記憶と思い出
ルパートと呼ばれた男性が、彼の顔を見て、なんとなく忌々しそうに眉を寄せる。
近づいてきたシリルはこちらを一瞥すると、ルパートの腕を掴んで少々乱暴にラヴィから離し、「こちらへ」と引っ張った。
判りやすくふてくされた顔をしたルパートが、シリルの手を腹立たしそうに振りほどく。イタズラを見つかって親に連行されそうになり反抗する、子どものような態度だった。
「口を出すなよ、シリル。生意気な」
「そういうわけにはいきません」
どうやらこの二人は、ある程度親しい間柄のようだ。眉を吊り上げるルパートと、冷然とした口調を崩さないシリルを見るに、お互いの間に友情や好意が存在するようにはとても見えないが。
「僕が何をしようとおまえには──」
「こんな場所で問題を起こしたら──」
二人はラヴィから少し距離を取った場所で、声を抑えて会話をしているので、細かいところまでは聞き取れない。しかしどうやら、シリルがルパートを注意、あるいは叱責しているようなのは薄々判った。
事情は知らないが、騎士団員の輪の中にさえ入ろうとしないシリルが、言ってはなんだがこんなバカ息子っぽい人物と関わりを持つのは意外だ。もしかして七年の間にシリルはすっかり不良になり、悪い仲間とつるむようになったのではないか、とラヴィは母親のような心配をしてやきもきした。
シリルさま、その男は見るからに、厄介事を引き起こすことに才能を発揮するタイプですよ! 今のうちに関係を断たないと、絶対ろくなことになりませんよ!
二人はひそひそと言い争いをしていたようだったが、眉根をぐっと寄せたシリルが「伯爵に」という言葉を出すと、ルパートはぴたっと口を閉じた。
その一言にどんな威力があったものか、彼はしかめっ面になると、ぷいっと顔を背けて身を翻し、挨拶もなくその場からずんずんと荒い足取りで立ち去った。まさしく子どもか、という感じである。
その後ろ姿を見送り、シリルが大きなため息をつく。
ラヴィは鼓動を速めた。
これはわたしを助けてくれたということよね? だったらまずはお礼を言って、それから……
だがそれらの言葉を出す前に、シリルに険しい眼でじろりと睨みつけられた。
「こんなところで何をしている」
再会してから会話を交わすのはこれで三度目だわ、とラヴィはしみじみした。その三度とも、まるで憎い仇に会ったかのような怖い顔つきと、つけつけ尖った口調と、こちらを責めるような台詞ばかりなのはともかく。
それでもやっぱりその目が向けられるのは嬉しいと思うし、自分に対して話しかけてくれているという事実に胸が上擦る。シリルに認識されるだけで、ドキドキしてしまう。我ながらちょっと手に負えない。
「これから帰るところだったのです」
「供の一人もつけないとは、不用心すぎると思わないのか」
「でもわたしはただの平民ですし……町を歩く時もお供なんてつけていませんよ」
「ここは町ではなく王城だ」
「普通に考えて、兵や騎士さまがたくさんいらっしゃって守りも万全な王城のほうが、町の中よりもよほど安全なのでは?」
ドキドキはしているが、こういう時、思ったことがつるつるっと口から滑り出てしまうのが、ラヴィという人間である。
いちいち言い返されて、シリルが思いきり渋面になった。
「……そんなことだから、『生意気だ』と言われたりするんだ」
あら? よくご存じで。
「町とはまた別の意味で王城は危険なことがあると、肝に銘じておくんだな。ここで迂闊な行動をすると、命取りになりかねない場合もある」
「はあ、でもそれって、『政治的に』ということですよね? 貴族の方々の間ではそうかもしれませんけど……」
「何を呑気なことを言っている。貴族ばかりがいる場所に平民が混じることの意味を、君は軽く考えすぎだ。大体、男ばかりの騎士団詰所に若い女性一人がうろうろすることからして、どうかしている。連中の中には気の荒い者もいるし、貴族の価値観にどっぷり浸かった者もいるんだぞ。詰所内では人の目があるから大丈夫だと考えているのかもしれないが、そこを出た後までは副団長だって目の届かないことが……」
シリルのくどくどした説教は、しばらく続いた。一旦堰を切ったら、まあ次から次へと、苦言が出るわ出るわ。よほどラヴィに対する鬱憤が溜まっていたとみえる。
その説教の半分くらいは聞き流して、ラヴィはじっとシリルの顔を見つめていた。
昔、幼い頃のラヴィが危ないことをすると、こうして真面目な顔でお説教されたことを思い出し、しんみりと懐かしくなる。
変わったところはたくさんあるが、それでもやっぱりシリルはシリルなのだ。
七年という歳月は、ラヴィがいちばん好きだった、彼の根本の部分までは奪っていかなかった。
「聞いているのか」
「もちろんです、シリルさま」
「今からでも遅くないから、許可証を返上しろ。俺からも団長に言って」
「それは無理です、シリルさま」
「……ではせめて、父上に事態の改善を頼め。護衛を雇うくらいの財力はあるだろう」
「平民娘が護衛をつけて王城敷地内を闊歩していたら、余計に反感を買うこと間違いなしですよ」
「まったくああ言えばこう言う……! このままでは君の母上だって心配するぞ! 君の家族は揃いも揃って楽天的すぎる!」
「母は亡くなりました」
ラヴィがそう答えると、シリルははっとした顔になった。
「亡くなった?」
「わたしが十三の時に。もともと病弱な人だったものですから」
それを聞いて沈鬱な表情になったシリルが、口元に手を当てた。ふらりと視線を横に流し、「ああ、そうだったな……」と呟く。
ん?
「シリルさま?」
「──なんだ」
「わたしの母が病弱だったこと、覚えていらっしゃるのですか?」
その瞬間、明らかにシリルの目が泳いだ。無表情を保とうとしたようだが、目元と口元に緊張と動揺がさっと駆け抜けるのが見て取れた。
「いや、覚えているも何も……俺は君のことは知らないと」
「でも今、『そうだったな』とおっしゃいましたよね」
「それは……噂で聞いて」
「へえ」
他の騎士団員たちと必要最低限以外ろくに接触せず、親しい仲の人もいなさそうなシリルが、どこの誰経由でそんな話を聞いたのか。
大体、ラヴィは騎士団員に自分の個人的なことなど何も話していない。まさか王城内で、平民でただの商人でもあるニコルソンの家庭内の噂話が流れていたわけでもあるまい。
「──シリルさま」
「とにかく! いいか、くれぐれも不用心な真似はするんじゃないぞ! 特にさっきのあの男には絶対に関わるな!」
ラヴィの言葉をぶった切るように遮って、シリルは一方的に話を終了させた。そのままくるっと背中を向け、走っていってしまう。
まるで、逃げるように。
「…………」
あっという間に小さくなった彼を見て、ラヴィはぐっと拳を握った。
ああそう、そうですかそうですか、そっちがその気なら。
こちらだって本気で追いかけますからね!