「幼稚園児・小学生時代」
「幼稚園児・小学生時代」
僕は公務員の両親の下に生まれ、仏教系の幼稚園に入園した。後に母から聞いた話だが、幼稚園から帰ってきた後「僕は仏様の子供だったのか。僕は今までお父さんとお母さんの子供だと思っていた」と話した事があって二人を笑わせたらしい。幼稚園ではプールの時間が一番苦手だった。一メートルもまともに泳げず、父母さん達にプールの端まで行くよう言われ、溺れながら必死で移動したのを覚えている。ちなみに幼稚園児としては僕は問題児だった。何しろ遅刻の常習犯で、遅刻するのが普通という認識、一度だけ遅刻せずに通えた時は父母さんに拍手されたぐらいだ。次の日からは未だ遅刻の日々だったが。それから地元の小学校に入学した。小学校に入学してからの両親は、非常に厳しい性格を露わにした。いや、ただ厳しいと言うより虐待的と言った方が適切であろう。
学校から帰宅すればいつも宿題と、それから問題集を言われただけ行わなければ友達と遊びに行く許可が下りなかったのだが、勉強が苦手な僕に言われた量を行うのは難しく、友達と遊べる日は非常に少なかった・・と、ここまでだけ聞けば、別によくある家庭では無いかと思われるかも知れない。しかし、遊びに行けたとしても門限は午後5時だから、すぐに帰らなくてはならず、もし門限を過ぎようものなら、帰宅した瞬間に母親に居間まで手をつかまれて引きずられ、「正座しろ」と怒鳴られて正座させられ、まだ6歳や7歳の僕に何時から何時までどこに居たかを紙に書かされ、そして友人宅に時間が来たら僕を追い出してくださいと電話していた。
勉強の妨げになるゲームなど買って貰える筈もなく、小学校高学年になっても小遣いは週に70円とかだったから、友達がお菓子を買ったりゲームセンターで遊んでいても僕は基本的に見ているだけで。テレビも問題集を済ませなければ観る事が出来なかったため、ほとんど観る事無く幼少期を過ごしていた(実際は親が居ない時に多少コッソリ観てはいたが、親が帰宅してからテレビに触って熱いと言われ、結局は正座させられていた)。
そんな生活の中だから世情に極めて疎かった。当時、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こして日本中が大騒ぎになっていた時に、僕はオウム真理教の存在すら全く知らず、小学校で友達に「オウム真理教って何?」と聞くと凄く驚かれて、驚かれる様な事なのかと逆に僕が驚いたぐらいである。
仕事帰りはいつも父親よりも母親が先だったのだが、言いつけ通りに宿題と問題集を行う事は出来ないのが普通であったため、毎日の様に母親に正座させられ一時間近くは怒鳴られ続けていた。鼻水が落ちてくると非常にこしょばいのだが、怖くて動けず、その鼻水をぬぐう事も出来なかった。次第に、母親の怒鳴り声を聞くだけで腹を壊すようになっていった。
ある時、テストの点数が悪かったのがよほど気にくわなかったのか、母親に床にはっ倒されて足を何度も踏みつけるように蹴られ、更には包丁まで持って迫ってきた事があった。僕はパニック状態に陥り、足を蹴られた時は今まで経験した事が無いぐらい痛くて悶絶していたが、その痛みも忘れて裸足のまま必死で自宅を飛び出し、体力が尽きるまで走り続けた。その後、父方の爺ちゃんが乗っているタクシーに裸足でフラフラと歩いている所を発見され、保護された。
その時の僕は半ズボンをはいていたため、母親に蹴られて出来た膝あたりの大きな痣が見えていた。それで爺ちゃんに「その痣はどうした?」と聞かれたのだが、お母さんに蹴られたとは何故か言いにくく、「転けた」と嘘を付いた。爺ちゃんはそれ以上は何も聞かなかった。
僕の両親の行動は相当におかしかったが、しかし学校でも、どこまでがしつけで、どこからが虐待かを教師が教えてくれるという事も無かったため、僕の家は他の友達の家とはなんか違うな、ぐらいの認識しか当時は持っていなかった。
幼少期から両親の愛情をあまり感じなかったため、昔は両親に心配して欲しくて、何ともないのにお腹が痛いなどと言ってみたりしていたが、小学校高学年にもなるとそんな気持ちも薄れていき、ただ嫌いで怖いだけの存在になっていった。普通の子供が持つような両親への気持ちは、もう僕には全く無くなっていた。
当時の自宅は居間とリビングが繋がっていたのだが、休みの日などは居間の椅子に母親が座り、そこからリビングにある勉強机に座る僕を監視し「背筋のばせ」とか時々激励が飛んできたりして、イメージ的には親と子と言うより看守と囚人のようであった。だから普通の小学生達なら楽しみなはずの夏休みなども、むしろ僕にとっては普段よりも辛い時間だったと言えるだろう。