魔神の骨と戦火の少女8
鳥のさえずりを遠くに聞いた。閉じられたカーテンに暖かな陽光がゆらめき、部屋全体が眠気をさそう暖かな空気に包まれている。
ユイナは体を起こす。麻酔の効力は消えていた。
ベッドの横ではペントとヨセフが椅子に座ったまま眠っている。夜通し見守っていてくれたらしい二人は、暖かな空気に包まれて気持ちよさそうに眠っていた。
ヨセフの寝顔を眺めているうちに、昨夜の告白を思い起こし、恥ずかしくも苦しい気持ちになる。彼にどんな返事をすればいいのか、彼とどう顔を向き合わせればいいのか、難しい悩みだった。
パチッと何かがはぜる音がした。
部屋が暖かいと思ったら、暖炉に残り火がちろちろとしていた。少し前まで薪をくべてくれていたようだ。
ベッドから抜けて靴を履き、窓辺に近づいてカーテンを開く。
「きれいな海……」
岬の先に建造されたこの城は、海側の窓から景色は、まるで海の上に浮いているようだった。視界に広がるのは海、海、そして、海峡の向こうにうっすらと見える大陸・ウィンスターの本土。アレス達は輸送船の乗組員としてあの大陸に向かうらしい。明日の昼には出港してしまうのだ。
その船に、私の姿はない。
それを思うとひどく淋しくなる。本当は彼らと一緒に行きたい。ぶつかった事もあるが、仲直りして、一緒に踊って、彼らに親愛の情を抱いてもいる。
でも、別れは決めた事だ。明日の夜明け前に馬を走らせ、シルバートの治安部隊に密告書を届ける手筈となっている。それを逃せば、ガモルド男爵やアリエッタにかけられた逆賊の汚名をすすぐ機会を失ってしまう。アレス達を危機にさらしたくはないが、家族を救うためには他に方法がなかった。
そう言えば、密告書の書き写し作業は途中だ。続きを書き写そうと思い、机に視線を向けると、机上は整理されていた。インクの小瓶は蓋が閉められ、アレスからもらった密告書は封筒へと収められている。その横に新しい手紙が置いてあった。手紙には、彼のせいではないのに、昨夜の事件で怖い思いをさせたことへのお詫びや、今度こそカーマルを逃がさないように閉じ込めていることが筆記体で書いてある。力強くのびやかで、それでいてやさしい字はアレスのものに違いなかった。だが、少々いびつに見えるのはどうしてだろうか。
ノックがあったのはそんな時だ。「どうぞ」と言うと、部屋にカトレアが入ってくる。
「体の調子はどう?」
「悪くないです。あの、昨夜はありがとうございました」
「怖い想いをしたわね……。眠れたかしら?」
「安心したら寝ていました。さっき目が覚めたところです」
「顔色は良くなったわね。――付き人は寝ているのね」
「はい、気持ちよさそうに寝ているから起こさないようにします」
カトレアが苦笑し、ユイナもつられて笑う。それから手にした手紙を見せる。
「あの、アレスから手紙をもらったんですけど……」
急に柳眉をひそめたユイナに、カトレアが気になって聞いた。
「それがどうかしたの?」
「字が震えていますけど、彼、腕とか怪我したのですか?」
キョトンとするカトレアだったが、急に噴き出して涙目になりながら口許を押さえる。
「ち、違うわユイナ。それは狼の姿で文字を書いたのよ。前足でペンを挟んでね」
「……、え?」
「こんな感じに前足にペンを挟んでふるふる震えていたのよ」
カトレアが両手を丸め、指の隙間にペンを挟むようにして、ちょこんと席に座るような仕草をして見せる。そのモノマネから、手紙を書くアレスの姿を想像する。
前足にペンを挟んだ銀狼が、まるで人間のように椅子に座って文字を書いている。それも慣れない行為でペン先をプルプル震わせているのだ。手紙を書いた本人は真剣なのだろうが、それがますますおかしくて、思わず噴き出した。
子供から見た大人ほどの体格差があるアレスが、急にかわいらしく感じられ、笑みがこぼれる。
ふと、鏡に映る自分がうれしそうに笑っているので瞬きした。同時に鏡映しの自分も目をパチクリさせる。気付かなかった。アレスの事を考えて自分があんな顔をするなんて。
ユイナは胸を押さえる。昨夜の、悪夢から救ってくれた銀狼はかっこよかった。それに、感謝の気持ちも湧き上がってくる。
そんな時、椅子に座って気持ちよさそうに寝ていたヨセフの体が傾いて隣のペントに頭突きをあたえ、二人は飛び跳ねるように起きた。
「な、なに?」
二人はまだ開ききってない目であたりを警戒し、ユイナが目覚めていることにキョトンとする。その顔がみるみる笑顔になる。
「こら、見張りがぐっすり眠っていてどうするの」
カトレアが子供を諭すように言い、「「すいません」」と二人とも謝る。
「おはよう」
ユイナは二人に挨拶をかけながら戸口へと歩みを進める。
「おはようユイ姉さん」
「ちょっとユイナ。どこに行くの?」
ドアノブに伸ばした手を止め、肩にかかる黒髪を揺らし、ユイナは笑顔で振り返って答える。
「アレスに助けてもらったお礼を言いに行きたいんです」
ユイナは足取りも軽く北塔の最上階まで駆け上がっていった。それから廊下に出たところで先客がいる事に気付いて、慌てて角に引っ込む。
恐る恐る角から顔を出すと、金髪少女がいきり立った顔でアレスの部屋に入っていくのが見えた。
『アレス!』
王女は部屋に入るなり大声を出した。ドアも半開きになっているので廊下の奥にいてもよく聞こえた。忍び足で部屋の戸口に近づくと、半開きになったドアから室内の様子をうかがえた。
『なんで朝からトレーニングなんてやってるのよ。少しは気を抜いたら?』
『今日は子供たちをオーデル伯爵の城まで送る日です。それに、明日は重要な作戦があります。気を抜くどころか高めていかなければなりません。ラインがオルモーラに来たことも気になります。まさか作戦に気付いているとは思えませんが、どうにも気になります』
王女はこちらに背を向け、腰に手を当てて戸口に立っている。その向こうにアレスを発見した瞬間、予想もしなかった光景に息を呑んだ。
アレスは逆立ちになり、腕の力だけで全体重のかかる肘を屈伸させていた。天井に向かってピンと伸びたつま先が、少しも揺れずに上下している。上半身を裸にしているので、肘を屈伸させるたびに、腕や肩の引き締まった筋肉が躍動している。魔術師のローブに身を包まれた姿がスマートに見えるので気付かなかったが、アレスの体は鍛え上げられ、しかも、倒立から背面に足を曲げられるほどの驚くべき柔軟性とバランス感覚も持ち合わせていた。きっと毎日欠かさずトレーニングを続けているのだろう。そうでなかったらあんな体を維持できるわけがない。
メリル王女は見慣れた光景なのか、特に驚いた様子もなく平然とした顔で言う。
『どこかで拾ってきた子供や作戦の心配はできても、私の心配はできないのね』
『どういう事ですか?』
『私が寝ている間にカーマルが地下牢から出て、いろいろと騒ぎを起こしたそうね』
『ええ、そうです』
アレスは少しも呼吸を乱した様子もなく答える。
『そんな恐ろしい事があったのに、私の身を案じて起こしに来てくれなかったじゃない』
『いえ、起こしに行きましたが、気持ちよさそうに眠っていたので起こせなかったのです』
『そ、そう……。だからって、ひょっとしたら睡眠薬を呑まされて眠っているところを襲われていたかもしれないのよ』
『いいえ、口もとに近付いてみましたが、睡眠薬のにおいは感じられませんでした』
『に、においまで嗅いだのね。女の寝息を嗅ぐなんて不謹慎だわ』
『そうですか?』
アレスは次のトレーニングへと移りながら聞く。
『そ、そうよ。……ま、私の事を心配してくれたのなら許すけど……』
王女は照れを隠すようにブロンドをさわっている。
『でも、今度から何かをする時は私の許可を得てからにして。アレスは勝手に物事を進める事があるから……前みたいに勝手にどこかに行って私に心労をかけないでよ』
『分かりました。次からはそうしましょう』
『それと、あの約束もちゃんと守ってよ』
『あの約束?』
皆目見当がつかなかったのか、トレーニングの手を止めてこちらを振り返る。部屋に顔をのぞかせていたユイナは、自然と彼と目を合わせてしまう。アレスが目を瞬かせ、それを勘違いして受け取った王女が『忘れたの!?』といきり立つ。
ユイナは戸口から顔を引っ込め、高鳴り始めた胸を押さえる。アレスと目を合わせただけだというのに、鼓動が激しくなったまま下がらない。しかし、
『全てが終わったら、私を舞姫に迎え入れてくれるという約束よ』
王女の言葉が冷水となって熱い鼓動に降りかかった。
しばらくその場を動けなかった。
舞姫に迎え入れてくれって、結婚するということ……?
ユイナは体の内側から湧き上がる情動に戸惑い、足下が崩れ去っていくような感覚に襲われた。その場にいるのが堪えられなくなり、部屋の前を離れる。一度足が動きだすと止まらなくなり、階段を駆け下りてしまう。
どうして逃げなくてはならないのだろう。
メリル王女と顔を合わせたくないから? 違う。二人が仲良くしている姿を見たくなかったからだ。アレスが自分ではなくメリル王女にやさしい顔を見せていると、胸の鼓動をぎりぎりと握り潰されるような苦しさに襲われるのだ。
「この気持ち……まさか、ヨセフも私のことを考えてこんな気持ちだったの……?」
――傍にいるだけで僕はうれしいんです。
――君のことを考えると夜も眠れなくなります。
――君を近くで見ていると、抱き締めたくなってしまうんです。
ユイナは廊下に立ち尽くし、窓から広がる青空を見上げる。
私は、アレスに恋をしているんだ……。
気付いた時にはもう遅い。恋しくて気になる相手には、将来を約束した王女がいるのだから……。仲のいいところを見せ付けられるのが、何よりも苦しかった。
瞳が熱くなり、鼻の奥がつんとして、涙が出てきた。
胸が痛い。胸を押さえても痛みは止まらない。
この痛みから解放してくれる彼は、王女の婚約者なのだ。




