舞姫見習いと銀色の狼8
冷たくて硬い物が頬に押しつけられているのを感じてユイナは目を覚ました。岩盤が頬に当たっている。いや、正確には石畳の上にうつぶせにされていた。
吐き気と腹部の痛みに顔をしかめながら視線を動かすと、頑丈な扉があった。見覚えのある扉だった。
どこで見ただろう……。
考え、すぐに気が付いた。
校則を破った生徒を閉じ込める石小屋だ。以前、髪の色でもめて閉じ込められた事がある。学生達からは『お仕置き小屋』とか『牢獄』と呼ばれて恐れられている小屋だが、幼少を山奥で育ったユイナにとって、そこは雨よけと暖炉のある住みやすい場所で、まったく苦ではなかったのを覚えている。
それにしても、なぜこんな所にいるのだろうと頭を巡らせた時、小屋の暖炉に火がついているのが見えた。暖炉の前には舞姫学校の制服を着た二人の少女がおり、薪を入れて火を燃え上がらせている。そしてその炎に、一振りの剣が差し込まれていた。
背筋に嫌な予感を感じてもう一度辺りを見回す。すると、小屋の壁際でタルに座って足を組んでいるバチルダの姿が目に入った。ユイナは距離をとろうとする。しかし、両手足を縄で縛られていて立ち上がる事すらできない。
ごそりと身じろぎした音で、バチルダの顔がこちらに向けられた。
「あら、もう眼が覚めたの? 今、貴女を罰するための準備をしている所なのよ」
バチルダの目は細められ、危険な笑みを浮かべている。
「罰するって……そ、そういう行為は、校則で禁止されているはずです……!」
「おもしろい子ね。ここでそんな決まりが通用するとでも思っているの? それに決まりを破る事に関しては、貴女も他人のことは言えないでしょ?」
「……わ、私は校則を破った事はありません」
「選考会で選ばれもしなかったくせに、本物のラインハルト様に取り入って歓迎会に参加した。それは違反でしょ……」
声こそ荒げていないものの、底知れぬ恨みで声がかすれていた。
ユイナは目を見張った。違反を指摘されたからではない。バチルダが、口元をゆがませながら瞳を濡らしていたからだ。
「あなたに私の気持ちが分かって? ラインハルト様にようやく舞姫の踊りを見せられたと思っていたのに、実はニセモノだと知らされた時の気持ちが……」
「そ、それは私のせいではありません……! 侯爵が……っ!?」
その時、手加減なしで投げられた薪がユイナの腕をかすめ、地面にぶつかって硬い音を立てた。ユイナは言葉を呑み込んだ。薪を投げたバチルダの目が据わっている。
「貴女の言葉なんて聞きたくないわ。どちらにしろ、貴女によって私の心が傷付けられたのは変わらないのよ。だから、私の心の傷と同じように、貴女の体にも傷を負ってもらわないとね」
理不尽な事を言うバチルダは、暖炉に近づいて燃えさかる炎から剣を引き抜くと、真っ赤に熱せられた刀身を恍惚とした表情で見詰めた。そして、その目をゆっくりとユイナへと向ける。
「もし、この剣で肌を焼かれ、切り刻まれたら、どんな薬術をもってしても傷は消えないでしょう。そして、そんな火傷を目の当たりにしたら、どんな殿方も気味悪がってあなたを捨てるでしょうね……」
ユイナは絶句する。舞姫を目指す女の言葉とは思えなかった。
血も涙もないバチルダの言葉に、二人の少女が耐え兼ねたように前へと進み出る。
「あ、あのバチルダ様。傷をつけて証拠を残すのは、まずいのではないでしょうか」
バチルダは剣の切っ先を二人の少女に向ける。
「貴女、私に意見する気?」
「い、いえ。ただ私は御身を案じて……」
バチルダの眼光に怯えた少女が萎縮し、バチルダは薄く笑う。
「心配は無用よ。この子が火傷でみにくくなった体をみんなに見せびらかすなら話は別だけど、この子にそんな勇気はないわ。だって、そんな事をしたら、二度と舞姫にはなれないんですもの」
その言葉に、ユイナは何ヶ月か前の噂を思い出した。バチルダを注意した上級生が学校に来なくなり、自殺したという噂。きっと、今からユイナにしようとする事を、彼女にもしたのだ。なによりバチルダの手慣れた手つきが、今回が初めてではないことを物語っていた。バチルダは舞姫になろうと頑張る少女の夢を、うさばらしに潰したのだ。許される事ではない。強い憤りを感じずにはいられなかった。
バチルダは手の中で剣を器用に回しながら言う。
「ま、貴女が何を騒ごうがどんな証拠を出そうが、私は無罪放免。それだけは覚えておきなさい。この国では強い者が正義なのよ」
ユイナは腹に力を込めて縛られた両足を振り上げ、剣を握るバチルダの手を蹴った。不意を食らったバチルダが剣を落として手を押さえる。しかし、抵抗できたのはそこまでだった。
「こいつを取り押さえなさい!」
バチルダが険しい形相で命令し、それに従って二人の少女が取り押さえに来た。ユイナは抵抗を試みるが、ついには仰向けにされて両手足を地面に押し付けられる。
「は、はなしてっ!」
ユイナは悲鳴にも似た叫び声で懇願する。しかし、手足を押さえつける少女達も必死だった。バチルダが怖いのだ。
バチルダは燃えさかる暖炉に剣を差し戻し、手ぶらで近づいてくると、ユイナの着ている制服の裾を掴んで乱暴に引き上げにかかった。ユイナは手足を押さえつけられたまま抵抗しようとするが、その抵抗も虚しく、制服が引き千切られ、ほっそりとした肢体が露になる。
その肌理細やかで柔軟な肌をバチルダの指がなぞる。
「若いだけあってなかなか綺麗な肌をしているじゃない。この肌が焼けていく時、貴女はどんな顔をするのかしら」
その言葉に全身の毛が逆立った。狂っている。下民の中でも生き抜くために凶暴になった人間はいたが、バチルダのように傷付ける事に喜びを感じる人間はいなかった。
バチルダは暖炉の前に行き、真っ赤に燃える剣を引き抜いて戻ってきた。
「さて、覚悟はいいわね」
「ま、待って! やめてください! こんな事をして、何になるのですか!」
ユイナは必死に叫ぶが、バチルダはそれさえも楽しむように、熱せられた刃をゆっくりと腹部に近づけていく。ユイナは引きつった顔で真っ赤な刀身を凝視する。逃げようと必死に体を動かしているが、疲弊した体はいう事をきかない。腹部に熱をおびた空気が近づいてくる。
これで舞姫にはなれなくなるのかと思った。養子として育ててくれた男爵に、恩返しをする事もできないまま終わってしまうのかと思った。ティニーと一緒に立派な舞姫になろうと約束した事も思い出される。
様々な想いがユイナの目から涙となって溢れ出した。しかし、瞳だけは肌に近づけられてくる刀身を凝視して、少しも視線を逸らそうとしない。
刀身はもうすぐ肌を焼き、みにくい焼け跡を残してしまうだろう。どんな傷痕をつけられるのかは分からない。しかし、容赦はされないだろう。
バチルダが口元を釣り上げて笑い、腕に力を込めて真っ赤に熱せられた刃をユイナの肌に押し付けようとする。ユイナは目を見開き、
「いや、やめてェェェー!!」
絶叫した。その瞬間、ユイナの中で何かが燃え上がった。全身の毛が逆立ち、体温が瞬時に上昇し、目の前が真っ赤に染まる。
その赤い視界の中で、バチルダのギョッとする顔を見たような気がした。次の瞬間、額の中心で何かが弾けるような感覚に襲われ、視界が真っ黒に染まった。