第二話 恋慕~貴女に絡みつく~
この作品は月光フィロソフィア、第二話です。まさかの9000文字以上になり非常に驚くと共に、一話との差が酷いなと思ってます(それでも削ることが出来ませんでした)今回一枚だけ挿絵を入れてみました。それも含めてお楽しみ頂けると幸いです。
用語解説(というより豆知識)
銭湯:当時は自宅に風呂をもつ家は少なく、人々は銭湯に通っていた。一日に何回も入る人が多かった。また、浴槽は蒸気が漏れぬように窓がなく、入口もくぐる為の狭い口(ざくろ口と言う)しかなかったので、中は真っ暗。
涼しい風が頬を撫でる。月を見上げたまま何も言わない惺窩、これ以上言葉を続けられない羅山。二人の間に沈黙の時間が流れた。
「⋯⋯そろそろ帰るとしようか」
沈黙を破ったのは惺窩の方だった。羅山は首だけを縦に振り、惺窩に続いて路地裏を出た。
丁度その時だった。
「みーつけた」
突然、背後から耳元でささやかれた。羅山は絶叫し、ばっ、と振り返った。そこには見慣れた姿が立っていた。
「あ、闇斎くん」
少年は、お久しぶりです、とお辞儀した。
彼は山崎闇斎。おっとりした十六の少年だ。ここ最近は江戸を出て、地方へと旅に出ていた。
「いつの間に後ろにいたの?」
「ちょっと前に。姿を消して近づいたんだ」
そう言うと、闇斎は一瞬にして消えてみせた。
「凄い!そんな手品も出来るんだ。仕掛けが全然分からないや」
闇斎は再び姿を現し、少しだけ照れた。
「良く己れ達の場所が分かったな」
「さっきの事件を野次馬してたら立ち去るのが見えたので、こっそり付いてきたのです」
すると、闇斎は何かを思いついた様に手をぽん、とついた。
「これから銭湯に行く予定なんですけど、一緒にどうですか?」
「行こう」
問に対して惺窩は即答した。早っ、とツッコミながらも、羅山も断る理由が無かったのでついて行くことにした。そこで惺窩がこっそりと羅山に耳打ちした。
「⋯⋯羅山くん。事件の話はもうしないからね」
「⋯⋯はい」
この時間の銭湯は混みあっている。その上湯気がこもり、ぼんやりとしか人を見ることが出来ない。なので、あちこちから足を踏んではすいません、腕が当たってはごめんなさい、と聞こえてくる。三人はそんな中を通り、ようやく湯船に浸かった。
「あー生き返る」
「やっぱり江戸の銭湯が一番だなー」
三人は各々気を休めた。
「闇斎くんがいてくれて良かったよ。明るい湯船に浸かれるのは闇斎くんの隣だけだからね」
そう言う惺窩の周りには、蛍のような無数の光玉が浮いている。これは闇斎が手品と称して浮かせているもので、湯船に浸かる時は必ず披露している。真っ暗な湯船を明るくできるのは彼だけ。故にここら一帯では、ちょっとした有名人なのだ。
「ところで、旅はどうだったの?」
「死にかけたこともあったけど、やっぱり楽しかったな。あと、途中で偶然にも益軒さんに会ったよ」
「益軒さんに!?凄い偶然!」
この益軒という人物は、三人の共通の知人である。江戸に家を持つのだが、好奇心旺盛な為、常に旅に出ている。普段は手紙が送られてくるのだが、実際に会うのは一年に一度あるかないか位である。旅先で出会えるのは奇跡。
「益軒さん元気だった?」
「うん。しばらくしたら江戸に帰るって」
「益軒くんに最後会ったのいつだってけ?」
「確か⋯⋯二年前ですね。早く会いたいな」
三人はしばらくして帰路につき、闇斎は羅山宅に泊まることになった。夕食を終えて早々に闇斎は床につき、残った二人は取り留めのない会話をしている。
「羅山くんって恋愛感情あるの?」
「急に何ですか⋯⋯?」
「普段そう言う話しないから」
唐突に始まった恋情話に少し戸惑う傍ら、羅山は事件の真相をもう一度聞こうか聞かまいか葛藤していた。
先生は押しに弱い。今までも粘り強く尋ねれば大抵の事は教えてくださった。けれど
――知らない方が良いよ
惺窩の言葉が過ぎる。羅山は無意識に首を横に振った。それを惺窩は見逃さなかった。
「恋愛感情無いの?」
「はい?」
「⋯⋯まあ、人それぞれだから。頑張れ」
それだけ残し、惺窩は自室に戻った。
「何で哀れみの目を向けるんですか!?私にも恋愛感情ありますから!!」
翌朝、羅山は遠くの鶏の声で目が覚めた。先が色んな方向にはねた長髪を一つに束ねて、居間へ向かった。居間には先に起きた闇斎が今朝買ったであろう瓦版をじっと読んでいた。
「おはよう闇斎くん。何か事件でもあった?」
「⋯⋯『若月屋』のやえさんが行方不明だって」
「『若月屋』って、闇斎くん常連のお茶屋の!?」
「うん」
瓦版によると、昨日の朝、自室で寝ていたはずの娘『やえ』がパタリと消息を絶ったそうだ。その前日までは全くおかしな素振りは見せず、普段通り看板娘として働いていた。しかし翌朝になり女将さんが娘の部屋を開けると、布団がはがれたまま、娘の姿は何処にもなかったそうだ。両親は悲しみに暮れており、しばらく『若月屋』は休業するとの事。
闇斎は悲しみを浮かべている。慣れ親しんだ店の娘が突然いなくなったのだから当然だ。
そこへボサボサの髪を掻きながら、惺窩が居間に入ってきた。
「おはよ。何かあったの?」
「『若月屋』の娘さんが⋯⋯」
羅山は瓦版に記されていた事を話した。全て話し終えたところで、惺窩が口を開いた。
「駆け落ちの類だろうな。茶屋の娘なら良くあることだ」
惺窩の言う通り、この時代には駆け落ちや誘拐で思いをとげることが多くあった。中には心中により来世で結ばれようとする者もいた。
すると闇斎が次の頁である事を見つけた。
「朝顔⋯⋯」
続きにはこうあった。
娘が寝ていた枕元には、朝顔が一輪だけ置いてあった。母親によると、娘には毎日のように恋文が届くのだが、その中に一つだけ毎回朝顔が同封されてるものがあった。朝顔の花言葉は『愛情』。一際娘に思いを寄せていたのだろう。犯人はその手紙の送り主とみられるが、名が記されていない為、身元不明。
「随分洒落た事する奴だな」
「朝顔⋯⋯あっ、犯人分かったかも」
「うそっ!?」
闇斎は二人に説明した。
「常連客の中に人一倍やえさんを口説く男性がいまして、その人は毎日茶屋に通ってました。僕も行く度に必ず見かけます。やえさんの方はちょっと嫌そうで、口説き文句は適当に流してました。そしてその男性は言葉と一緒に必ず朝顔を差し出してました。なのでその男性の仕業だと思います」
そういう方法もあるのか、と羅山は感心ながら闇斎の見解を聞いた。闇斎が一通り話し終ったところで、惺窩が疑問を投げた。
「その男が言い寄っているところを両親や他の常連客は目撃してる?」
「はい。ですがやえさんに言い寄る男性は沢山いますので、御両親や常連さんも日常の一環として軽視していたのでしょう」
「ふむ。では、男に他の異常行動は見られた?」
「恋文と口説き以外⋯⋯そういえば、僕が旅出る前日、他の男性がやえさんに言い寄ってると男が乱入してきて喧嘩になってました。それも暴力沙汰」
「凄い執念だね⋯⋯」
「その場は何とか収まりましたが、男はしばらく出禁になりました」
そこまで聞いた惺窩がある決断を下した。
「助けに行こう」
羅山は目を丸くした。先に記した通り、この御時世、誘拐なんて良くあること。それを深追いする者は先ずいない。被害者を連れ戻そうなど考えない。羅山には理解出来なかった。だが、闇斎は違った。
「行きましょう」
二人は頷き合った。
「ちょっと待ってください!二人とも本当に探すのですか!?」
羅山の問いに惺窩が答えた。
「当然だ。嫌がる娘を連れ去るのは勝手がすぎる。それに」
一瞬ちらっと目線を闇斎に向けてさらに続けた。
「闇斎くんは娘に気があるようだ」
それを聞いた闇斎はあやふやな言葉で否定した。頬は少し赤みを帯びてる。そういう事ならと羅山はしぶしぶ納得した。
「という訳で、留守番よろしく」
その言葉にまたも羅山は目を丸くした。
「え、私置いてかれるのですか?」
「少々危険な香りがするからな。君は来ない方が良いだろう」
羅山は遠回しに自分は足でまといと言われている様で、少し悲しくなった。
「⋯⋯君の為なんだよ。分かってね」
羅山の心情を察した惺窩は簡勁に諭した。
結局羅山は惺窩の言うことを素直に聞き入れ、残ることにした。その時は。
「先生達、置いてくなんて酷いな⋯⋯」
惺窩達が出た直後、羅山はひっそりと家を出て後を追った。昨日の事といい惺窩が隠していることがどうしても気になり、何か手掛かりがないかと付いて来たのだ。惺窩と闇斎は一切振り返ること無く、歩き続けた。
しばらくすると惺窩達は『若月屋』前に着いた。店の前には数人の男性が集まっていた。闇斎は何やらその者達に話しかけている。羅山は聞き耳をたてた。
「すいません――めさんに――男――ご存知――」
「――なら、向こう――ぜ――」
声は聞こえてくるものの、途切れ途切れ聞き取ることしか出来なかった。
羅山がしっかり聞き取ろうと動いた時、惺窩達が振り返って元の道に戻ってきた。羅山は咄嗟に近くの裏路地に身を潜め、二人が通り過ぎるを待った。二人が裏路地前に差し掛かった時だった。
「あんたら、彼奴の所に行くのか?」
店前に居た男の一人が惺窩達に問い掛けた。時機が悪い、と羅山は焦り、見つからないように祈った。
男の問い掛けに惺窩が答えた。
「ああ、そのつもりだ」
すると男は二人の体を交互に眺め始めた。それは直ぐ終わり、男は口を開いた。
「やめた方がいいぜ。あんたらみたいに貧弱そうな奴が行ったって、返り討ちされるに決まってる」
男は見下す様な目で二人を見つめている。その後ろでは男達が嘲笑みを浮かべてやり取りを見ている。しかしそんな事に動じないのが、闇斎である。
「確かに力はありません。でも、動かないよりマシです」
澄んだ双眸に男はたじろいだ。
「俺は忠告したからな。勝手にしろ」
男はちっ、と舌打ちして不愉快そうに戻って行った。それを見届けた惺窩達はすました顔で去っていった。
一方の羅山は、何とかやり過ごせたことに安堵した。そして先程のやり取りから二人が例の男の家を訪ねることを知った。暴漢の家を訪ねる。嫌な予感しかしない。そんな事思いながら二人の後を追った。
人通りがまばらになってきた頃、惺窩達は大きな門の前で止まった。どうやらここが男の家らしい。中々立派な屋敷である。
惺窩が門を押してみると意外にもすんなり開き、二人はそのまま中へ入っていった。
二人が行くのを見計らい、しばらくして羅山も入った。その瞬間目に飛び込んできたのは、大量の朝顔だった。庭の至る所に蔓を伸ばし、鮮やかな花を咲かせている。少し不気味に思いつつ、屋敷内への侵入口を探した。
屋敷の周りを探索していると、入口の裏手に縁側を見つけた。影から中を伺うと、惺窩達が奥の部屋に向かっていくのが見えた。完全に見えなくなったところで、羅山は音を立てないよう入っていった。
すり足で廊下を進み、やがて居間と思われる部屋に出た。
「人気が全くないな⋯⋯。やえさんはどこだろう」
部屋を見渡す。中央にホコリ被った机があるだけで他に目立つ物はない。畳は黄ばんで所々ほつれている。まるで何年も人が住んでいなかったかのような有様だ。
次の部屋に進もうとした時、何処からか微かに声が聞こえてきた。紛れもない、女性の声だ。
羅山が畳に耳をつけると、声がさらに大きくなった。どうやらこの下から聞こえているようだ。物音に気をつけながら畳を上げると、扉があった。
軋む扉を開けると、下へ続く階段があり、その先は微かな明かりしかない暗闇だった。
意を決して下へ降りていく。床に付くと足に固く冷たい感覚が伝わってきた。小さな明かりの方を見ると、座敷牢があった。そして、美しい少女が閉じ込められていた。
「やえさん!?」
「学者様!?どうか助けてください!閉じ込められてしまったのです!」
やえは泣きながら羅山に懇願した。羅山はすぐに牢の扉を開ける為、閂を持ち上げようとした。しかし閂はビクともせず、羅山の力では足りないようだっだ。ここにきて己の非力さを恨んだ羅山は、やむを得ず惺窩達に助けを求めることにした。
上に戻り、惺窩達を探そうと動いた瞬間、背後に殺気を感じた。
振り返ると、それは居た。関節の節、顔の『恋』と書かれた布。
――化け物だ
「出たぁぁぁぁぁ!」
羅山は悲鳴をあげて逃げ出した。同時に化け物は羅山を追いかけ始めた。屋敷中を逃げ回りながら目では武器になりそうなものを探した。台所に何かあるはずだと向かうと、予想は大外れ、包丁も食器もろくに置いてなかった。
遂にやけくそになって、素手で対抗しようと化け物に向き合った。化け物は無慈悲に羅山に迫り来る。
その時羅山の目の前で拳が固まり、飛んできた複数の札が化け物を封じた。完全なる既視体験だった。
「羅山くん」
化け物の向こう側に呆れ顔の惺窩が立っていた。
「昨日といい今日といい、君は阿呆か」
「すみません先生⋯⋯」
惺窩の後ろから闇斎がやってきた。それを見た羅山は叫んだ。
「闇斎くん!やえさん見つけたよ!居間の隠し扉の下!」
「分かった!」
闇斎は居間へ走っていった。それに反応した化け物が封印を破り、闇斎目掛けて飛びかかった。
「待て」
またしても惺窩の投げた札により、化け物は再び動きを封じられ、どさっと床に叩きつけられた。
「お前の相手は己れ達だ。逃げられると思うなよ」
おおっ、と心の中で感心した羅山だったが、『己れ達』という言葉が引っかかった。私も戦うのか?
「君は囮 。怪我しないようにね」
もっと酷かった。
そうこうしていると化け物の封印が解け、飛びかかる体勢になっていた。
「よし、広い部屋へ行こう」
瞬く間に惺窩は走り去って行った。数秒置いてかれた羅山は化け物に追いかけられながら後を追った。
その部屋は屋敷の隅っこに存在し、床の間と押し入れが付いた十二畳程の何も無い部屋だった。そして先に着いたはずの惺窩も居なかった。君は囮。惺窩の言葉に冷や汗が伝う。
ぴったりと付いてきた化け物が羅山目掛けて飛びかかる。羅山は既の所で身をかわし、化け物は床の間に突っ込んだ。
それでも怯むことなく、すぐに向きを変えて再び羅山に飛びかかった。
その瞬間、化け物の後ろの押し入れが開き、壺を持った惺窩が現れた。そのまま惺窩は化け物の後頭部を壺で殴り、化け物はへたりこんだ。しかし衝撃で壺は砕けてしまった。
「良くやった羅山くん」
作戦通りに事が進んで惺窩は満足しているようだ。羅山の方は生きた心地がせず、未だに手足の震えが止まらなかった。
しかし化け物はまだ戦意があり、立ち上がろうとしている。
「しぶとい奴だな」
少し距離をとろうと二人は後ろへ下がった。とん、と惺窩の背中に何かがぶつかった。それは襖だった。
「邪魔だな」
そう言った途端、惺窩は襖を蹴り壊し始めた。
「先生!?何壊してんですか!?」
「襖が無い方がより戦いやすいから」
「雑すぎます!」
あっという間に数部屋の襖が壊された。その荒々しい行動に羅山は分かりやすく引いた。
場の準備が整ったところで、化け物が立ち上がった。先の攻撃が中々効いたらしくふらついている。
びゅんと何かが二人の頬を掠めた。直後、生暖かいものが垂れてきた。血だ。カランと音がして振り返ると、壺の破片が落ちている。視線を前に戻すともう一度破片を手にする化け物が居た。
羅山はとても恐ろしくなった。相手はただ力の限り目の前の者に襲いかかる、獣だと思っていた。だが違う。相手は道具を扱う知能を持ち、どんな手段でも本気でこちらを殺しに来る。
まるで人間だ。
「羅山くん!」
途端に視界が揺れ、破裂音が鳴り響く。目には赤黒い飛沫が映り、そのまま壁に叩きつけられた。そして次に見たのは、血溜まりに横たわる惺窩だった。
「先生!」
「⋯⋯全く、こんな時にぼーっとしないでくれよ」
羅山を庇ったその体には、肩、腹、足の三箇所に破片が突き刺さり、いずれも出血している。
「すぐに医者を呼びますから!」
「やめろ。化け物が居る。倒してから⋯⋯だ」
言い終えた途端、惺窩の荒い呼吸が少しずつか細くなっていった。
「⋯⋯すまない羅山くん。己れは、もう⋯⋯」
「何言ってるのですか!?まだ先生は⋯⋯!」
「⋯⋯後は頼ん⋯⋯だ」
それだけを言い残し、惺窩はゆっくりと目を閉じた。残された羅山は泣き叫んだ。堪えきれない、感じたことのない大きな悲しみに押しつぶされていく。しかし、化け物は無慈悲だ。手に持っていた破片を泣き叫ぶ羅山を目掛けて、投げた。
破片は空を切ってそのまま壁に突き刺さった。標的である羅山は、何処にも見当たらない。それどころか惺窩も見当たらない。
化け物は辺りを見渡した。それでも影も形も見当たらない。押し入れの中にも見当たらない。たった今目の前に居た者が、ちょっと目を離した隙に跡形もなく消えたのだ。化け物はただ一人、部屋の真ん中で立ち尽くした。
「――覚悟」
一瞬の出来事だった。何も無い空間から現れた刀の如き札が化け物の背中をかき切った。膝を折った化け物の背後から現れたのは、惺窩だった。続いて部屋の角から羅山が、隣の部屋から闇斎とやえが姿を現した。
「先生!生きていたのですか!?」
「当たり前だ。こんな所で死ねるか」
確かに惺窩の服には三箇所を起点に血が広がっている。それでも生きているのは何故か。惺窩は袖を捲った。
「事前に付けていた防御札で急所に当たらずに済んだんだよ」
腕には無造作に札が貼られており、それは体の方へ続いていた。そして荒い呼吸に最期の言葉、あれは全て化け物を油断させる為の演技だったそうな。
「私の涙返してください」
「見破れなかった自分を恨むことだな。それにしても、いい時に闇斎くんが戻って来てくれて助かった。楽に事が進んだよ」
惺窩が息を引き取り、羅山が泣き叫んでいた丁度その時、闇斎が隣の部屋に入ってきた。それに気づいた惺窩がこっそり目で合図し、闇斎が全員を透明化させたのだ。
「さて、そろそろ観念したらどうだ?」
化け物は背中から血を流しながらも、まだ立ち上がろうとしている。
「お前の悪行もここまでだ。大人しくお縄にかかれ」
惺窩が懐に隠していた縄で縛ろうと触れた途端、化け物が最後の力を振り絞って惺窩の首に掴みかかった。バランスを崩した惺窩はそのまま倒された。首の骨が悲鳴をあげている。
「先生!」
羅山が惺窩を助けるために近づこうとしたその時。
「来るな!」
今まで聞いたことも無い惺窩の怒鳴りに、羅山は身を震わせて、一歩も動けなくなった。
「⋯⋯仕方ない」
その瞬間、惺窩の体から巨大な人像が現れた。それは平安貴族の装いで、顔は数枚の札で覆われている。脚が無い代わりに下半身は煙のように実体がなく、透けている、まさに霊体という言葉が相応しい。
それを目の当たりにした化け物は標的を人像に変え、飛びかかった。しかし実体のない人像に攻撃が当たるはず無く、化け物は壁に激突した。しかし化け物は知能を持つ。再び標的を惺窩に戻し、襲いかかった。惺窩は微動だにせず、ただ一言呟いた。
「神気『言霊の謡 』」
その瞬間、人像が一枚の札を投げた。札は化け物の首に突き刺さり、そのまま貫通して首を吹き飛ばした。鮮やかな血と共に舞った首はやがて床に落ちた。
鉄の匂いが漂う。いつの間にか人像は消え、惺窩はぐったりと横たわって過呼吸を起こしている。そこへ闇斎が押し入れから引っ張り出した掛け布団を死体に被せ、静かに手を合わせた。
一連の出来事、目の前の光景が羅山とやえの精神を攻撃する。遂にやえは恐怖で泣き出してしまい、床にへたり込んだ。闇斎はそんなやえを惨劇から隠すように寄り添い、優しく背中を撫でた。
羅山は無意識に惺窩の元へ寄った。一人で居るのが怖かった。響く鼓動、体の震えが止まらない。いつしか目には、我慢していたはずの涙が溢れてきた。惺窩に泣く所を見せたくない、そうして堪えたくとも感情には逆らえなかった。
暖かいものが頬を撫でる。惺窩の手だ。手は羅山の涙を払っていき、最後に頬をつねった。惺窩は何も言わずにつねり続けた。その表情には悲しみも怒りも無い、柔らかな笑みが現れていた。それに羅山はひどく安堵した。そして自分の気持ちに正直に、声を上げて泣き叫んだ。
羅山が落ち着いた頃、惺窩はようやく体を起こした。しかし立ち上がることは出来ず、過呼吸もまだ止まっていなかった。
「羅山くん、悪いがおぶってくれ」
それを承諾して羅山は惺窩をおぶった。その瞬間重力が一気に増し、軽く押しつぶされそうになった。
「先生⋯⋯太りました?」
「筋肉量が増えたんだ」
闇斎の方はやえが疲れきって眠ってしまった為、闇斎がおぶって店に送り届けることにした。
外はまだ明るいものの、夕方の涼しい風が吹きはじめていた。闇斎は店に向かった後、今日の出来事を役人に伝えると言い残し、姿を消して行ってしまった。残った二人はできるだけ人目につかないように裏路地を進んだ。
しばらく無言が続いた後、羅山が口を開いた。
「先生、今日の化け物と昨日の化け物は、一体何者なのですか?」
「またその質問。今日の事があったのに良く懲りないね」
惺窩は呆れた様子だ。それでも羅山は続けた。
「不安なのです。化け物の存在だけを知っているというのは。だから、少しでいいから何か教えて頂けませんか?」
昨日とは違う落ち着いた口調、不安げな口調で頼んだ。惺窩は少し考えた。そして羅山の言う事にも一理ある、と遂に口を割った。
「ならば、己れが知っている事を少しだけ。だがここから先は自己責任、そしてこの事は決して人に教えるな」
羅山は頷いた。
「率直に言うと、あの化け物の正体は『感情』だ」
羅山は、はてなを浮かべた。感情が化け物。想像もしなかった。
「より詳しく言うならばあれは、感情の暴走だ。ある一つの感情が暴走するとあの様に具現化して現れ、人に害を与える。それはある程度予兆がある。昨日の娘の話と、今日の闇斎くんの話を思い出せば合点がいくだろう」
温厚な父親が突然怒り出す。人一倍やえさんを口説く男性の暴力沙汰。
「確かに少し不自然な事がありましたね」
「さらに今回の件について付け足すと、朝顔の花言葉の一つに『あなたに私は、絡みつく』とある。男は相当歪んだ恋情を持ったいたのだろう」
なるほど、と納得する一方で一つ気になることがあった。
「では、感情の持ち主はどうなるのですか?昨日は父親が見つかりましたが、今回は男が見つかっていません。男は何処へいったのでしょうか?」
その問に惺窩は顔をしかめた。それでも隠すことなく答えた。
「⋯⋯持ち主は、感情に飲まれる。つまり、化け物の土台になる」
それを聞いた瞬間、羅山は青ざめた。
「じゃあ⋯⋯最後に死んだ化け物は⋯⋯」
「紛れもない、人間だ」