失敗より心配させた罰としてのお仕置きを
暗闇にガシャガシャと無機質な音が響く。
その音は自分の手の動きが大きくなると更に響き、逆に無駄な抵抗は止そうと諦めれば虚しく消えていく。
(ここはどこなんだ。)
最後の記憶は振り向いた瞬間、髪を見事な七三分けにした痩せた頬の、彫りの深い男の不気味な薄笑い。
不意を突かれるまでもなく右の脇腹に強烈な痛みが走り、ふらつく間もなく視界にその男のごつごつした拳が迫っていた。
痛む右頬に顔をしかめながら青年は薄暗い部屋を見渡す。
まだ少年と言ってもいい可愛らしい幼さが残る顔をしている。
積み上げられた段ボール箱にスーツケース、それから足元には少し曲がったタバコの吸い殻。
天井を見上げると遥か遠く高いが小さな梯子が見える。
その先に小さな窓のような長方形が光った気がした。
(まさかあんな形で見つかっちまうなんて密偵失格だな)
目を瞑りながら左の口元をピクリとさせた。
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1年3か月程前、その男は俺の前に颯爽と現れた。
不意なことから縁は生まれるものだ。
12畳ほどのオフィスで向かい合って座った。
丸テーブル越しに差し出された名刺には斜体で「間宮一成」と刻まれていた。
30代後半といったところか。
間宮はジャケットのポケットに手を入れマイルドセブンのボックスを取り出し、上蓋を開け10本程の中から1本を咥えるとその先端に火をつけた。
亮はその手つきになぜだか上品さを感じながら彼の横顔を見つめていた。
細長い指、端正な顔つき、なぜこの人が俺に声をかけてきたのだろう。
心の中を見透かしたかのように間宮が口を開いた。
「君のことは上司から聞いてるよ、僕が提案したんだ。」
スーッと通る心地の良い優しい声だ。
「悪童には悪童らしく・・・と言っちゃ怒られちゃうか。」
彼の上司というのが亮の亡き父親の麻雀仲間だった。
喧嘩は一二を争うほどの腕前ではないが何よりも頭が切れる、冷静な少年というのが亮の評判だった。
目の前の汗をかいた麦茶に手を伸ばす。
水滴が5本の指に纏わりつく。
半分ほど一気に飲み干した後、書類に目を落とし、亮はボールペンを要求した。
それから1年少し、教育係として間宮は亮に接してきた。
評判通りの少年だった。
最初は反抗的な態度を見せながらも、亮は決して頭ごなしに怒ることのない間宮を慕っていた。
18才になるのを待ったかのように、間宮は会社の意図を亮に伝え、彼を仕事に出した。
結果、完璧なまでの出来栄えだった。
これまで誰も成功したことのない闇組織のトップのシークレット音声をボイスレコーダーに納めて帰った。
亮にとって3度目の仕事の日、彼は不覚にもターゲットの仲間に見つかり、後ろから襲われてしまったというわけだった。
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運動能力には幾分の自信があった。
あとは両手首を支配しているこの鉄の塊さえ何とかなれば、いや、何とかしなければならない。
ここで食い下がれば間宮に、組織に迷惑をかけるどころか組織のこの先の運命を変えてしまうことは重々に理解していた。
視線を斜め下に落とした時、その少し先に小さな鈍く光るものを見逃さなかった。
(ガキだと思って後ろ手にされなくて助かったぜ)
決死の思いで体を伸ばし、背中がつりそうになるぐらいに足を遠くに滑らせた。
泥が付いた靴のかかと部分でようやく捕えることに成功した。
落とさないように細心の注意を払いながら左右のかかとに小さなネジを挟むと、自慢の柔軟性で難なく大きく開けた口の中まで空中飛行させる。
鍵の壊し方はこれまでの経験から熟知していた。目を瞑っていても数十秒でなせる業だ。
もっとも彼には既に少年時に何度も泥棒に入った経験がある。
一度だけ張っていた警察に現行犯で補導されたことがあった。
14歳の頃のことだ。
(間宮はそんな自分の過去の悪事を知っていたのだろうか)
ふとその後の自分の行動を模索しながら亮はそんなことを考えていた。
気が付けば必死で梯子を登っていた。
その足取りは軽く手慣れたのもだ。
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事務所のドアがやや乱暴に押し開けられたと思えばそこに泥だらけの青年が立っていた。
その眼光は鋭く、そして少し怯えた表情にも見えた。
慌ただしく電話をしていた間宮は、「やんちゃ小僧のお帰りだ」と薄笑いを浮かべながら電話相手に告げ、手早く受話器を戻した。
テーブルの上にはGPSの受信機が置かれている。
亮のズボンの内側に取り付けられた小さな機械に繋がっているのだ。
(ガキじゃねえんだよ)
そう思いながらこれから自分はどんな処分を受けるのか、考えるだけでも吐き気がするのを感じ、頭痛がした。
そんな彼にゆっくりと歩み寄り、間宮が足を止める。
ピシっとしたスーツから長い足がはみ出そうなぐらいだ。
いつもネクタイはしていない。第1ボタンまで外されているのに、だらしない印象を受けないのがこの男の不思議だ。
頬を殴られるのかと身構えた瞬間、体全体に温かいものを感じた。
体中ほこりだらけであることを気にもせず、間宮は亮の体を抱きしめた。
「無事で良かった。君は少し無茶なところがあるからね。だけど無茶が今回はいい方向に働いて今ここにいるんだろう?」
間宮が亮の両頬を挟むような形で目をのぞき込むように聞いてくるので、必然的に亮は見下ろされる形になる。
その眼には安堵の表情が浮かんでいる。
「とにかくその恰好はまずいね。部屋が真っ白になってしまう。ひとまずシャワーをしてきなさい。上には僕が報告をしておく。」
そう言いながら間宮はタオルを用紙してくれた。
「服は僕のでいいね?」
そう言いながら一度も着ているのを見たことのない白色の無地のTシャツを渡された。
間宮の身長からすると180cmはあるから、言うまでもなく大きいなと思いながら亮はシャワー室に向かった。
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「カズさん、パンツはいいからズボンねぇの?」
事務所の扉を開けながら亮は間宮に聞いてみた。
ぶかぶかのTシャツのおかげで下半身は見えないが、何だかスースーする。
脱衣所にいつも置かれている洗濯済のチノパンが今日はなかったから仕方なくこの間抜けな格好で戻る羽目になった。
間宮はソファーに座って顎のあたりを親指と人差し指で支えながら、俯いて煙草を吸っていた。
亮のほうに視線を向けると、彼はゆっくりと口を開いた。
「上からも君への処罰については僕に任せるとの指示があったよ。」
亮は内心ビクっとした。
シャワーをしてる最中も、大柄なリーゼント頭のボスたちからボコボコニされるのではないかと想像を働かせたせいでとてもじゃないがリラックスなどできなかった。
だが埃臭い体から自由になれたことは多少、彼の心に余裕を生み出した。
「まだまだ子供の君にはお仕置きが必要だね」
声のトーンを変えずに間宮が続ける。
「え、何だよ。給料カットは覚悟してるよ。」
確かにそれは免れないだろうと思っていた。
「君は組織に迷惑を掛けた。少し慣れてきて過信したんじゃないかい。」
図星だった。
だが間宮は表情一つ変えない。冷静な口調で続ける。
「僕が君を送り出す時に言ったことを覚えてるかい?」
前髪をかき上げながら間宮が聞く。
その時のやり取りを反芻し、亮は「あっ」と声を上げそうになった。
そんな亮の表情を見ながら間宮が再度口を開く。相変わらず冷静な口調だ。
「ん?覚えているのかい?」
覚えていないなんて言えるはずがなかった。
そして不覚にも任務の途中からは完全に忘れ去っていたのだ。
びくびくしながら亮は尋ねるように言った。
「常にトランシーバーで連絡を取り続けるように言われた?」
頷きながら間宮は子供を見るかのように亮の目を覗き込む。
「その約束は守れたのか?」
優しいながらも言い逃れを許される雰囲気ではなかった。
「・・・最初は守ってたけど、しなくなってた…」
吐き出すように亮は言って目の前の長身の男を見上げた。
前々から思ってはいたが、この組織の人間には相応しくないほどに洗練されたオーラを放っている。
「そうだね、僕がどれだけ心配したか分かってるの?」
呆れたような失望したような表情だった。
「ご、ごめんなさい」
信用をなくしてしまったという想いと、これまであれだけ良くしてくれていた間宮への想いが交錯した。
「心配させるような悪い子にはお仕置きだ。ちょうどお尻も出てるからね。ここにおいで。」
そう言いながら間宮は自分の膝を叩いて、腕に光る時計を外してテーブルの上に置いた。
どういうことだと思考を巡らせて目を泳がせている亮を前に、軽く笑って見せた。
「お尻を叩いて反省させないと君は僕がどれだけ心配したか分からないだろう。」
一抹の不安が的中した。
まさかこの歳になって尻を叩かれるだなんて想像もしていなかった。
突っ立っている亮の前に、仕方ないとばかりに間宮がゆっくりとやってきて亮の手首を掴んでソファーのほうへ歩き出す。
「ま、待って、それだけは勘弁してよ」
本気なのかと思いながら、この男は有言実行しかしないことを亮はこれまでの共同生活から知っていた。
細身ながらに腕を掴む力は強い。
あっという間に半ば強引に間宮の膝の上に腹ばいにされてしまった。
「や、やめて・・・他の罰だったら何でも受けるからぁぁ」
腰にぐっと押さえるかのように手が回されれ、太ももの真ん中ほどまであったTシャツが捲りあげられ、お尻が丸出しにされてしまった。
「約束も守れない子供にはお尻をひっぱたくのが一番だ。ただ・・・」
恥ずかしさとこれから起こることにパニックになりながらも、亮は言葉を濁した間宮に注意を向けた。
「君の得意の逃走でここに戻ってきたことは評価するよ。」
褒められているのか貶されているのか判断しがたかったが、おそらく前者と捉えて間違いないだろう。
だからといってこの状況からは逃れられそうにない。
身を強張らせた直後、鋭い痛みが剥き出しにされたお尻を襲った。
パシーーン ビシッッ
「いてッ・・・」
バチーーーン ピシャ――ン
容赦なく平手が振り落とされる。
乾いた音が部屋に響く。
バシーーーッ パチーーン
尻の左右を交互にぶたれ、痛みに必死に耐える。
真っ白だったお尻には指の痕が残り、ピンク色に色付いている。
叩く手を止めることなく、間宮が淡々とした、だが優しさも含まれた口調で亮に諭すように叱る。
「まったく・・・どれだけ心配したと思ってる?戻れなかったらどうなってると思ってるんだ」
パチーーン ピシャーーーン
「いたっ、だ、だってぇ…」
恥ずかしさなんてどうでもよくて、とりあえずいつ終わるか分からない痛みから逃げ出したかった。
一瞬、平手の嵐が止んだ。
尻がヒリヒリする。
「だって何だ?これだけこっぴどくお尻をぶたれてもまだ反省できないの?」
「・・・・・・」
腰を押さえる手が一段と強くなって、少し腰を浮かされたなと思ったら、更に尻が突き上がる形にされてしまった。
足を組んだ間宮は、バタバタ暴れて自分の膝から逃げようとする亮の姿を見て小さくため息をついた。
「わ、わかったから、はなして・・・もうやだ」
慌てて亮はどうにかこの状況から逃れようとするが、尻に打ち下ろされた強烈な一発に自分の立場を思い知った。
バシッッーーーー パ―――ン バチーーーーン ピシャーーーン
「何が分かったんだ?」
子ども扱いされている自分が情けなくなったが、この人には悪態をつかないほうがいいと分かっていた。
左右に振り下ろされる平手は止むことがなく、先程よりも数段痛く感じられた。
「ちょ、調子に乗りすぎた・・・こんなことになるなんて思ってなかったんだよお・・・」
「そうだろうね、もう二度と同じことをしないように、もう少し反省しなさい」
そう言い放って間宮は心を鬼にして真っ赤に染まった尻を叩き続ける。
尻が燃えそうなほどヒリヒリする。
もうどれだけ叩かれただろうか、いつになったら許してくれるのか。
亮は無言で何度も尻を打ち付ける間宮に恐怖心を抱いていた。
「ご、ごめんなさい、もう心配させるようなことしないからぁぁ…」
尻を叩く間宮の手が止まった。
「本当だね?約束できる?」
痛みと恐怖に半泣きになりながら亮は必死で頷いた。
「まったく、困ったやつだな」
そう言いながら間宮は真っ赤に染まった亮の尻を軽くポンポンと撫でた。
やっと膝から解放された。
間宮がソファーから立ち上がり、「待ってなさい」と言ってデスクのほうに向かった。
戻ってきたその手には脱衣所にあるチノパンが握られている。
「履きなさい、ただパンツはないからね」
(ズボンを脱がせる手間がないように俺をシャワーに行かせる時にはもう尻叩きの刑が決定してたってわけか)
そう思いながらも余計なことを言うと、また膝の上に引き戻されそうで黙っていた。
ヒリヒリした尻にズボンが当たって思わずうっと小さく声が出た。
「今度同じことをやらかしたら…これでぶつからな」
そう言われて顔を上げた亮の目には、木製の物差しを握って目の横に皺を寄せて笑みを見せる間宮の姿があった。
物差しを右手で握りながら素振りのような動作をしている。
手のひらでひっぱたかれただけでも飛び上るような痛さなのに、あんなもんでぶたれたら失神しちまうじゃねえか…
固まった亮の視線を落とす姿に間宮は言った。
「返事は?」
「チッ、分かったよ、もうしないから」
「ん?今舌打ちしたね?もう一度やり直そうか?」
思わず尻を両手で押さえる亮を見てニッコリ笑う間宮に、どこまでも勝てないと悟った。
「君はまだまだ子供だね」
そう言いながら2つのマグカップを持ってコーヒーを淹れに給湯室に向かった。
その足取りはいつもよりも数段軽く亮には映った。