舞姫見習いと銀色の狼1
「うわわっ」
寝言とともに悪夢から跳ね起きた少女は、ベッドから滑り落ちた。危うく石畳に頭を打ち付けそうになり、とっさに受身をとって転がったが、落ちたショックで意識が朦朧とした。
窓から朝日が差し込み、石床に横たわる黒髪の少女を照らし出した。悪夢におぼれていたせいか、柔肌には玉のような汗が浮かんでおり、ぬれた黒髪は瞬く星空のようにきらめいてうなじを飾っている。純白のネグリジェがしなやかな体に吸い付き、体のラインを浮き彫りにしていた。その手足は悪夢から抜けだせないまま震えていた。
朝の陽だまりはそんな少女をあたたかく包み込んだ。震える肢体に温もりを与え、強張った体をほぐしていく。少女は腕をさすり、石床にひじをついて上半身を起こす。斜光を見つめる黒瞳が、朝日を吸い込んで輝いた。
「おはようございますユイナ様!」
大声で呼ばれ、ビックリして振り向くと、灰色の髪を後ろで束ねた女性が部屋に入ってくるところだった。専属メイドのアリエッタだ。
ぼんやりしていたところを見られて恥ずかしくなり、ユイナ・ファーレンは顔を赤らめて立ち上がる。
「おはよう。まさか、さっきの見ていた?」
「見たとは、何をですか?」
「いや、見てないのならいいの」
そう言ってベッドの端に腰かけると、タオルを手にしたアリエッタが近づいてくる。
「私が見たのはユイナ様が奇声を上げながらベッドから転げ落ちるところです。キングサイズのベッドでも落ちる人はいるのですね。私は生まれて初めて見ました。あんな決定的瞬間を目撃するなんて、私は幸せ者です」
ユイナは顔を紅潮させて口をとがらせる。その顔がおかしかったのか、アリエッタが腹を抱えて「ひどい顔」と笑う。
「な、何よそんなに笑うことないでしょ」
「申し訳ありません。でも……あはっ。いえ、何でもありません」
「今『あはっ』って笑ったでしょ」
「えぇと、すごい汗ですね」
強引にはぐらかされた。確かに額には玉のような汗が浮かび、ネグリジェが肌に貼り付いて気持ちが悪いほどだ。
「まずは体を拭きますから服を脱いでください」
言われるまま服を脱ぐとタオルが差し出される。
「これで顔を拭いてください」
「ありがとう」
タオルに顔をうずめる。汗を拭いて少しはすっきりしたが、それで胸につかえる悪夢を消せるわけではない。
「本当にひどい夢だった……」
「はい、ひどくうなされていました。その時のうなり声といったら、将来は舞姫ではなく、獣になるような気がしましたよ」
「それはないから」
「ないですか」
「もう、私は真面目な話をしてるんだよ。からかわないでよアリエッタ」
「ごめんなさいね。からかうのが私の性分ですから」
くすくすと笑いながらユイナの背中を拭いていく。
「いつもの夢ですか?」
聞かれて、ユイナはうなずく。
前向きで明るいシェスが奴隷商人に殺され、自分だけが生き残った。初めての親友からもらった恩は、二度と返せないまま胸に残っている。その苦しみをアリエッタに話した事はない。知られたくない過去だった。
だから今日も悪夢の魔口について話をする。
「空に大きな魔口がたくさん現れて、そこから流れ星が降ってくるの。でも、私の所に降ってきたのは今日が初めて……」
何か悪い事が近付いている。そんな不吉な予感がある。それに、後ろから抱き締めてきた人は誰だったのだろうか。まるで天女のように空中に浮かんだような気がしたけど……。
「ユイナ様、夢は夢です。何度も同じ夢を見るからって気にしすぎですよ」
「そう思えるなら気分も楽なんだけどね。でも、似たような夢を見ている人は舞姫学校にも多いらしいの。ティニーも同じ夢を見ているんだから」
あの悪夢は危険を知らせているのではないかと思う。だけど、夢は夢でしかないと真剣に考える人は少ない。アリエッタもその一人だ。
「似たような夢を見るからといって心配し過ぎではありませんか? 第一、雲を呑みこむほどの魔口なんて聞いたことがありませんし、そこから流れ星が出てくるなんて信じられません。ですが、流れ星を見せてくれるなんて、そんなロマンチックなことをしてくれる魔術師がいるなら会ってみたいですね」
本当は怖い夢なのにうっとりされてしまった。彼女からすれば、自分のために魔術を使ってくれる男が好みなのだそうだ。ユイナにはそれが理解できなかった。力のある男が、どうして非力な女のために力を使うのだろうか。男も魔術師も、弱者を力で押さえつける恐怖の存在でしかない。獰猛な獣と同じだ。
「アリエッタはあの夢を見たことがないからそんな気楽でいられるのよ」
「そうですね。ですが、悪い夢に振り回されるのは良くないですよ。夢は夢で現実とは関係ないのですから」
体を拭き終わったアリエッタがタオルをたたみながら言った。
確かに夢は夢でしかない。でも、気にしているから見てしまうのではないだろうか。
アリエッタはタオルを籠に放り込み、クローゼットを開く。必要最低限の衣服しか収まっていないクローゼットはやけに隙間が目立つ。同様に部屋も質素なものだ。化粧台が一つと、ベッドがあるだけで、それ以外の調度品はない。部屋の造りこそ中級貴族と遜色ないが、体面を整えるだけで精一杯なのは明らかだった。馬車の維持や従者の給料を考えると、絨毯や他の装飾品を買うほどの余裕はファーレン家にはないのだ。
「それより、今日は踊り子を決める選考会ですね」
「……そうだね」
嫌なことを思い出してお腹が痛くなった。
「選考会で選ばれた生徒は、新しい侯爵様の前で踊りを披露することができるとか。しかも、侯爵の歓迎会には多くの貴族男性も集まると聞いています。運命の結婚相手と出会えるかもしれないので頑張ってくださいね」
「え、ええ……」
「さぁさ、早く着替えましょう。ガモルド男爵が食堂で待っていますよ」
その言葉に振り向く。
ガモルド男爵は、孤児だったユイナを養子に迎えてくれたファーレン家の当主だ。奴隷商人から救ってくれた命の恩人でもある。いつもはユイナが舞姫学校へ出かける頃に食事を始めるのだが……、
「もう食堂にいらっしゃるの?」
「はい。それだけ今日の選考会を待ちわびていたのでしょう」
「そう……」
期待される喜びとその期待の重さに胸が痛んだ。
「なにを辛気臭い顔をされているのですか。早く着替えますよ」
アリエッタが舞姫学校の制服を差しだしてくる。
舞姫学校『セフィル』の制服は、ダンスができるように軽くてさらりとした素材でできている。生地の色は純潔を表す白。そこに火をつかさどる大天女セフィルの紋様が織り込まれている。ひざ下まであるワンピースに袖を通し、肩にショールをかけ、学年を表すリボンで腰を引き締めた。最後に靴下と靴を履けば着付けは終わりだ。
着替え終わったユイナは化粧台の前に座り、引き出しを開ける。中から取り出したのは、きめ細やかに彫り込まれたペンダントだ。誰の作品か知らない。しかし、輪の中で優雅に踊る舞姫の姿とほほ笑みは、やさしさで包んでくれるような細工だった。
幼い頃、縁のあった女性から生活費にしろと渡された物だが、今では貴族の養子となって生活の心配もないので、換金せずに御守りにしている。
大切な物なので首にかけて服の中に隠す。制服の上からペンダントの感触を確かめ、鏡に映る自分を見つめる。見つめ返す瞳は黒曜石のように黒く、どこまでも透き通っていた。
後ろに立つアリエッタがほほ笑む。
「今日のユイナ様は一段とお綺麗です。惚れ惚れしてしまいます」
「もう、からかうのはやめてよ」
「からかってなどいません。本心ですよ」
アリエッタは黒髪に櫛を通し、目を細める。健康的な黒髪はつややかで、梳いていく櫛に素直なのだ。
「最近のユイナ様は日に日に美しくなっています。きっと心だけでなく体も舞姫になる準備をしているのでしょう」
舞姫……、と心の中でつぶやく。
舞姫という言葉には二つの意味がある。一つは、高貴な花嫁に与えられる称号。もう一つは、天女の魂を宿した女性だ。
天女は肉体を持たないためにその姿を見る事はできないのだが、世界が存亡の危機にさらされると女性の肉体を借りて地上に降りてくるのだそうだ。天女を宿した女性は『舞姫』と呼ばれ、魔術師を導いて世界を救う存在となる。その神話を信仰する魔術師達は、英雄への願いを込めて自分の花嫁を『舞姫』と呼んだ。そして、その風習はいつしか貴族の間でも広まり、高貴な花嫁をまとめて『舞姫』と呼ぶようになった。
その『舞姫』になるため、ユイナは舞姫学校『セフィル』で花嫁修業をしている。だが、男と結婚するのが震えるほど怖かった。暴力の絶えなかった実父も、両親を斬り殺した兵士も、そして、シェスを殺して追いかけて来た奴隷商人も、みんな男だった。
ユイナは寒気を感じ、自分の身体を抱き締める。今でも、奴隷商人に狙われているような気がするのだ。一人で外を歩いている時は、道端で立ち止まり、周囲に男がいないことを確認しない日はない。
そんな私が結婚なんて……。
真っ暗な崖下に飛び降りる様なものだ。夢も希望もない。
本当は結婚などせず、大好きな家族と平穏に暮らしていたい。家業の小麦栽培を手伝わせてもらえるなら、一生懸命に働こうと思っていた。でも、舞姫を願う男爵に、それを言い出せる勇気はなかった。
「舞姫は、私にはまだ早いよ」
声が震えてしまう。
「何を弱気になっているのですか。それではダメですよ。いつ結婚相手と出会えるかわからないのですから、心の準備だけはしておくべきです。例えば、今回の選考会で選ばれて侯爵様の前で踊る事になったとします。もし侯爵様がユイナ様を気に入り、話しかけてきたら、どんな話をされるおつもりですか?」
ユイナは固まってしまった。見知らぬ男に話しかけられる場面を想像しただけで足がすくんでしまう。何か恐ろしい目に遭わされるのではないかと震えてしまう。
「どんな話で興味をひくつもりですか?」
グッと顔を近づけられ、ユイナはしどろもどろになる。
「どんな話で、と聞かれても……その時になってみないと分からないし……」
「その様子では何も考えていませんね」
図星なので返す言葉がない。
「私には無理だよ」
「ダメですよ。舞姫になろうとする人が男性を怖がってどうするのです」
アリエッタの言いたい事もわかる。期待してくれているのもわかる。でも、だからといって男性への恐怖をなくせるわけではない。期待に応えられる自信がなくてうつむいてしまう。
「ユイナ様……」
アリエッタは難しい顔をしたが、ため息をついて両肩にポンと手を置いてくる。
「しっかりしてください。五日後には十四歳になり、舞姫見習いから舞姫候補生になるのですよ。つまり、結婚を許される年齢になるのです。それなのに男性を怖がっているだなんて……」
呻くような声に、ユイナは振り向き、
「時間をかければ少しは慣れると思うの。だから……」
「それは単なる甘えです」
ぴしゃりと言われた。
「ユイナ様は早く結婚して男爵を安心させたいとは思わないのですか? これでは男爵がかわいそうです。実の娘を事故で失い、そんな時にひとりの少女と運命的な出会いを果たして、彼女を養子に迎え入れたのに、彼女まで結婚しないまま他界するなんて……」
「勝手に殺さないでよ……それに、け、結婚しないとは言ってないじゃない」
「それならしてください。このまま男性を遠ざけて結婚しないつもりなら、男爵はユイナ様を見限って他の娘を養子に選び直すかもしれませんよ」
脅しともとれる言葉に色を失ってしまう。
生みの親をなくしたユイナにとって、頼れるのはガモルド男爵だけだ。ファーレン家を追い出されたら浮浪者になってしまう。それどころか奴隷商人に怯える日々に逆戻りだ。
「ガモルド様が……そんな酷い事を……なさるわけがないじゃない」
「それが心配なら立派なお方と結婚してください。力のある貴族や魔術師と結婚し、誰もが認める舞姫となり、ファーレン家繁栄の礎となるのです。と、まぁ、これは建前です。男爵は何もおっしゃりませんが、ユイナ様を大事に思っています。だからこそ、ご自分の令嬢がなれなかった舞姫になってほしいのではないですか?」
アリエッタの強い口調は、ユイナの胸を強く打った。
――私に結婚してほしいのは、私が大切だから……?
「そう、なのかな……。ガモルド様が私を大切に思っているの?」
「思っていますよ。今まで厳しい訓練をさせてきたのも愛情の裏返しです。その証拠に、舞姫学校への入学が決まった時も喜んでくれたじゃないですか」
「そうだね……、あの時はすごくうれしかった」
血のにじむような努力が認められて貴族の仲間入りを果たしたことよりも、それを愛するガモルド男爵に喜んでもらえたことが何よりも幸せだった。
「ですから、今回の選考会で踊り子に選ばれて、男爵を喜ばせてみませんか」
「………」
すぐには返事できなかった。しかし、養父の顔を思い浮かべると、迷いはすぐに消えた。
「わかったわ。がんばって踊ってみる」
鏡に映るアリエッタがほほ笑み、問いかける。
「本当にがんばってくださいよ?」
「ええ。ガモルド様をがっかりさせるような踊りは見せられないもの」
ユイナはペンダントを握りしめて緊張を胸に閉じ込め、鏡中のアリエッタに向かってほほ笑み返した。