魔神の骨と戦火の少女13
すべての下準備を終えたアレスは、城内を移動し、一室のドアを押し開けた。窓からオレンジに色づき始めた夕陽が射し込んでいる。室内を見回してみるが、そこは無人だった。
「いない、か」
自室に戻っていると思ったのだが、当てが外れたようだ。アレスは引き返して中庭へと戻る。中庭ではザイとペントが二人でジャグリングで遊んでいる。合計五つの玉が二人の間を行ったり来たりしている。なかなかうまいものだ。
「ザイ、ユイナを知らないか。部屋に行ってみたんだが見当たらないんだ」
「ユイナなら、一人にしてくれと言っていたぞ」
「そ、そうか」
彼女は不安なのかもしれない。今はそっとしておいた方がいいのだろうか。
アレスは手にした薬に視線を落とし、所在ない気分になった。ザイがにやりとする。
「なんだ、そういう事か。ユイナなら北塔の三階テラスにいるはずだ」
「?」
急に彼女の居場所を教えたザイを凝視する。
「早く行ってやれよ。その薬、ユイナのために買ってやったんだろ? 妙なところで気を使うなよ」
「お見通しというわけか」
「そりゃあな、あれだけの死線を潜り抜けてきた仲だ。そのくらい分からなくてどうする」
「確かに……。ありがとう、ザイ」
礼を言い、薬瓶を握り締めてユイナのいる場所へと急いだ。
北塔の階段を早足で上がり、三階に到着する。ふと、かすかな魔力を感じた。反射的に全身を緊張させる。魔力の出所を探して辺りを見回してみると、まるで幻覚だったかのように魔力の流れは感じられなくなっていた。
「気のせいか?」
釈然としないものを感じたが、とりあえず注意して廊下を進み、テラスの前で立ち止まる。
テラスには小柄な魔術師がいて海側の見張りをしていた。ユイナはどこかに移動したのかと思い、テラスの前を通り過ぎようとして、はたと足を止めてもう一度テラスへと視線を向ける。
テラスの手すりに小柄な魔術師が腰掛けている。すらりとした白足をこちら側に、背中で壁に寄り添い、オレンジ色に染まり始めた夕空と海を見詰めている。本来なら手すりから落ちてしまいそうな姿勢なのだが、しなやかな肢体が絶妙のバランスをとっており、少しも危なげでない。ローブを申し訳程度に持ち上げる胸とほっそりとしたウエストが息を呑むほどのしなやかなラインを描いていた。
間違いない。魔術師の姿で海を眺めているのはユイナだ。だが、それにしても……夕暮れ時に広大な海を眺める少女は、儚げで絵になる。
捜していた人物を前にして、柄にもなくしばらく眺めてしまったアレスは気を取り直し、薬を握り締めて近付く。
「隣、いいか」
ピクリと反応する細い肩。しかし、顔をこちらに向ける様子はない。アレスは夕焼けを背にして手すりに座り、テラスに伸びる自分の影を見詰める。何と言って薬を手渡そうかと考えていると、夕景色を眺めていた彼女が口を開いた。
「メリル王女は……?」
「彼女なら日没とともにこの城を発つ予定だ」
「もうすぐですね」
「そうだな……、子供たちもオーデル伯爵の城に着く頃だろう。明日は……ユイナが出立する日だな。大変かもしれないが、がんばってくれ」
彼女を元の生活に戻してやれるかどうか、確たる保障は無い。シルバートにいる仲間の働きに期待するしかない。彼女を人攫い同然に連れてきてしまったのは自分だというのに、他人に任せてしまう無責任さが許せない。
「これ、傷薬だ」
タイミングも気の利いた言葉もへったくれもなく、サント助手に頼んでまで手に入れた薬を無理やり手渡した。ユイナはびっくりした顔で薬を反射的に受け取る。
「すまない。今の俺は貴族を追われた身。まともな薬も買ってやれない」
情けないことにそれが精一杯だった。
「いいんです。その気持ちだけで十分です」
「なに?」
思いもしない言葉だった。聞き違いかと思ったほどだ。
「………」
「………」
妙な沈黙が二人の間を支配した。
薬を渡したのはいいが、ユイナは所在なく手の中で薬を持てあましている。その手は激しい剣舞で痛めているために包帯が巻かれている。
「そ、そうか、気付かなくて悪かった。その手では薬もうまく塗れないな」
「そういう意味じゃないんですけど……いえ、塗ってもらえますか?」
「あ、ああ」
慣れない状況にどうしたものかと考えながら薬を受け取る。包帯を丁寧に解き、血豆のできた手の平にやさしく薬を塗りこんでいく。小さく子供のような手だ。その手であれだけの激しい剣舞をしたのが信じられないくらいだ。右手が終わり、次は左手。お互いに無言のままだ。十歳も年下の少女にどのような話をすればいいのかわからない。
薬を塗り終えて新しい包帯を巻く。
「そ、それじゃあ、左腕を見せてくれ」
忘れもしない。そこが彼女と出会った時に噛み付いてしまった場所だ。
ユイナはローブの袖を引っ張って白く華奢な細腕を露わにする。幸いな事に傷はほとんど見えなくなっていた。目を凝らすと、かすかに獣の歯形が残っているのが視認できる程度だ。
「ほとんど消えているな」
内心ホッとした。
ユイナはこれからいろんな男と出会い、誰かと結婚する。傷は残ってほしくなかった。しかし、彼女の顔色は晴れない。てっきり安心してくれるものだと思っていたのに、彼女が見せたのは息を呑んでしまうほどの切なげな顔だった。
なぜそんな顔をする。やめてくれ。胸を引き裂かれてしまいそうだ。
「お、応急処置が良かったのだろう。この様子だと、あと数週間で傷はほとんど消えてくれるはずだ」
「(このまま治らなければいいのに)」
少女のせつない声が聞こえた。
幻聴かと思い傷口から上げた視線に、まっすぐな視線がぶつかる。
彼女は瞳を逸らす事も、その瞳に怒りを宿す事もなかった。ただ、黒い瞳を涙で潤ませ、すがるように見詰めている。これほどまでに彼女と目を合わせるのは初めてだった。
ユイナは、見詰め返すアレスにようやく気付いたのか、表情を硬くして夕陽に顔を戻した。伏し目がちな横顔はなめらかで一片の曇りもなく、オレンジ色の夕陽を浴びて美しく色づいている。
澄んだ黒瞳は穢れを知らない。幼さを残す唇も、彼女が未成熟である事を教えている。それなのに、彼女の横顔は少し大人びたように見えた。
アレスはその横顔から視線をそらし、白い細腕に薬を塗り込んでいく。
「みんなはウィンスターのどちらに向かうのですか」
「ボッカオという町だ。とりあえずそこでしばらく身を隠す予定だ」
無理やり話題を変えて気を逸らそうとするのがいじらしい。しかし、目の前の少女は、本当にユイナなのかと疑ってしまう。もともと可憐な少女だとは思っていた。その少女が、夕陽の中でほんのりと大人の美しさに彩られている。
女は恋をすると美しくなるというが、そういう年頃なのだろうか。ユイナと同い年ぐらいの男は孤児の中にも何人かいる。少なくともヨセフはユイナに好意を寄せているようだ。きっかけがあれば彼と恋に落ちていてもおかしくはない。
だが、そうだとしてもこれほどまでに変われるだろうか。出会ってからひと月にも満たない短期間で、彼女は表面に被っていた何かをはいだように美しくなっている。それどころかその美貌の下に、更なる美貌を隠しているような気さえしてくる。正直なところ、どのように成長していくのかと想像してしまっていた。
ふと、初恋の女性の後ろ姿が脳裏に蘇った。アレスがたった一度だけ好意を寄せた女性は、人間とは思えないほど美しく、計り知れないほど大きな運命を背負っていた。ユイナは彼女とは容姿も人種も違うのに、生まれ変わりのように思えてくる。
何を考えている俺は。今はくだらない事を考えている場合ではない。
自分を禁めようとしているのに、それを一発でぶち壊すような言葉がユイナの口から発せられた。
「私、シルバートに行ってもアレスの味方でいます」
しばらく茫然としてしまった。
どうも彼女の心に要らぬ情が生まれつつあるようだった。
「い、いけない。ユイナは逆賊にされた両親を救いに行くのだろう。やると決めた事は最後までやり遂げるんだ。中途半端ではいけない」
拒絶したつもりだが、ユイナの瞳は本気だった。揺るぎない意志を感じる。
アレスはまともに向き合うことができず、包帯を巻いた彼女の手に視線を落とす。小さく華奢な手だ。とても戦場に立てるような手ではない。
一刻でも早く彼女を親のもとへ帰すべきだ。
そうしないと、終わるとも限らない戦いに彼女を巻き込んでしまうことになる。
***
夕陽が水平線に沈んでいく。ユイナは独り、それをぼんやりと眺めていた。
メリル王女とテンマが巨大な怪鳥の背に乗って上昇気流をつかみ、夕焼けを横切って行く。それを無感情な瞳で見送っている。
――アレスの味方でいます。
勇気を出して言ったつもりだが、
「釘を刺されちゃったかな。言わない方がよかったかも……」
にがい想いを胸に抱き、その想いを紛らわすように苦笑する。眉根を寄せた苦笑は引き絞った弓のようになり、気を抜けば涙の一つでもこぼれそうだった。




