舞姫見習いと銀色の狼3
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麦畑を抜け、長い山道を進んでいくと、峠に差し掛かったところで白一色の眩しい街並みが姿を現した。舞姫学校『セフィル』だ。
四方を小高い丘に囲まれた学校は、大河の支流を二つもまたぐほど広大で、大自然をしのぐほどの荘厳さも兼ね備えている。五歳から二十歳までの令嬢を教育する学校セフィルの生徒数は千人。国内最大の学校は石灰岩で造られており、そのまばゆい外観だけでも圧巻だ。
校内の建物も充実しており、最大級の図書館と踊りの稽古場、一般教養を学ぶための校舎は各学年に一つずつあり、寄宿舎だけでも三十棟近く存在する。中でもひと際目を引くのは、中央にそびえる神殿造りの礼拝堂だろう。そこに祭ってあるのは世界を創ったとされる四人の天女だ。『セフィル』という学校名は、北の大地を守護する大天女セフィルから名を頂戴している。
学校の東門で馬車は止まった。
「ありがとうございます」
道路に降り立ったユイナは、御者に礼を言った。
早く来てしまったので、周囲には門前の警備兵がいるだけで、他の人影はなかった。
去っていく馬車を見送ったユイナは、学校には入らずに車道を横断した。そして、道端の茂みを掻き分け、隠された小道へと足を踏み入れた。昔はここにも茂みがあったのだが、切り開いて通い続けているうちに道になっていた。
細い道を登っていくと、高台に出てくる。視界の開けた高台からは舞姫学校だけでなく、その向こうに広がる荒野まで見渡す事ができた。お気に入りの稽古場だ。この場所を使っているのはユイナと、親友のティニーだけなので、落ち着いて練習できる。
弁当が転がらないように木の根元に置いたユイナは、首にかけたペンダントを制服の上から触り、よし、と自分に気合を入れた。朝風につややかな黒髪を流し、凛とした瞳で舞姫学校を見渡す。
選考会で選ばれるには、同級生だけでなく、数百人以上いる上級生にも勝たなければならない。上級生はしっとりと優雅に踊るだろう。まだ女性としての体が出来上がっていないユイナにとって、そのような踊りは難しい。優雅さにかけては、女性の体ができあがった上級生の方が有利だ。しかし、だからといって諦めるわけにはいかない。幸運なことに、山で育ったユイナには、他の令嬢にはない身体能力と平衡感覚があった。
優雅さで勝てないなら、身軽さを活かしたダンスで勝負しよう。
選考会では誰もそんなダンスをしないだろうから、逆に目を引くかもしれない。それが吉とでるか凶とでるかは分からないが、とにかく挑戦してみるしかない。ガモルド男爵の期待に応えるためにも、負けるわけにはいかないのだ。
爪先立ちになったユイナは、吹き抜ける風の中を軽やかに跳んだ。
この国には身分制度がある。上から国王、貴族、魔術師、高職と呼ばれる貴族の身の回りで働く者、それから平民と並び、さらに下には居住権すら与えられない下民(浮浪者)という階層がある。幼少まで山奥で育ったユイナは下民だったのだろう。
ファーレン家の養子に迎えられて貴族になったものの中身は伴っていなかった。ダンスができず、礼儀や作法を知らず、文字の読み書きができなかった。
そのため、舞姫学校への入学に向けて厳しい教育が行われた。
夜明け前からダンスの練習が始まり、疲れきった所で朝食になるのだが、そこでテーブルマナーを叩き込まれ、それが終わると文字の読み書きが始まった。そういう生活が朝から晩まで続き、濁流に飲み込まれるようにして眠りにつく。そして次の日が始まる。
苦しい日々だったが、恩人のガモルド男爵に認めてもらいたくて、ただそれだけを心の支えに耐えた。
半年後、八歳になったユイナは少しの期待と多くの不安を抱えて舞姫学校『セフィル』に入学した。初めて足を踏み入れた学校は、見るもの、聞くもの、触るもの全てが新鮮だった。
石灰石でできた純白の校舎、中心に建つ礼拝堂は見上げる程に高く神秘的で、礼拝堂の奥には、世界を支える四大天女の麗姿が飾られていた。教師には凛とした美しさがあり、同年代の生徒でさえ華やかに映った。
まぶしいような学生生活は、しかし、裏の顔があるのだとすぐに気づかされる。
貴族と平民の間には越えられない壁がある。その一つが教育だった。教育の違いから、平民の子は平民となり、貴族の子は貴族となる。教育に格差をつける事で、つまり差別することで、身分制度は維持されてきた。
ユイナは差別された。ファーレン家は平民からの成り上がりで、由緒正しい貴族からしたら目障りな存在だった。
授業は受けられるが、ファーレン家を軽蔑する生徒や先生から酷い仕打ちを受けた。作法についての授業では一人だけ後ろに立たされ、神話の本を破られ、薬術の授業では痺れ薬まで飲まされた。礼儀や作法を重んじる貴族にあるまじき行為で、笑いものにされた。もちろん男性と出会うための社交パーティーにも参加できなかった。勇気を振り絞って向かったパーティー会場で門前払いにされたのだ。
悔しかった。しかし、何も出来なかった。仕返しをしたら罪に問われると養父から教わった。裁判になれば、どれほど正当な理由があろうと勝ち目はないのだと。だから、どれほど怒りや憎しみを抱えようとも、口を引き結んで耐えるしかなかった。
しかし、そんなユイナに手を差し伸べてくれる貴族もいた。ダンスの先生だ。踊りに身分は関係ないという信念で、ダンスの時間だけはまともに授業を受けることができた。いつもは意地悪なクラスメートも、踊る時だけは手出しできなかった。
ユイナがうまく踊れると先生は褒めてくれた。男爵やアリエッタ以外の人に褒められたのは初めてだった。嬉しかった。身も心も解放されるダンスの時間は楽しかったし、なにより、公平に評価してくれる先生にもっと踊りを見て欲しかった。
授業が終わると、近くの山へと分け入り、高台で夕陽が沈むまで踊った。そうしているうちに友達ができ、彼女と一緒に練習するようになった。ダンスの先生が学校を引退してからも一日も休むことなく踊り続け、五年以上の月日が流れた。
そして現在、もうすぐ十四歳になるユイナは、秘密の高台で全身全霊をこめて踊る。今まで流してきた汗や、血や、苦しみに耐えてきた涙が、目に見えない結晶となり、躍動感を与えてくれる。
ユイナは空に向かって跳んだ。そして音もなく爪先で着地すると、綺麗にターンをして最後の姿勢をゆっくりと流して止める。そしてほっと息をついた。踊りきった体には、全てから解放された余韻と充実感が残っていた。
その時、近くの茂みから小さな拍手が送られた。驚いてそちらに目を向けると、小柄な少女が出てきた。ユイナより頭一つ分は背が低く、顔もそれと同じぐらいに幼く、茶色っぽいショートヘアが似合っている。彼女はユイナと同じ舞姫学校の制服を着ていた。
「ティニー」
久しぶりに会えた親友に、自然と笑顔になった。
「すごいよ。わたし、見惚れちゃった」
ティニー・ウェストはかわいらしく笑った。