好きじゃないから
コケッココッコーと鶏が鳴くところからフェンザグレン侯爵家の朝は始まる。
腕のいい料理長が振るった料理をサーバントが次から次へテーブルに置いていく。
いつもは家族で食事をとるが、父母は旅行なので実質姉弟二人っきりの食卓になるはずだ。
「あれ? 義姉さんが起きてこないな。また馬をかっ飛ばしてどっかで武者修行でもやってんのかなあ」
俺はベルダルト。
フェンザクレン侯爵家の養子である。
義姉さんていうのは侯爵家の実娘のザビーネのことだ。
「お馬と愛用のハンマーはお屋敷にございますのでどこかの荒武者と殴り合いでもしているのではないでしょうか」
そう言ってくるのは俺の付き人アレンだ。
お屋敷のお嬢様に対する言葉遣いじゃないが、ザビーネ義姉さん自身が無礼を許している。
アレンだけじゃなく俺や他の使用人に対しても義姉さんはざっくばらんなのだ。
透き通るような白い肌にキラキラ輝く銀の髪、はかなげな風貌は天が作った造形美なのに、中身は俺以上に漢らしいのがザビーネという人だ。
俺は初めて見た時義理の姉に恋をしたが、「あんたが新しい弟? よろしくね! 今から夜盗をぶち殺しに行くけどあんたも来る?」と良い笑顔で言われた瞬間、初恋は無惨に散った。
俺のことを可哀そうな目で見てきたアレンは経験者らしく「ザビーネさまは初恋泥棒って言われています。被害者の会もできてますよ」と遠い目で言った。
今では仲の良い姉弟(気分的には兄弟)をやっている。
「一度出かけると満足するまで帰ってこないからなあ。一人の食卓は味気ないけどしょうがないか」
作りたてのスープを味わいながら食べた。
俺がトマトの甘みをじっくりと堪能していると急に食堂のドアが開いた。
侯爵家次期当主の食事を邪魔できる奴はそういない。
「やあベルダルト! 我が敬愛するマイロード・ザビーネはどこかな!?」
キラキラと金髪と瞳を輝かせて入ってきたのはこの国の王太子ハルティアンドである。黙っていれば厳めしそうな二枚目の色男である。
ザビーネ義姉さんを慕う姿は躾のなっていない忠犬である。さすがに駄犬と言わないのは情けだ。
「義姉さんはどっかに行ってます。帰宅も未定ですよ」
「そうか。それは残念だな」
義姉さんがいないと分かるとまともな顔になる。これがこの人の通常運転だ。
そもそも王太子が「マイロード」とか口走るのはおかしいのだが、義姉さんにぶん殴られて以来、彼は愛の鞭に目覚めた新人類なのだ。
俺もよく知らないが、義姉さんに会う前の王太子は見た目を裏切らない冷酷な人だったらしい。傲慢で冷徹な彼についた綽名が『氷結の王太子』らしいが、今の二つ名は『忠犬ハルチ公』だ。
本人も気に入っているあたり末期だなと思う。
だがこれでも優秀な軍人であり知も勇も兼ね添えた超人なのである。
見た目も完璧頭脳も完璧、剣技も完璧。欠けているのは理性だけ。
「ところで殿下、食事がまだでしたら一緒に召しあがります?」
「ああ、せっかくの誘いだが、農村部の学校建設の企画書がまだできていなくてな。落ち着いたときにでも招かれよう」
キリリと澄ました顔で断るハルティアンドは近寄りがたい美貌である。義姉がいないと彼は見た目だけ氷結王太子に戻るのだ。
「忙しいのにわざわざこっち来たんですか?」
「忙しいからこそだ。心の癒しがないと人間すぐにダメになるのさ。君もくれぐれも気を付けたまえよ」
「ご忠告痛み入ります」
俺が深々と頭を下げた時である。
耳をつんざくような声が聞こえた。
「キャアアアア!!!」
「あの声はザビーネの付き人、リーテラの声だっ!!」
「どうしたんでしょう!! 義姉さんがクマでも背負って窓から帰って来たんでしょうか!?」
王太子は俺の問いに応えず、恐ろしい速さで食堂を出て階段を駆け上がった。さすが現役軍人はスタミナが違う。
俺はやや遅れて現場に駆け付けた。
王太子が扉を開けてリーテラの名をを呼ぶ。
「どうしたんだリーテラ!!」
王太子が叫ぶとリーテラは青ざめた顔をこちらに向ける。
常に冷静な彼女らしくなく、俺は冷や汗が流れる。
リーテラは俺たちに向かって悲痛な声を上げる。
「お、お嬢様が……お嬢様が針仕事をなさってるんですっ!!!」
「なるほど!! 針千本飲ますという東国の武術だな!?」
王太子は目をキラキラさせて叫ぶ。
「いえ殿下! 鍼灸師という東国に伝わる戦闘民族の技かもしれませんよ! 人体にいくつもの針を刺すという恐ろしい技!!」
俺は昔読んだ文献から答えを導き出した。義姉さんならば飲ますよりも刺す方が好きだろう。
「違います!! ご覧の通りです!!」
泣きそうな声でリーテラが叫ぶ。
彼女の視線の方向を見るとブルブルと怯えた目をするはかなげな美女がいた。
見た目こそ義姉さんだが、俺たちに向ける視線は折檻を恐れるいたいけな少女のようでもある。
「ねえさ……ん?」
俺が呼ぶと義姉さんはビクっと体を跳ねさせた。淡い緑の目を涙で潤ませ、掠れそうな声で言った。
「ごめ……ごめんなさい。まだ縫えていないの……」
怖いものから逃げるように義姉さんは目をぎゅっとつぶって身を縮こませた。
ガタガタと震える体、頭を守るように突き出した両腕。どう見ても日常的に折檻されている人間の反応である。
つまり、この場に義姉さんに針仕事を言いつけた恐ろしい何かがいることになる。
「王太子殿下。義姉さんに何かしました?」
「いいや。むしろ私がされる方を望む。君の方はどうだ?」
「ですよね。俺は義姉さんに何かできるほど命知らずじゃないです」
俺が答えると王太子殿下も納得したように頷いた。
「ということはリーテラ?」
「心外です!! お嬢様命の私が酷いことをするはずがないでしょう!!」
彼女が目を吊り上げて怒った。
だが、リーテラの怒鳴り声に義姉さんは身を震わせて怯える。明らかに異常だ。
「義姉さん落ち着いて。俺の名前は分かる?」
もしかして頭でも打って人格まで変わってしまったのかもしれない。
うずくまっている義姉さんの視線に合うようにしゃがんでゆっくり聞いてみた。
「……ベルダルト様」
か細い声で紡がれるセリフにベルダルトは鳥肌が立った。胸がぎゅうと鷲掴みにされたように苦しくなる。
「ベルダルトでいいよ。義姉さん。俺はあなたの弟だもの」
くすぐったくなるような感情に揺れ動きながら、俺の声は妙に上ずる。
だが、王太子がせっかくのコミュニケーションをぶち壊しに来た。
「私は婚約者だ!!」
「殿下はちょっと黙っていてください」
「ハイ」
心なしか垂れた尻尾と耳が見えるが、これが王太子の通常運転である。
「あれは気にしないでいいからね。でさ、さっき針仕事をしていたみたいだけどどうして?」
鮮やかなピンクのドレスに色鮮やかな花の刺繍が施されている。見覚えのない布地だが、かなりの質の良さである。
「あの……お義母さまに頼まれて」
オドオドしながら小さな声で義姉さんが答える。
「母さん? 今旅行中なのに?」
そもそも母さんが義姉さんにこんな頼みごとをするなんて信じられない。頼むとしても力仕事だろう。
理解不能に陥って混乱していると王太子が口を出した。犬モードでなく氷結王太子モードでだが。
「君のニュアンスが気になる。『お義母さま』ということは血縁関係がないのか?」
「お父様の再婚相手ですので」
悲しそうに義姉さんが俯く。
沈む義姉さんの顔はこの世のものとは思えぬほど哀れで美しいが、父母は健在である(俺にとっては義理だけど)。
「お父様ってフェンザグレン侯爵ボマルダードだよね? 奥方はメリティア」
「え、ええ……なぜベルダルト様がわたくしのお母さまの名前を知っているの?」
義姉さんは目を見開く。淡い緑の瞳に俺が映って幻想的できれいだった。
俺が義姉さんに見とれていると王太子のまともな声が響く。
「君の話を総合するとパラレルワールドから来たみたいだな」
「パラレルワールド?」
俺が首をひねると王太子は丁寧に教えてくれた。
「早い話が、こことは違う世界の住人ということさ。世界はミルフィーユみたいに層になっていて何かがちょっとずつ違うらしい。彼女がいる世界はとても悲しい世界なんだろう」
「なるほど……って、それなら義姉さんは彼女と入れ替わっているってこと?」
「おそらく」
王太子の顔が険しくなる。
そうしていたら文句なしの美男子だよアンタ。
「なんにせよ義姉さんはこのままにはしておけないね。おいで、俺と一緒に貴族の暮らし方を覚えよう」
しぐさを見るにおよそ貴族としたの扱いをされていなかっただろう。
とまどうザビーネを安心させるように微笑む。
「大丈夫。俺がいるから安心して」
それから俺はザビーネに手取り足取り色んな事を教えた。
俺がフェンザグレン家に迎えられたとき、義姉さんがしてくれたのと同じように。
カトラリーの使い方、食事の仕方、あいさつの仕方。
はじめこそ恐る恐るだったザビーネだがしだいに俺に心を開き、笑いかけてくれるようになった。
彼女はベルダルトのために得意だという焼き菓子を作ってくれた。香ばしくて口に入れるとホロホロ溶けていくクッキーはとても美味しくてベルダルトは泣きそうになった。
「美味しいよ」
俺がそう言うとザビーネは淡い緑の目を俺に向けた。
「ベルダルト。ありがとう。わたし、あなたが好き」
はにかみながら恋心を伝える彼女にベルダルトは首を振るしかできない。
「ごめんね。その思いには答えられない。でも俺は家族としてあなたが好きだよ」
俺の答えにザビーネは双眸からぽろぽろと涙をこぼし、「ごめんなさい」と一言だけ置いて部屋に戻っていった。
「罪な男ですねえベルダルト様。あんな可憐な女性に求愛されたんですからもっとこう、言い方ってものがあったでしょう」
アレンが開いた扉からひょっこり顔を出す。
「期待を持たせるだけムダだよ。だって彼女はいつかは戻っていく存在なんだからさ」
「でも今のザビーネさまはベルダルト様の好みでしょう?」
図星を指されて俺は言葉に詰まる。
アレンの言う通り、壊れた初恋が息を吹き返したようなときめきに胸を焦がしている。俺だって今のザビーネは好きだ。
俺が黙りこくるとアレンは神妙になって気づかわしそうにチラチラ見てくる。
「気にしてないからそんな顔するな。鳥でも猫でもいずれ野生に返すならそれ相応の態度が大事だろ?」
「あんな可憐な方も野鳥扱いなんですね……血がつながってないですけど姉弟そっくりですねえ」
アレンが笑うのにつられて俺も笑う。
久々に馬鹿笑いをした気がする。
しばらくしてバタバタと騒がしい足音がした。
「あーいた。ねえ、あんたあたしのベルダルトでしょ?」
力強い懐かしい声が響いて俺は胸がはじけそうになる。
後ろを向くと銀髪緑眼の気の強そうな美女が仁王立ちしていた。
「義姉さん?」
俺が聞くと義姉さんは不敵に笑った。
「やっぱりあたしのベルダルトが一番だわ!」
がばっと義姉さんが俺を抱きしめる……力が強すぎて背骨が折れそうだけれど嬉しくてうれしくてたまらない。
「お帰り義姉さん」
「ただいまベルダルト!」
久々の再会を喜び合い、これまでのことをお互い話した。
向こうの世界でいろんな人間をぶちのめしてきたらしい。横暴な継母を物理的に凝らしめ、調子に乗った使用人を愛の拳でぶちのめしてから追い出し、信頼できる人間で屋敷を固めたらしい。
ザビーネが戻っても問題なく過ごせそうで良かった。
「さすが義姉さん。異世界でも無双ぶりは健在だね。他に変わったことは?」
「そうねえ。あっちの世界の氷結王太子は仕事できな過ぎて国中が腐敗しきってるのよ。この国が住みよいのもハルティアンドが頑張っているおかげなのね」
感心するように義姉さんは言う。
ハルティアンドの話をするとき、義姉さんは凛々しい顔を少しだけ赤らめる。王太子もリーテラだって知らない癖だ。
「義姉さん。もうすぐ王太子殿下と結婚式だね」
「……うん!!」
嬉しそうに元気に笑う義姉さんはおしとやかでなくても世界一綺麗だ。
義姉さん俺はね。
好きなんじゃない。
愛しているから、恋心に蓋をする。
「義姉さん結婚おめでとう!」
幸せになって!
あなたの弟より、心からの愛を込めて。