魔神の骨と戦火の少女30
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大地に生えた炎の翼は、近づけば近づくほどその巨大さを見せつけていた。もしかすると、両翼を広げればオルモーラを丸ごと呑み込めるのではないかと思えるほどだ。
爆発の中心は伯爵の城だったようだ。炎に呑み込まれた城は片鱗さえも認めることができない。
爆発時にカトレア達が城内にいたら、助かってはいないだろう。望みがあるとすれば、ユイナやペントが間に合い、妹や子供達をあの炎から非難させていることだ。
生きていてくれ……!
アレスはそう願って走るしかなかった。
林を越え、収穫を終えた畑を左右に道をひた走っている。平民の人々や、傷ついた魔術師とすれ違う。ウィンスターの魔術師もシルバートの魔術師も入り混じり、巨大な炎から少しでも離れようと我先にと逃げている。さすがにここまで炎は届かないだろうが、また大きな爆発があるのではないかと彼らは怯えた顔だった。
その逃げ惑う人々に妹や子供達が混じっていないかと目を配る。しかし、目につくのは知らない人ばかりだ。
アレスはオルモーラの街を通り過ぎ、研究所の横に差し掛かる。もうそこまで来ると炎から逃げてくる人波はまばらになっていた。見知った人はいない。
胸に抱いていた淡い望みが、少しずつ消えていく。それでも、まだ逃げてくる人の中に大切な家族がいるのではないかと、すれ違う人々の顔を確認していく。だが、無事であってほしい家族に会えないまま、炎から逃げてくる最後の人とすれ違ってしまう。
アレスの前に人影はなく、あるのはオーデル伯爵の城を蹂躙する巨大な炎の塊だけだ。
「いや、まだだ。船で逃げていれば望みはある」
急いで炎の塊を迂回し、海峡の見える場所まで移動するアレス。
坂を駆け上がり、見晴らしのいい高台に立ち、そして入り江から逃げていく帆船を発見した。ところがそれは輸送船ではなく、ウィンスターの軍艦だった。軍艦以外に海峡を走る船はない。
「……嘘だ……」
認めたくもない現実が足元から這い上がってきて、脚が震える。
「俺は、間に合わなかったのか……?」
それどころかユイナとペントをあの炎の中に向かわせてしまった。なぜ俺は二人を行かせたのか。行かせなければ二人は死なずに済んだかもしれないのに……。
心を支えていた何かが乾いた音をたてて折れたような気がした。
守るべき者を失って高台に立ち尽くし、天空まで燃え上がる炎を絶望とともに見上げる。
デルボは地獄の炎となってオーデル伯爵の城を蹂躙し、深紅の翼を空へと広げていた。炎の翼はゆっくりと回転して羽を散らし、螺旋を描きながら次第に丸くなり始める。その様子はまるで、親鳥が自分の子を孵化させるために、あたためているようだ。
アレスは瞬きして眉をひそめた。
炎の様子がおかしい。どうすれば炎が丸くなっていくのだろうか。
まるで、生きているみたいだ。
疑問を抱いている間に、炎はさらにまとまり、大地に半分埋まった卵のような形になった。その表面に、絹のように繊細な糸が幾重にも張り巡らせてある。
いや、それは糸ではない。魔神の力を封じ込める封魔の鎖ではないか。だが、それはおかしい。封魔の鎖は魔神にだけ通用する力だ。目に見えても実体のない鎖は、デルボの炎に触れることもできないはずだ。
「いったい、何が……?」
アレスはその何かに導かれるように巨大な炎の卵へと足を進めた。そして一度歩みを始めると走らずにはいられなかった。まるで大いなる存在に呼ばれるように、炎に向かって駆けた。
近付いてみるとその実態が見えてくる。炎の塊に見えたそれは、単なる塊ではなく、幾重にも重ねられた炎のベールが嵐のように渦巻いてできていた。
「間違いない。これは封魔の鎖だ」
渦巻く炎の壁を前にしてアレスは立ち止った。壁の内側で渦巻く炎は、それよりも巨大な魔炎によって包み込まれていた。封魔の鎖は、魔神の炎を押さえ込んでいた。そして、魔神の炎がデルボの炎を押さえ込んで、炎の卵を形成しているのだ。
これ程の強大な魔術を使え、なおかつ魔法を使える人物と言えば一人しか考えられない。メリル王女の城から抜け出した時、天空を引き裂くほどの魔術でテンマを撃退し、いつの間にかザイに魔法を教わり、習得していた少女。
「ユイナ、なのか?」
少なくとも封魔の鎖を生み出し、爆発を止めている者がいるのは確かだ。だが、デルボの豪炎をどうにか抑え込んでいるに過ぎない。均衡が崩れれば、魔炎とデルボの炎が解放され、周辺の大地ごと消し飛ぶに違いない。
「持ちこたえてくれッ」
アレスは封魔の鎖を周囲に巡らせて全身を護ると、燃え盛る炎へと飛び込んでいった。
巨大な卵の内側は荒れ狂う炎の嵐となっていた。身にまとった封魔の鎖に矢のような勢いで炎のベールがぶつかってきて、気を抜けば灼熱に呑まれそうになる。
迫ってくる灼熱のベールを一つ一つ躱していき、アレスは少しずつ卵の中心を目指す。そしていくつもの紅のベールをかいくぐり、苦しい想いをしてまで辿り着いた先に、少女はいた。
彼女はただ一人、深い深い炎の中で舞っていた。
漆黒の瞳はどこか夢の中を漂い、うっとりとしている。火の粉をまとったつややかな黒髪を揺らし、それとは対照的な舞姫学校の純白スカートを雲のようにひるがえしていた。
両腕を翼のように広げ、指先で音色を奏でるように空気を撫でて風を生み出し、それが封魔の鎖となって炎と結び付き、彼女は炎の羽衣を身にまとっていた。
それは神話に出てくる天女だった。微笑む横顔は美しく、邪悪な炎と楽しくフォークダンスを踊っているかのようだった。
誘われるように歩を進めていたアレスは、つま先に何かが触れて足元に目を向けた。子供達が身を寄せ合うようにして倒れている。ピクリとも動かないが、気を失っているだけなのか、胸が上下し、呼吸はしていた。その中にはカトレアやペントの姿もあった。そして封魔の鎖が繭のように彼らを包み込んで熱気から守っていた。
「なんて娘だ。これを一人でやったのか」
驚嘆し、踊り続ける少女に目を向けた。
少女は噴水のように燃え上がる炎を足場にして踊っていた。まぶしいほどの白い素足で炎から炎へ跳んでいく姿は、とてもこの世の存在ではなかった。彼女の体に、炎の大天女セフィルが宿ったとしか考えられない。
アレスは時が経つのも忘れ、彼女が炎と戯れる姿を眺めていた。声をかける事もできなかったし、どうすればいいのかも分からなかった。
その時、パチッ、パチッ、と細いものが砕ける音がした。
音を探して炎の丸天井を見上げていると、その原因を見つけた。回転する炎の中で、遠心力に耐えきれなくなった封魔の鎖が千切れているのだ。しかも、一つが千切れだすと、他の鎖も破れ始め、身の毛もよだつような崩壊の音が木霊す。
「まずいッ! 鎖が耐えられなくなっている!」
咄嗟に封魔の鎖を放つが、流れる炎に巻き込まれて千切られてしまう。あまりにも相手が巨大過ぎるのだ。それどころか縛めを解いた炎が激しさを増していく。
「ユイナ、いえ、貴女は大天女なのですか! 封魔の鎖が壊れ始めました! このままでは炎が爆発してしまいます!」
ユイナに近づきたくてもできなかった。
彼女の踊りを止めてしまえば、解放される炎が一気にふくれ上がるだろう。そうすれば妹も、子供達も、ましてや中心にいるユイナも炎に呑み込まれてしまう。せめて出来るのは、封魔の鎖をつむいで助力するぐらいだ。
「頼む。俺の力ではもう、どうにもならない……」
炎と踊る少女を見詰め、持てる力の限り叫んだ。
「ユイナ、何とかしてくれッ!」
狼の咆哮にも似た声が、まどろんでいたユイナの瞳に陽射しとなって降り注ぎ、彼女の柳眉をひそめさせる。
次の瞬間、ユイナはその両手で鎖を手繰り寄せながら丸め始めた。それはまるで毛糸で玉を作るがごとく、鎖と炎が小さくまとまっていく。だが、小さな両手では巻き取るにも限界がある。最初は胸の前で巻き取っていたが、玉が大きくなってくると頭上で回して巻き取り、それでも、劫火を半ばまで巻き取ったところで玉はユイナよりはるかに大きくなっていた。それを支える体は限界にきていた。
炎の玉がユイナに向かって沈み始める。
「ユイナ! 頼む! 持ちこたえてくれ!」
これ以上は彼女の体が壊れてしまう!
その時、ユイナが両腕を頭上でクロスさせた。と、次の瞬間、両腕を広げて玉を上空に解き放った。
砂を巻き上げる激しい上昇気流。その激流に乗った紅い玉が、高速回転しながら炎を巻き上げ、昇っていく。
炎の糸を巻き上げて巨大になっていく玉。玉が大きくなるにつれ、振り仰いだ空が、少しずつ、少しずつと青い色を取り戻していく。
深紅の玉は昇っていく。
はるか遠い青空まで昇っていく。
そして、
耐えきれなくなって破裂した。
青く美しい空に深紅の大輪が咲いた。
炎が花びらのように広がり、火の粉が煌めく。
糸が切れたようにユイナから力が抜けた。
膝から崩れそうになるところをアレスが駆け付けて抱き止める。
受け止めた身体は羽のように軽かった。目を閉じて寝ているような顔は幼く、手足も子供のように細い。結婚できる年齢になったとはいえ、彼女はやはりまだまだ子供なのだ。
だが、そんな体のどこに、巨大な炎からみんなを守れるほどの力があるというのだろうか。
腕の中でユイナが目をさました。こちらの顔を見て瞬きする。
「どうしてアレスが……?」
「『どうして』はないだろ。心配で駆け付けたんじゃないか」
きょとんとして見つめ返すユイナ。この少女は俺の気持ちを分かっているのだろうか。
「俺がどれだけ心配したか分かっているのか? 一生分の心配はしたかもしれない。ユイナが死んでしまったかと思った時は……」
アレスは声を詰まらせてしまった。あの時の絶望と今の喜びがあまりにもかけ離れていて涙で視界がにじんできた。ユイナのまっすぐな瞳がやさしく包み込んでくれているような気がした。こんなに小さな彼女が胸の中で大きな存在となっていたことに驚く。
「思った時は……?」
ユイナは続きが気になるらしく聞いてきた。
だが、そんな事は関係ない。
「よく生きていてくれた……」
思わず抱き締める。腕の中でユイナはハッとしたように驚き、それからもじもじした。
「い、いたいです……全身がなんだか筋肉痛で、もっとやさしくしてください。わたしの体は、アレスほど丈夫じゃないんですよ……」
「すまない。つい力が入ってしまった……」
アレスは謝り、彼女が少し落ち着いて寝られるように頭の後ろに腕を回す。ところが、後頭部に腕が触れると、また彼女は痛がった。
「い、いたい。そこはタンコブができてるんです」
「そ、そうか。そんなに痛い所があるのなら、どこに触れていたらいいんだ」
「へ?」
「いや、深い意味はない」
咳払いをするアレス。
「でも、アレスだったんですね」
「何がだ」
「私、世界が崩壊してしまう夢を見る事があるんです。その夢で私を助けようとしてくれる人がいるんですが、今までその人を振り返ることができなかったんです。でも、夢の中で振り返ってみたら……」
「それが俺だったと……?」
こくりと彼女はうなずく。
「変な夢の見過ぎだ。それに、助けてもらったのは俺の方だ」
「弓矢を受け止めた事ですか? あれは別にたいしたことでは」
「違う。そんな事じゃない。妹を、子供達を、いや、俺の大切な人たちを守ってくれた事だ」
ユイナはきょとんとしていたが、ようやく気付いたのか、辺りを見回す。
「ペントは……?」
「安心しろ。彼も気を失っているだけだ」
「みんな無事だったんですね……よかった」
ユイナは涙目になりながら安堵の息をついた。アレスは息を呑んで彼女を見詰めてしまう。
彼女のホッとした顔がこんなにもいじらしく可愛いものだとは知らなかった。いつも張り詰めている彼女からは想像もできなかった。
見られているのが恥ずかしくなったのか漆黒の瞳が泳いでいる。それから、何かに気付いて瞬きした。
「きれい……」
うるんだ瞳でユイナが空を見上げる。
アレスも青空を振り仰いで口許をゆるめる。
「そうだな」
天空から降りそそぐ火の粉が、舞い散る花びらとなり、青空に薄紅色を引いていた。




