舞姫見習いと銀色の狼10
足腰が疲れているせいで、山小屋への道のりは長く感じられた。曲がりくねった山道を歩き、途中で小川にかかった橋を二つほど渡り、しばらく歩くと山小屋に着いた。
小屋は木造で足許にはコケが生えており、かなり古い建物だと推測できた。ふと、どうしてこんな所に自分を閉じ込めるのだろうと疑問に思った。処遇についての話し合いが終わるまで監禁するというのなら、別に山小屋でなくても、学校の建物で鍵をかけられる場所でも良かったはずだ。わざわざこの山小屋を監禁場所にするのは理由があるのだろうか?
「こっちに来なさい」
先生が頑丈な鍵を開け、呼んだ。
ユイナは兵士に連れられて小屋の入り口に立つ。
小屋の中は薄暗く、窓には木の格子があり、窓から人が逃げられないようになっている。そして、長い間ずっと掃除されていなかったのか、床に溜まったホコリが宙に舞ってホコリ臭かった。左手に二段ベッドがあるが、マットにはこれまた大量のホコリが占拠している。昔のお仕置き小屋だったらしいのだが、あまりに劣悪な環境なので貴族の娘には堪えられず、ずっと閉鎖されてきたに違いなかった。
「さっさと入りなさい」
ユイナは背中を押されて中へと進み、扉を閉められる。入り口からの光を失った室内が急激に薄暗くなった。採光の窓は一つしかない上に、空には雨雲がかかっている。もうすぐ夕暮れになり、あっという間に暗くなるだろう。
ガチャリと鍵を閉められる音がして、壁の向こうから聞こえていた足音も遠ざかっていく。すると、他の音が聞こえた。
ちろちろ、ちろちろ。
「水の音だ……けっこう近い……?」
耳を澄ましながら薄暗い小屋の中を見回した。水の流れる音が、小屋の中から聞こえてくるような気がする。
音の出所に視線を動かしていると、壁際に洗面台を発見した。
近づいて見ると、壁から突き出した丸い筒から水が流れ落ち、それが洗面台の底に作られた穴から外へと流れ出ていた。水を出す筒は親指と人差し指で丸い穴を作ったぐらいの大きさだったが、少しも詰まってはいない。近くの小川から引かれているらしい水を両手で受け止めたユイナは、試しに少しだけ口に入れてみて、その澄みわたる味に驚いた。
「おいしい……」
それは綺麗に磨かれた山水だった。その水ですすけた顔を洗い、カラカラだったのどをうるおすと、生き返るような心地がした。こんな所に水があったのは不幸中の幸いだ。
山小屋はホコリや暗い事を気にしなければ、それなりに住める場所だった。おいしい水は流れているし、トイレも小屋にくっついていた。いちおう二段ベッドもあるのだが、ホコリまみれで、掃除してまでそこで眠る気にはなれなかった。
そうこうしているうちに日は沈んでいた。雨はいつの間にか止んで雲はなくなり、月や星の明かりが格子窓からうっすらと射し込んでいる。窓には一匹の蛾がとまっていた。ユイナは蛾の止まる窓辺から夜空を見上げながら、今後の処遇を考えていた。
ガモルド男爵とアリエッタは、私が帰ってこない事を心配しているだろうか。それとも、こんな失態をおかした事を知り、驚き呆れているのだろうか。
「あぁ、……どうしてこんな事になったんだろ……」
窓下の壁に背中をあずけ、そのままずるずると床に座る。そして両足を抱えてひざに頭を乗せる。
遠くで鳥が寂しげに鳴いた。時おり風が吹いて、木の葉の揺れる音が聞こえてくる。そして静かになり、また風が吹く。その風に乗って、木の葉が音もなくユイナの横に落ちた。
最初は落ち葉など気にもとめていなかったが、ふと、ユイナは首をかしげた。春になったばかりだというのに、木の葉が落ちてくるのはおかしかった。ユイナはその場から離れ、落ちてきたものに目を凝らしてみた。それは木の葉などではなく、さっきまで窓にとまっていた小さな蛾だった。しかも、冬に活動する珍しい蛾だ。それが寿命を終えたのか、力尽きたように地面に落ちていた。
しばらくして息を引き取ったのか、蛾の体が蒼く光った。その光景がしばらく続いた後、蒼い光は砂粒のように細かく別れ、ゆっくりと上に昇りながら天井の暗闇で消えていく。
死んだ生き物は、蒼い光の粒子になって空へと消えていく。殺された親友のシェスもそうやって空に還っていった。
それが自然の摂理だと、舞姫学校でも教わった。
『蒼い粒子は天女の元へ帰るための仮の姿だ』
本当に死後の世界はあるのだろうか。いや、あってほしい。そして、そこが幸せな世界であってほしい。親友のシェスを思い返すと、そう願わずにはいられなかった。そこには罪の意識もあったのかもしれない。
生き物の死を見たためか、急に心細くなってアリエッタの軽口でも聞きたくなった。目を閉じれば彼女の声が聞こえてくるような気がした。ところが、ユイナの耳に聞こえてきたのはアリエッタの軽口ではなく、誰かが硬い物につまずいて腐葉土を踏みしめたような音だった。しばらくして小屋に流れていた水が止まる。それで、誰かが水道管を壊してしまったのだと分かった。
「そこに誰かいるのですか?」
立ち上がったユイナは、窓の格子に顔をくっつけて辺りを見回す。が、これといって不審なものは見えない。と、その時だった。ドアの鍵を誰かがいじりだした。
ガチャガチャ、ガチャガチャ!
次第に乱暴になる音は、錆びて回らないカギに苛立っているのが分かった。
息をつめて扉を凝視していると、ガチャリと鍵の外れる音がした。ゆっくりとドアが押し開けられ、そこから二人組みの男が入ってくる。一人は中肉の男で、もう一人は少し太った男だ。よく見ると、腰には剣を下げている。
「な、何をしに来たのですか……!」
「ユイナという娘は、お前だな」
「そ、そうですが……それが何か?」
身の危険を感じて男達に聞くと、太り気味の男が身構えたままユイナに聞く。
「お前が魔術師というのは、本当か?」
「……え?」
太り気味の質問に眉根を寄せる。
「なぜそういう事を聞くのですか」
「質問に答えろ!」
それは高圧的で嫌とは言わせない口調だった。
「わ、私は魔術師なんかじゃありません。魔術は、男の人しか使えないのでしょ?」
ユイナの言葉に、太り気味の男は「やはりそうか」と言った。
「心配して損したな………やはりバチルダ様の見間違えだったようだ」
「そんな事はどうでもいい、さっさと片付けるぞ」
中肉の男が言い、腰に下げた剣を引き抜いた。それに従って太り気味の男も剣を引き抜く。窓から射し込む月明かりで、男たちの白刃が煌めいた。
「な……何をするつもりですか……」
見ればわかるが、嘘だと思いたくて後ずさりしながら聞く。
太り気味の男はユイナに狙いを定めたまま、
「お前に恨みはないが、これも命令でな。バチルダ様に火傷を負わせようとした罪は、死んで償ってもらわなければならない」
剣を構えた二人の男が、じりじりとにじり寄ってくる。
本気だ。本気で殺そうとしている。
ユイナが壁際へと逃げると、男達は退路をふさぐようにして距離を詰めてきた。
ユイナは男達に注意を向けながら辺りを見回し、身を守る武器はないかと辺りに目を配った。
後ろは壁。右方向にホコリまみれの二段ベッドがあるが、武器になるような物は見当たらない。と、何かが踵に当たってコトリと音を立てた。割れたマグカップが足許に転がっている。
「せめて苦しまないように殺してやる。だからそこを動くなよ」
そう言われてむざむざ殺されるわけにはいかない。
足もとのマグカップをうまく利用できないだろうか。たとえば、マグカップで反撃して男たちの横を走り抜け、開いたドアから逃げるのだ。
しかし、それが起死回生になるだろうか。相手は二人の成人男性で力の差は歴然。その上、剣まで持っている。マグカップが目眩ましになるかどうかはまったくの賭けだった。
そうこうして迷っているうちに、男達はユイナを一撃で仕留めようと白刃を構え、その距離を二メートルにまで縮めてくる。それは、一歩近づけば完全に斬り付けられてしまう距離だ。迷っている場合ではなかった。ユイナは素早くマグカップを拾い上げると、全力で標準体型の男に投げつけた。
「ぐっ!?」
暗闇だったためか男はマグカップを顔面に食らって体勢を崩した。ユイナはその男を突き飛ばすように走りながらドアへと向かう。が、そこに太った男の足が蹴り出されてきた。
あっ、と思った時にはユイナは横腹を蹴り飛ばされ、さっきと同じ壁際まで滑っていた。それと同時に床に溜まっていた大量のホコリを舞い上がり、ユイナは咳き込む。
「おい、大丈夫か。頭から血が出てるぞ」
「問題ない……相手が小娘だと思って油断していた」
「そうだよな、俺もびっくりだ。普通のお嬢様とは違うようだ。本来なら泣き叫んで許しを請ったり、来ない助けを呼ぶと思っていたんだが、意外と度胸がある……」
その時だった。突然、山の奥から警笛が鳴らされた。
男達は驚き、一瞬だけユイナから視線を逸らす。それは逃げ出すチャンスだったのだが、その警笛はユイナにとっても意外で、床から立ち上がった時には男たちの剣先がユイナに向けられていた。
「気付かれたのか!?」太り気味の男が言う。
「……いや、あの警笛は敵襲があった時のものだ。おそらく、舞姫学校に泊まっている客人が襲われたのだろう。我々とは関係ないはずだ」
「本当にそうか? 何でこんなタイミングよく警笛が鳴るんだよ」
「タイミングよく敵襲があったのだろう。どちらにせよ、我々がここにいるのを気付かれるのはまずい」
「ま、確かにそうだな。さっさと終わらせて……」
「助けてください!! 助けて! 私は小屋の中にいます!!」
小屋の外に向かってユイナは力を振り絞って叫んだ。
「こ、こいつ……!」
太り気味の男がユイナを斬り殺そうと刀を振り上げる。ユイナは咄嗟に横へと身を翻して二段ベッドの下段に飛び込んだ。その背中を追って振り下ろされた白刃が上段のベッドに深々と食い込み、ユイナは両手を前に突き出した姿勢でマットを滑った。その瞬間、大量のホコリが宙に舞い、ユイナはそのホコリを吸い込んでむせ返る。しかし、ホコリはドアの所まで広がり、ユイナの姿を完全に包み隠してくれた。
「何をしている!」
「くそっ! 剣が抜けねぇ!」
男たちの怒鳴り声が聞こえ、今のうちに逃げなければと体を起こした刹那、何かが耳もとの空気を切り裂いた。それはホコリの向こうから突き出された剣だった。ユイナはギョッとしたが、次の瞬間には壁際を走って開かれたドアから飛び出していた。
「待ちやがれ!」
男が追いかけてきて、ユイナは目の前にあった道をまっすぐ走った。登ってきた時の道とは、まったく逆方向の道だった。その道がどこに向かっているのかは分からなかったが、とにかく走って逃げるしかない。が、不意に体がガクンと傾いた。腐葉土に隠されていた木の根に足を取られたのだ。爪先の痛みを堪えて起き上がっていると、追いついた男が剣を後ろに引き、ユイナを突き殺そうとしていた。
「あそこにいたぞ! 撃て!」と遠くから声がしたのはその時だった。
山奥から魔術の波動が流れてきたかと思うと、地面を揺らす炸裂音が遠くで轟いた。ユイナを殺そうとしていた男はその轟音に身構え、魔力の流れてきた木々の向こうに顔を向ける。その隙をユイナは見逃さずに走った。
チッ! と男の舌打ちが聞こえた。
追ってくると思ったが、男は背を向けて逆方向に駆け出していた。もう一人の男も小屋から出てきて逃げていく。ユイナはまばたきも忘れて刺客の背中を見送った。息つく暇もない運動と緊張で、呼吸が荒くなっていた。
後ろの山奥では戦闘が続いているらしく、轟音が木々の向こうから絶え間なく聞こえた。
ユイナは、刺客達が敵襲とか言っていたのを思い出した。ひょっとして、舞姫学校に宿泊中のラインハルト侯爵を狙って敵があらわれたのではないか。そして、その敵を魔術師が追いかけているのではないかと思った。たしか、ラインハルト侯爵は前任の侯爵と同じように命を狙われていると言っていた。しかし、今は自分の身を守るほうが先だ。
ユイナは辺りを注意深く見回し、刺客が退散したことを確認してから、とりあえず山小屋へと戻ってドアを厳重に守ることにした。そして山小屋の前に戻ったところで、ふと、山奥から轟音が聞こえなくなっていることに気付いた。戦闘が終わったのかと思ったが、耳を澄ますと、木々の向こうから男達の怒鳴るような声が聞こえてくる。
「いたか!?」
「こっちにはいないぞ!」
「まだ近くにいるはずだ! 探せ!」
聞こえてくる声は緊張に張り詰めている。まだ敵は逃走中のようだ。
ここも危ないのだろうかと思って山奥に目を凝らしていると、視界の隅で銀色の光が瞬いた。直後、遠くの茂みに何か大きな獣が飛び込んでいく音がした。暗い上に速くて姿を捉えきれない。それは信じられないスピードで茂みの隙間を移動し、自身が巻き起こす疾風で茂みを揺らしていく。その茂みの揺れは、すぐそこに迫っていた。
こっちに来る……!
そう思った直後、眼前の茂みが大きく揺れ、銀色の光が高々と躍り出た。
それは一匹の狼だった。全身の毛は眩いまでの白銀。その体格はシャープにして美しく、ユイナの身長ほどもあるふさふさの尾が、月光を浴びて妖しく煌めく。
その獣は音もなく着地すると、小屋の入り口に立っていたユイナに気付き、身を翻して襲い掛かってきた。銀色の光が曲線を描いてユイナに迫り、牙をむき出しにする。
「っ!」
狼の牙が制服の袖を突き破って左腕に食い込み、ユイナは悲鳴にならない声をあげて小屋の中に押し倒された。左腕に突き刺さった牙が引き抜かれて激痛が走り、歯を食いしばってその痛みに堪える。出血したのか、傷口を押さえた右手にぬめりと血の感触があった。
「な、なに……?」
小屋の床に着地した狼が、ユイナを振り返って驚いた顔をする。
「……女だと!? どうしてこんな所にいる!?」
銀色の狼がとつぜん人間の言葉をしゃべり、ユイナの苦しむ様子に顔をしかめる。
「すまない、俺のせいだ。………娘、立てるか?」
銀色の狼が、焦りと心配を顔に浮かべて聞いてきた。
狼に感情などあるのだろうか?
妙な疑問が浮かんできたが、今はそれどころではない。ユイナは腕の痛みで意識が朦朧としていたが、命を狙われているわけではないと分かり、少しだけ安心していた。
「おい。俺が何を言っているか、聞こえるか?」
「きこえ、る……」
ユイナは痛みに堪えながら答える。そして、左腕をかばいつつ、右手で上半身を起こし、入り口のドア枠に背中を預ける。痛みと噛まれたショックで、額には大量の脂汗が噴き出ていた。めまいも酷い。
「傷口を見せてくれ。それと、傷口より上を握って止血しろ。血が出てるぞ」
そう言われ、ユイナは戸惑いながらも傷口から右手を離し、左の二の腕をぎゅっと握った。狼は夜行性のために夜目が利くのか「傷は浅いな」と言った。
「だが、なるべく早く処置をしないと、傷が残るかもしれない。こういう時の応急処置は知っているな?」
そう聞かれたユイナは、意識も絶え絶えに頷く。学校の薬術で習った。傷口の応急処置に使う薬草は、小川の近くに生えているはずだ。
銀色の狼はユイナの反応を見て「よし」と言い、唐突にピクリと耳を動かした。
「まずい、こっちに来る」
銀色の狼はそう呟くと、ユイナに真剣な顔を向けた。
「今、こっちに数名の男が近づいてきている。それで頼みがある。俺が遠くに逃げたと、その男達に言ってくれ。いいか? 追いかけてくる男達を、違う方向に行かせるんだ」
ユイナは額に脂汗を浮かべたまま首を縦に動かし、足に力を入れて立ち上がろうとする。何でもいいからさっさと終わらせて解放されたかった。
「待て、裏切ったら噛み殺すぞ。それと、ドアの前に立って言え。逃げようとしたら、その時も噛み殺す。わかったな」
もう一度うなずいたユイナは、ふらふらと立ち上がり、戸口に立った。
しばらくすると、銀色の狼が言った通り、三人の兵士達が近づいてきていた。彼らはユイナに気付くと周囲を警戒しながら近づいてくる。
「おいお前、銀色の狼を見なかったか? 銀狼のアレスという指名手配犯だ。お前も知っているだろう?」
え? とユイナはかぼそい声をもらす。意外な言葉を聞いたような気がした。
銀狼のアレス……国の英雄だった魔術師……指名手配犯……銀色の狼……。
それらの言葉が、痛みで朦朧としていた意識を貫き、頭の中で一つにつながる。
「銀狼のアレス……あれが……」
あんなに綺麗な銀色の狼だったなんて……。
「知っているのか? ん? その腕はどうした」
腕の傷に気付いた兵士が眉根を寄せて聞いてきた。
「これは、さっき、狼に噛まれて……その狼が……」
「なに!? 銀狼を見たんだな!?」
ユイナは戸口に寄り掛かりながら首を縦に動かす。そして、右腕の人差し指で、アレスの、いない方角を指差した。
「あっちの方に……逃げていきました」
「そうか! 協力ありがとう!」
「いえ……」
ユイナはかすれた声で言い、嘘をついたことをごめんなさい、と心の中で付け加える。
「おい早く行くぞ! 捕まえて手柄をたてるんだ!」
「先に行ってくれ。俺は彼女を手当てする」
驚いたのはユイナだ。こちらに来られたらアレスに気付かれてしまう。
「だ、大丈夫です!」
男がびっくりして立ち止まるぐらい大きな声が出た。
「……自分の事は、自分でできます。早く捕まえに行ってください」
「あ、ああ、分かった」
三人の兵士達は指差した方角へと駆け出した。その後ろ姿が闇に消えるまで見送り、ユイナはドア枠に身を預けたまま、ずるずると戸口に座り込んだ。
「助かった。ありがとう」
銀色の狼、銀狼のアレスがユイナの横に現れて言った。そして腕の傷口を見下ろす。
「立て、娘。早く応急処置をしろ」
「は、はい……」
そう言って立とうとするが、足腰に力が入らない。
いろんな事があり過ぎて、疲労が限界に達していた。
「何をしている。腕に傷が残ってもいいのか」
ユイナは首を振り、気力を振り絞って立ち上がり、小川に向かって歩き出す。その足取りはおぼつかない。
「しっかりしろ」
銀狼がユイナの横に並んで歩きながら励ますように言った。誰のせいでこんな想いをしているのか怒りをぶつけたかったが、その顔は、傷つけた責任を感じているようにも見えた。
ユイナは歯を食いしばって歩いた。そして、どうにかして小川へとたどり着き、制服の袖をまくって傷口をすすいだ。水の冷たさが傷に刺さるような痛みになった。それから学校で習ったとおりの薬草を引き抜き、それをすり潰そうとした、だが、指に力が入らない。見兼ねたように狼が川の水で口をゆすぐと、薬草を食い千切り、しっかりと咀嚼すると、薬草で口を一杯にしたまま「傷口を出せ」と牙の隙間から言った。
指示に従って傷ついた腕を差し出すと、銀狼はそこに噛み潰した薬草を出した。
「いぁっ……!」
薬草の汁が傷にしみ、ユイナは声をもらした。それでも薬草のエキスを傷口に押し付け、右手と口をつかってハンカチで縛りつける。とりあえず応急処置はできた。
近くの木に背中を預け、座り込んだ。
痛覚が麻痺しているのか痛みが少しずつ遠のいていく。顔に血の気も戻って来た。息も落ち着いてきて、
「「はぁ」」
ユイナと銀狼のため息が重なった。彼は彼で心配してくれていたようだ。
「俺は行くぞ。どうしても会って話をしなければならない男がいるんだ」
そう言って、銀狼は地面を蹴って跳躍し、小川の反対側に着地する。そのまま風のように駆けていくと思ったが、銀狼は立ち止まって振り返った。
「貴族の娘、ちゃんとした治療を受けろ。一か月もすれば、傷はほとんど消えるはずだ。それと………すまなかった」
銀狼は軽く頭を下げ、今度こそ風になって駆けた。
それが、国の英雄とまで謳われたアレスとの、最初の出会いだった。




