魔神の骨と戦火の少女5
ユイナは割り当てられた部屋に案内された。そこは召使いの部屋を二つ繋げたほどの広さがあり、正面の窓からは昼下がりの海が見えていた。窓側に机が一つと帽子掛けや衣装がけ、左端の壁際にベッドが二つあり、ベッドに敷かれた毛布は落ち着いた花柄の奥にシルバートの紋章を包み込んでいた。そして、召使いの部屋にはなかった暖炉も設けられている。
「貴女とペントとヨセフの部屋はここよ。相部屋だけど我慢してね。緊急時はヨセフの指示に従って。――ヨセフは見張りについたのかしら」
「あ、戻ってきたみたいだよ」
ペントの言葉で振り返ると、廊下から駆け足の音が近づいてきた。
「ユイナさんはいましたか?」
息を切らしながら戸口に現れたのはヨセフという少年だった。子供たちを呼びに行く時、アレスが彼をそう呼んでいたから覚えている。
「ユイナならここにいるわよ」
「よかった。見つかったんですね」
相好をくずして部屋に入ってくるヨセフ。すっきりした感じの目鼻立ちでどことなく平民よりも貴族に近い感じだ。第二次成長期の真っ只中なのか、それとも最近の騒ぎで寝不足なのかニキビの目立つ顔だった。腕に魔術師のローブをひっかけている。
「彼がルームメイトのヨセフよ。後は貴方に任せるわね」
「わかりました」
部屋を出て行くカトレアと入れ違いにヨセフが入ってくる。ユイナはベッドの端に座るように勧められ、ヨセフから簡単に今後の説明をしてもらう事になった。
彼は腕に引っ掛けていたローブを机の上に置くと、親身な顔でユイナに向き直る。
「明日、荷馬車がやって来て、この城から酒樽を運び出すことになっています。子供たちにはその樽に隠れてもらい、僕は魔術師の護衛になりすましてオルモーラの街まで向かいます。そして誰にも気付かれないところで子供たちを荷馬車から降ろし、今度は別の荷馬車に乗り換え、オルモーラの街からオーデル伯爵の城まで移動することになっています。あとは伯爵の城でアレスたちが作戦を片付けて帰ってくるのを待ち、明後日の昼過ぎに貿易船に乗ってウィンスターの本土に向けて出港します」
彼はそこから更に詳しい日程をしゃべり続け、ユイナはそれを黙って聞いていた。
「安心してください」
そう言って、ウィンスター行きの船にどう乗り込むかの詳細まで説明してくれるあたり、彼はユイナがシルバートに帰ることを知らされていないようだ。ユイナ自身、ペントを連れて帰国するとカトレアに約束してしまったものの、まだ迷いを捨てきれずにいる。
それからどれほどの時間が過ぎただろうか。
「ユイナさん」
不意に呼ばれて「はい?」と顔を上げる。
部屋は机上のランプに照らされていた。いつしか窓の外は暗くなり、ランプの光を外に漏らさないようにカーテンが閉じられている。
「僕とペントは見張りをしないといけないのでこれで失礼します」
彼は机に置いていたローブに袖を通す。
「あの、私は何をすればいいんですか」
ベッドから立ち上がるユイナ。
「ユイナさんはここにいてください」
そう言って彼はユイナを制するが、ユイナは何かをしていたかった。
「私にも見張りをさせてください。遠目が利きますし、山育ちなので危険に対する勘だってあります。小さい頃は獣のうろつく山を一人で天女の泉まで水汲みにいっていたほどです」
「いいんです。ユイナさんはこの部屋に残っていてください。こういう事は男に任せてください。見張りに行こう、ペント」
彼はそう言って部屋を出て行く。
彼が懇意にしてくれているのは分かる。だが、なぜそこまで懇意にしてくれるのか理解できない。ヨセフの真意が掴めず、もしかして自分が役に立たないから手出し無用と言われているのだろうかと勘ぐったりもした。しかし、彼には悪気はなさそうだった。
とにかく何もする事がなくなり、ユイナは一人、部屋に取り残されてしまった。
静かな部屋でアレスから押し付けられた密告書を持て余しながらぼんやりとする。
良質なランプ油は炎を揺らめかせることもなく部屋を薄黄色に照らしていたが、それでも強くなってきた夜の気配は窓ガラスを抜け、カーテンをくぐって足元に忍び寄ってくる。
ユイナはベッドの端に膝を抱えて座り、横にある暖炉に目を向けた。
石造りの暖炉はアーチを描いており、奇しくもファーレン家の暖炉と同型だった。
まるでガモルド男爵の元へ帰るべきだと告げられているような気がした。そういえば、初めてガモルド男爵の家に連れてこられた時も、暖炉の前で膝を抱えていた。
もう、六年以上前のことだろうか――
ガモルド男爵に拾われた寒い夜も暖炉の前で膝を抱えて丸まり、やさしく揺らめく暖炉の炎を飽きもせず眺めていたものだ。差し出されるご馳走など見向きもしなかった。あの時は奴隷商人にシェスを殺されたショックで食事がのどを通らなかった。ガモルド男爵は何も言わず、ユイナが何かを食べたいと言い出すまで待ってくれていた。そのやさしさに触れた時、初めてガモルド男爵の前で涙を流した。六年の歳月が過ぎた今でも鮮明に思い出せる。幼いながらもこの人に恩返しをしようと強く思ったのはその時だった。
ふと、ユイナはベッドから立ち上がる。召使いの部屋に大切な物を置いたままにしているのを思い出したのだ。
部屋を出て暗い渡り廊を歩いていくと、舞踊劇に使った中庭のテラスがすっかり夜の色に染まっている。今思い返してみればラインハルト侯爵が来る前に椅子やシートを片付けておいてよかった。出しっぱなしにしていたら怪しまれたに違いない。
階下におりたユイナは一室のドアを開けて暗い召使いの部屋に入る。昨夜までペントと一緒に寝泊りしていた部屋だ。舞姫学校の制服はベッドの上にきちんと畳んで置かれていた。暗い室内ですぐに制服を認められたのは、ビッツリー産の純白布を生地に使っているからだ。わずかな月明かりでさえ制服を輝かせる光となる。
ユイナはベッドに近付き、制服を抱きしめる。
ガモルド男爵がお金をやりくりして買ってくれた最高級の制服。
「売れなくてよかった……」
高額の着物だからではない。ガモルド男爵が苦心して買ってくれた物だからだ。それに、これさえあればまたガモルド男爵やアリエッタとの生活に戻れるような気がしていた。
ユイナは制服を抱き締め、もう一度心に誓う。
「ガモルド様。私は絶対に汚名を返上して帰ります」
***
クフー……、クフー……、クフー……、クフー……、クフー……
気が狂いそうなほどの常闇に包まれた牢獄に、獣にも似た荒い息遣いが聞こえてくる。それは猿ぐつわの隙間から漏れ出る自分の呼吸だ。カーマルは深い闇の世界で目を見開いていた。結婚祝宴でかつてない恥をかかされたこと、下民の人間たちに屈辱の視線を浴びせられたこと、全てが怒りとなって瞳の奥で渦巻いている。
私が魔術師なら空間に穴が開いているな……。
猿ぐつわで引き縛られた口元をさらに吊り上げてニヤリとする。
いや、あんな野蛮な力など貴族の私に必要か?
必要ではないな。魔術などなくとも、私には庶民を下僕として動かすだけの金がある。
カーマルの手首には頑丈な枷がはめられている。猿ぐつわまで噛まされて常闇の牢獄に閉じ込められている。小心者ならとっくに心が折れて狂人になっていてもおかしくないのだが、カーマルは怒鳴るでもなく、ましてや泣き喚くこともしない。ただ脳裏に黒髪の少女を思い描きながら静かな欲望と復讐を腹の底に溜めていた。
かれこれ何時間も協力者が来るのを待っている。その人物がそろそろ地下牢への階段を下りてきてもいいのだが……、いや、来たようだ。
石段の上から黒い人影が手探りで降りてくる。誰かに見つかるのがよほど怖いらしく、ランプを持ってこなかったようだ。しばらく足音をたてずに下りてきた黒い人影は、踏み出した先がすでに石畳の床であることに気付かず踏鞴をふんだ。
「こっひだ」
こっちだ、と言ったつもりだったが、情けない声しか出なかった。
人影は声の出所を目標にしてカーマルの居場所を探す。少しずつ常闇にも目が慣れてきたのか、人影は牢の鉄格子を掴んでカーマルの前まで来ると、鍵穴を探して手を動かした。それもすぐに見つかり、重い鉄格子が開かれる。獄中に入ってきた人物が猿ぐつわを外し、次に手枷を外していく。
「遅かったな」
カーマルは自由になった手首の動きを確かめながら何の感情を込めるでもなく言った。それがこの暗闇では不気味に聞こえるのか人影は慌てた。
「いえ、見張りが多くて鍵を取りに行けなかったのです」
「この城に誰かが来たようだが?」
「はい」
「誰だ。城に来た奴は」
「え、あ、ラインハルトとかいうシルバートの侯爵です」
「ラインハルト候だと……?」
カーマルは瞠目した。その名はよく知っている。“百雷”の二つ名をシルバート国王より与えられた魔術師であり、若くして第一連隊の総司令官にまで任命された稀代の人物である。そんな魔術師がアレスを追ってここまで出向いたということは、それなりの確信があるからに違いない。もしアレスが捕まるような事があれば、彼を匿っていたメリル王女も捕まるだろう。そうなればカーマル家の目論見が露見するのも時間の問題となる。
やはり父さんは無謀な橋を渡ろうとしていたのですよ。
内心で毒づき、
「棚に置いていた小瓶は持ってきたな?」
「これでしょうか」
人影から薬液の入った小瓶を受け取る。その小瓶の蓋を暗闇の中で開け、痺れるようなにおいを確認してから蓋を閉じる。
「ラインハルト候はどの部屋に泊まっているのだ?」
計画を遂行するためにも危険な場所は避けるべきだ。
「それが……どうも他に用事があるらしく、街の宿舎に泊まっているそうです」
「オルモーラの街にか?」
「は、はい」
カーマルは不審に思う。
貴族が平民の宿舎に泊まるなど考えられないのだ。しかし、この城にラインハルト侯爵がいないのなら好都合だ。カーマルにとって今は一人の少女をどうにかできればいいのだ。
「それで、あの娘の部屋はどこだ」
「言われたとおり、北塔の二階にある右端の部屋にしました。……同室の人間は屋上の見張りに行っていますから……今は一人のはずです」
次第に人影の声が弱くなったが、意を決したように顔を上げた。
「あの、話をするだけですよね……?」
「二人きりで話がしたい。それ以外に何がある?」
「いえ、何でもありません」
この男、怖気付いたか。
「他言すれば分かっているな。貴様も疑いはかけられたくないだろ?」
カーマルは薬の小瓶をポケットに入れ、服を正しながら釘を刺す。
「わかっています……」
カーマルはそれを確認すると牢獄を出る。人影が金貨を握り締めたまま後ろで震えているのが分かる。そんな人影を内心で蔑みながら中庭への石段に足を乗せていく。そして一人の少女を脳裏に想い浮かべる。
想像の中で、舞姫学校の制服に身を包んだ少女が、可憐に踊っている。その柔らかくしなやかな肌、その健気で芯のある声、その溌剌とした若い女の匂い、どれもこれもが甘美な刺激となる。計画が順調にいけば合法的に自分のモノになるはずだった。だが、それも全てが水の泡となった。今はただ、水の泡となった全てをぐちゃぐちゃにしてしまいたい。
「ククク……」
カーマルは昂ぶる感情を抑えきれず、噛み合せた歯の隙間から笑いをこぼす。
嗜虐的で貪欲な内面が貴族としての体面を突き破ろうとしていた。もしそこに少しでも亀裂が入ろうものなら、まるで熟れた果実の皮をはぐようにして欲望がむき出しになるだろう。貴族という皮の裏に抑圧してきた人格は、表に出すこともできず、裏で消化することもできず、情欲のへどろとなってカーマルという人間を形成している。それが表の人格と入れ替わろうとしているのだ。
ふと、カーマルは気付いた。石段を踏む足が笑っている。
破滅への道に震えているのだろうか、それともこれから味わう未知の快楽に奮えているのだろうか。




