孤独の闇と二人の剣舞1
ユイナは舞姫学校の制服を入れた荷袋を両腕で抱き締め、前方の木々に肩をあずけるようにして林の中を進んでいた。ひざがカクカクと震えていて、地面を踏む足が定まらない。木々にもたれかかっていないと、すぐにでも倒れてしまいそうだった。
手足は魔力の毒によって麻痺しており、喘ぐような激しい呼吸で胸が張り裂けそうだ。木の幹に背中を預けて休みたい。
しかし、立ち止まるわけにはいかなかった。メリル王女の怪鳥が遠くの空に飛んでいるのが見えた。まだ見つかってはいないが、このままでは時間の問題だ。もしも捕まったら、借金返済のお金も用意できなくなってしまう。だから、痺れる足に鞭を打って林の中を急いでいる。
テンマに見張られていたなんて……。
見張りがいないタイミングを狙ったつもりなのに……。
ユイナは唇を噛み締めて後悔する。
誰にも気付かれないように城を抜け出して、街で舞姫学校の制服を換金してもらい、こっそりと城に戻ってきて借金の返済をするつもりだった。
ところが城から離れようとした途端、上空からテンマが襲いかかってきた。頭上へと振り下ろされる槍に殺気を感じ、咄嗟に魔口で受け止められたのは奇蹟といってもいい。魔術師達との戦闘で研ぎ澄まされた防衛本能が瞬間的に空間をねじ切り、魔口の盾で攻撃を防げた。だが、開かれた魔口は不完全だった。テンマの槍に貫かれた黒い穴は急激に集束し、黒い稲妻となって空間を引き裂いた。
それからどうなったのか自分でもあまり覚えていない。気付いたら林まで弾き飛ばされていて、魔力の毒で体が痺れていて、城門前の草むらにテンマがぐったりと転がっているのが見えて、取り返しのつかない事をしたと思うと怖くなり、痺れる手足に鞭を打って逃げ出したのだ。
そうして満身創痍の体で林の中を進んでいる。まっすぐ立つ事もままならず、木々にすがり付きながら前に進んでいる。
後戻りはできない。瀕死のテンマを置き去りにして逃げてしまったのだから。あそこで引き返すほどの勇気を持てなかった。突然テンマに襲われたことで冷静さを失い、殺されるのではないかと恐怖に駆られ、逃げてしまった。今ごろはメリル王女やアレス達が血眼になって自分を捜しているはずだ。だから逃げるしかないのに、手足が痺れて思うように走れない。
木の幹に肩を預け、震える指先で目許を押さえる。めまいが酷い。まっすぐ立っているつもりなのに、地面が揺れているかのように体がふらついてしまう。
頭上から差し込んでくる木漏れ日が、林を斜めに切り裂いていた。それは木漏れ日というより、煌く刃に見える。その白刃がいくつも地面に突き立ち、来る者を切り刻もうと待ち構えているのだ。
ユイナは木漏れ日から離れて歩こうとする。だが、痺れた足が棒のように硬直して前に進む事ができなかった。仕方なく木幹に体を寄せたまま一呼吸入れる。
『大丈夫? 顔色が悪いようですよ』
矢庭に前方から声をかけられ、びくっと顔を上げる。今まで誰もいなかったはずの場所に、ふっくら顔のおばあさんが立っていた。おばあさんといっても背中はまっすぐ伸び、その立ち姿には気品さえ感じられる。遠足の途中なのか、ひかえめなワンピースの上にカーディガンを羽織り、手にはバスケットを提げている。
「もし、私の声が聞こえますか?」
おばあさんは帽子のツバを持ち上げ、心配顔でもう一度聞いてきた。
ユイナが言葉もなく突っ立っていると、どうしても気になるらしく、「そのままじっとしてなさい。今行くわ」と、木の根を跨いで木漏れ日の中を近付いてくる。
おばあさんとの距離が詰まってくるにつれ、ユイナは精神的に圧迫を感じて身を引いた。そのまま逃げようとして、不意に体が浮くのを感じた。違う、両足をもつれさせてしまい、体が傾いたのだ。咄嗟に木にしがみ付こうとしたが、ずるりと滑ってそのまま横向きに倒れる。
「いたっ……!」
そんな自分の声を遠くに聞いたような気がした。起き上がろうとしても魔力の毒が全身に回って力が入らず、駆けつけてきたおばあさんに助け起こされて木の幹に背中を預けさせられる。
意識が朦朧としておばあさんの顔さえまともに見えない。頭がぐるぐると振り回されているようで、座っているだけでも苦しい。魔力の毒がこれほど苦しいものだとは知らなかった。こんな苦しみをペントにさせてしまったのか、そう思うと後悔の気持ちで一杯になった。
「しっかりなさい! すぐに治療してあげるわ。寝てはダメよ。毒の分離ができなくなるわ」
意識を失わせまいと声をかけるおばあさんは、何やら聞きなれない言葉を口ずさみながらユイナの手足を優しくさすっていく。
彼女の手は柔らかくあたたかい。それがどんな効果をもたらすのかは分からなかったが、少しずつ体の力が抜けていき、それと一緒に痺れも遠退いていくのがわかった。
ユイナは瞳を閉じて、しばらくおばあさんに身を任せていた。あまりに脱力してしまって抵抗する気力さえ残っていなかった。
どれくらいの時間が経ってからか、おばあさんの手がゆっくりと離れた。
「これで楽になったはずよ。目を開けてごらんなさい」
やさしい口調とともに肩を軽くたたかれた。ユイナはまどろみから起き上がるようにそっと目を開けてみる。木漏れ日がまぶしくて少し目を細め、それからおばあさんと視線を合わせる。人のよさそうなおばあさんがユイナを見つめ返していた。
「手を動かしてごらんなさい」
言われるままに手を閉じて開いてみる。
「痺れは?」
首を横に振ってみせる。あまりの驚きで咄嗟に声が出てこなかった。
「そう、それは良かったわ」
おばあさんはホッとした顔で笑む。目じりの笑い皺が印象的で、ユイナはしばらく彼女の顔を見つめ、それから気になった事を聞く。
「いったい、何をしたんですか」
「ちょっとしたおまじないよ」
そう言ってお茶目にウィンクをした。
「そんな、薬もなく解毒なんて……」
「貴女は毒に耐性があるみたいだから毒が染み込む前に取り除いたの。もしも染み込んでしまっていたら、あとは薬で中和するしかなかったところよ。――それと、これを飲んでおきなさい」
おばあさんが脇に置いていたバスケットから小瓶を取り出す。ユイナがそれを見ていると、おばあさんは視線に気付いて説明する。
「これは泉水に薬草を混ぜ合わせたものよ。病み上がりで体も疲れているはずだから、これを飲んで元気をつけるといいわ」
ユイナは大事に抱えていた荷袋をひざの上に乗せて手渡された小瓶を受け取り、それを飲むべきかどうか迷った。しかし助けてくれたおばあさんが悪い物を飲ませるとは思えず、かといって不安を拭いきれるわけでもなく、渡された液体を少しだけ口に含み、味を確かめてみる。苦味や酸味はなく、悪いものが入っている気配はしない。
その様子を見ていたおばあさんは微笑む。
「心配しなくても大丈夫よ。それは私が毎朝自分で作って飲んでいるものだから」
「はい……」
しどろもどろに返事する。警戒を見抜かれた事に恥じ入り、顔を赤らめながら小瓶の液体を飲み干す。飲んだ感じは水とほぼ変わらなかった。ただ、おなかのあたりから温かくなり、日向ぼっこをしているような穏やかな気持ちになった。
「ありがとうございます」
空になった瓶をおばあさんに返し、ホッと息をつく。渇き切っていた咽が癒されたおかげで、強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。
ひざに置いていた荷袋の汚れを払い落として抱える。
中には大事な制服が入っている。ガモルド男爵が、成長期のユイナに合わせて大きめにしてくれた夏の制服。今でこそ成長した体に馴染むようになってきたが、最初に袖を通した時はぶかぶかで、スカートの裾が地面に擦りそうだった。アリエッタにはそれでよくからかわれたものだ。からかわれると妙な意地を張りたくなるもので、ユイナは背が高く見えるように爪先立ちで生活した事もある。そのふらふらと頑張っている姿をガモルド男爵に見つかり、笑われた事もあった。
ガモルド様……アリエッタ……。
物思いに沈みそうになるユイナの横で、おばあさんが「あら?」と顔を上げた。
「今日はどうしたのかしら。またお客が来たわ」
「え……?」
振り向いた視線の先、立ち並ぶ木々の向こうに魔術師の姿があった。まだこちらには気付いておらず、風で乱れたフードをさっと被りなおしているところだった。だが、その短い一瞬の間でユイナは魔術師の顔を見た。細く端整な青年の横顔。なにより、流れるような髪が木漏れ日を受けて銀色に光っていた。見間違えるはずがない。アレスだ。アレスが自分を追いかけてきたのだ。
ユイナは咄嗟に木の影へと隠れた。心臓がバクバクしている。逃げようかとも思ったが、むやみに木陰から出ると発見される恐れがあった。
どうしたの?とおばあさんは声をひそめて訊ねる。
「(追われているんです)」
その言葉を聞いたおばあさんは思案顔になる。
「(貴女はそこに隠れていなさい。私が彼と話をしてきましょう)」
おばあさんはそう言うと立ち上がる。
「(え? あっ、おばあさん待って……!)」
ユイナはおばあさんを引き止めようとした。
しかし、おばあさんはすでに歩き出していた。




