孤独の闇と二人の剣舞15
海岸沿いに歩き、待ち合わせの林に身を隠したユイナは、そわそわとして落ち着かず、何度も木陰から顔を出して城の様子をうかがっていた。
数秒前、城のテラスに金髪の少女が現れた。人の姿など豆粒に見える距離だが、彼女がメリル王女である事は、豪奢な着物ですぐに分かった。メリル王女はテラスの先で水晶玉を掲げ、呪文を唱えているようだった。さらに数秒後、王女の眼前に緑色の巨大魔口が展開され、そこから人間の五倍はあろうかという怪鳥がぬらりと現れた。
槍のような嘴、鎧のような光沢を放つ胸、それでいて、しなやかに伸びる羽。あまりの大きさに、遠目にも禍々しい姿を視認できる。その怪鳥は王女を背中に乗せると、テラスを包めるほどの両翼をゆっくりとはばたかせて飛翔し、なめらかに滑りながら城の上空を旋回した。
――私を捜しているんだ。
間違いなく敵だと思われただろう。反逆者として追われるまま逃げて、シルバートの追手から逃げて、賞金目当ての村人から逃げて、そして今度は、信じてくれたアレスのもとからも離れようとしている。
――アレスから離れるべきではなかったのではないか。
そんな後悔に駆られて心が落ち着かない。
今までシルバートの追手から護ってくれたのも、賞金目当ての村人から護ってくれたのもアレスだった。だから今回も、アレスが助けてくれるのではないか。
心のどこかでそんな願いを捨てきれずにいる。同時に、彼に依存している自分に気付き、驚き呆れた。そもそもシルバートの国家反逆者にされたのは彼のせいだ。多量に出血するほどの噛み傷を負わされ、脅されながらも彼を匿ったために追われる身となってしまった。本来なら憎むべき相手だ。
しかし、そんな彼を信じている。
左腕の傷に触れる。あの夜、銀狼に深々と噛まれた傷だが、痛みはなくなっていた。適切な応急手当ができたおかげで傷も薄れてきた。それ以上にアレスに対する憎しみが消えていた。
カーマルは、アレスを口だけの男だと言った。だが、そうではない事をユイナは知っている。アレスがどんな人間か、シルバートの国を逃げながら寝食をともにして、ずっと近くで見てきたつもりだ。彼は愚直なまでに誠実で、何かを途中で投げ出すことができない人だ。ユイナに憎しみの心なんてないのに、それでも罪を償い続けようとする人だ。
そんな彼が、自白剤を呑ませようとするメリル王女の行為を許すだろうか。とてもそうは思えない。彼ならきっと止めてくれるはずだ。
しかし、城を抜け出した今となっては確かめようがない。真実を確かめないまま逃げてきた事が、今さらになって胸苦しくさせた。
後ろ髪を引かれるように城へと視線を戻す。ちょうど城門が開かれ、黒塗りの馬車が出てくるところだった。馬車には二つの人影が見える。運転席で馬を操っているのは猫背の魔術師で、その後ろの乗車席にもう一人いた。二人とも頭から爪先までローブを被っていて顔は見えないが、乗車席に座っているのはカーマルだと推測できた。
馬車はまっすぐこちらに向かってくる。城外を許可されているのか、上空のメリル王女に引き止められる様子はない。
ユイナはカーマルと合流できるように林の中を移動し、道端に身を隠して馬車がやって来るのを待った。
馬車は草原の道を抜けて林道へと入って来る。運転席で手綱を握るのは仮面をつけた魔術師で、カーマルにつき従っていた人物だった。胸に迷いを抱えたまま道の脇に出ると、ユイナに気付いた魔術師が手綱を引いて馬車を止めた。
「うまくいったようだな」
上空を仰ぎ見たカーマルが、木々の隙間からメリル王女が遠い空を飛んでいるのを確認し、馬車を降りてきた。
「カーマル様……」
ユイナは道端に突っ立ったまま声を濁らせた。
「どうした」
「こうして逃げる事が最善なのでしょうか。逃げれば逃げるほど、追われてしまいます」
「ここまで逃げてしまった事を忘れるな」
「私は――」
「君は」
カーマルが言葉を遮るように語気を強くした。
「アレスから聞いたが、君はお金を用意できなかったのだろう。そして借金を返せない場合、私の舞姫になると誓約したはずだ。忘れたわけではないだろう?」
詰め寄られると、口をつぐむしかなかった。誓約書は絶対だ。破れば重い刑に処せられても文句は言えない。
「だとしたら夫になる私の指示に従うんだ」
ユイナは諦めて馬車へと目を向ける。黒塗りの屋根なし馬車が木漏れ日をうけて斑に光っている。
「これからどうするのですか。馬車には屋根がないですし、このままの格好だと林を出た瞬間に上空から見つかってしまいます」
「それを回避する策なら用意してある。ユイナ、君はローブを着て後ろの席に座れ。馬車の運転は私がする」
カーマルはそう言うと運転席の護衛魔術師を振り返る。
「お前のローブをユイナに渡せ」
ところが魔術師はローブを脱ごうとはせず、馬車の上からユイナとカーマルを見下ろしている。
「何をぐずぐずしている。早くローブを脱げ」
苛立ちの混じる命令に対し、魔術師は自分の人差し指を鉤爪のように曲げて口に咥えると、大きく息を吸い込む。
「!?」
それが指笛だと気付いた時には手遅れだった。固まるユイナの前で、耳をつんざくような音が林の天井を突き破り、遠くの空へと抜けていく。
「な、何をする!」
焦ったカーマルが怒鳴った。
魔術師は「メリル王女を呼んだだけだ」と、掠れ声を返してくる。
「貴様ッ、裏切るのか…!」
「裏切る? 私は最初から貴方の監視をしていただけだ。貴方がそのスパイを連れ出す事はメリル王女も察していた。だから、林に逃げ込むまで待っていた。その娘を闇から闇へ葬り去るためにな」
ユイナは震えあがった。
人目のないところまで逃がしたのは、暗殺するつもりで……?
「ま、待ってください! 私はスパイではありません! 本当は逃げるつもりもありませんでした。牢獄でもその事を訴えていたはずです。信じてください本当なんです」
身の潔白を訴えようとしたが無駄だった。
仮面の魔術師は呪文を唱え、胸の前に魔力を凝縮した銀水色の魔口を生み出した。魔術師はその中に手をねじ込むと冷気とともに長剣を引き抜いた。
白銀の冷気を纏う諸刃の身は、ガラスのように透明で一片の曇りもなく、切っ先に触れた馬車の手すりを音もなく斬り落とした。
氷剣の切れ味に、本能が逃げろと言っている。だが、仮面の魔術師に背を向けたなら、首と胴体がつながっている保証はどこにもない。それほどの殺気を放っていた。
ユイナは息を呑んでカーマルと一緒に後ずさりする。しかし、その退路を断つように上空から肉の塊がボトボトと落ちてきた。
落ちてきた数十もの塊は四肢を広げて獣となり、あっという間にユイナとカーマルを取り囲んでしまう。その頭上を、怪鳥が滑空した。荒々しく木々の枝をへし折り、着地寸前の巨大な羽ばたきで落下を止め、ふわりと林道に着地する。羽ばたきによる分厚い風が一面に吹き抜け、ユイナの制服やカーマルのローブがバタバタとはためいた。
「しっぽを出したわね」
怪鳥の背中からメリル王女が降りてくる。背丈も年齢もユイナとほぼ同じ少女。しかし、陽射しを受けて煌くブロンドや見る者を吸い込むエメラルド色の瞳は王族としての片鱗を覗かせ始めている。
「貴女の命運もここまでね。少しでも怪しい動きをしたら私の魔獣が貴女を噛み殺すわよ」
メリル王女はそう言い、それからエメラルドの目をカーマルに向ける。
「貴方はこっちに戻りなさい。今なら謹慎処分で許してあげるわ」
カーマルは首を横に振る。
「私は彼女がスパイではない事を信じています。そもそも本当にスパイなら律儀に誓約を守るために城へ戻ってくるなど有り得ない話です」
ユイナはごくりと息を呑み、横のカーマルに視線を向ける。
右にはメリル王女。左には仮面の魔術師。そして、ユイナを取り囲む魔獣。そんな窮地にあってカーマルは勇敢に立ち向かっていた。
「彼女はスパイではない」
「言う事をきかないなら力尽くでいかせてもらうわよ」
メリル王女が脅す。しかし、
「私の舞姫に手出しはさせない」
魔術も使えないカーマルが果敢にも守ってくれることに驚いた。
彼を誤解していたのかもしれない。
「待ってくださいカーマル様。私に話をさせてください」
一歩前に出ると、メリル王女の指がピクリと動いたが、ユイナに敵意がないので、攻撃はされなかった。周囲の魔獣が臨戦態勢で牙をむき出しにしている。これがバチルダ王女だったら問答無用で殺しにかかっているところだ。
もしかすると、メリル王女にはそこまでの冷酷さはないのではないか。もしそうなら、話し合いの余地があると思った。
「敵がいるかもしれないのに城を抜け出したのは、オルモーラの街でお金を用意するためでした。今では軽率な行動だったと反省しています。それに、テンマさんを魔力中毒にしてしまいました。そのせいでカトレアさんも……。身勝手な行動でみんなを危険にさらしたことを、お詫びします。申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げて謝り、それから顔を上げる。
「ですが、私は本当にスパイではありません。それだけは信じてください」
魔術師や魔獣に狙われた状態で懸命に伝えようとする。
生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
「私は、真王戦争で実の両親を失い、孤児として隠れていたところをガモルド男爵に拾われました。ご存知かもしれませんが、養父は、小麦の大量生産に成功し、国に大きく貢献したとして、国王から男爵の地位を与えられたガモルド・ファーレンです。私は拾っていただいたガモルド様への恩を返すために、舞姫学校で花嫁修業をしてきました。朝から夕方まで講義や踊りの練習をしているので、重要な機密情報を盗む事もできませんし、できる立場でもありません」
「貴女がガモルド男爵の養子であるという証拠は?」
男爵の養子である証拠?
そんなものどうやって証明すればいいのかと思い、ハッと自分の黒髪に触れる。
「証拠はこの黒い髪です。私の黒髪は珍しいらしく、舞姫学校『セフィル』に通う他の生徒からは、魔力中毒にかかっているようだと気味悪がられていました。そんな事を言われているのは、ガモルド男爵の娘である私だけです。学校では有名な話ですから、調べていただければすぐに分かると思います」
ユイナの手に力がこもった。身分をしっかりと証明できれば、貴族の娘だと分かれば、いきなり殺される事はないと思った。少なくとも身分を確認するまでは身の安全を守れるのではないか。ところが――
「貴女が貴族だったとして、スパイではないという証拠がどこにあるの?」
「え?」
「学校には貴族令嬢が多く集まっているわね。その親には国家機密に関わる人物も多数いるわ。たとえば、バチルダ第二王女とか。そこから得られる機密情報もあるでしょ。それが狙いで男爵に近付いたのではなくて?」
「そんなっ」
言いがかりだ。男爵と私はそんな関係ではない。命の恩人なのだ。しかし、それを証明する方法がない。
「それで?」
続きを促され、頭が真っ白になった。何を言ってもこの場を覆すのは不可能なのではないか。言葉が空回りして、魔獣に食い殺される未来を想像してしまう。
そんな時、潔白を示す方法に気付いた。しかし、それはあまりにも危険で――
「それでも疑われるのでしたら……」
緊張でのどが渇いていく。でも、覚悟を決めなければ本当に殺される。
「もし疑われるのでしたら、自白剤を呑んででも、無実を証明するしかありません……」
「ユイナ! 自分が何を言っているのかわかっているのか」
カーマルが止めようとしてくる。だけど、道はそれしかないのだ。
「わかったわ。そこまで言うのだったらネプルスの白粉を呑んでもらおうじゃない。嫌とは言わせないわよ」
メリル王女は冷たく言い放ち、粉の入った小瓶を出してきた。それがネプルスの白粉なのだろう。数歩近付いて、地面に小瓶を置く。
「さぁ、薬を取って呑みなさい」
ユイナは小瓶を見詰めたまま怖くなった。足が震えている。
あの白い粉を呑めば身の潔白を証明できるかもしれない。しかし、それと引き換えに思考力を失い、廃人になるかもしれないと思うと、足がすくんで前に出ないのだ。
「早くしなさい」
脅すように急かされ、まるで処刑台に向かうような気持ちで歩き、小瓶を拾い上げる。中の白い粉は、細かい砂のようにさらさらしていた。
廃人になるかもしれない粉を、いったい、どれだけ呑めばいいの?
メリル王女が冷たい目で見ている。
全部……?
そうしなければ許さないと言われている気がした。
恐怖で喉が渇く。
だけど、呑まなければ無実は証明できない。
蓋を開け、こわばる口を開き、意を決して白粉を仰ぐ。
「もういい」
いつの間にか仮面の魔術師が眼前にいた。
大きな手で、ユイナの手を包むようにして小瓶の口をふさいでいた。
白粉は一粒も落ちることなく、小瓶の中に留まっている。
「どういう事。これからでしょ」
「彼女にスパイをする度胸はありません。また、それだけの器もありません」
仮面の魔術師は言った。
ユイナは彼を見上げていた。彼の声が狼のように力強いことに目を見開いた。
「まさか、アレスなの……?」
依然として緊迫した空気の中で、仮面の魔術師に話しかける。曲がっていた背筋はすらりと伸び、青みがかった銀髪が仮面の横に流れていた。
「その女がスパイではないと言い切る根拠は何?」
不機嫌な顔で問いかけるメリル王女に、仮面の魔術師、アレスは振り向いた。
「まずは自白剤を知らなかった事です。スパイであるなら軍事機密とされている自白剤の名前も、特徴も、効用も、そして副作用や後遺症も知っているはずです。ところが、彼女はネプルスの白粉について無知でした。それどころか自白剤を呑んで身の潔白を証明しようとしていました。当然です。舞姫学校では絶対に教わらないことですから。しかし、それを知ってからでも彼女は証明の為に呑む覚悟を見せたわけですが……」
アレスが小瓶を引き取り、蓋を閉じる。
「そしてもう一つ、彼女はカーマルを人質にしませんでした。いくら強力な魔術を使えるとはいえ、これだけ囲まれた状態で一度に攻められれば魔口一つでは対応できません。この場を切り抜けるにはカーマルを人質にするしかありませんが、彼女はそれすらもしませんでした。どれをとっても特殊な訓練を積んだ手練とは呼べません」
そういう事です、とカーマルがメリル王女へと向き直る。
「彼女の身の潔白は証明できたわけです。魔獣を戻してもらえませんか」
メリル王女はユイナを一瞥する。
「私はまだその女を信用したわけではないわ。しばらくは監視をつけるから」
王女が水晶玉を掲げて呪文を唱えると、緑紋が刻まれた魔口が開かれ、ユイナを取り囲んでいた魔獣を呼び寄せる。魔獣たちは魔口に近付くと、躊躇せずに穴の向こう側へと消えていった。
メリル王女は憎々しげにユイナを睨みつけ、さっさと怪鳥の背に乗って飛び立っていく。
放心状態でそれを見上げていたユイナの肩にカーマルの手が回される。
「私達も城へ戻ろう」
「ちょ、ちょっと待ってください。これは、すべて芝居だったのですか」
「そういう事だ。私達は君がスパイかどうかを確かめていたのだよ。そして君にかけられていた容疑は晴れたわけだ」
「行くぞ」
アレスが声をかける。
アレスとカーマルのおかげでスパイ容疑が晴れた。
それが嘘も紛れもない真実なのだと、にわかには信じられなかった。




