魔神の骨と戦火の少女16
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何もなかった場所に黒い染みが広がっていく。見上げた青空に無数の魔口が開き、青い空を黒く侵食していく。浸食された空から魔神の力が流星となって地上へと降り注いでくる。計り知れない灼熱の炎で大地が溶かされていく。かけがえのない緑の大地が、地獄の業火に包まれてしまう。
……ダメ。ダメだよ……世界が壊れてしまう……!
ユイナはガバッと上半身を起こした。喘ぐようにして荒い息を整える。額からこぼれ落ちた汗が眉の間を流れ、鼻梁を通って毛布の上に落ちていった。
「……夢?」
額に浮いた汗を拭う。辺りは暗い。横ではペントがすやすやと寝息を立てている。
シルバートでは毎朝のように見ていた悪夢。見慣れた悪夢はオルモーラに来てからパタリと見なくなっていた。それを、久しぶりに見てしまった。
嫌な予感がする。
背筋に氷の柱を押し付けられたような悪寒。一瞬、夜の冷気に交じって魔力の気配を感じたような気がした。叫びにも似た魔力の流れ。しかしそれは幻覚だったかのように消えた。注意深く魔力を探ってみても、何も感じられない。しかし、背筋に残った悪寒だけはどうしても拭いきれない。
アレスに報告しておこう。
薄暗い部屋の中、ベッドから出て靴を履き、廊下に出る。そこでばったりとアレスに出会った。隣にザイもいる。
「起きていたのか。そろそろ着替えておいてくれ」
「あの、さっきですけど、魔力の流れを感じませんでしたか?」
アレスは怪訝な顔をする。
「いいや、感じなかったが……、ザイはどうだ?」
ザイは肩をすくめる。
「アレスが感じられない魔力を俺が感じられるわけがない」
「でも、見てしまったんです。あの、魔術で世界が崩壊してしまう夢を」
「それはユイナの不安が生み出した夢じゃないのか」
ザイは言った。
「不安な時はそういう夢を見るもんだ」
「ですがっ」
アレスは淋しげな笑顔を見せる。
「ありがとう。それだけ心配してくれているのだな。だが大丈夫だ。俺達だってこんな所で命を落とすつもりはない。細心の注意ははらうから。――それより今はいつでも出られるように準備した方がいい」
「……そうですね」
素直に引き下がるしかなかった。
すでにメリル王女が魔神の骨を燃やすためのデルボを持って王都へと飛び立っている。計画の序曲は始まっているのだ。始まった旋律を途中で止められないのと同じように余計な混乱を招くわけにはいかない。
部屋に戻り、ペントを起こして着替えさせた。ユイナも久しぶりに舞姫学校の制服に袖を通し、着替え終わってからペントと一緒に部屋を出る。
アレスとザイは廊下で待ってくれていた。夜明け前の暗い廊下をカンテラの明かりを頼りに歩いていく。向かった先は中央塔の隠し通路入口だ。
中央塔の隠し通路。以前、この通路を利用したのはカーマルの手引きで地下牢を脱出した時だった。あの時と同じように床に敷いてある絨毯を払い除け、地下通路への扉を引き開けて階段を下りていく。
岩盤を剥き出しにした通路は狭く、一列にならないと奥に進めない。ユイナとペントはアレスとザイの二人に前後を守られながら最奥へと下りていった。しばらくして、小部屋に辿り着く。隠しドアの向こうから打ち寄せる波の音が聞こえる。アレスが振り返る。彼の庇護から離れる時が来てしまったらしい。
「手紙は持ったな」
「はい」
頷いてみせる。
「やれるな」
「やれます。ペントもいますから」
「そうだな。すまないペント。ユイナと一緒に頑張ってくれ」
「……はい」
ペントは緊張しているらしく、小さな声で返事した。
「二人には迷惑もかけたし、世話にもなったな」
「それはこっちの言葉です。舞姫学校では習わないことをたくさん教わりました。感謝してもしきれないぐらいです」
「ぼ、僕も……」
「そ、そうか……そう言ってもらえるとありがたい。――そろそろお別れだな」
アレスがペントに手を差し出し、握手を交わす。それから大きな手がこちらに差し出された。差し出された手は、別れの握手を求めている。
ユイナの中に相反する気持ちがある。聞きわけの悪い自分が彼との握手を拒んでいる。握手してしまえば、別れを受け入れるのと同じことになる。それはしばらくの別れかもしれないし、一生の別れになるかもしれない。本当は別れたくない。
でも、好きな人の握手を断れない自分もいる。それに、育ててくれたガモルド男爵やアリエッタが待っている。手を差し出したアレスもそれを望んでいるから……。彼を困らせたくないから……ユイナは手を差し出した。
華奢な手がアレスの手に包み込まれる。フォークダンスでつないだ大きな手だ。そう言えばラインハルト侯爵の訪問で、彼とは最後までフォークダンスを踊りきれていなかった。
「また、一緒にフォークダンスを踊ってください」
アレスはほほ笑んだ。
「ああ。約束する」
力強くうなずいてくれた。
「元気で……それと、幸せに」
「はい……」
私はいつだって元気で幸せにいます。
貴方が私の事を思ってくれるのなら、いつだってきっと。
「アレスも元気で」
「俺はナシかよ」
「ザイさんも元気で」
ユイナはペントの手を引き、波音の聞こえる外へと歩を進めた。
海岸沿いを歩き、しばらく進んだところで岸壁をよじ登り、近くの林に入って道を進み、分かれ道の手前で馬を従えた男と出会う。
「お前達がユイナとペントだな」
「はい」
「これがお前たちにやる馬だ。走らせたら日の出までには国境に辿り着けるだろう」
男はそう言って手綱を渡してくる。
「ありがとうございます」
ユイナは手綱を受け取る。
「ペント、先に乗れる?」
「うん」
「手伝いましょう」
男がペントを抱え上げて馬に跨らせた。
「ありがとうございます」
ユイナは礼を言い、勢いをつけて馬の背に跨る。馬の背には内股を痛めないように柔らかな鞍が着けてある。アレスの気遣いだろう。ユイナはペントの背中にぴたりと体を寄せ、ペントが落ちないように両腕で包むようにして手綱を握りしめた。
「両腕で支えているけど鞍にはちゃんとつかまっていてね」
耳元で声をかけると「うん」と首を縦に動かした。
「馬をありがとうございました。――行くよ」
男性にお礼を言い、馬の腹を足で軽くたたいた。
馬が林道を走りだす。最初はぎこちなかったが、乗っているうちに感覚が戻ってきて、細かい手綱さばきで林道を疾走する。舞姫学校で習った乗馬の腕は鈍ってはいない。むしろ冴えてくるような気さえした。
若く、それでいて成熟した馬体は、ユイナとペントを乗せても揺らぐことはなく、風を切って林道を駆ける。肌に浮かんだ汗が、周りの景色と一緒に後方へと消えていった。それでも、手綱を握る手には新しい汗が出てくる。辺りが暗いため、走る馬に手綱一つで進む方向を教えてやらないと木々にぶつかってしまうかもしれない。
右手をわずかに引き、林道のゆるやかな右カーブも難なく駆け抜けさせると、長い直線に出た。馬蹄の音は少しも乱れず林に響いていく。持久力のある馬らしく、呼吸も安定している。これなら残りの道も安心できそうだ。それに、林道も難所を抜けられたので、あとは国境前までの広い直線を走るだけだ。そう思うと、ようやく一息つけた。
馬上から見上げると、林の天井に隠された夜空が黒から藍へと色を変えつつあるのが見えた。前方から吹き付ける夜風に、朝の気配が混じってきていた。
「もうすぐ夜明けだね」
手綱をしっかりと握り直し、ペントに話しかける。ここに来るまでおしゃべりをする余裕もなかった。
「そ、そうだね」
ペントは蹄の音に消されてしまいそうな小声で言う。元気のなさが気になった。城を出る前からずっと様子がおかしい。
「ねぇ、もしかして体調が悪いの?」
「いいや、体の調子はいいよ……」
「みんなと別れるのが淋しい?」
「……そうじゃなくて……、ううん、そうかもしれない」
ペントは気持ちの整理ができていないのか、自信なさそうに答えた。無理もない。あんなに仲良くなったみんなと、心の準備もできずに別れてしまうのは淋しいに決まっている。ユイナだって同じ気持ちだ。でも、ここまで来てしまったのだから前を向いて行くしかない。
「また会えるよ」
「え?」
「会いたい気持ちさえ無くさなければ、またみんなと会えるよ」
私だってそう思いたいから。
「そうだね……」
賛成してくれたペントだが、その声はどこか上の空で、彼の心が遠くに感じられた。それが妙に気になる。
「ねぇ、ペント。不安なことがあったら遠慮せずに言ってね。私もいっぱいペントを頼るから。これからしばらくは二人だけだから支え合って帰らないと。そうだ。シルバートに帰ったら何をするか考えない? もう追われる事もないし、今までできなかった事がいっぱいできると思うの。おいしいものを食べるのもいいし、私が通っている舞姫学校に行くのもいいね。ペントは女の子みたいかわいいから制服さえあれば入れてしまうかもね」
言っていると、小さな背中が震えていた。
「いいね、それ。ありがとうユイ姉さん……本当にありがとう……」
涙声だ。
「お、おおげさだよ。私はまだ感謝されるような事はしてないよ?」
「そ、そうかな。でも、元気が出たんだ」
「それなら良かった」
ユイナは前向きな気持ちを込めて手綱を握り直す。
本当は後ろ髪を引かれていた。密告書を届けても、反逆者の汚名を晴らせる保証はどこにもない。バチルダ王女が報復してこないかも心配だ。そう思うと、自分の進んでいる道がひどくもろい吊り橋のように感じてしまう。でも、そろそろ迷いを断ち切る必要がある。そのために、ペントと一緒に前を向いて歩ける目標が欲しかった。あとはシルバートにいるというアレスの仲間を信じ、このまま馬を走らせるしかない。
「ユイ姉さん。ガモルド様ってどんな人なの?」
「厳しい人、かな。食事の時もほとんどしゃべらないの。一日に一言も交わさないことだってあるよ。でも、メイドのアリエッタはその逆かな。よくしゃべるの。しゃべるのが好きなんだろうね。次から次へと言葉が出てくるのよ。止まらないの。ガモルド様と足して二で割ったらちょうどいいのにと思う事もあるよ」
「おもしろそうな家庭だね」
「そ、そうかな?」
聞いてみると、何度もうなずいている。少し気分もほぐれたのかもしれない。身内のことばかり聞かれるのはどことなくくすぐったいので、今度はペントのことを聞きたくなった。
「ペントのご両親はどんな人なの?」
問いかけると、ペントが一瞬身構えたのがわかった。
ユイナは、しまった、と思った。
「あ、いや、答えたくなかったら答えなくてもいいんだけどね」
貴族の親元からどういった理由で離れ離れになったのかは聞かされていない。それどころか生きているかどうかさえわからないのだ。無神経な質問をしてしまったと後悔して、話題を変えなければと焦っていると、返事があった。
「父さんの事はよく知らない。母さんは、寝たきりになってる」
声には寂しさがにじんでいた。
母親が生きている事に驚いた。ペントも自分と同じ戦争孤児なのかと思っていた。
「お母さんに会いたい?」
「………」
ペントは無言になったが、しばらくして「会いたいよ」と言った。迷って出された返事は、ペントの本音に聞こえた。それなら、と思う。
「それじゃあ、会いに行かない?」
「あ、会いに行くって、母さんに? 今はどこにいるのかわからないんだ」
「移住したということ?」
「たぶん」
「家名は? 家名さえ分かれば、いろいろと調べられると思うよ」
「それは……――――」
よほど言いにくいのか、口ごもりながら答えるペント。
「ごめん、よく聞こえなかった。もう一度いってよ」
「ね、ネプルスだよ。僕の家名はネプルス」
「ネプルスって、ネプルス降臨祭と同じ綴り?」
それは世界でも有名な祭りの一つだが、現在は行われていない祭りでもある。
「え、まぁ……そうだよ……」
「わかった。後で一緒に探そうね」
「……うん」
ふと見上げると、東の空が明るくなってきた。もうすぐ夜明けだ。
前方へと視線を戻すと、朝焼けの淡い光に染まる世界で、丸太を地面に並べて突き刺したような巨大な門が見えてくる。見張り台と門の前に一人ずつ人影が立っていた。門兵だろうか。
「見えてきた。あれが国境だよ」
ペントが顔を上げて「ホントだ」という。
ユイナは手綱を引いて少しずつ馬のスピードを落としていき、門から少し離れた場所で停止させ、馬上から降りた。
こちらに気づいた二人の門兵が武器を構えている。ユイナは荷袋から密告書を取り出し、彼らに敵意がないことを見せるために両手を上げて進み出る。ペントも一緒だ。アレスにそうしろと言われていた。
見張り台の兵士は弓を、前にいる兵士は剣を構えて油断なくこちらを見ている。もちろん、ユイナ達が囮である可能性も考えているのか、周囲への警戒も怠ってはいない。
明け方の暗がりではあったが、二人とも若い男であるのは見て取れた。そして、近付くにつれ、不思議と相手は目を丸くし、口をポカンと開ける。
ユイナは両手を上げた無防備な姿勢のまま少し距離を置いて立ち止まり、今や間抜け面となった兵士に声をかける。
「お話があります。聞いてもらえませんか」
「もしかして貴女は、ユイナ・ファーレン様ですか」
「……そうですけど」
眼前の兵士から名前を呼ばれたので警戒した。それを悟られないように平生を装って答えたのが、今度は相手が武器を下げて片膝を地面についた。
「失礼いたしました! 貴女に刃を向けた事をお許しください」
見張り台から降りてきて駆け付けた兵士も片膝をついて謝る。
ユイナもペントも、相手の激変に目を白黒させる。
「あの、事態を呑み込めないのですけど……。そもそも、どうして私の名を知っているのですか?」
「シルバートの兵士で貴女を知らない者はいません。反逆者アレスに脅されて手を貸してしまったために自身まで反逆者にされてしまったご令嬢だと聞き及んでおります」
事実ではあったが、今まで信じてもらえなかったのに、急にどうして。
「あの、私も指名手配されていたはずですが……。反逆者を手引きした容疑で……」
あぁ……、と若い兵士は苦い顔をした。
「それについてですが、貴女が無実であるという証拠が見つかりました。ご家族の説得もあったとか。きっと貴女の帰りを待っていますよ」
「ガモルド様が……? 私の家族は無事なのですか?」
「はい。そう聞いております」
「良かった……」
疑いが晴れた事に安堵したが、それ以上に、家族の無事に安堵した。
反逆者にされた自分のために働きかけてくれた家族に、感謝の気持ちで一杯だった。
「ところで、その手紙は何でしょうか」
立ち上がった兵士は、密告書を見ている。その段階になって両手を上げたまま会話している状況がおかしいことに気付き、ペントと一緒に両手を下ろした。
「これは、アレスの行動予定を調べたものです」
「それは本当ですか!?」
「はい。アレスと行動をともにしてひそかに調べていたのです」
「反逆者相手に何という危険な事を……」
「情報を持ち帰らないと反逆者の汚名は晴らせないと思ったんです」
「そうですか。――少し拝見してもよろしいですか」
「おい、勝手に見ていいのか? 重要な情報だろ?」
「知っていた方が何かあった時に対処できるだろ」
「まぁ、確かにそうだな」
「拝見させてもらえますね?」
「はい、どうぞ」
そう言って密告書を兵士に手渡す。兵士は封筒から手紙を取り出して読み始める。が、眉間にしわを寄せて紙面から顔をあげた。疑われる箇所でもあっただろうかと身構えた。
「これは……何と書いてあるのでしょうか?」
「え?」
彼らは筆記体を知らないらしかった。だとすると、彼らは平民らしい。考えてみれば、貴族が門兵をしているとは考えにくかった。
「あ、いえ、これは特殊な暗号みたいなものです。それより、これを役所に届けたいのですけど、どうすればいいのでしょうか」
それなら、と兵士は門を振り返る。
「門を抜けて最初の別れ道を左に進み、まっすぐ行けば役所への道標があります。その指示通りに進めば役所に辿り着けると思います。馬で行けばそれほど時間はかからないはずです」
「そ、そうですか。道標の通りに行けばいいのですね……」
不安をにじませながら兵士の言葉を頭の中で反芻する。道の説明を受けても、知らない場所へ足を運ぶのは不安になるものだ。すると、ペントが補足する。
「あの村の近くだよ」
「あの村?」
「ほら、僕とユイ姉さんが出会った村だよ」
ペントと出会った村。そうか、あの村……。
なんだか急に、過ぎ去った日々が思い返された。
あれはまだアレスを本物の反逆者だと信じて疑わなかった頃だ。朝に弱いアレスを置き去りにして岩山を駆け下り、近くの村に救いを求めた。でも、いつの間にかその村にまで手配書が回っていて、食糧庫に閉じ込められた。その時、助けてくれたのがペントだった。
いろんな思い出が浮かんできた。すごい昔のように思えてくる。
「そうなんだ。あの村の近くに役所があるんだね」
ペントはうなずいた。
「道はわかると思う」
それは心強い。
「アレスの企みを知らせる手紙なら、早く役所に届けたほうがいいですね。お二人は馬に乗ってください。私たちは開門しますので」
二人の兵士が、重い門を引いて道を開いてくれる。馬にまたがったユイナは、後ろからペントがしっかりと抱きつくのを確認し、馬の腹を軽く蹴って前へ進ませた。開かれた門をくぐる。お礼を言うと、兵士は敬礼を返した。
通り過ぎたところで振り返ると、門が閉じられていく。数週間を過ごしたオルモーラが見えなくなった。
ユイナは首にかけた舞姫のペンダントを握り締める。
そして、アレスの無事を祈った。




