戸惑いとスパイ疑惑9
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目の前の少女、ユイナが不安げな顔でカーマルを見上げた。廊下の薄明かりの中で居場所をなくし、胸に両手を寄せて立ち竦んでいる。
カーマルは自分でも気付かないうちにニィッと口元を釣り上げ、常軌を逸した笑みを形作っていた。彼の心にひそむ変質的な欲望が、笑みとなって顔面に表れたのだ。
心細そうな女の顔はイイ。特に、目の前の少女は極上だ。
弱くて儚げで、触れただけで壊れてしまいそうな繊細な美しさに、嗜虐心をくすぐられてしまう。そのくすぐったさが、今まで体に溜め込んできたどろどろの欲望を解放してくれるだろう。彼女を束縛し、思うがままに支配する……彼女のつややかな黒髪を撫で、つぶらな黒瞳に一つ一つ服従心を植え付けていくのだ……そこにはきっと想像を絶するほどの背徳的な甘美が存在する。
ウィンスターの国都から遠く海を隔てた辺境の地で、偶然にも訪れた貴族の娘。彼女を逃がすつもりはないし、誰にも渡さない。そのためにカーマルは昨夜から準備をしてきたのだ。単なる口約束を正式な証拠書類とするために誓約書を作り上げたし、彼女についての情報もいくらか収集できた。
少女の名はユイナ・ファーレン。ペントという子供とは姉弟のように仲良くしているが、血はつながっていない。彼女の大切にしている白いワンピースには紅の紋様が刺繍されており、その紋様はシルバート王国で最も有名な舞姫学校セフィルの校章に間違いない。舞姫学校セフィルは本物の『舞姫』を生み出したこともある名門校として知られている。その学校に通っていた娘となると、咽から手が出るほどに欲していた貴族の娘に違いない。
どのような経緯でアレスと出会ったのかは謎だが、アレスに連れてこられたことを考慮すると、城の中庭にいる孤児と同じく身寄りがないのだろう。しかも、孤児達からスパイ容疑をかけられて仲間はずれにされており、この城に彼女の味方となる人はほとんどいない。それはつまり、彼女が困難にぶちあたった時に頼れる人が少ないということだ。後は首尾よく計画を実行に移し、アレスやペントから遠ざけて孤立させるのみ……。
カーマルは頭を巡らして人目がないことを確認する。薄暗い渡り廊下、そこには彼女と自分しかいない。自分でも信じられないほどの情動がもたげてくる。それが顔にも表れていたのだろう、ユイナが眉をひそめる。
「あ、あの、用件は何でしょう……」
大体の察しはついているくせに、無駄なことを聞く女だ。
カーマルは鋭く尖った視線でユイナの瞳を射抜くように見つめた。少女の顔に怯えが走る。まるで肉食獣に見詰められた小動物のようだ。頑丈な檻に入れて猛獣から護ってあげないと、すぐに食われてしまうに違いない。
ユイナを見ていると、母親を思い出す。
カーマルの母親は誰かに護られていないと生きてはいけない人間だった。没落貴族の娘で結婚相手も見つからなかった彼女は、ウィンスターの本土に根付いた貴族というだけでオーデル伯爵の目に留まり、二人は結婚した。
ほとんど島流しのようなかたちで海峡を越えて嫁ぎにきた彼女だが、不平や不満は言うことがなかったという。それどころか死ぬまでずっと献身的であり続け、夫であるオーデル伯爵の気持ちをつなぎ止めておく事に必死だった。
彼女は人一倍誰かに護られていないと生きてはいけなかったようだ。
ユイナの雰囲気も母親とどこか似たところがある。ユイナもまた、何かに守られていたいのかもしれない。彼女の不安な顔がそれを物語っているような気がした。
いや、こんな所で怖がらせても意味がない。カーマルは一つ咳払いをして平常の顔を作り直し、言った。
「昨夜の約束をもう一度確認しておこうと思ったのだよ。なにしろあわただしく約束を交わしたものだからね」
「ちゃんと覚えています。借りたお金を返すことですよね。明日までに」
「そうだ。そしてそれが出来なかった場合、君は私の舞姫になると約束した」
「え、ええ、そうです……」
ユイナは慎重な顔で言った。
「確か、ペンダントと制服を売って金を工面すると言っていたが、どこで金に換えてくるつもりだ? この城に舞姫学校の制服を買ってくれる者がいるとは思えないが……」
「はい……だから城の外に出ようと思ってます」
「城外か……確かに制服を換金するにはそれしか方法はなさそうだ。だが、今はシルバートの魔術師が現れたために厳戒態勢が布かれている。外出は許されないはずだ」
「はい。ですから、誰にも見つからないように城を出て、気付かれないうちに戻ってこようと思います」
「そんな事ができるのか?」
無謀な事を考える娘だ。
「できると思います。私、今は独りになっていて、会いに来る人がいませんから、部屋に閉じこもっている事にすれば抜け出せると思います。それに、幼い頃は獣の多い森で水汲みに行かされていたので気配には敏感なんです。見つからないように脱出するのは得意だと思います」
「自信があるのか知らないが、いくらなんでも危険過ぎる。それに、君にはスパイ容疑がかけられている。私は君がスパイではないと思っているが、他の者は君を疑っている。外出が見つかればどうなるか分からないぞ」
そう言って表向きはユイナの心配をしてみせる。
「確かに危険かもしれません」
そう言った彼女の表情は硬い。
「でも、制服を売るためには城の外に出るしかないんです」
彼女の心はそれで決まっているのか、声はしっかりしていた。
「それで一つお願いがあるのですが、私が外に出ている間、カーマル様のところにお邪魔しているという事にしてもらえませんか」
「それは構わないが、どうやって城の外に出るつもりだ」
「いくつか方法は考えてます」
「いくつか? この強固な城からどうやって」
「それは、言えません」
「何をするつもりか知らないが、危険な事はやめろ。君にもしもの事があっては困る」
「ですが」
「ここに鍵がある」
カーマルは一本の鍵を掲げて見せた。
「召使い用の扉を開ける鍵だ。これを使えば城外へと出られる。これを君に貸してやろう」
「え、いいのですか?」
「しかし……」と、カーマルは困った顔をする。
「……何か問題が……?」
心配げな顔で聞くユイナに、カーマルはわざと腕を組み、苦悩する素振りを見せる。
「実は、君が本当に約束を守ってくれるかどうか心配なんだよ。十万ギロは大金だ。本当に払ってもらえるか疑問だし、それ以前に、君が約束を守らず城から出たきりで戻ってこないことも考えられる……」
「わ、私はちゃんと戻ってきます。約束は守ります」
心外だとでも言いたげに、それともこちらの雰囲気に呑まれないためか、声を強くした。しかし、カーマルがひたと向き直ると、彼女はひるんだ。
どうしてそんなに怯える? まるでトラに狙われた野うさぎのようじゃないか。
内心で優越感に浸りながらかわいい野うさぎを見詰めて諭すように言う。
「口では約束を守ると言っていても、世の中にはそれを破るやつが沢山いるんだよ。巷では詐欺師やペテン師という言葉は日常的に使われているぐらいだ、君が約束を守ってくれるか心配になるのも当然だろ? だからちゃんとした保証がほしいわけだよ、ユイナ・ファーレン」
「保証……そんなこと急に言われても、私、どんな保証をすればいいのか……」
「君が魔力中毒から助けた男の子……確かペントという名だったかな……彼を保証に使うのはどうだろう」
「……どういう意味ですか」
「詳しくは誓約書に記してある。これに同意してサインをしてくれればいい」
そう言い、昨夜のうちに作成しておいた誓約書を差し出した。ユイナは危険物にでも触れるようにそれを受け取り、小さな声で読んでいく。
「誓約書。ユイナ・ファーレンは油花の月、第十三日までに十万ギロを返済すること。もし、期日までの返済ができなかった場合、ユイナ・ファーレンはカーマルの舞姫となるものとする。契約が達成されるまではペントを人質として拘束し……え?」
ユイナは気になる単語でも発見したのか、誓約書を見詰めたまま固まってしまった。カーマルはユイナの代わりに誓約書の続きを声に出して暗唱する。
「契約が達成されるまではペントを人質として拘束し、ユイナ・ファーレンが契約を守らずに逃走した場合、人質の人権及び命は保証しないものとする。そう書いてあるはずだ」
「カ、カーマルさん、これは……!」
ユイナは目を見開いてこちらを見上げた。心底驚いているようだ。無理もない。大切な者を人質に出せと言われている上に、契約を破れば人質の命はないと脅されているのだから。
「こんな……こんな事っておかしいです! どうしてペントを人質にしないといけないんですか!」
「彼が人質であれば、君は絶対に逃げないと思ったからだ」
ユイナは息を呑む。どうやら図星だったらしい。
「だからって、ペントを人質にすることなんてできません……」
ユイナは首を振って言う。
「私を信用できないのなら、お金を返すまで私と一緒に街まで来てくれませんか。お金を手に入れたらその場でお返ししますから」
「私は忙しいのだよ。君と一緒に街まで行けるほど暇じゃないんだ。だから君がちゃんと戻ってくるようペントを借金のかたにしろと言っている」
本当は忙しくないのだが、カーマルはそう言った。ユイナがペントを人質に差し出すことは、彼女を落とし入れる計画の柱でもあるのだ。
ユイナはしばらく考え込み、それから何かを思いついたように胸元からネックレスを取り出した。銀色の貴金属で作られた舞姫がリングの中で踊るネックレスだ。
「私が戻ってくるという保証がほしいのなら、このペンダントを借金のかたにしてください。これは私にとってとても大切なものです。これを預けますから、ペントを人質にするのはやめてください」
「つまり、そのペンダントよりも男の子の方が大切なわけだ。それじゃあ意味がない。君が本当に大切にしているものを借金のかたにしなければ君は逃げるかもしれないだろ? 君があの子供を大切に想っていることは知っている。なにしろ彼を助けるために薬を分けてくれと言った時の君は必死だった。だからこそ、彼を人質に選んだ」
カーマルの言葉を黙って聞いているユイナだが、その顔は躊躇いに満ちている。
「言っておくが、君が戻ってくるという保証をしてくれなければ、私は君を城の外へ一歩も出すことは許さないからな」
何かを言われる前にカーマルは先回りをして言った。それから声を和らげる。
「約束さえ守れば誰もペントに危害を加えたりはしない。それとも君は約束を破るつもりでもいるのかな?」
「ち、違います。私、そんなつもりでためらっているのではないんです……ペントを人質にすること自体がどうしても……」
「ちゃんと金は用意できるのだろ? だったら何の問題もないはずだ。さっきも言った通り、ペントを人質に差し出さなければ、私は君を城から一歩も出さないからな」
譲歩の余地はないと言い切り、唇を噛み締めるユイナを眺めながら少し声をやわらげる。
「誓約書にサインをするだけでいい。そして君は街に向かい、換金して、約束を守るために戻ってくる。そうすれば私はお金を返してもらえるし、君の大切な男の子も被害を受けないで済む。……約束を守るつもりなら問題はないはずだ。そうだろ?」
ユイナはしばらく迷っていたが、観念したようにうなずく。
「さぁ、ここにサインをして」
カーマルは携帯用の羽ペンの先にインクをつけ、差し出す。ユイナは半分押し付けられるようにペンを受け取り、泣きそうな顔でサインを書き込んでいく。砂を掻くようにさらさらと品の良い筆記体が書名欄に躍った。そして筆記体を使うのは貴族だけ。ユイナは紛れもなく貴族なのだと再確認する。
カーマルは口元に笑みが浮かぶのを必死で堪える。
「ありがとう。君の決断に感謝するよ。さぁ、あとは約束が守れるように善処してくれ。期日は明日までだからな。服を洗濯したりと時間はないだろう?」
カーマルはしつこく確認した。
ユイナは何も言わず、逃げるように廊下を駆けて行った。




