこの件に関わらせたくないし、誰に何を言われてもずっと一人のままでいいと考えていた。特にラヴィは……団長には俺からもう一度話すから」
「そういえば、シリルさまは本当は、いつからわたしのこと気づいておいでだったんですか?」
ころっと方向を変えて訊ねると、シリルはわずかにたじろいだ。
「それは……その、最初から」
「公開演習の後、わたしがシリルさまを呼び止めた時ですか?」
「ああ。背が伸びて、手足もすらっと長くなっていたが、こちらをまっすぐ見つめるその栗色の大きな瞳は昔のままだったから、すぐに判った。……ずいぶん綺麗な女性に成長していて、驚いたよ」
最後の言葉は、少し目を逸らしながら、もごもごとした口調で付け加えられた。あの時のツンケンした態度からは想像もできないその感想に、ラヴィのほうこそ驚いた。
いや、あれもシリル、これもシリル、ということなのだろう。「孤高の冬狼」と呼ばれるくらい完璧に冷たく振る舞える面もあれば、女性に対する社交辞令として褒め言葉を忘れない紳士の面もある。
ああそうか、とラヴィは今になって実感した。
現在ここにいるのは、昔とは外見も一人称も変わり、ラヴィの知らないところで様々な経験を積んだ「大人のシリル」なのだ。
長身になり、肩幅が広くなり、手だってラヴィの倍くらい大きい。顎が尖り、全体的にごつごつして、目には鋭い光を宿すようになった。
ラヴィが一生懸命追いかけていた、美しい夢と希望を抱き純粋な目をした「少年」は、もういなくなってしまった。
シリルにはシリルの過去がある。ラヴィと離れていた七年、彼は世界の厳しさと非情さを知り、人の醜く無慈悲なところを見てきた。その間つらいことが多かっただろうが、それもまた今のシリルを形づくる貴重な時間であったはず。
そのことを無視して、子どもだった頃の面影をそのまま現在の彼の上に被せてしまうのは、ひどく身勝手で失礼なことに思えた。
出かける前、アンディと交わした会話を思い出す。
やっぱりこれは必要な作業だった。ラヴィがいつまでも過去をずるずると引きずらないための。
「判りました。では、その件についてはもう何も言いません。本題に戻りましょう」
「いや、俺にとってはこちらが本題……」
「アドキンズ伯爵の黒い噂というのは、具体的にはどういうものなのですか?」
ずいっと詰め寄ると、シリルは深く大きなため息をついた。
「ラヴィ、もう一度確認するけど、この件から手を引く気は……」
「毛頭ありません」
きっぱり言いきると、もう一つため息を追加し、がっくりとうな垂れた。
「ああもう……本当にイヤだ。イヤだけど、これ以上撥ねつけると、ラヴィが次に何をしでかすか判らなくて、そっちのほうがよっぽど怖い……」
髪に手を突っ込んでくしゃりと掻き回し、ぼそぼそ呟く。シルバーグレーのサラサラな髪が乱れてしまいますよ、とラヴィは心配になった。
「シリルさま、お料理、食べません?」
「うん、そうだな……」
もう一度促すと、シリルは渋々のようにテーブルの上の皿に手をつけ始めた。
「──アドキンズ伯爵の黒い噂は、いくつかある。詐欺、脅迫、汚職、脱税……しかしどれも確たる証拠がない。その中でも、俺が重点的に調べていたのは」
やっと観念したと見えて、ゆっくりとナイフで肉を切り分けながら、シリルがラヴィの問いに答え始めた。こんな場末の店でも、彼の手つきはさすがに洗練されている。
「伯爵が手掛けている事業の中に薬の輸入があるんだが、どう考えてもその収支が合っていないようなんだ。まあ、その資金源になったのも、おそらく出所は怪しげなものばかりなんだろうが……それらを暴く最初の取っ掛かりとしても、まずはその金の動きを押さえたいと考えている。ラヴィ、今もキイチゴは好き?」
「はい、大好きです。薬、ですか?」
「そう。他国から取り寄せるしか入手方法がない、というもので……それを扱えるのはごく限られた一部のみだ。伯爵はその一部のうちに名を連ねていて、登録も問題なくされているんだが、どうも『儲けすぎ』という感じがしてならない。……ここのキイチゴ水は少し酸味があるが旨いんだ、飲んでみて」
「ありがとうございます。そうですか、他国から……」
ラヴィは勧められたキイチゴ水に口をつけながら、首を捻った。
……なんだか、それとよく似た話を聞いたことがあるような。
「希少な薬だから、仕入れられる量は決して多くない。しかしどう考えても、その数倍は売りさばいているように思える。偽物を混ぜているんじゃないかと俺は疑っているんだが、それにしてはどこからも被害を訴える声がないというのもおかしい。その薬についてもっと詳しく知りたいと思っても、遠方の異国、しかもある地域でしか原料が採れないものらしくて──もっと他に頼もうか。甘いものはあったかな」
「いえ、もう十分です。それよりもシリルさま」
「ん?」
「もしかしてその薬とは、『竜の血』ではありませんか?」
その名を出すと、難しい顔でメニューを吟味していたシリルは、ぴたりと動きを止めて大きく目を見開いた。
「驚いた……知っているのか? ディルトニア国内ではあまり出回っていない薬だから、そんな名前すら聞いたことがないという者が大半なのに。ニコルソン商会では薬は扱っていないはずだろう?」
「やっぱりそうなんですね」
ラヴィは考えながら、うんうんと頷いた。
クレアが飲んでいた「竜の血」。こんなところで出てくることになろうとは思ってもいなかった。世間は広いようで狭い。
「でしたらやっぱり、シリルさまは、わたしにその話をして正解でしたよ」
にっこりしながらそう言うと、シリルは「は?」と戸惑う顔になった。
「アドキンズ伯爵が売っているのはたぶん、『竜の血』ではなくて、『魔女の血』のほうだと思います」